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というのは、一般知としても共有されている精神分析的事実なのだろうか。昭和の時代には、「女はホントよくしゃべる」という、嘆息とも苦笑ともつかない肩のすくめ方を多くの大人はしていたもので、たとえば、それは、『サザエさん』等の描出にも前提条件としてあった。これは若干、中産階級的な風景になるだろうけれども、「おばさま」と呼ばれる親族他の共同体の有閑婦人というのは、だいたい長電話をしてくるものだった。長電話、と定義する場合、「おばさま」と呼ばれる人がコミットする存在様態、とまとめられるほど。休みの日に、ふと、自分のことや自分の前にいる人から目を離して、周囲に目をやると、女達は、やはりものすごい勢いでしゃべっている。女同士で。他者のそれとして、テレビを見るかのように遮断されたこちら側から眺める分には、一種のグロテスクなエンタテインメントだが、翻って、自分自身に戻れば、私はまったくあのようなしゃべり方を
性交とはいかんともしがたく抑圧的な構図を孕むが対して接吻はそうではなく、といった言い回しは一時代の映画批評家としての蓮實重彦が頻繁に使っていたように記憶しているが、忌野清志郎のYOUTUBEをまとめて見ていると、なんとなはなしに彼は接吻的な人だったという印象を持つ。個人的にはタイマーズがいちばん好きなのだけれど(京都大学進学に熱意を燃やしていた頃の個人史的心象風景と重複するので)、坂本龍一とも篠原涼子ともあっけらかんと繰り広げているリテラルな接吻場面のはじけた解放感もさることながら、矢野顕子や井上陽水とのセッションも、性交的というよりどこか接吻的なのである。接吻とは、たしかに性交のプレリュードであったりプロローグであったり、あるいはインターコースと同時進行する性交のプロフィールであったりもするけれども、接吻それ自体はなにをも胚胎しない無為の行為であり、官能の交換はゆるやかに波をうち、直線的
酒井順子の新刊によると上野千鶴子の祝賀会に〈シークレットハンサムゲスト〉として大輪の赤い薔薇の花束を抱えた姜尚中が登場、膝まずいたかどうかは知らないがともかく会の主役に捧げ、一座の女性達はその素敵さにどよめいたらしいのだが、精確にパラフレーズするならば「そこそこ高名で露出も高い男性学者をその業績ではなくはっきりと容姿に比重を置いて花束プレゼンターに任命しうる権力を持ち得た上野」にうっとりしたんでは。解体しようとした性的搾取の構造を反復再演するフェミニズム、とまで真剣に批判するつもりもないが、少なくとも今、男の間で「とりたてて羨ましくない地位」を欲しいままにする姜尚中、「なんか最近反骨じゃなくない?」的に早い段階からウォッチを始めている亀和田武に私も伴走する所存である。私が男に生まれシークレットハンサムゲストとして三番テーブルにご指名を受けたら、大輪の赤い薔薇の花束の陰にハリセンを仕込んでい
と長いつきあいの友人に言われました。うーむ…インターネット上で格好の生徒を見つけました。卒論を業者に書かせる大学生もいるということですが、この中学生の他力本願寺で鐘を打つような態度もいかがなものかと思われますね。漫然とした依存が蔓延するそういう時代。まあ新しいjob challengeということでやってみたいと思います。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q139495573?fr=rcmd_chie_detail「先生はまず、この短歌が嫌いです。およそ懐疑もなければ批判もない思考停止のぬるい同調。使われている形容こそ『寒い』と『あたたかさ』ですが、むしろその実態は微温湯的共同体です。冷たくも熱くもないから私はあなたがたを吐き出す、という聖書・黙示録の言を想起せしめ、イラっと来る。そこにはダイアローグが、無い。対話
大掃除を決意して粗大ゴミ回収券を3000円分くらいまとめ買いしてから早や一か月。のろのろと進めています。本や漫画を容赦なく捨てていこうと、ゆえにどうでもいいけれどもネタとして面白い的な雑誌の類は最初に捨てねばと。上野千鶴子先生の若い頃のスナップショットや斎藤環氏の再婚俳句等、「うーけーるー」「パネェ!」といったギャル主義史観を導入した資料価値については禁欲していきたい所存につき。同時に、といって、それをスキャンスナップするほどのエネルギーも、長くない人生においては無駄か、と、はてなに軽くメモしておくにとどめる。クリエイティブ・コモンズ?本日のそれは、<金原ひとみへ77の質問>(『野生時代』Vol.46/SEP2007角川書店)。金原ひとみを重要な作家とは認識しえないのだが、それでもおおよその代表作は通読しており、基本的にはげんなりさせられるにとどまる。『星へ落ちる』は結構評価している。しか
金曜、26時過ぎまで仕事、たどりついた先で「朝まで生テレビ」の女の論客がずらり並ぶテレビが点いていて、片山さつきのソウルフルに意外と好感を持つ。ライスとヤれるか、アメ公はむしろヤりたいらしいぞ、とかいう話題が出たが、あたし男だったら、佐藤ゆかりより片山さつきだな。週刊文春のドッキリTV語録。「都立の保育園に預けると月、十五万円よ!」と30代の若夫婦の細君に怒られた話。彼女の給料の半分以上が、保育料に消えて行くのだ、と続くのだが、30過ぎても30万未満しか稼げない人間が、働き続ける理由って、何?どれだけ無能なのか。
かねがね「東大卒」を専売特許的に自己同一性の中に組み入れてしまうタイプの人は、裏を返せば、一族代々皆東大・友人知人も皆東大という環境では育っていないということの証左であり、だからゆえに、その俗物性を笑ってはいけない、その人物(ならびに家族)にとっては、逆上がりができたとか乳歯が生えかわったとかいったごくアベレージのプロセス以上の意味と価値があるのだから、「軽蔑したら逆に差別になっちゃいますから」という、それはそれである種の人々はむかつくであろうPC意識が、自分の中にはある。「非モテ」の自称とかも同じで、要は相手へのおもてなしのセンスが生育歴の中で身につけられていないというのは社交・外交の頻度の少ない階層性の発現にほかならないだろうから、「それを笑ったら、差別になっちゃいますから」という意識がある。「博士号」や「単著」も同様で、「先生と呼ばれるほどのバカはなし」を身をもって知っているのは、常
主張というより注釈程度に最初に言明しておくと私はヘテロです。「モテる」とはいかなる状態かというと、「転移されやすい」、これに尽きる。フェーズと相互の関係性により陽性であったり悪性に変容したりするものの、精神分析的な現実としてはこのラポールに相当し、さらに厳密を期せば、「主体に非対称性を認識させつつ転移される客体」というのがモテの実態であり、「コクられる」というのはまったき受動性にあっての戴冠式のような、望まない権力や崇拝をカフカ的な不条理のもとに授与される事態とも言える。前置きが長いですが、私の人生は女にモテっぱなしで、しかしこちらの心性は男に生まれていたらまず間違いなくゲイに、という根深いミゾジニーに支配されているので大して愉快でない人生です。英会話教室三日目。管理職としてリーダーシップを発揮するビジネス英語。今日の先生はルーマニア人女性。14年間の女子校生活での孤立(代弁者、代行者とい
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