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都知事選
azakeri.hatenablog.com
絵に描かれた餅を食べられるような毎日だったらいい。そんなことをぼんやり考える。 春の盛りを過ぎ、出勤する時、ツバメが運転する車の中から見える風景に黒い線を引きながらさかんに飛び交っている。 それを見ながら、今年はダメなツバメが私の家に来なかったけれど、どこかでうまくやっていればいいな、死んでしまったのなら寿命を全うしていればいいなと思う。 ダメなツバメは、何年間か私の家の玄関に続けてやってきた。ツバメたちが春のはじめに巣を作りはじめる頃、ダメなツバメも同じように枯れ草なんかを集めだすのだけれど、捨てられたストローや、ポリエチ袋の破れたゴミがけっこうな比率で混じっていて、明らかに見た目が悪い。 その上、せっかく運んだ巣の材料がボロボロ崩れたり落ちてきたりして、玄関のドアの前にいつも泥とゴミが散乱している。しょうがないなと思いながら、玄関掃除用の先っぽがプラスチックになっているホウキをホームセ
大人になったら、熱いお茶なんて飲んだりして、安定した日々を過ごして落ち着いてゆくと思っていた日々を過ぎ、いつの間にかいかんともしがたいものばかりに囲まれて今に至る。 The Fugees - Killing me softly - YouTube いろいろな場所を放浪カモメみたいに転々と移動しながら時を重ねる人や、なんだかんだと人に説明する理由を口にしながら親の持っているスペースに暮らし続ける人もいる。 徐々に自分でもくっつけるつもりのなかった事柄を体に引っ付け、塊魂みたいに大きく巻き込みながら日々は続いていく。くっつけたものの大きさにかかわらず、中心の自分の体や心は予想以上に成長せず、自分の姿を見てみると、経年劣化でガタがきたりしているのにむりやり動かさなければならず、途方に暮れてしまう。 もういいや、そろそろ終わりにしようと考える人がいるのも理解できるし、さもありなん、自分もそうしたい
いきなり「すべては藤くんになる」と伝えられて、あなたの頭の中には疑問符しか浮かばないことだろう。ここで書かれる「藤くん」とは、BUMP OF CHICKENのボーカルの、前髪が長い、細身の人を指している。しかしながら、現実の「藤くん」に関して私は知らないことが多すぎるため、イメージ・象徴としての「藤くん」について書いてあるだけで、悪意もなにもないことを最初に断っておく。いや、断らしておくれ、断わらしてくれないかと、横山大寛の描いた「無我」のさまよう赤子のような姿と魂でお願いをする。 参考画像:横山大観画・"無我" 私のitunesの中にはバンプ(オブ・チキン)のベストアルバムと最新作”RAY"が入っており、適度に拝聴している。独特の声と、疾走するようなメロディライン、私が中学生の時に作詞をしていた友達が見せてくれていたノートに書かれたような、終わらない思春期の甘酸っぱさを含んだまだ熟してい
2013-01-04 男と、会った。2章 ~フミコフミオかく語りき~ 男は眉が太かった。あまりに太いので、思わず注視してしまう。そしてその眉毛は微妙にゆらゆらと揺れていて、まるで意志を持っているように動いていた。感情を表現する機能があるようで、私はそれが男を待たせたことに対する怒りではないのかと思い、心臓がキュッとわしづかみにされたように感じた。「どこでもいいから入りましょうか」と、日本語で私に話しかけ、おもむろに私の手を取り、歩き出す。夏祭りでそこまで気がないけれどなんとなく一緒に行くことになった異性に急に「混んでるからこっちこっち!」と手を握られ、急に意識してしまうのはこんな感じかも…と、胸が変な具合にドキドキと高鳴った。私の手をつかんだその手は、登山をする際に絶壁でもピッタリと壁をつかむことができ、ガラス窓にも貼り付くことができるような吸盤がついていた。相変わらず上半身は裸のままで、
2013-01-01 男と、会った。~フミコフミオという存在~ 私は人を待たせていた。握った拳からは脂汗がにじみ、手に取ろうと思ったペンや鞄の取っ手が焦りからか滑り落ちてしまう。 「もう駅について待っています」という丁寧なメールには「遅いな君、神奈川の塵とはいわず、透明にしてしまって全ての存在を消すことも可能だし、出方いかんによっては生きたまま穴を掘らせ、2メートルぐらいの縦穴に無表情で落としてからゆっくりと土をかけることもできるよ」という、私の生殺を握っているニュアンスが込められているように感じた。なにか忘れ物をしたのではないかと確認する余裕もなく、私はまるでコントで「急ぐ男」とト書きに指示された役者のように、何もない平坦な道でなんどもつまずきながら待ち合わせの駅へと向かう。お互いの容姿についてなんのやりとりも目印もないままに私は約束の場所に到達した。しまった、これは制裁の対象となるミ
電車の先頭部分には、運転室があり、その後ろには椅子のないスペースがある。そこはたまにちょっとしたステージとなり、電車のアナウンスを完全コピーする人(なぜか男性が多い)や、スマートフォンで電車の前から望む風景動画を手ブレ防止装置など信じるかコラ!といわんばかりに脇を締め、撮影している人の姿を見ることができる。普段車を使い移動する私にとっては、それをたまに見る機会を得ると、ちょっとうれしい気分になる。私はちょっと意地が悪い。まあ、見た目は大人のフリをして、自分の考える「できる感じ」の格好をしていて、分不相応なスーツを着て革靴をコツコツ鳴らしたりしているが、それは今までの経験から、ある程度ちゃんとできる感を出していると、多少破綻した行動をとっても、「なにか意味があるのかもしれないし、それほど害はなかろう」と思ってもらえるからやっているだけで、本質というか中身はどん底である。アナウンスコピーマンが
どこかに引っかかってしまい、なくしてしまったらしいもの。古い友達や大事な(大事だった人)とは、実際に会えばそれまでの空白がいっきに飛び、前と同じように接して、それはいつまでも変わらないもののように感じていた。だからこそ別に連絡を取り続けなくてもいいと思っていた、というべきか、それとも面倒くさいとか接触を取り続けるにやましい理由が自分になにかあったりしたからか、自分の中のなにかがすこしづつ損なわれていったせいか、徐々にひとりになりつつある。あなたに会いたい 会いたいと思うがそこには知らないあなたが いるような気がして逃げ出したくなる 涙が出てくる私は夢の中で 目を覚ましているすべてがまるで不確かで とても幸せでそれはシンプルで、あまりものを考えずに済むし、山になった夏物の服(よさげな言い回しで表現すると「夏のぬけがら」)を片付けることや庭の草むしり(イネ科の地下茎でゲリラの細胞組織のように増
最近、東京ディズニーランドのステッカーを車の後部につけて走る姿をあまり見なくなったと私は勘違いしていた。古いタイプの車種で、色が焼けてしまったステッカーを見ると、さすがに「私はここに行ったんですよ!」という、かつての観光地のペナント的なものを自分の所有物につける感覚はちょっとなぁ……ということに多くの人が気づいたのだと思っていた。しかし、この前ふと気づくと、自分の前を左側から蛇行して追い抜きをしてゆく車の後部に久々にディズニーランドのステッカーがあった。これは穿った見方であるのは百も承知しているが、もしこの車に「危ないじゃないか」とパッシングないしホーンを鳴らしたとすると… 急激な幅寄せにより、車体をぶち当てられながら中央分離帯に接触し、停止せざるを得ない私の黒い軽トラック。降りてくる男。見かけはいたって普通で、どちらかといえば大人しそうな印象さえ受ける。その男が無表情で私の車に近づき、な
この歌の中の一節が頭の中に浮かび、どういうことなのかなとふと考えました。適当な音量でこの歌を聴きながら読んでもらえるといいなと思います。全然この歌からは遠い地平へと飛んでいってしまっているけれど。 日差しは強く、空気が乾いていた。 地面に生える雑草は力強くその姿を見せている。子供たちが騒いでる声が遠くから聞こえる。 「もうそろそろ、決めなきゃいけないんじゃないねえか」「そうだなぁ…気がすすまねぇが仕方がねぇ」「おお…」 色が煤けてしまったような色の着物を着た、40ぐらいの男二人が、広場が見える林の中でささやくようにそんな言葉を交わした。 広場では、子供らがかくれんぼを続けている。 「 いーち、にー、さーん、しー」数を数える間、それぞれ散り散りに隠れる場所を探す子供たち。十まで数え終わると、鬼の子供がくるっと振り向き、あたりを見回した。 少し遠く、山の斜面に近い杉林の中にある一本の木の幹から
私は小便器を憎んでいます。小便器というのはアサガオとも呼ばれることもある、男子便所にあるおしっこ専用の、主に白色の表面コーティングがされた磁器っぽいあの物体である。いきなり小便器に対して嫌いだと書かれても理解しがたいと思うので、すこし長くなりますが経緯を説明します。 子どもの頃、私は小便器に対してなんの違和感も嫌悪感も持っていませんでした。人に教えられたとおりにおしっこがしたくなったらトイレへと向かい、チャックを下げてパンツからおちんちんを出し(ズボンとパンツとを同時に刷り下げる場合も半々で)、おしっこを小便器の中に放出してスッキリしていました。その後は左右にブランブラン。私のリトルおちんちんは体幹を振る力からすこしのタイムラグをおき、振り子のように動き、表層から液体を振り払い、後は揮発してゆくということとなり、その時期は全く疑問を抱かずにうまく小便器との折り合いがついていました。 小便器
最近の趣味は残業です。重量を量ってみたら4.8キロある書類を前にしてにこやかに遠くを見つめたりしています。その遠くというのは水平線までもいきませんが、まあ、車がなかったら行けないと思う距離ですが、しかたがないのでテクテク歩いています。残業代なんかいらないから時間が欲しいというのは贅沢な思いかもしれませんが、真心から思います。素直に働かないでお金が欲しい。心の底の底からそう思います。この真摯な願いはどうして叶わないのか、この世界に神様はいないのだろうかと感じています。働いて働いても我が暮らし楽にならず。上を見ても下を見ても結局自分の立っている現在位置は変わることがなく、ドンとただ自分の暮らしそのものがリアルに屹立しているのみです。だから、あなたの今の暮らしはいいじゃないかとか、ひどいんじゃないかとか言われても何も現実と認識を方向転換することはできません。だから、比較しても意味はなく、ガッカリ
私は、寒い部屋でパソコンのキーボードに向かっている。パソコンの乗っている机の上は乱雑で、お茶や飲み干したお酒の缶を潰したもの、未開封の書類などで埋め尽くされている。傍らにはメモとプリントアウトされた申請書が並んでおり、そこには入院する際に必要になりそうなものを書き出している。奥さんが入院する。部屋の中では夜中にも関わらず、すこしバカな犬がリンゴをかじっていて、エアコンをつけてはいるがまだすこし肌寒い。別段何が起こったわけでもないような、普段とまるで変わらない状況である。すこし前に雪がこの地方(三重県北部)にしてはどかっと降ってキリッとした寒さが訪れた後に徐々に春に向かっているような空気に変わってきている。いつもならばこの季節はなんだかよく分からないが嬉しい予感を感じる季節である。西に望む山の頂上付近には雪が目につくが、カカさんが住んでいる場所(長野県)に比べればなんてことはないささやかなも
朝ご飯の最後に、いつも梅干しを食べていた。一緒に食べているおじいさんが梅干しを本当は嫌いだと打ち明けてくれた。二人の秘密だ。おばあさんはいつも、おじいさんによかれと思って「梅干しは体にいいんですよ」と何度となく繰り返された言葉を口にする。僕はそれをすこしばかばかしく思う。ある日、まだ眠たいのに起こされて、気持ちがくさくさしていたので僕は腹を立て、「おじいさんは梅干しがずっと嫌いなのに無理して食べてるんだ」と教えてしまう。おばあさんはちいさなこえで「そうなの」とだけ答え、部屋に戻ってしまう。家の中のいつもある朝の音がない。僕はひとり、自分の部屋で耳を澄ます。二人が離婚したらどうしようかと不安になる(おじいさんとおばあさんはしょっちゅう別れるの別れないのでもめていて、僕の両親が仲裁に入っていた)。次の日の朝、いつもより早く目が覚めた。台所からはいつもどおりの朝ご飯の音がして胸のつかえがすこし取
小川さんの奥さんが妊娠した。当然、周りの人たちはお祝いを述べる。それに答えてお礼の言葉を返すのが普通だが、小川さんはちょっと違って、「危険物乙4種に合格した方がうれしかった」「これからおこづかいはどうなるのだろう」といった言葉を、なんの悪気もなしに言い放つ。そんな小川さんだが奥さんのことはとてもかわいいと思っている。「奥さん、どんな人?」と質問を受けると、「南国育ちで(沖の伊良部島)かわいいですよ」とクールに答える。奥さんのことを訊ねられて、クールに「かわいいですよ」と答えられるというのは見習うべきだと思う。そんな奥さんは妊娠してからつわりがひどい。「猿みたいですよ」と小川さんは言う。「猿みたいな格好で、こう、ゲー・ゲー」その身振りを真似しながら語る。非常に滑稽である。全く奥さんのことを馬鹿にしていないにも関わらず、話をしている人がぎょっとするようなことを口にする。それが小川さんである。
私には思い入れのある道路や電車の路線がありますが、みなさんのマイ路線はなんですか?教えてください。当然あるよね……と思いつつ書き始めましたが、よくよく考えたら話す機会もない上*1、マイ道路&路線所持についてそんな疑問が浮かびました。私のマイ路線は国道163号線。この道路は大阪から三重県へと続く、山の間、川べりをぐねぐねと蛇行しながら県境を行ったり来たりする細い山道です。高速道路代を節約したいトラックが、ほぼ道幅いっぱいを使ってかなり飛ばして走るので、初めて走ったときは、きついカーブでセンターラインをついうっかりはみ出してしまったトラックに引っかけられて「あーれー」とばかりに崖下に落ちていく自分のイメージが浮かび、かなりおっかなびっくりの運転になります。途中に点在する集落は「過疎に悩む滅びゆく村」として特集されかねないテイストの場所ばかりで、二十年か三十年ほど前から時間が止まったままのようで
私は覚悟を決めたことがない。進学・就職の時も、大きな病気にかかったときも、就職先を決めるときも転職するときも、人と付き合ったり別れたりするときも。すべてなんとなく流されるままにというかレットイットビーケセラセラなるようになるさ……といった調子で、悪い意味で柔軟にやってきた。その中で失敗もなんとなくやりすごせたことも取り返しのつかないこともあったけれど、現在は仕事の忙しさに押しつぶされそうで、体力的にも精神的にもしんどいながらもなんとかかんとかやっている。案外腹を括らなくても人生はやっていけるというか、雑なうねりの流れの上で浮いているだけかもしれないが。日記をここ(インターネット上)で書いていることによっていいことがたくさんあった。悪いことはほとんど起きなかった。物事を捉える姿勢次第といえるのかもしれないが、どちらかというと目の前で起きている出来事をすこし引いた場所から細い目で見ているような
私はカエルが好きで、かわいがって飼っています。それはもう食べちゃいたいぐらいにかわいく……というわけではないのですが、名古屋のカズさんという、気が狂っているんじゃないかと思うほど家に動物をわんさか飼っている痩せぎすの人に「なにかいいテイストの食べるところないですか?」と訊ねたら、さわやかな笑顔と共に教えてもらったのが「かえるが食べられるお店」でした。 カズさんは痩せた「ザ・優男」といった感じの風貌で、「この人ガリッガリだな」と思ったのですが、たぶん相手も私を見て同じように感じただろうな……なにかわけもなく味わい深かったです。スティーヴン・キングの小説のタイトルではないですが、私たち二人「痩せゆく男(Thinner)」We two are thinnerは、「なんでもかんでもカロリーを減らしにかかられて腹が立つよね」「痩せがひどくなるとひどく疲れやすい」「冬場にひとりだけ漫画の中の表現みたい
歳をとるにつれ体感する時間の流れが早くなってゆくという実感をもたれる人が多数おられるかと思いますが、私も最近かなり時間がんばってるな、この勢いは新幹線300系かアーバンライナー(近鉄電車の中では最速の機種)じゃないかと思うようになりました。時間の流れの話を軽い気持ちですると、毎日変化のない生活をするようになって、子供のときのように新しい出来事や知識の吸収がないから、象のように体の大きなものとネズミのように小さなものとの時間の流れの違い、生活の中で自分で作る余裕のある時間の話、DoToや優先順位などの分かったような分からないような結局そういう風に考えている人がいるんだろうけど結局時間は早く過ぎ去っていくし、これは時間が加速しているんだ、ドラえもんでタイムマシンの中を通過するときにダリが描いたグニャッと曲がった時計が壁面にあるトンネル的なイメージのものが私の周りに透明な皮膜的な感じで覆っている
山の近くの一軒家に引越をして、家の近所にびっくりするぐらいに自然が残っている場所を発見しました。そこは近くに人家がバリバリあるのですが、細い道の両側に水田があり、その脇に急斜面の杉林、逆側には幹の太い広葉樹の森を持っています。ちょうど道路がうまいぐあいに交差していないため、まったく人の気配がない+森から染み出してくる水のために、とても冷たい清流的なドブが生まれています。軽い気持ちで田んぼの脇を覗いてみると、まるでミニチュアの自然再現施設のようにウジャウジャと虫や水生昆虫の姿があって衝撃的。40センチぐらいの溝の中に、まず小さなフナ、ニホンドジョウ、タイコウチ、ミズスマシ、ミズカマキリ、アメンボ、ゲンゴロウ、ハゼみたいな魚、アカハライモリ、トノサマガエル、アマガエル、ウシガエル、モロコ、アメリカザリガニ、スッポン(死骸でしたが)、クサガメ、きれいなほうのカメ、ジムグリ、ヒルなどの姿が二十分ほ
家を手に入れたのですが、家だけで全てのたくわえが言葉どおり尽きてしまったため、庭に言葉どおりなにもありません。柵も、塀も、花も木もなく、雑草があるだけで、家の中にテレビも小さなものしかなく、ソファーもないのでいつも体中が痛いような状態で過ごしています。庭に何もないというのは相当にノーガードな感じがして、一日中カーテンや雨戸を閉めっぱなしかつ神経を使うので、やっぱり計画性とかって大事だなと痛感しています。あと、家は何坪だとか何ヘーベーだとか聞かれるのですが、本気でよくわかっていないのでいつもあいまいに言葉をにごしながらなんとかやりすごしています。生まれて初めて団地の掃除大会のようなものに参加しなければいけなかったのですが、そこにいるのはある程度しっかりとした年齢の人や子供の親のような人たちばかりで、微妙な距離感を詰めることができず、あきらかに見た目的にも浮いてしまった感じで、もっとやる気(頭
〜人が死んじゃうと心からうれしそうに笑うおじいさん〜クレーン講習は効き過ぎの暖房の熱気の中、座学から始まりました。講習に来ているのは、明らかにトビ職の兄ちゃん(ニッカボッカ&タオル)、なぜその年齢から取得するんだろうとおもうぐらいのおじいちゃん(70過ぎぐらい)、そして聴力障害者のお兄ちゃんwith手話ボランティアのおばちゃん2人、あとは普通の現場の人たちという構成でした。私の近くには、明らかに日本人じゃない人が三人ほど座っており、休み時間に話したところ、ボリビア×2、ブラジル×1という構成でした。ブラジルの兄ちゃんは日本語を聞き取るのはなんの問題もないのですが、テキストの字を読んだり、講師のおじいちゃんがホワイトボードに書く達筆の文字が読めないようで「アレナンデシュカ」「ナンテカイテアリマスウカ」と右後方から私の腕を何度もつつきながら、長い座学の間、ときおり舟をこぎながら受講していました
1.那智黒を笑顔で渡されるの巻 どこまで縦列駐車で詰め込めるのか挑戦しているような狭い駐車場しかない、すきま風がガンガン入り込んでくるクレーン教習所の二階は暖房が効きすぎで、手元にテキストも何もなくすることも思い当たらないので窓から見える伊勢湾の景色をこれはいい景色なのかただなにもない地平線っていうだけなんだろうかわかんないなとぼんやり眺めながらウトウトしていると、私のすぐ横に近づくときに音も立てずちょこんと立っていたおじいさんが「最初から眠っていてはなにも身につきませんよ」とやさしい口調ながら威圧感満載の調子で小さな声で囁いた。 講習始まらないな…… そもそも講師も遅れているし、「ここからは(限界まで挑戦した縦列駐車のせいで)出られないので、お弁当を注文していただかないとお昼ご飯抜きになります!おなかが空いたまま一日を過ごさねばなりませんよ!」とヒステリックに弁当の注文を取るおばちゃんに
人間が言葉を使ってコミュニケーションをとる時、どうしても言葉が足らずに誤解を生んでしまったり、伝えたい気持ちを表現する言葉のチョイスを間違えがちです。言葉の選択ミスの場合、意思の疎通がうまくいかなかった時は相手の顔色がサッと変わったり、途中で応対がぎこちなくなったりと、おかしな点や改善すべき点が目に見えた形でわかります。言葉足らずでなく、頭の中で考えたことをツルッツルの未加工でそのまま相手に伝える人は、しばしば雑な剛速球を相手に投げつけて、相手にドスッと傷を負わしたまましれっとしてすまし顔。送り手側は「自分の気持ちをストレートに伝えた」という気持ちしかなく、受け手側は「そうですかでもそんなこと言われても……でもこの人的には決して間違ったことは言っていないし微妙に思う自分は意地が悪いな」となんともいえないモヤモヤが残ったまま。二人の関係性が親密な場合、「言いっぱなしすぎるよ」的な指摘をしても
frog 「ああ、また怒っとる」私はその言葉で目を覚まし、ドンと目の前に置かれたプラケースの中でカエルが肌を真っ黒にして丸まっているのを目にしました。普段はそれなりにきれいな緑色の肌をしているカエルなのですが、今では汚れに対し不満と怒りを力いっぱい表現してどす黒い色に変化させています。新聞の風刺漫画に出てきそうなグレた若者的目つきで恨めしげにどこへともなく視線をやり、壁と床にだらしなくもたれかかっていました。そんなにわかりやすくマンガみたいな不満を表現をするなんてアピール過剰やん……と思いつつ私は体を起こし、これはちょっとわざとらしすぎるからカメラで撮ってやろう、そしてカエルには掃除するよハイハイごめんなごめん私が悪い……と立ち上がりました。 のろいの気持ちを最大限に表現中。周りの白い粉はカルシウムパウダーです。 カエルがぐれてしまった原因、彼の家であるプラケースを持ちヨボヨボと台所に移動
二日前の朝、目が覚めた私は自分の肌がつやつやになっていることに気がついた。指先で肌をキュキュッとこするように触れてみると、まるでSK2のフェイスパックかコラーゲンを含む上等な豚の角煮を食べた翌日のようだった。なにもつやつやになる物を摂取していない上に寝不足で、体もとてもドンヨリと疲れていたのになぜか張りのある肌質になっていた。 私はああ今朝自分はつやつやだなと思ったけれど、つやつやの自分をそれほどいい状態だとは思えなかった。つやつやの持ち腐れだな…… ということが頭に浮かんだけれど、別に誰に伝えるわけでもなく、無駄につやつやしていました。 サラダロールと麦茶とミルクで朝ごはんを食べ、その後にコーヒーを飲みぼんやりして仕事に出かけ、直行で向かった先で台風が来るの来ないのというどうでもよくないけれどそれほど真剣ではない調子で紙コップのコーヒーをはさんで話をし、それでは意見を今日は持ち帰りますと
マクドナルドのドライブスルーでソフトクリームを頼める(100円)のですが、長距離運転をしている時、F1ドライバーがピットで給油する時みたいな気持ちになります。オーダー、支払い、クルーの動き、出口が右折だったり左折だったり逆車線を横断する時、車の流れがどうなっているか。そこにはいろいろな不確定要素はあるものの、一番入りやすく出やすい店を、長い距離の中でどこか考えながら走行。この頭の中のコンピューターが……といろいろな虚数解を導き出し……*1十二時を過ぎると、とたんにおじいさんおばあさんのクルーばかりになるマクドナルドもあるので要注意。お年寄り新人クルーが怒られている場面を目にしたりすると、心の中が灰色になって元気も減ってしまうので…… その時に、普段ではインスタントラーメンの時間を計ったりする時しか使わない携帯アプリのストップウォッチのラップ機能(いまだに意味がよくわかんない)やカウントダウ
frogペットを飼っている人どうしで会話をする際、お互いのペットをどう呼ぶか、それとお互いの敬称をなんと呼ぶか問題が発生し、迷うことがあります。「〜(ペットの名前)のパパ・ママ」という呼び方をする場合、相手が自分をどう呼ぶかは関係なく、かたくなに相手の名字で呼ぶという選択などができます。 そんな場面に自分が遭遇するとは考えませんでした。ぬるくてダルいし、そんなサークルに勝手に加えられるの勘弁勘弁……。お互いの名前をペット中心で覚えてケッ、血縁関係でもあるんですかねミュータントもしくは本当の意味でのハイブリッドということですかねケッと小さな声で斜めの方向を向いて毒を吐いていたはずですが、ふと気がづくと、他の人たちと違っていることにこだわらなくなったというか、いい具合に肩の力が抜けてきたような気がします。そろそろ自分探しをやめることができたのかもしれません。 いきなり分かりづらい話から始めまし
frog前回に、ご飯をなかなか食べてくれない"どんちゃん"と、アクアショップODTの火事についての日記を書いたところ、日記を見たことがきっかけとなり、いくつかうれしい交流がありました。まず、ひとつ目は訂正で、どんちゃんはベルツノガエルではなく、クランウェルツノガエルだということでした。これを教えてくれたのは、アクアショップODTに卸をされていたニュアンス(http://www.nuance.to/)の関係者の方で、生まれ故郷からのアドバイスということで、インターネットすごいなと、とてもうれしく感じました。ベルツノガエルではなくペパーミントツノガエルというクランウェルツノガエルの色変わり種です。ペパーミントツノガエルであるとのことでした。クランウェルツノガエルはベビーの頃、ベルツノガエルよりも若干神経質ですが、成長すればベルツノガエルと同じように何にでも食い付いてきます。ゆーっくり時間をかけ
frog唐突ですが、カエルが家にやってきました。『子猫はじめました』的なかわいい響きが全くないのが残念で、両生類全般に対して拒否感を持たれる人も多いとは思いますが、今日からすこしだけカエルのことを見直してみてはいかがでしょうか。(こっち側においでとの呼びかけです) ある日、ペットショップの片隅で500円玉ぐらい*1のかわいいカエルが、小さなプラケースのなかでちんまりと座っているのを見つけ、連れて帰ってきました。新しい仲間、私の気のいい部下を家族に加えたような気持ちです。ベルツノという名前の由来は動物学者トーマス・ベル氏が由来。ベルさんが見つけた角のあるカエル。足の指が長く、水かきはほとんど退化して使われません。英語圏ではパックマン・フロッグと呼ばれ、ナムコのゲーム、パックマンのように大きな口を開けてエサをパクッと食べます。 名前は見た感じで「どんちゃん」。ベルツノの性質/性格はとにかくよく
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