サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
体力トレーニング
dokushojin.com
真の“リベラル”経済学のススメ 対談=岩田規久男×柿埜真吾 本物のリベラル的思考とは 本物のリベラル的思考とは 柿埜 今日の対談の中で我々が一貫して申しあげているのは、市場原理主義批判などの反資本主義的主張は経済学に基づく議論ではなく、弱者を救うこともない、ということです。この点は、新自由主義を声高に批判する人が実際の弱者に対してどんな態度をとっているかを見れば一目瞭然です。 例えば、現在のマドゥロ政権下のベネズエラは社会主義化を進めた結果、経済が破綻し、国民の2割が国外に脱出し、国内に残っている3割は餓死しかかっている、恐ろしい独裁国家です。 こんな悲惨な有様を見て、アメリカはマドゥロ大統領に制裁を加えたのですが、あろうことか日本の著名な“リベラル”の知識人がマドゥロ擁護の声明を出しました。([註2])新自由主義に抵抗するマドゥロ大統領は立派な民主主義のリーダーというのですから呆れてしま
クール・ブリタニア。クール・ジャパンの元ネタであるイギリスの文化振興政策の帰趨を知ることは、日本の文化事情の省察につながる。本書はその貴重な手がかりを与えてくれる。 本書は1997年から2010年代初頭まで、十数年間のイギリスの文化政策の功罪を忌憚ない筆致で裁定する。その内容の詳細に踏み込む前に著者、ヒューイソンの立脚点を確認したい。直訳の題名「文化資本」は矛盾をはらんだ言葉だ。もともとはブルデューが経済的な指標以外の視点から階級分析を行うさい用いたもの。本書は文化の浸透度を社会資本の再分配に見立てて、実現の度合いから政府の施策を評価する。 しかし文化や芸術は定量できない質の問題を持つから、齟齬を生みかねない。この隘路を著者は共有されたコミュニケーション=公共善と見立てて回避する。そこから、SNS、特にユーチューブを代表例とする誰でも既存のリソースを改変して別のものに仕立てられる最近のネッ
近年「右」の台頭に抗すべく期待が寄せられているのは「左」からのポピュリズムであり、日本でもここ数年の関連書籍に続き今年はシャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』、エルネスト・ラクラウ『ポピュリズムの理性』(ともに明石書店)が刊行されている。その際世界各地での「有望」な事例が参照されるとして、それで以て日本で既に興った事例の総括を怠るべきでない。とは、昨今のそれは反緊縮が主流とはいえ、官なる「上」に抗して「下」から支持された民主党政権の誕生は左派ポピュリズムだったし、「アベ政治」に反対する国会前の「野党は共闘」運動及びそれを前後する彼是も同様の流れを汲んでいた。 「我ら」と「彼ら」の敵対性に拠り民主主義の主体を築くラクラウ&ムフのポピュリズム論はかねてから知られており、紙幅の都合もあるため詳述は措き、ここで小泉義之『あたかも壊れた世界――批評的、リアリズム的』(青土社・2019)から次に
四月四日、今年二月に刊行された話題の新刊『居るのはつらいよ』(医学書院)の刊行を記念して、著者で臨床心理士の東畑開人氏とノンフィクション作家の高野秀行氏による公開トークイベント「ウサギ穴の向こうで書くこと――『居るのはつらいよ』(医学書院)刊行記念」を、神保町・読書人隣りで開催した。 本書は沖縄の精神科デイケア施設という〝異世界〟で働くことになった臨床心理士の東畑氏が、そのときの体験を振り返り、「ケアとセラピー」、そして「ただ、居る」ことの価値について考えぬいた、前代未聞の「スペクタクル学術書」である。 当日のトークイベントは満員御礼となり、高野氏の『謎の独立国家ソマリランド』を読んで天啓を受けたという東畑氏と、本書が激しく琴線に触れたという高野氏による絶妙なトークが会場中に笑いを巻き起こしながら繰り広げられた。その模様を紙上再現する。 (編集部)
ノマドというから、遊牧民のようにオフィスを渡り歩くフリーの労働者のことかと思ったら大間違いである。このルポルタージュで詳細に記述されている労働者は、2010年代のアメリカ大陸をまさしく漂流している高齢者たちである。キャンピングカーなどに車上生活を余儀なくされているホームレス状態にある高齢者たちをルポしているのが本著だ。 なんらかの事情でホームレス状態になった人が、車上生活をしているだけならば、どの国においても、それほど珍しいことではない。本著で扱われるノマドは、ワーキャンパーとも呼ばれる。ワーキャンパーとは、「キャンピングカーで移動しながら働くという意味で、ワークとキャンピングとの合成語だという。つまり、車上生活をしながら漂流し労働している人びとなのである。 住居を失っていくプロセスも多様である。ウーバーによって追い落とされ、客をとれなくなったタクシー運転手で生活に困窮し家賃が払えなくなっ
いま、韓国から新しい文学の風が吹き込んでいる。 二〇一七年十月から刊行開始されたシリーズ「韓国文学のオクリモノ」(晶文社)は、二〇〇〇年以降にデビューした韓国「新世代」と呼ばれる作家を中心に、ハン・ガン『ギリシャ語の時間』、パク・ミンギュ『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』、キム・エラン『走れ、オヤジ殿』、ファン・ジョンウン『誰でもない』、キム・グミ『あまりにも真昼の恋愛』の五冊を刊行し、まもなく六冊目となるチョン・ミョングァン『鯨』が刊行される。 シリーズ全六冊の完結を機に、本シリーズで翻訳を担当した訳者でもあり韓国文学の最前線を知る紹介者でもある三人の魅力的な女性たち、斎藤真理子さん、古川綾子さん、すんみさんに、作家の個性や作品の読みどころ、韓国文学の魅力とその力、シリーズ刊行の意義などを語っていただいた。 本特集では、四月に来日した作家ファン・ジョンウンさんの『誰でもない』読
本書は、現代日本の思想シーンにおける最も重要な書き手の一人である哲学者・千葉雅也による、『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、二〇一三年)に続く、哲学的かつ批評的な第二の主著である。哲学論文の他に、美術批評、ファッション批評、書評、その他分類しづらいエッセイなどが、適切な改稿を施されたうえで本書には収められている。したがって私たちは本書を通じて、千葉の「第一期の仕事」(と千葉自身が名づけるもの)をファイナライズされた状態で、パノラミックかつミクロスコピックに振り返ることができるようになったと言えるだろう。 この「第一期の仕事」の鍵概念は、『動きすぎてはいけない』での表現に従えば「非意味的切断」、そして「有限化」であった。本書はこれらの概念を、新たに「意味がない無意味」というトートロジー的表現によって名づけなおそうとする。本書序論「意味がない無意味――あ
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で小林秀雄賞を受賞した加藤陽子氏(東京大学大学院教授)が、その〈続編〉とも位置づけられる『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社)を上梓した。一九三一年の満州事変から一九四一年の真珠湾攻撃までの十年間、様々な選択肢がありながらも、なぜ日本は戦争への道を選んでしまったのか。それを決定づけた「三つの歴史的出来事」を中心に描く。「過去にあった出来事を正確に描くことで、未来を創造するための手助けをすることが歴史家の仕事」だと定義する加藤氏に、『戦争まで』刊行を機にお話しをうかがった。(編集部) ――最初に二点ほど、前著を踏まえておうかがいします。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、日清戦争にはじまり、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変・日中戦争から太平洋戦争まで、日本の近現代史を、「戦争」の視点から通史の形で描く一冊でした。今回は、同じ時代
行方不明になるだけでは、既存の居場所に潜行するだけになる。だから、自ら行方不明であると公言し、権力にもそれを公認させなければならない。アルチュセールは生涯をかけて、そこまでは行った。行方不明者の存在証明までは行った。しかし、その自伝のタイトルが示すように、未来は長く続く、と告げて果てた。そこに「切断」を入れて、未来の「はじまり」を「あらしめる」こと、それが本書の課題だ。 権力は「私」に呼びかけ振り向かせて、主体化し従属化する。よく知られたアルチュセールの図式だ。しかし権力は、「私」の個体性を決してつかまえることはできない。その個体たるや、無からの創造を、空虚からのプロレタリアートの出現を、「来たるべき民衆」(ドゥルーズ)の到来を幻視しているからには、明らかに狂っており、絶対的に孤独である。「はじめに幻覚ありき」。そして、幻覚からすべてが出て来る。「どれほど馬鹿げた主張に思えようと」、すべて
9月14日、首相官邸前で安倍政権への抗議デモがおこなわれた。自民党総裁選が告示された9月7日に予定されていたが、北海道地震の影響で延期されたものだ。いくつかの論考(山本圭「ラディカル・デモクラシーと精神分析」『思想』9月、斎藤幸平「革命と民主主義」『nyx』05ほか)でラディカル・デモクラシーについて議論されているが、2011年の脱原発デモ以降の国会議事堂前や官邸前での抗議活動はラディカル・デモクラシーだったといえる。実際にそのようにみなす論者もいる(松本卓也『享楽社会論』)。「野田やめろ」「安倍やめろ」「民主主義ってなんだ」「国民なめんな」といったシュプレヒコールは内容がないとしばしば批判されたが、さまざまな運動が連帯するための「空虚なシニフィアン」(ラクラウ)といえなくもない。世界を席巻しているポピュリズムは、自由主義と民主主義の「結婚」が破綻したいま、民主主義により比重をかけることで
哲学者カトリーヌ・マラブーの最新著である本書『明日の前に』は、彼女のはじめての本格的なカント論である。これまで、ヘーゲル、ハイデガー、フロイトらのテクストを、脳科学や神経科学の知見を踏まえて読みなおすという大胆な仕事に取り組んできたマラブーのスタンスは、本作においても変わらない。いや、伝統的な大陸哲学のテクストを、自然科学を経由しつつ脱構築せんとするその野心は、本書においていっそう先鋭化していると言えるだろう。本書においてマラブーは、『純粋理性批判』第二版に登場する「純粋理性の後成説の体系」という表現に注目しつつ、前成説と後成説、さらには現代の遺伝学や脳神経科学の理論を導きの糸として、カント哲学の根本的な読みなおしを図るのだ。 なぜそのような仕事に着手する必要があるのか。ひとことで言えば、それはカント以来の大陸哲学の根幹をなしてきた「超越論的なもの」が、こんにち大いに疑問視されているからで
能動態でも受動態でもない、「中動態」という耳慣れない言葉がにわかに注目を集めている。哲学なのか言語学なのか、はるか昔にあって実は今もあるという、古くて新しい「態」のカタチ。その「中動態」が、もしかしたら私たちの社会通念や経済システムすら根幹からひっくり返す可能性さえ秘めているという……。 哲学者の國分功一郎氏がこの春上梓した、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)は刊行直後から話題となり、すぐに重版も決まった。本号では、この『中動態の世界』について特集する。第一部(一・二面)は、五月一〇日に代官山蔦屋書店で開催された、社会学者の大澤真幸氏との初顔合わせのトークイベント「中動態と自由」を、第二部(三面)では、四月二一日に荻窪・Titleで開催された國分功一郎氏による講演の模様をレポートする。 (編集部) ――トークイベントでは、私たちが思考を語る上で欠かせない言葉、あるいは言葉によ
私が専門にしているリハビリテーションの哲学では、脳に障害を負って、体がうまく動かせなくなったり、あるいは物事の認識がうまくいかなくなってしまったような方々が、どうしたらもう一度新しく自分の世界を取り戻せるか、その手立てを考える研究をしています。村田さんの作品はいつも、文学作品としてはもちろん、物事の認識の仕方のヒントとしても、面白く読ませてもらっています。 今作のタイトルの『地球星人』は、初めに目にしたとき、「村田さん、ついに地球を超えたか!?」と思いました(笑)。ところが読み始めると、舞台は長野の秋級あきしなという地域で、お盆に親族が集まるという、むしろ懐かしい光景が広がっています。そのギャップが、本書の最初のインパクトでした。 この作品は、どのような経緯で生まれてきたのでしょうか。 私はいつも、一作書き終えたら、間をおかずに次を書き始めるのですが、「コンビニ人間」が芥川賞を受賞して、思
「国体」も「特攻」も大時代的な言葉ですが、今日の講演タイトルを〈「二度目の敗戦」をどう生きるのか?〉としたのは、この国が今、一九四五年の敗戦に匹敵するひどい状況にあるからです。 はじめに、それぞれの著書を紹介してから、日本の現状について、話していきましょうか。 僕の『不死身の特攻兵』は、直截にいうと、九回特攻に出て九回帰ってきた佐々木友次さんという方についての本です。佐々木さんのいた陸軍では、特攻作戦に軽爆撃機を選び、なおかつ八〇〇キロ爆弾を落せないよう機体に縛り付けて、「爆弾を落すな、体当たりしろ」と。第一回の特攻隊に選ばれたこの二一歳の若者は、出撃して帰ってくるたびに、四~五〇代の参謀から何で突撃しないのか、次こそどんな船でもいいから体当りしろ、と怒鳴られ、それでも生き延びたんです。佐々木さんを中心に、特攻とはなんだったのか、その実像に迫りたいと思いました。佐々木さんは二〇一六年二月に
一九六〇年代、世界の様々な地域で、ベトナム戦争に対する抗議と連動するかたちで、社会運動が拡大・多発した。 一九六八年はその絶頂年で“1968”は社会運動に関心を持つ人にとって特別なキーワードとなっている。 六八年から五〇年の今春、小杉亮子『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略』(新曜社)が上梓された。 東大闘争の当事者・関係者四四人に聞き取り調査を行い、東大闘争が問うたもの、その捉えがたい全容を検証した。 刊行を機に著者と、埼玉大学名誉教授で東大闘争の当事者である福岡安則氏に対談いただいた。 また次週は“1968”連続企画として、京都大学人文科学研究所で開催中の連続セミナー「〈68年5月〉と私たち」第一回を載録する。 (編集部)
『存在論的、郵便的』から19年、東浩紀氏の最新著作『ゲンロン0 観光客の哲学』が刊行された。 本書は東氏の思索の集大成であり、また書名が表すように批評誌「ゲンロン」の基底をなすものとして位置するものである。 発売直後からツイッターやフェイスブックなどのSNSで若い人を中心に、大きな話題を読んでいる本書について、2010年に「読書人」で文芸時評を一年間担当していただいたこともある、作家・文芸批評家の坂上秋成氏にインタビューしてもらった。(編集部) 東 浩紀 / 批評家・作家。ゲンロン前代表。 / 批評家・作家。株式会社ゲンロン前代表。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(第二一回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第二三回三島由紀夫賞)、『一般意志2・0』、『ゲンロン0 観光客の哲学』(第七一回毎日出版文化賞
映画を作ること、それしかできないからです(笑)。映画は楽な作業です。目の前に機械があって、スタッフがいて、すべて彼らがやってくれます。小説だとこうはいかないでしょう。書くのはすべて自分ひとりでやらなければならない。ひとつ言えることは、歳をとるごとに、見ることの大切さ、聞くことの大切さ、そして映画を作ることの難しさがわかるようになってきたということです。 ──今一番、映像作家として興味を持っているテーマは? 私の次回作は『ノートル・ミュジック』(『私たちの音楽』)というタイトルで、この作品を観ていただければ、今の質問の答えがよくおわかりになるのではないでしょうか。抽象的に、二言三言で説明するなら、三部構成で、第一部の題名は「第一王国(地獄)」、第二部は「第二王国(煉獄)」、第三部が「第三王国(天国)」になっています。これで大体どういうものなのか、想像していただきたいと思います。もし言葉で皆さ
第71回カンヌ国際映画祭(2018)は、是枝裕和監督『万引き家族』のパルムドール受賞で幕を下ろした。一方、今回新設された「スペシャル・パルムドール」には、ジャン=リュック・ゴダール監督『イメージの本』(原題:Le Livre D'image)が選ばれた。同作は、5月12日に最初の上映があり、パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレで、ゴダール監督の記者会見が、スマートフォンのビデオ通話を通して行われた。記者がスマホに向かって質問し、スイスの自宅にいるゴダール監督が答える、異例の会見だった。この45分間にわたる会見を、全文翻訳載録する。翻訳は、本紙連載「ジャン・ドゥーシェ氏に聞く」の聞き手・翻訳を務める久保宏樹氏にお願いした。(編集部)
7月16日、神田神保町の東京堂ホールにて、編者の一人である諏訪哲史氏を迎えて「澁澤龍彥のいる文学史」と題した「新編・日本幻想文学集成」(全9巻)の刊行記念トークイベントが行われた。イベントの後半ではスペシャルゲストとして、同集成の編者でもある山尾悠子氏も参加し、澁澤龍彥をはじめ、それぞれが編纂した日影丈吉や倉橋由美子についての話で会場を盛り上げた。その一部を載録する。 (編集部) 先月から刊行が始まりました『新編・日本幻想文学集成』ですが、「新編」とあるようにこれには当然旧版があります。この旧版が一番最初に出始めたのが一九九一年ですのでもうすでに25年前になります。旧版は物故作家を一人一冊三十三巻という構成でしたが、今回この三十三巻を基本に一冊を四人から五人でまとめて八冊にして、旧版刊行以降にお亡くなりになった作家、安部公房、倉橋由美子、中井英夫、日影丈吉の四人を増補巻としました。それを
アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制 フレドリック・ジェイムソン、スラヴォイ・ジジェク 書肆心水 日本はもちろんのこと、世界的に見ても、「ラディカル左翼」(本書ジシェクの呼称に従う)の行きづまりは、誰の目にも明らかである。行きづまりの基点を一九六八年に見出すか、一九八九年/九一年の冷戦体制崩壊に置くかはともかく、である。その症状の一例として、左派が今やいかなる意味でも「ユートピア」を語れなくなっているということがあげられる。ソ連邦の崩壊と中国の国家資本主義化が、その背景をなしていることは、間違いない。ロシアのプーチン体制については、まあ言うまでもない。中国・習近平体制についても、支持している「左派」は多少はいるが、まあ、無理である(本書のジジェク論文「想像力の種子」も参照)。 ロシア十月革命以降、おおよそスターリン批判(一九五六年)までの時期、ソ連邦(レーニン―スターリン)は、世界の
『類聚名義抄』は平安時代末期に編集された、漢字・漢語を部首により集めた音訓漢和辞典で、編者は未詳。原撰本と呼ばれるオリジナルバージョンと、それを改訂増補した改編本の二種があります。原撰本には図書寮本ずしょりょうほんが、改編本には諸本ありますが、今回高精細カラー版で複製刊行された観智院本が、その代表的な写本です。 『類聚名義抄』の成立は、原撰本が平安時代・院政期末期の一一〇〇年頃、改編本は鎌倉時代の一二〇〇年頃と推定されています。そして観智院本が書写されたのは、鎌倉時代末期。つまり、改編本が生まれてからこの観智院本が写されるまでに、それほど時を経ていません。 さらに観智院本の貴重さは、唯一の完本であるということです。図書寮本は全体の六分の一しか残っておらず、改編本系の高山寺本、蓮成院本、西念寺本、宝菩提院本なども、いずれも一部分しか残っていません。 観智院本は完本であるために、収録語数も非常
「分析美学」とは、分析哲学に対応する仕方で主として英語圏においてこの半世紀ほど展開してきた新潮流の美学であるが、これまで日本において十分議論の対象とされてきたとはいえない。本書は、分析系の理論を駆使して日本の美学研究を牽引してきた西村清和自身が編纂し、主に若い研究者に声をかけて翻訳したもので、分析美学の発展において時代を画したと目される九本の論文が大きく四つの主題の下に収められている。 第一章は芸術の定義をめぐる論文二本からなる。さまざまなイズムの提唱された二〇世紀は、従来の芸術の定義を逸脱する作品を次々に生み出し、そのために「なぜこれが芸術なのか」という(以前にはありえなかった)問いがしばしば提起された。アーサー・ダントーの論文「アートワールド」は、芸術作品をその他のものから区別するのは知覚的特徴ではなく「芸術のある特定の理論」「芸術の歴史についての知識」であるという画期的な命題を提起す
上田秋成『雨月物語』、本居宣長『源氏物語玉の小櫛』から、小林秀雄「様々なる意匠」、大西巨人「俗情との結託」、そして蓮實重彥『夏目漱石論』、柄谷行人『日本近代文学の起源』まで、江戸後期~近現代の批評七十編を精選、解題を付した、渡部直己『日本批評大全』(河出書房新社)が上梓された。日本の批評はいかに展開し、成熟し「切断」と「終焉」を迎えたのか。その歴史と全貌を俯瞰した一冊となっている。刊行を機に、柄谷行人氏と対談をしてもらった。(編集部) 柄谷 行人 / 思想家 / 思想家。東京大学大学院人文科学研究科英文学修士専攻課程修了。一九六九年、「〈意識〉と〈自然〉」――漱石試論」で第一二回群像新人文学賞〈評論部門〉を受賞。著書に「意味という病」「マルクスその可能性の中心」「反文学論」「日本近代文学の起源」「隠喩としての建築」「批評とポストモダン」「内省と遡行」「探究Ⅰ」「探究Ⅱ」「言葉と悲劇」「終焉
確率の概念は17世紀半ばに突然のように出現したといわれる。本当にそうなのだろうか? これまで、「確率(プロバビリティー)」の歴史についての多くの本がそう書いていた。パスカルとフェルマーがある重要な書簡を交わした1654年という特定の年が、確率の歴史の起点であるとされることも多い。それ以前の「プロバビリティー」は確率とは本質的に異なる何か、“突然変異”する前の何かであって、「パスカル以前には記すべき歴史がほとんどない」(ハッキング『確率の出現』p. 1)とさえ書かれてきた。 ジェームズ・フランクリンはそのような見方に対して批判的で、こんなふうに皮肉っている。「確率の歴史とは、不確実性をともなう推論を要する思考領域が、数学的方法によってしだいに植民地化されてきた物語だというふうに考えられているようだ。そのような見方に立てば、1654年以前は確率の先史時代であり、うまく定式化されていないアイデア
ひとりの個なり、ひとつの時代なり、かつて生きていたものが抱いていた世界像を、忘却から救出するには、どうしたらよいのか。むろん、この問いに答えるしかたはさまざまあるだろう。だが、このような問いの立てかた、問いの形式そのものは、いったいいつ、いかなるかたちで生まれたのであろうか。そして、世界を忘却から救出することによって、ひとは何をしようというのだろうか。 人文学という学問の成立は、この問いと、本質的な関係をもつ。人間が発見し、人間が認識した世界のありようを、文化や時代を隔てて掘り起こし、その真価を再発見する精神の働き。出発点は、人間たちの遺した言葉である。言葉の多くは、書承されたテクストとして、現在に伝わる。テクストは伝承の時間を経て、元の姿が損なわれ、原初の透明さも失われている。それを再建し、復元するためには、テクストの綿密な考証と読みが必要だ。その技術を極限まで研ぎ澄ませたところに、人文
今年創立一二三周年を迎え、東京大学合格者数ランキングには、五〇年以上トップ10入りをつづける麻布学園(中学高校一貫校)は、そのユニークな教育方針でも知られる。「自主的創造的な学習活動」が校是となっており、そのため校則もなく、服装や髪型も含めて、学園生活一般は、生徒の自主判断に任せられている。そうした校風のひとつの象徴が、一九九五年に建設された「創立一〇〇周年記念館」の二階・三階フロアを占める図書館である。新設された図書館に設立当初から務める、麻布学園司書教諭・袖﨑俊敬さんに、館内を案内してもらいながら、お話をうかがった。 明るい日差しが差し込む図書館は、全校生徒約一八〇〇人という学校規模から考えると、質量ともに充実した、全国的に見てもトップクラスの学校図書館である。蔵書数は現在約七万八〇〇〇冊、一日の平均利用者は述べ四〇〇人を越えることもあるという(単純計算で約四人にひとりが、日々この場所
「貧すれば鈍する」――これほどいまの政治状況を表した言葉はないようだ。たとえば、排外主義の台頭は、没落したミドルクラスやアンダークラスの「彼らなりの階級闘争」だと説明される。それにたいする唯一の処方箋は、欧州左派が掲げるリフレ派経済政策であり、それがまさにアベノミクスなのだとこれまたよく指摘される。日本では右派政権が左派的な経済政策を採用するねじれがある、とこの連載でも紹介してきた。が、『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(北田暁大、ブレイディみかこ、松尾匡、亜紀書房、5月)を読んで、「財政出動+金融緩和」はナショナリズムと相性が良い経済政策だと考えをあらためた。 前回紹介したシュトレークの言い方を借りれば、トランプ大統領の誕生は、民主主義と資本主義(=自由主義)の「結婚」の破綻を示すものだ。しかもアメリカは、「民主化、人権、民族自決、集団安全保障、国際法、そして国際機構」をすすめる「ウィル
(ソルボンヌ中庭の)パスツール像の傍らで語りあう学生たち。1・3面掲載の写真は、故・西川長夫が68年当時撮影。現在は京都大学人文科学研究所に寄贈され、以下のサイトで閲覧可。http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/archives-mai68/index.php。またキャプションは、西川著『パリ五月革命 私論―転換点としての68年』(平凡社新書)による。 西川長夫による写真詳細説明 右手には「各国のプロレタリアよ団結せよ」の文字が読みとれる。写真には写っていないが、その右には毛沢東の大きな写真が二枚掲げられている。マオ派のグループであろう。(西川長夫『パリ五月革命私論』176頁より、以下同) 1968年「5月革命」から50年、フランスでは回顧する催しやマスコミの特集が相次いでいます。本当には思い出せない記憶を、英雄を祀る霊廟(パンテオン)に収めるように、お決まりのよう
北岡伸一と篠田英朗の対談には、第二次安倍政権の「リベラル」な政治思想が集約されている(「国際協調主義を阻むものは何か」『中央公論』5月)。『ほんとうの憲法』を参照しつつ、篠田の憲法論をまとめると次のようになる。 日本国憲法はGHQのアメリカ人による草案から翻訳された。そのため随所に英米法の影響が見られる。「国政は、国民(people)の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という前文の文言は、リンカーンの演説「人民(people)の人民による人民のための政治」に由来している。「people=国民」と誤訳されたために、憲法学者はドイツ法学をもとに間違って解釈してきたが、本来は英米法の論理で解釈すべきなのだ。人民が「信託」をつうじて政府を形成するというのは、ジョン・ロックの社会契約論ではないか。また、前文はア
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『トップページ | 読書人WEB』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く