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大谷翔平
cogito-hermeneutique.hatenablog.com
[以下は Paul Ricœur, «Logique herméneutique?», dans: Écrits et conférences 2. Herméneutique, Paris (Seuil) 2010, p.123-196 の下訳。ガダマーによる展開、批判理論やウィトゲンシュタインとの関係など、ハイデガー以後の解釈学の動向を総決算する内容となっている。 付されている注のほとんどは編集者の注であるが、リクール自身による原注と一緒にナンバリングされているので判別しづらい。そのため原注には注の頭に(NdA)と略記し一目でわかるようにした。またリクールの原注に挿入された[ ]の解説のうち、(NdE)の表記があるものも編集者によるものであり、それ以外の、(NdE)の表記のない挿入は訳者の解説である。またドイツ語の重要文献にかんする編集者の注にはフランス語の訳書のページ数が示されている
2016 - 01 - 11 ジョルジョ・アガンベン「法治国家から治安国家へ」(2015 12/23)[作業中] 以下は ル・モンド紙 に掲載された、フランスにおける非常事態の延長にかんする ジョルジョ・アガンベン の小論。 法治国家 から治安国家へ ジョルジョ・アガンベン イタリアの哲学者 ジョルジョ・アガンベン からすると、非常事態は民主主義を擁護する楯ではない。 アガンベン によれば、そのような国家はむしろつねに独裁を伴うものであった。 フランスにおける[2016年2月末までの]非常事態の延長がもつ本当の掛け金は、われわれにとってなじみ深い国家モデルをラディカルに変形させる文脈のなかでを追わなければ、理解されることはない。〈非常事態は民主主義の楯となるだろう〉と考えている政治的に無責任な男女の意図にまずは反対しなければならない。 歴史家たちは、真実が逆で
以下はジャン=クレ・マルタンのサイトに掲載されたJ・L・ナンシーの小論(2015年12月26日付)。 精神はいま ジャン=リュック・ナンシー 人々はなにも言いたがらないようだ。恐ろしいことや騒擾émotionを目のあたりにしたために。それらの印象を間近に受けたために。それはパリで起こったことが、ボンベイ、ベイルート、カブール、バグダッド、ニューヨーク、マドリッド、カサブランカ、アルジェリア、アンマン、カラチ、チュニスやモースル[イラク北部の大都市]といった都市でもう長いこと起こり続けているからだ。われわれを憤慨させたり(その憤慨は正当化されはするが空疎である)、抗議の声(「~すべきではないだろうか」「~するしかない」)を上げさせたりする惨事を目の当たりにしたために、また暗雲立ち込める見通し(統制、報復)を前にしたために、人々はなにも言いたがらないようだ。 経済的かつ地政学的な大衝突という世
2015-02-20 ジャン=リュック・ナンシー「黒ノートからの事実」(2015)[作業中] [ 以下は2015年2月16日にファウスト・クルトゥーア上でドイツ語訳とともに掲載されたジャン=リュック・ナンシーの小論。以前とり上げた「ハイデガーとわれわれ」とは異なり、『黒ノート』の内容を「分析」するよりは、フォン・ヘルマンからP・トラヴニーを擁護する論となっている。フランス語原文およびドイツ語訳のリンク先:Nancy: Tatsachen aus Heften - Faust Kultur 訳出はフランス語原文を基本とし、ドイツ語訳はあまり参考にしなかった(ドイツ語訳はやや簡略的な訳文になっている)。〈 〉は本文にはないが意味のまとまりや修飾関係をはっきりさせるために訳者が挿入したもの。[ ]も訳者による挿入。] [ドイツ語訳に付されたコメント] ここに公刊されたジャン=リュック・ナンシーの
2014-08-13 ジャン=リュック・ナンシー「ハイデガーとわれわれ」(2014) [以下はジャン=リュック・ナンシーによる、ハイデガー『黒ノート』に関する小論の邦訳。原文はジャン=クレ・マルタンの6/21付けブログStrass de la philosophie: Heidegger et nous / Jean-Luc Nancyに掲載。なお訳出にはドイツ語訳Nancy: Heidegger und wir - Faust Kulturも参照した。] ハイデガーとわれわれ たとえハイデガーのテクストのうちに三〇年代のヨーロッパで支配的であった反ユダヤ主義のたぐいの宣言が見当たらないとしても、五〇年代以降、彼がそうした反ユダヤ主義に加担していたことを疑わない者はいなかった。 この点にかんし、われわれは『黒ノート』から何も知ることはない。この『黒ノート』から受ける驚嘆と呪詛はむしろ、理解
Joachim Küpper und Christoph Menke, hrsg. Dimensionen ästhetischer Erfahrung, (Frankfurt a,M.:Suhrkamp 2003.) の序論が、ガダマー以降の「美的経験」の議論状況とその議論が孕む問題点を簡潔に整理していてなかなかよかった。 『美的経験の諸次元』 目次 ヨアヒム・キュッパーとクリストフ・メンケによる序論 1.ディーター・ヘンリッヒ:「プロセスとしての主観性とモデルネの芸術におけ る転換」 2.リュディガー・ブプナー:「美的経験と美術館のあらたな役割」 2.リチャード・ローティ:「自己関連性からの解放手段としての小説」 3.リチャード・シュスターマン:「ウィトゲンシュタインの身体感性論:精神哲 学、芸術哲学、政治哲学における身体的感覚」 4.ゴットフリート・ベーム:「生き生きとしたもの
[以下は Reinhart Koselleck, Der Politische Totenkult. Kreigsdenkmäler in der Moderne (hrsg. von Reinhart Koselleck, Michael Jeismann, München 1994: Wilhelm Fink Verlag.) に収録されたコゼレックによる序論部分の試訳] 序論 死者たちを偲ぶことは人間の文化に属することである。戦没者を偲ぶこと、暴力によって命を落とした人、戦闘、内乱や戦争で死んだ人々を偲ぶことは、政治的文化に属している。死闘、とりわけその勝利を記憶することは、以前の歴史を書きとめ、それを絵画のように持続させる最初の動機の一つである。標識や銘文を含めた記念碑は聖化された場であり、参事会とその子孫たちはこの場を記憶において死者たちを再び見出すのに役立てる。そのかぎりで政治
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