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d.hatena.ne.jp/number555
ミミヲキリハナヲソギ―片仮名書百姓申状論 (中世史研究選書)作者: 黒田弘子出版社/メーカー: 吉川弘文館発売日: 1995/02メディア: ?1.通説A.この史料は従来庄園領主対地頭の裁判の中に位置付けられており、庄園領主側が農民を指導して書かせたものであるという見方があった。←明確な根拠なし。B.カタカナは音声の世界を表現する文字であるのに対して、ひらがなは読み書きの文字であるという観点から、農民が肉声を伝えるために主体的にカタカナを選択したとされていた。(言霊説 網野)←最新の国語学研究に矛盾。 2.主張A.史料の記述よりこの文書の主体は人夫を材木の「山出し」へ行かせた者であり、それは林業の実質的リーダーであった番頭である。cf.「わずかに漏れ残りて候人夫を材木の山出しえ出で立て候えば」 B.まず、当時の農村では使用する文字が身分のシンボルであった。公文、地頭といった支配層の主に平仮
「目垢がつく」という表現がある。美術品が衆人の目に曝されるのを「目垢」がつく、といって嫌うものだ。この考え方は日本独特らしく、バブル期にゴッホの絵を史上最高額で落札した日本人がその絵を一度も美術館に展示しなかったうえに、「自分が死んだら棺桶に入れて燃やしてくれ」と公言して世界の顰蹙を買うということもあった。しかしよく考えてみると「燃やしてくれ」というのは問題外としても、自分の大切なモノを人に見せたくないというのは極めて人間的で自然な考え方に思われる。「この美しさ、そして感動をできるだけ多くの人と共有したい」などという方が、よっぽど不自然で偽善的ではないか。なぜ日本では「目垢」という概念が残り、西洋では無くなってしまったのであろうか。 まず考えられるのは、日本の富裕層の美術は建築の付属物的意味合いが強いことである。日本の絵画の多くは屏風絵であるし、茶碗や掛軸も茶室という建築が無ければ意味を成
辛いことがあってmixiを辞めましたでこっちの更新が頻繁になっている訳です タイムリーな記事を読みました人間関係をネットに持ち込んだソーシャルサービスにおいて、一端繋がった人間関係はすべて継続しているかのように扱われるが、実際には疎遠になった人間関係も多く出てくる。これをどう扱うかというのがポイントになるのではないかと以前は考えていたんだけど、実際の人間関係のように自然に遠くなるなんて曖昧な扱いは難しい。実際のところ、こうしたmixiリセットのような形で再整理していくというのが現実的な解なのだろう。 mixiリセットとケータイメールのアドレスを変えるのは同じ感覚?ネット上の人間関係再構築?:ARTIFACT ―人工事実― なるほど確かに昔は日記読まれても良かったけど今は嫌、なんてこともある日記を書いて読んでもらってコメントされるっていう一連の流れは実際の生活では考えられないほど大胆な行為こ
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