サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
d.hatena.ne.jp/kebabtaro
Quentin Meillassoux, After Finitude: An Essay on the Necessity of Contingency。序文をメイヤスーの師バディウが寄せている。英訳本の裏表紙には、ジジェク、ラトゥール、デュットマンの惹句。平易な文体に駆られて読み進めていくと、とんでもない場所まで導かれる。人間にそなわる認識能力の限界を画定したカントにはじまる「思考」と「存在」との循環構造、それが今日ではさまざまに変奏され、ノエシス−ノエマ(現象学)であれ、言語とその指示対象(分析哲学)であれ、意識や言語を介在させながらもカントのいう物自体を洗練させる方向へと進み、結局のところ、現在の哲学は世界をそれ自体において把握する試みを放棄して、物自体=絶対的他者の手前で跪拝する信仰主義、あるいはニヒリズムが思想のドミナントになっているという診断、このあたりはよく頷ける問題意識で
TAP (奇想コレクション)作者: グレッグイーガン, 山岸真出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2008/12/02メディア: 単行本グレッグ・イーガン「ユージーン」。『TAP』所収。生まれてくる子どもの身体的特徴から知能レベルまで自在に設定することができて、パラメータを最大にすれば世界を変える天才児だって可能なほど生殖技術の進んだ未来、大金を手にした平凡な夫婦がまさに天才児を作る選択を迫られて…という作品。イーガンにしてはあっさりした展開ではあるけれど、『TAP』の中では表題作よりも「銀炎」よりも面白かった。出生前にすべてが予言されその通りの人生を歩むオイディプスは、さんざんなことに「この世に生を享けないのが、すべてにましていちばんよいこと」とまで歌われてしまうけれども(『コロノスのオイディプス』)、そんな古くて新しい運命の悲劇を遺伝子操作による主体形成は解決してくれるのか、それ
Werner Hamacher, Afformative, Strike: Benjamin’s ‘Critique of Violence’。いろいろ妄想を招き寄せてとても触発的。ベンヤミン「暴力批判論」をおもに扱って、行為とは言語的であると同時に政治的でもあるという角度から、純粋な暴力(神的暴力)=目的なき手段=純粋な媒介=正義の単独性という一連の概念をメシアニズム抜きで接続しつつ、「暴力批判論」におけるゼネストを言語行為論に転じて、「アフォーマティヴ」という鍵概念を練り上げる。法の外部からその批判=限界を導くのではなく、法を支える条件でありながらその成就を宙に吊る力を「アフォーマティヴ」の語によって指し示す。権力としての法に対する不服従の契機をいかに理論化するか、という話にもつながるのだろうけれど、そもそも言語行為論の構えにはパフォーマティヴィティを受動性として捉える発想があるように
しかも、かれが加わっていた亡命者の一行がスペイン国境の町に着いたとき、かれらが知りえたことは、その同じ日にスペインは国境を閉鎖したこと、国境の警備官はマルセイユで作成されたビザを尊重しないことだけであった。亡命者たちはその翌日に同じ道を通ってフランスへ戻るものと思われていた。その夜、かれの自殺に感銘を受けた国境警備官は、かれの仲間たちにポルトガルへ進むことを許した。数週間の後、ビザに対する禁令はふたたび解除された。もう一日早かったなら、ベンヤミンは何の障害もなく国境を通過したであろう。もう一日遅かったなら、マルセイユの人々は当分の間スペインへの国境通過が不可能であることを知ったであろう。この悲劇は、その特別な一日にだけ起こりえたのである。ハンナ・アレント 『暗い時代の人々』 11h20、ポルボウ到着。駅の休憩所にはフランスから国境を越えてきたらしき人たちが数人ばかりいて、見知らぬ同士、慣れ
停泊先から歩いて数分のウルキナオナ駅から地下鉄に乗って、エスパーニャ駅へ。10h30、コンベンション・センターとカタルーニャ美術館の妙な取り合わせを横目に歩きつつ、目印のマジカ噴水を目指す。噴水を右に曲がると、その一角だけ、やけに澄ましたミニマルな表情をしている風景が飛び込んでくる。あやしい予感もしつつ訪ねてみると、なにやら施設をロケ地にしたインタビューの撮影が行われていて、立ち入り禁止なのだった。ちっ。午後からまた一般公開をはじめるというので、撮影隊に念入りな呪詛を唱えつつ出直すことに。名残惜しそうにわざとらしく周辺をうろうろしてから、ディアゴナルの近くでまずいピザを食べたたりして暇をつぶしたのち、再度ミース詣で。びっくりしたのは、何かのリサーチらしく、金沢21世紀美術館の設計者(女性の方)と遭遇したこと。 雑誌やら本やらで何度目にしたことかわからないバルセロナ・パヴィリオンは、どこを切
女の子と男の子が出会ったなら、その先に待つのは自然と人間との衝突か共存なのであってみれば、手を取り合って生き抜こうとする二人は、そのまま世界にとっての矛盾と救済のアナロジーとなる。そういう構図が宮崎駿の映画にはわりと連綿とあって、ナウシカとアスベルとか、サンとアシタカのようなカップルの系譜に今度も連なるのかと思って観ていたら、次第にただならぬ気配があたりに満ちて、自然とか人間とかそんなせせこましい近代人的苦悩(?)をどうやら突き抜けてしまった感のあるポニョなのだった。冒頭、画面いっぱいにみなぎり、画面の全部でうようよと蠢いている生命の爆発にまず目を奪われ、浮き足立って落ち着かなくなるのだけど、腐海を10倍に濃縮したようなこの場面からして、すでに人間は主役ではないのだし、近代的な約束事からは自由であることが宣言されているかのよう。実際、水没した街を悠然と泳ぐ古代魚の学名が嬉々として諳んじられ
最近、家にある鋳鉄の鍋で燻製もできることを知って、早速ハンズに行ってヒッコリーのチップを購入してきたのが先週の話。思い立ってベーコンを作る。ゲランドの塩と島マースで作った塩水に、セロリやらローズマリーやら粒胡椒やらを入れてくつくつ煮込んで作った漬け汁に豚バラブロックを投入して一週間ほど漬け込んだのがこちらになります、というのが今日午前の話。ほど良く浸透したところでスライスした端っこを炙って味見、オッケーな塩梅だったので塩抜きはしないまま、日陰で干す。ほのかなバラ色をして軒先にぶらさがるうららかな肉をいったん冷蔵庫で寝かせて、散歩がてらイリヤ・カバコフ『世界図鑑』展@世田谷美術館。挿絵画家としてのカバコフの仕事。これがむちゃくちゃおもしろかった。計算してみると、現代美術作家としてよりも、絵本の挿絵画家をやってたキャリアの方が長いんだなあカバコフ。与えられたテクストに添えて、かつ検閲を意識しな
神戸まで。午後イチで打ち合わせを終え、そのまま東京にとんぼ帰り。行きの同じ車両に爆笑問題が乗り合わせていたことに新神戸のホームを降りてから気づく。どうやら視界の範囲に座ってたはずなのに。それにしても小さいのナ、田中。行きの新幹線で松浦理英子『裏ヴァージョン』読了(車中で爆笑問題を捕捉しそこねた原因)、帰りは駅の書店で買ったよしながふみ『きのう何食べた?』1巻。たまたま同じ日に読んだだけなのだけれど、『裏ヴァージョン』と『きのう何食べた?』はなんだかよく似ている。どちらも40代前半(不惑を過ぎてクィアであることへの適度な距離感を備えたこの年齢設定は絶妙だと思う)の女同士のカップルと男同士のカップルを主人公としながら、一方では作中で短篇小説の執筆が進行し、他方では毎回料理が作られ、その外部ではカップルの関係性が描かれる。複雑さの度合いにおいては比較にならないとはいえ、両者に共通するこの入れ子構
ポール・グリーングラス監督、『ボーン・アルティメイタム』@新宿プラザ。自分の空虚さを埋めるために三部作を駆け抜けてきたボーンはいよいよその空虚さの度合を増してゆき、最後の瞬間、かなり衝撃的にシラけるというかまあそんな感じのオチが待っていたのに驚愕。これは多分、回を重ねるごとに物語を希薄化させつつ純粋なアクションの連鎖へと接近させてきたゆえの帰結であって、それはそれで理解できるし、皮肉でなく単純にすごく面白かったのだけれど、どうもアクションと物語のトレードオフと捉えて二者択一的に一方を評価するだけではすまない、この作品特有の問題があるような気もする。しらじらとした空虚さを抱えているからこその面白さというか。しかしこの面白さをどう理解してみればいいのか。そしてそれは本当に空虚な事態だったといえるのか。以下、思いついたことを整理してみる。まず視覚的な関係性について。物語の希薄さにもかかわらず観客
あるところに、自らの意志によっては、一度も、誰かに、何事かを発したわけでもなんでもない一組の赤ちゃんと母親がいました。ある日、彼女たちのあずかり知らぬところで、彼女たちをめぐる言葉ばかりが増殖してしまいました。その言葉の群れは、傷つけた/傷つけられた、消す権利/復元する自由、ブログの継続/閉鎖などなど、あちこちで議論の火の手が上がり、何を発言したわけでもない赤ちゃんと母親の尊厳を置いてきぼりにして、燎原の火のごとく広まってしまいました。なんていうか、文学理論の世界に「テクストに外部は存在しない」というフレーズがあるけれど、たとえるならそんな感じで赤ちゃんと母親の存在は一顧だにされず、テクストの話ばかりが加速していきました。いつもテクストの外部を詮索しているくせに、こんなときばっかり「テクストに外部は存在しない」なんてことをいうのね。もし、自分の妻がブログで「うちの夫にはタマが一個しかありま
スティーヴ・ブシェミの名前が思い出せなかった一日。物忘れがひどすぎる。実感的には、物忘れが昂じると真っ先に脳裏からはがれ落ちるのは固有名詞で、粘っこくこびりついているのが形容詞。人の名前の失念は数えあげればきりがないのに、「なんつったっけ、あの、朝起きたら晴天だったような快いさまは?」という話は滅多にない。晴天の朝に何を感じるかは人それぞれだし、その日の気分次第で別の形容詞を代わりに使ってもいい。そういえばカラックスの映画では、ギョーム・ドパルデュー演ずる作家が、あろうことか、PCの類語辞書機能を使って小説を執筆するのを目にすることができる。あれはたしか形容詞だったか。わりと融通のきく顔の広さのおかげで、形容詞は記憶回路におぼえめでたいけれど、固有名詞はその意固地な性格が災いしてか、記憶回路に取り入るのにいつも苦労している。ブシェミはブシェミであって、ブシェミ以外の仕事は請け負わない困り者
日常からの避難所としてはじめたはずのブログもとうに初心の刺激は消えうせ、ああ、退屈だ退屈だと倦怠を口にするのも一種の優雅さを演出する作文技術ではあると内心理解しながらも、そんな技術を開発する端緒につく前からすでに倦んでしまっている。僕の投げる壜はどこかに漂着しているのだろうかと、いつかは初々しくも抱いていたかもしれないあてどなさに、ほとんど悩まされることもなくなった。それは真実のところ、あてどなさなのではなく、よく見ると、宛先人不明の手紙に「自意識」と署名されていたようなものだったのだから。この倦怠、というか、半分は無為で残りの半分は自惚れで出来たこの気分は、はてなの投入する可視的な評価システムが加速させたのかもしれないし、単純に、ブログのライフサイクルが潮時を迎えているだけなのかもしれない(スターの評価は嬉しいけれど、結局それがもたらすのは、饒舌の繁茂とそれを目にする徒労だけではないだろ
ぼくは宙空に表示されたインターフェイスをひとつひとつ消してゆき、最後のひとつを思念で消そうとしていた。そのむかし、人口の大半がまだ物理世界で生活していた時代、インターフェイス上に矢印を形象化した道具が使われていたという。ポインタと呼ばれたそれは、いまで言う思念のことであり、想像も及ばないことだが、たかだか現在時制しか持たず、しかも同時にひとつのタスクしかこなさないものだったらしい。エイドス世代のぼくにとっては、にわかに信じられない世界だ。エイドスとは、もともと、富裕層の帯域幅向けに開発された思念マネージャを、汎用にスピンオフしたものだ。いまではこの世界のおよそ三分の一の人間に実装されている。この思念マネージャに、データの自我界面を破断させるバグが発見されたらしいのを知ったのは、三週間前のことだった。周辺視野から引き出したアングラ・ニュース・ティッカーでたまたまその事実を知ったとき、ぼくには
固有性を愛するということについて*1。「彼のどこが好きなの?」と問われた女の子がいるとする。女の子はしばらく思案したのち、あれやこれやと彼の属性を列挙した挙句、「その全部を愛してる。でもその全部がなくても愛してる」と発言したと仮定する。(A)「その全部を愛してる」と、(B)「でもその全部がなくても愛してる」は、一見互いに排他的であるように見えるけれど、よくあるノロケ話として僕らはこれを日常的に理解できるし、実際そうしてもいる。ではなぜ排他的ではない、といいうるのか。もし、立川健二のいうように、“「愛する」という行為は、固有性(固有名)を愛することである”とするなら、これを敷衍して女の子のセリフに当てはめると、それは二つの「固有性」、(A)「固有性≒特徴的な属性」、(B)「固有性=特徴的な属性に還元されない単一性・特異性」を意味していると理解できる。混同しやすいので、ここでは「固有性」という
「何もないこと」の眩暈(岡本太郎)*1 ナナホシキンカメムシ 三庫裏と久高島
いつだったかのイリヤ・カバコフ展の際に購入してそのまま放り出してあった『全体芸術様式スターリン』。ふと気になって読みはじめてみたら、これがやたらと面白かった。1930年代、ロシア・アヴァンギャルドはスターリニズムによって弾圧され、その後、党主導による芸術活動として社会主義リアリズムが花開いた…わけではないというのがグロイスの主張で、全体主義とアートの関係をめぐる通常の文化史記述をグロイスはまるっきり覆している。むしろ、アヴァンギャルド芸術の運動こそが社会主義リアリズムを準備したのであって、それはアヴァンギャルド芸術に内在する論理からすれば理の必然であり、この点において、ロシア・アヴァンギャルド=善玉、社会主義リアリズム=悪玉という捉え方は誤っているのだという。これは一歩間違えると、ドミニク・ノゲーズの『レーニン・ダダ』のような歴史を題材にしたファンタジーになってしまうところだけれど、史的事
レオ・スタインバーグの「哲学的売春宿」を読む。それまで見落とされてきた作品の制作プロセスなどを踏まえ、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》評価の確立に一役買った論文。すでに古典的な論考だけれど、カルロ・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』をぱらぱらと読んでいたら、この論文への言及(「エグゾティズムを超えて―ピカソとヴァールブルク」)を見つけてあらためて読みたくなったのだった。ギンズブルグはこの論文を取っ掛かりにピカソを分析しながら、しかしスタインバーグとは異なる地平へとそのピカソ観を押し拡げている。ギンズブルグの本をいったん放り出し、「哲学的売春宿」の改訂ヴァージョンが収録された『他の批評基準』を本棚から取り出して開く。ギンズブルグにのみとどまらずいまだ数多く言及されているように、1972年に執筆されたこの論文は、いまでもいっこうに古びていない解釈をいくつか提示している。たとえばこの作品が完成に
「デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」という議論をおさらいしたくなって、『脱構築とプラグマティズム』を再読。1993年5月にパリの国際哲学カレッジで開かれた同名のシンポジウムの記録。薄い本なのであっという間に読めてしまうけれど、なんとも噛み合わない議論にもやもやする。複数の信念=価値が衝突しあう競合状態は私的領域に追いやるべきだ、なぜなら信念とは偶然的に形成されるものであって、それ以上の根拠を有していないのだから。討議によって調停可能な議題のみを扱うことが公的領域における政治の領分であり、私的領域でのアイロニーに専心する『弔鐘』や『絵葉書』でのデリダ的態度に政治的意義を認めることはできない。そう主張するローティに対して、デリディアンであるクリッチリーは、ローティの設定する私的領域と公的領域の区別そのものが疑問である、私的領域における信念はつねに公的領域でのそれに汚染されているのだから
朝、初台へ、戻って昼、スコーン一個、午後イチに技術系の方が来社して、いろいろ話を伺う。こちらが素人っぽい質問を投げると、うーん、と数秒間悩ましい顔をして、それでもわかりやすく最適解を説明してくれる。互いに情報制約下であることが暗黙の前提のやりとり(って早い話、化かし合いのことだけど)にここのところ慣れっこだったので、ちょっと新鮮。夜、黒門でつけ麺。それから大増床した新宿ジュンク堂(池袋店を越えたらしい)で、大増床したっていってるのに、まったく普通に柴崎友香『ショートカット』を購入。読みながら帰宅。ドアを開けると出迎えてくれる多肉植物の元気がよい。つやつやした多肉植物の葉を指先でそうっと撫でていると、小動物の手というか、その葉が赤やグリーンの肉球に見えてきてなんだか癒される。ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』を読む。きわどいネタで人気を博すコメディアン、ダニエルの「人生記」と、現代から
趣味判断においては肯定したいけど、趣味判断しか許さないそのスタイルは否定したい気分。そんな映画だった。って、のっけからねじれたことをいうけれど、客席の四方を女子に囲まれながらも、画面に見入る内心の「キルステン・ダンストかわいいなあ」という呟きは決して隣りの女子には気取られてはなるまい、と思っているスーツのおっさん一人@郊外のシネコン、という観賞シチュエーションではいきおいねじれざるをえないじゃないか。スクリーンに溢れているのは、衣裳や靴、お菓子のデザインにおける“スタイル”だけじゃなく、その「近代的な自我のスタイル」−ヴェルサイユ宮殿に放り込まれたキルステン・ダンストが自分探しをする−であったりする点も含めてこれはスタイリッシュな映画なのだから、夜通し仲間と遊んだ後、明け方に朝日を眺めるひとときや、ニワトリの卵さえ可愛らしく見える瞬間に対して理屈っぽく文句をいっても野暮になりさがるだけだ。
畠山直哉展@神奈川県立近代美術館。展示を一巡して、最初に見た作品を振り返ると、ああそうか、バックミンスター・フラー設計のジオデシックドームも、エネルギー最小かつエントロピー最大の構造をしていたんだっけ、と思い至る。畠山直哉の作品群をつらぬいている眼差しには、どこか非人間的なところがある。畠山の眼差しによって切り取られた都市の断片とその見事な構成への意志によって、この写真家がおそろしいヴィジョナリーであることをあらためて気づかせてくれるような展覧会だった。ここでいう非人間的な眼差しとはつまり、人間の営みと自然の営みを等しいものとして見渡すことのできる態度だ。都市がそれを形成する一個一個の建造物に込められた人為の集積であるとするなら、都市は巨大な人為の集積体であるがゆえに、その外部に追いやったはずのノイズやランダムネスを拒むことができない。畠山はそのようなテーゼを発見したのだと言ってみるとき、
午前、資料づくり、その合間に電話の対応。それから表参道で打ち合わせ、かなり厳しい条件に即答は出ず宿題にして、3時過ぎに遅い昼飯。戻って会議。遠隔操作された一日。去年から仕事でお世話になっているフランスの取引先が、ソフィア・アンチポリスにオフィスを構えてるらしいことを最近知った。ス、スーパー・カンヌ?映画版『鉄コン筋クリート』は、「宝町」と呼ばれる町を跳梁する二人の少年が、「子供の城」という名の都市開発に抵抗する物語だったわけだけど、ある一点において(だけ、じゃないよ)原作を裏切っているところが不満だった。というのは、松本大洋の原作では実際にある藤沢の風景を「宝町」のモデルとしていたのに、映画版ではどこでもない架空の町になっていたということ。藤沢市民であれば誰でも気づくであろうフジサワ名店ビルや、江ノ電といった背景の描込みは、同じ作者の『花男』とか『ピンポン』の舞台、江ノ島と同じぐらい重要な
■[book]ジャック・デリダ、祈り このところ、ジャック・デリダとジェフリー・ベニントンによる共著、Jacques Derridaを少しずつ読んでいる。深更、眠りに就くまえのわずかな時間、一歩前進二歩後退な読書だったのだけれど、昨夜は眠りを誘うどころかページを繰る毎にどんどん引き込まれ、ついに明け方まで本を閉じることができなかった。新聞を配達するバイクの音を聞きながら、ようやく寝る。 『弔鐘』にも似た特異なレイアウトのこの本は、ページが上下に分割されており、上にはデリダの思想がキーワード別に体系化され、それぞれベニントンによる解説が付されている。その明晰さはデリダをして「テオロジカル(神学的)」ならぬ「ジェオロジカル」といわしめるほどで(“geological”とはもちろん造語で、無理矢理訳せば「ジェフの論理」とでもいうべきか)、ベニントンは、「記号」「書くこと」「固有名」「署名」「贈
ようやくDVDをゲットして、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』を観ました。いやあ、よかった。SAC、2ndGIGときて、今回の作品(以下、SSS)はどのように描かれるのか個人的に一番気になっていたポイントは、「公安9課は誰と戦っているのか」という点。ここがとてもよく腑に落ちた、というか、シリーズを通覧したときに見えてくる素晴らしいラストが待っていた。まず神山健治の作品に先行して押井守の『GHOST IN THE SHELL』(以下、GIS)があったわけだけど、この押井版には「誰と戦っているのか」という問題設定はありえなかった。物語に登場するガジェットとか、タイトルに込められた意味からすれば、押井版のモチーフのひとつは「心身二元論への懐疑」といえるかもしれないけれど、物語の形式はわりと弁証法的。脳髄以外を完全義体化しているがゆえに自
オノ・ナツメの傑作『not simple』を読む。一読して言葉を失くしてしまい、再読してようやくこれを書き始める。冒頭、これから語られるのは「逆にウソっぽく見える」ほどあまりに凄まじい運命の物語であることがまず告げられる。それは読者が安心して虚構に浸り、この言葉を追認してゆくための仕掛けでもあるが、そうであると同時に、破ることのできない予言としてもそれは置かれている。この導入場面ですでに燻りはじめている不穏さは、読者の予想をあっけなく上回る凄惨な生の軌跡を描き、しかしその道程は(アンチ)オイディプス的な物語の構造を正確になぞる足取りで進むだろう。主人公のイアンは、ある出生の理由によって家族から疎まれ、打ち棄てられている。家族的な意味においても地理的な意味においても故郷喪失的なイアンの彷徨は、たとえばライ・クーダーのギターが聞こえてきてもおかしくはない寄る辺なさを湛えている。その意味では、た
■[cinema][diary]ユナイテッド93 『ユナイテッド93』@新宿武蔵野館。 2001年9月11日、アメリカが見舞われた同時多発テロの際、WTCを崩壊させ、ペンタゴンに墜落した3機の他に、唯一目標物に辿り着かずに墜落したハイジャック機があった。この一連の出来事を、管制センター、軍、乗り合わせた乗客、テロリストら複数のエージェントを交互に映し出し、機内で起こっていたかもしれない様子までを含めて映像化した作品。関係者へ膨大なインタビューを行い、犠牲者のほぼすべての遺族から映画化にあたっての承諾を事前に取り付け、少なくない数の関係者が本人役で出演するという徹底したリアルさの追求が評判になっているけれど、観終えてそこに欺瞞のような何かを感じなくもない印象を持ってしまった。なんなんだろうこの感じ。どうにも腑に落ちないこの感じを解きほぐせるわけではないけれど、以下、とりあえずの雑感。 この
■[diary][art]岡崎乾二郎展、夏の経験、ショコリキサー ロダンが心血を注いで取り組んだ《地獄門》は、彼の生前にはついに完成を見ず、また当初予定された美術館へ設置されることもなかった。しかしいまでは世界中にその複製が散在している。この事実はちょっと考えてみると興味深い。この彫刻の来歴を知り、対峙する者は、次のような奇妙な問いを口にすることができる。それでは、本当の《地獄門》はどこに立っているのだろうか、と。そして、ある彫刻家の人生においてただ一度、これっきりの出来事がかつてあったことを示す痕跡を前に、見る者はひとつの逆説に逢着する。つまり代替不可能なロダンの制作経験(唯一のものとしての経験)は、見る者にとっては代替可能な作品として経験される(経験の重層化)。彫刻の複製可能性が、場所を前提とした経験から場所に依存しない経験への移行を、別の言い方をすれば、場所から自由ではない(つまり
■[diary][music]高橋悠治の思い出 昨日、高橋悠治の再発が出たことを知ったので、タワレコに走った。立て続けに13タイトル試聴してみた。勢いで7枚も衝動買いしてしまった。 帰宅してほくほくしながらジャケットを並べてみると、なかでも和田誠の装画が光ってる。まるで草月ホールの時代にワープしたみたいだ。将棋の指し方を知らなかった高橋悠治に和田誠がそれを教えたところ、三度目にはもう勝つこともできなかったという逸話があったっけ。これから一枚ずつ、ゆっくり聴いていこう。 高橋悠治の演奏を聴いた経験を思い出してみると、いつもそれを聴いた場所と密に結びついた経験として醸成されていることに思い至る。ここにはライブ・コンサートの形式から離脱したグールドの演奏とは全然別の意味がある。浜離宮の朝日ホールで聴いたゴルトベルクは、ペダルをほとんど踏まず、一個一個がちいさな危機を孕んでいるかのような打鍵に驚
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『d.hatena.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く