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パリ五輪
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戦前は羽田書店*に入り、1945年みすず書房の設立に携わり、45年間編集責任者をつとめた小尾俊人は、戦後を体現する代表的編集者のひとりである。小尾の『出版と社会』(幻戯書房、2007年、654頁、税込9975円)は、関東大震災後から日中戦争頃までの出版世界を活写した好著である。このなかに、関東大震災後の吉野作造が登場する。( * 羽田書店は、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』で著名な出版社であり、創業した羽田武嗣郎は元首相の羽田孜の父である。)それは「『明治文化全集』(日本評論社)の出版」という章である。 1923年9月に起きた関東大震災の翌1924年に吉野作造が中心となり、石井研堂・尾佐竹猛・宮武外骨などとともに明治文化研究会をつくった。吉野は研究会を運営し機関誌の刊行に努めるとともに、折からの円本ブームもあって、日本評論社から依頼のあった『明治文化全集』の編集と刊行にまさに心血を注いだ。そ
【本居宣長と出版業】 私自身が、本居宣長に関心を寄せたのは、10代に遡る。大学生時代、「日本とは何か」という疑問を解き明かしたいと考え、2年生と3年生時の教養ゼミ「古代研究」で記紀万葉集を読み、さらに3年生と4年生時の専門ゼミ「政治思想史」で本居宣長『古事記伝』などに取り組んだ。一筋縄で処すことのできる対象ではなく、何も成果を生むことはなかったが、関心はその後も続いた。 現在の関心「日本における学術出版、大学出版の源流は何か」に即して言うと、拙文「福澤諭吉と出版業」(『福澤諭吉年鑑』42, 2015.12)において「大学出版人の祖」は福澤諭吉であることを明らかにしたが、では、その福澤の出版思想や福澤の出版の基盤となる出版システムはどうであったのかが課題となる。これに関わって大きく前面に登場してきたのが、本居宣長と平田篤胤である。 本居宣長と平田篤胤とによる日本認識と世界認識の変化は、文字意
世田谷区上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館で、昨年吉野作造記念館で開催された「吉野作造と賀川豊彦」の移動展「賀川豊彦と吉野作造」が6月27日まで開かれている。キリスト者としての二人は《貧しき者、弱き者のために》様々な社会事業に取り組んだ。二人の背景および接点を描き出したこの展示は、貧困が深化拡大しつつある今日こそ、多くの人に見ていただきたい。 この展示で驚いたこと。天皇主権論者となる上杉慎吉が東大学生基督教青年会の会員名簿(1902年)に、のちに民本主義を訴える吉野作造とともに名を連ねていたのは目を引く。後に首相となる片山哲の回想によれば、上杉慎吉と吉野作造はよく連れ立って青年会の寄宿舎に来て、学生たちと語らっていたという。
30年近く前、京極純一『日本人と政治』を作る際、著者の楷書体の手書き原稿に「五穀豊饒」という表現があった。私は相当に悩み調べ、京極先生に「私が調べた辞典では、五穀に続くのは豊穣であって豊饒はありませんでしたが」とおうかがいをたてた。 京極純一先生は「私の小さいころの神社のお祭りの幟には、五穀豊饒とあり、食偏であったのを記憶しているんだがねえ」とおっしゃいつつも、禾偏に変えて下さった。その時はそれで済んだが、以来、白川静の辞典にあたってもよく分からないまま、今日まで、私のうかがいは正しかったのかどうか、自信がないままである。 たまたま『日中文化交流』№815(2014.4.1)の巻頭の大野玄妙(法隆寺管主)「平和への祈り」を読んでいたら、「五穀の豊饒」という言葉が出てきた。う〜ん。 画一主義は避けて、五穀豊穣と五穀豊饒の二つがあったほうがいいんだろうな。 京極純一先生からは万年筆による楷書体
日本史教科書と福澤諭吉「脱亜論」:続・宮地正人講演(20130914)メモ ――歴史の通史を書く立場から言うと、福澤について、「幕末維新期の開明的な思想家」と、「明治10年代半ば以降のアジア侵略主義者」という二つの福澤の像は、どうしてもつながらず違和感を持っていた。「事実と論理」に合わない通史は書くことはできない。これまで自分が書いた、あるいは自分が代表を務めて書いた通史では、福澤の脱亜論を取り上げることはなかった。 中等教育の日本史教科書で脱亜論が取り上げられるようになったのは1970年代後半からであり、最初が清水書院ので「主題学習」で取り上げられ、ついで三省堂ので福澤が日清戦争を支持するという文脈で取り上げられた。この時期に脱亜論が取り上げられたのは、中国の国連加盟、日中国交回復などにより中国の比重が大きくなり、それに伴い、近代日本とアジアとの関係が問い直された、ということがある。 そ
今日1月26日の朝日新聞夕刊「昭和史再訪」の「21年(1946年11月16日) 当用漢字の告示」は大きな問題がある。見出しは「楽に読み書き ローマ字化阻む」である。コラム「証言」は元国立国語研究所長の甲斐睦朗によるもので、その見出しは「『昼』か『晝』か、母と議論」であり、1949年の新字体の採用時のことを強調したものとなっている。 これらからは《(使用する漢字を制限した)1946年の当用漢字の告示と、(当用漢字の字体を簡略化し新字体を採用した)1949年の当用漢字字体表の告示とが、日本人の読み書きを楽にして(占領軍が意図した)ローマ字化を阻んだ》という文脈が読みとることになろう。 占領軍が意図したローマ字化を阻んだのは、占領軍自身が1948年に指導し、日本人が実行した、15−64歳の約1万7千人を対象とした「読み書き能力調査」である。この調査により日本人の識字率の高さが明らかとなったのであ
外大での90分授業の配布レジュメを以下に掲載する。(添付資料は省略) 東京外国語大学総合科目「日本の出版文化」 20110518 東京大学出版会 竹中英俊 タイトル:日本近代出版史としての大学出版 はじめに:東日本大震災について ○津波の水が引く前に本をもとめにくる人 河北新報が出した写真特集『3.11大震災 巨大津波がやってきた』(資料1) 荒蝦夷という出版社の『仙台学no.11 東日本大震災』(資料2) 本塩釜の嶋谷書店は、津波後2週間で開店。水が引いていない、片付け中にも、本を求めて買いに来る人がいた。 ○そして、一冊の少年ジャンプ 「少年ジャンプ3/19発売16号 読めます!! 一冊だけあります」と仙台の塩川書店が店頭に張り紙をすると、口コミで情報が広がり、順番待ちになることもあり、10キロも離れた自宅から自転車で読みにやって来た子どももいたということです。 この一冊の本が
本庄陸男『石狩川』(『北海道文学全集8 開拓の礎』立風書房1990 所収)読了。戊辰戦争で賊軍となった仙台藩の支藩 岩出山伊達家は俸禄のほぼ全面的な削減にあい、藩主を先頭に家臣団の一部は新天地を求め北海道に渡り、石狩川沿いの当別開拓という困難な事業に挑む。開拓主事となった元家老を中心に、開拓庁との交渉、厳しい自然との闘い、廃藩置県による藩再興の夢の断念、故地に残留した人々との軋轢などを乗り越えて、一筋の未来が見え始めるまでの怒濤の様を描いた、歴史小説。 本庄自身(1905-39)が、佐賀藩士の開拓農民の子として当別に生まれ、北見で育ち、カラフトにも住み、上京して青山師範学校にはいり、教員をしながらプロレタリア作家として小説を書き、教職を追われた人物であり、1930年代後半という同時代の厳しい状況のもと、自らの父祖の思いを馳せて渾身の力を込めてこの作品を描いた。雑誌連載した前半部分を単行本と
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