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買ってよかったもの
d.hatena.ne.jp/kebabtaro
ジョン・スミスの新刊『ユートピア2.0』を読む。現在の文化状況と政治思想の双方を視野に収め、既存の思考に潜む陥穽を批判しつつ、新たな理論構築を試みている書。提起されてはすぐさま無数の問いへと開かれていく思考の種子がそこには散りばめられている。二部構成のうち、第一部は Culture、第二部は Politics と題されており、ある意味乱暴すぎると言えなくもないその論理展開は、しかし現代世界を席巻する閉塞を打破するためのロジカルな起爆剤と言い換えることもでき、けっしてその価値を貶めるものではない。それよりも、まずは新たなユートピアの見取り図を描ききってみせたその力技に驚嘆すべきだろう。また、風通しのよい論理の貫徹性を保ちつつも、その全てを到底追走することのできない領域横断的な知識の該博ぶりには舌を巻くほかない。第一部のキーワードは散乱性、断片性であり、第二部のそれは暫定性、仮設性である。スミ
■[diary]書くこと、書かないこと 更新を止めていた間の出来事。息を吸って、吐く。働いて、眠る。休んで、また起きて、働く。それから歯を磨いたり、電車で居眠りしたり。その繰り返し。ブログを書かないでいることのすがすがしさ。 ある日、はてなで致命的に重大な障害が発生して、すべてのユーザーが永遠にログインできなくなる事態が起こったりすれば、たいそう面白いことになるだろうな、なんていう妄想を抱いてみた。不測の事故によって、テキストでできた巨大な廃墟がネット上に立ち上がる。更新されることも書き換えられることもできぬまま、過去の日付を記されたテキスト群が、誰にも触れられずにそっくりそのまま凍結されて、まるで時間の断層のように露呈しつづけている。 そんな馬鹿げた想像をしてみたのだけれど、実を言えば、しばらく更新を放ったらかしていたせいで、このブログ自体が触ることもできずに埃をかぶった残骸のようなも
物語に非線形的な時間のレイヤーを重ねるためのSF的仕掛けとして、登場人物たちの記憶を消去する技術が映画にはよく登場する。『ペイチェック』にしろ『CODE46』にしろ、最近そういう映画が多く作られていることの徴候的な意味について考えてみたくもなるけれど、それはまた別の機会にして、DVDでようやく観た『エターナル・サンシャイン』の話を(以下、当然ネタバレ)。 ジム・キャリー演ずるジョエルは、ある朝、ふとした気まぐれで通勤路と反対方向へ向かう列車に飛び乗り、たどり着いた浜辺でクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)と偶然出会う。意気投合した二人は恋に落ちるのだが、やがてその熱は冷め、互いの欠点ばかりをあげつらう関係に倦んで別れてしまう。『エターナル・サンシャイン』では、ここで記憶の消去を請け負うラクーナ医院が登場する。彼女が自分との記憶を消去したことを知ったジョエルは、自らも記憶の消去を決意する
■[book]陰謀の世界史 海野弘『陰謀の世界史』を読んだ。これは驚くべき本だ。こんな忌まわしき事態はじゅうぶん予測しえたはずなのに、こうして実際に到来させてしまった俺自身の失態も、俺は、いま、ここで、あらためて胸に刻んでおくべきだろう。まず目次を開いて、なんなんだこれは、と反吐が出そうになるのを俺はやっとこらえた。情報活動の一環として、新刊文庫のチェックを日々怠ることがなかったからこそ、この本の存在に気づくことができた、その点は不幸中の幸いだった。そう、俺の情報収集のやり方は、やはり間違ってはいなかった。そう証明されたわけだ。しかしまんまとハメられた今、いっそう油断は禁物だ。打つべき手を打たねばなるまい。 目次に目をやれば、フリーメーソンに始まり、ユダヤ、ロスチャイルド、ロックフェラー、三百人委員会、CIA、ケネディ、ニクソン…、とあらゆる陰謀論がテーマ別に網羅され、さも自力で調べたか
■[memo]二つの全体主義 http://www.lrb.co.uk/v27/n06/zize01_.html 『グッバイ・レーニン!』は、旧東独の体制を皮肉っぽく笑いトバす映画だったのでした。では、『グッバイ・レーニン!』という映画があるのなら『グッバイ・ヒトラー!』はどうだろう。ありえるんだろうか。 最近、ドイツではそれが奇怪な時代だったことを百も承知の上で、「オスタルギー」(旧東独時代への郷愁)が流行しているそうです。だから旧東独の革命歌や党歌をフィーチャーしたCDを見つけることはできるけれど、ナチのそういうCDを見つけることは困難らしい。回顧の許される全体主義と、危険視されつづける全体主義。その違いはなんなのか。 London Review of Booksオンライン版最新号で、ジジェクが“The Two Totalitarianisms”という一文を寄せています。イギリスのヘ
■[diary] ジュディス・バトラーの講演会@お茶の水女子大。内容の詳細なレポートとかは誰かに委ねるとして、どうでもいい話をひとつ。 それは講堂付近での僕の観察の結果によると、聴衆の一部にある傾向が見出だせるのに気づいちゃったということなんだけど、つまりその、なんていうか金井美恵子っぽい風貌のおばさんが多い。あ、金井美恵子風。あ、ここにも。おっと、金井さんと金井さんが立ち話中。特殊なコスプレ会場みたいな金井さんだらけの状況に困惑をおぼえる。これはどうしたものか。 もちろん微細なファッションの違いとかはあるわけで、「金井美恵子っぽい」という一言で表現して済ますのもなんともピーコ並に乱暴な話ではあるんだけれども、これ以上に適切な語彙を持っていないし、そこを細かに記述するのもなんだか無駄な労力な気もするのでとりあえず話を先に進めると、ここで言いたいのは別に服装や髪型の趣味の問題、つまりダサい
■[diary]最新のエントリは、最終回のエントリである可能性にいつも開かれている 当たり前のことなんだけど↑。 「椅子は壊れる可能性がある」ということを毎秒信じている人は、怖くて椅子になんか座れない。たいてい「いまは壊れないはずだ」と暗に信じているからこそ椅子に座れる。あるいはそのとき椅子が壊れる可能性などまったく気にも留めていない。思考や生活の切片、それらの列なりが、いかにもっともらしく次のエントリを予感させようとも、椅子に座れない人の目には、ブログは切断につぐ切断、危機また危機の積層として映る。 毎瞬間、非常事態がおとずれる。にもかかわらず、書きつづけられているという事実は、ゆえに奇跡的である、と言うのは間違っている。非常事態を眠らせるたび、分岐した無数の芽は一個に収斂している。たんにそうなっているだけだ。その反対に、「もう終わった」と終焉を口走る態度もまた疑わしい。最後の断面から
新刊の『スラヴォイ・ジジェク』を読んだ。訳者あとがきで述べられているように、「ジジェクは速い」。ジジェクの論文は重複も厭わず、無数のヴァリアントに枝分かれし、恐ろしいペースで生産されつづけている。だから、ジグザグに駆け抜けていくその敏捷な足取りを読者が辿れるように、ジジェクの首に鈴をつけて、的確に整理してくれるこういう本はとても助かる。読みながら、「ああ、やっぱそうだよね」とか「なるほど、そういうことなのか」を連発した。僕にとって一番勉強になったのは、ジジェクのいう「行為」は、入門書の解説を読んでみてもやはりよくわからない、ということがよくわかった点。これは皮肉としてではなく、「やはりわかりにくいのだな」と納得できたという意味で。トニー・マイヤーズはとてもわかりやすくまとめているので理解はクリアになるのだけれども、それでもやはり「行為」を説明しているくだりは繰り返し読んでみても腑に落ちない
強制収容所の言語を絶する出来事を、唯一化することもなく、またその逆に、普遍化することもなく語るための糸口を探る本。アウシュヴィッツの経験は証言可能/証言不可能である、というスラッシュで分割されたアンチノミーの宇宙に付き合わないために、「残りのもの」という形象が導かれる。「二ではなく三」というとき、「三」はあくまでも「二」の対立構造から否定的にはじき出された「三」なのであって、「三」そのものを積極的に措定することはできない、というロジックに陥ることをアガンベンは回避している。「三」そのものを積極的に措定することはできない、というのは、たとえば、コソヴォ空爆に賛成か反対か、という選択それ自体を、強いられた選択として拒む、とか、「階級闘争ですか?それともポストモダニズムですか?」と訊かれたら、マルクス兄弟のギャグばりに"Yes, please!"と応えればいい、なんていうジジェクの「第三の道」と
■[diary]或る監禁状態を別の監禁状態で表してもいいわけだ ここに宿泊しようとするホームレスを締め出すための機能を持たせつつ、ディスプレイの美観も保持したい、という二つの相入れない条件を両立させようとして求められた解。たとえば新宿を歩いていると、こういう対症療法的なバッファをよく目にする。 最近読んでいるエドワード・ソジャの言葉を借りれば、そこにあるのは「楽しく梱包されているのに奇妙にも理解できない、眺望に対して自らを開いているように見せて、囲い込み、区分けし、境界を設定し、監禁するようにたえず圧力をかける空間性」(『ポストモダン地理学』)と言えるかもしれない。喫煙者のゾーニング、駅から撤去されたゴミ箱、冷たく光る奇妙なでっぱり。東京にゲーテッド・コミュニティは存在しないかもしれないけど*1、もはやリスクを外部化して内部の保安を図ることが不可能なら、都市の内部のいたるところにゲートを
女の子と男の子が出会ったなら、その先に待つのは自然と人間との衝突か共存なのであってみれば、手を取り合って生き抜こうとする二人は、そのまま世界にとっての矛盾と救済のアナロジーとなる。そういう構図が宮崎駿の映画にはわりと連綿とあって、ナウシカとアスベルとか、サンとアシタカのようなカップルの系譜に今度も連なるのかと思って観ていたら、次第にただならぬ気配があたりに満ちて、自然とか人間とかそんなせせこましい近代人的苦悩(?)をどうやら突き抜けてしまった感のあるポニョなのだった。冒頭、画面いっぱいにみなぎり、画面の全部でうようよと蠢いている生命の爆発にまず目を奪われ、浮き足立って落ち着かなくなるのだけど、腐海を10倍に濃縮したようなこの場面からして、すでに人間は主役ではないのだし、近代的な約束事からは自由であることが宣言されているかのよう。実際、水没した街を悠然と泳ぐ古代魚の学名が嬉々として諳んじられ
■[book]リパブリック・コム isedでしばしば言及されるキャス・サンスティーン。気になったので読んでみました。なるほど確かに面白い。とくに「デイリー・ミー」(わたし新聞)という議論。ネット上にある情報の中から読みたい記事だけに目を通せるように、情報をフィルタリングする機能が発達する。そうすると、これまでなら共有された情報の上に築かれたはずのコモンセンスが分断され、やがて崩壊するに至るだろう。 これって、まさに僕が日々、はてなアンテナ(あるいはRSSリーダー)で行ってることじゃないの。もちろん、生活におけるメディア環境からマスメディアがまったく消え去ってしまったわけではないし、アンテナを使うこととその個人のリテラシーは、当然別問題なので一足飛びにサンスティーンの予測する未来が訪れるわけではない。けれど、「デイリー・ミー」に完全に包まれた空間というのは技術的にはすでに可能なはずだし、そ
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