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大谷翔平
blog.goo.ne.jp/koukiseijyu
黒人監督スパイク・リーの代表作、映画『マルコムX』でとりわけ印象に残ったのは、小学校時代のマルコムが将来何になりたいかを教師に聞かれた時、勉強のできた彼が『医者か弁護士になりたい』と答えると、教師から「君は黒人だからどちらも無理だから、大工になれ」と勧められる場面だった。教師の何気ない一言が生徒の心を傷つけてしまう、人種差別の厳しい現実を見せ付けられるような一幕だった。両親を人種差別主義者に殺害される場面と合わせて、マルコム・リトルが白人を憎み、黒人分離主義者として成長していくのもむべなるかなと思わせるプロットだった。 しかし今、考え直してみると全く別の見方もできる。その当時の状況では実現が難しい夢をもった生徒に、社会の厳しい現実を認識させ、より実現可能な目標を立てるように指導した教師の親心だったのかもしれない。教師と生徒の信頼関係や、生徒の側の受け取り方によって、同じ言葉でも全く違った意
高校生の時、例えば丸山真男の『日本の思想』(岩波新書)を読んでみてもなかなか理解できないのは、例えばカール・マンハイム(1893-1947)の『イデオロギーとユートピア』(1929)に出てくる「存在被拘束性」の概念とか、さりげなく専門的な哲学・思想用語がちりばめられている点にあるのだろう。大学に入って、近代社会思想を学んだ時にこのマンハイムに触れたのだが、簡単に言えば、人間の思想や考え方、政治的意見などは、その人の社会経済的な立場に影響されているということである。 例えば南北戦争期のアメリカなら、商工業中心のアメリカ北部都市は奴隷解放により、解放奴隷が都市の労働力不足を補うのに役立つから奴隷解放賛成であったし、奴隷労働に依存するプランテーション農業中心の南部は経済的に死活問題なので反対する、という具合に、一見、奴隷制賛成か反対かという人道上・道徳上の意見も、生活基盤が商業か農業か、北部か南
藤子不二雄A(安孫子素雄)のブラック・コメディ漫画『笑ゥせぇるすまん』に「やどかり」という話があった。酔っ払って帰宅した気弱で気のいい主人に同行してきた見知らぬ男が、一晩泊めてやったのをいいことにいつまでも帰ろうとせず、自分の家族を次々と呼び寄せ、ついには家を占拠して、勝手に住み着いてしまうという恐ろしい話である。藤子の漫画は、あるいはこの話にヒントを得たのではないかと思ったのが、往年の前衛作家・安部公房の戯曲『友達』である。 この作品に最近出会ったのは偶然で、洋書売り場の日本文学の棚を何気なく眺めていたときに、"Friends"というタイトルで英訳されていたのが目を引いて、オリジナルの日本語版を読んでみた。 1967年に書かれ、74年に安部公房スタジオによって上演されたこの作品は、次のようなあらすじである。31歳の独身の商社マンの部屋に9人の家族(祖父、父母、3人の息子、3人の娘)が突然
あと数日でブログ開設1周年である。既に気付いている方も多いかと思うが、このブログのタイトルである「紅旗征戎(こうきせいじゅう)」は、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者として知られる、平安時代の歌人・藤原定家(1162-1241)の日記『明月記』の有名な一節、「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」から取ったものである。 時に源平争乱の時代。紅旗、つまり朝廷の旗(または天皇を奉じた平氏の旗と解する場合もあるようだが)による、征戎、つまり朝敵の征伐など、私は知ったことではない、という当時19歳の定家の非政治的・芸術至上主義を宣言したものとして知られている。私の専門である政治学はまさに「紅旗征戎」、つまり戦争と平和、騒乱と秩序の回復、デモクラシーなど支配の正統性をめぐる学問であるが、定家自身もこの発言とは裏腹に政治に翻弄され、日記を書き続けた。そうした定家の思いにな
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