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夏の料理
fernwest.cocolog-nifty.com
「言語活動」という表現が意味することは次のこと。すなわち、他者との利害関係を調整するための道具としての言葉による活動のこと。従って、ここでは韻文もしくは散文を用いた文学的言語表現を主とする活動は関っていない。 ドイツ生活では必然的に、「他者との利害関係を調整する道具としての言語活動」に頻繁に携わなければならないし、従って自然とこの種の活動への執着が出てくる。 ドイツ社会は、個と個の対立が日本社会に比較すると先鋭化されているように見える。しかし、これはドイツのほうが実際に日本よりも個々人の間の対立点が多いということを意味するのではない。おそらく日本もドイツと変わらぬくらい、個々人の間の対立は存在するであろう。要は、その対立が目に見える形で顕在化しているか否かという点に還元される。 それではどういう形式で顕在化しているのか?それは言語活動が 1.対立点を明確にし、なお且つ 2.それを解決する手
先日、あるドイツ人女性とお話しをした。彼女はフェミニズム論者である。さて、この会話から一つだけ関心を引いたテーマがあった。それはフェミニズム的観点から見た、ドイツ語改良運動であった。ご存知の通り、ドイツ語の冠詞類には、男性、女性、中性、複数の区別があるが、彼女曰く、「男女の区別なく人間一般を現わすものに、どうしてこうも男性名詞が多いのか、これを改良していかねばならぬ」ということである。 例えばMensch(人間)。これは男性名詞なので、冠詞は男性名詞derを使うことになっている。従って、der Menschとなる。しかし、彼女によれば、人間には女性も含まれているから、従って、中性冠詞で次のようにあらわすのが好ましいということである――das Mensch。 これはかなり無理がある。これは――ドイツ語の破壊である。このような無理をするくらいなら、せめて別の言い方にすればよいのでは。例えば、d
この数ヶ月間、時間を見つけては日本語のおさらいをしている。内容は以下の如く――漢字読み書き、四字熟語、諺、慣用句、同音異義語、同訓異字語である。 どうしてこのようなことをするのか。最近、自分の母国語の能力が徐々低下していることに気付いたから――先日、日本にいた当時に書いた雑文、論文の類を読み返した。その結果、当時のほうが現在よりも多くの語彙力を持っていたことに気付き、愕然とした。 母国語の語彙の貧困化は、自分の世界を狭め、さらには抽象的思惟の遂行において困難さを引き起こすように思える。それを実際に我が身で体験している私としては、母国語のある程度の語彙力を保っておくとは、決して小さくない問題である。 「外国にいるから、日本語を忘れた」という弁明をこれまで、ドイツ在住の多くの日本人から聞いた(例えば、漢字読み間違えなどする時)。しかし、私はこのような弁解をしたくはない。母国語を忘れることは、私
ブログを始めた動機は、異国の生活で語彙力が低下しつつある日本語能力を鍛錬するためであった。5年以上異国の地に滞在すれば、母国語能力がどうしても低下してしまう。とりわけ語彙数の減少においてそれは顕著となる。こうして文章を書いている今でも、以前ならば容易に、そしてほぼ自動的に頭の中に浮かんできたはずの言葉が出ずに苦労することが多々ある。 人は言う、それならばその地の言葉(私の場合ドイツ語だが)を徹底的に修得して、外国語の側面から語彙数を増やして行けばいいではないかと。しかし、私の経験から言うと、母国語の語彙力が貧困である場合、それに比例する形でまた外国語の語彙も貧困化する。バイリンガルの人ならばこういった事態はないであろうが、ある程度の年齢になって外国語を始めた人間には上の命題は妥当するように思われる。 母国語の語彙力がある人間は、逆に言えば、外国語の語彙力もある。そしてそれは言語表現の豊富さ
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