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では本題に入ろう。 私はいったい何を問題にしているのか。 それは、この20世紀的思考が言明と言明に還元されないもののあいだに打ち立てた、恣意的で限定的な関係である。 そして言明のみを思考可能なものとし、それ以外のものを十把ひとからげに思考の枠外におくものの考え方である。 20世紀的思考は、決してすべてが言明であると言っているわけではない。 はじめから言明以外に何もなければ、なにかを言明に還元する必要もないだろう。 なにかを言明へと還元する作業は、言明に還元されるところのものを要請する。 しかし、言明に還元されるところのものが、言明化によって完全に言明に移行してしまっては、還元されるところのものがなくなってしまう。 これでは、やはり言明化が成立しない。 したがって、言明化には言明に還元されないものが不可避的につきまとう。 この言明に還元されないものが<語りえぬもの>である。 このとき、言明は
ここニャチャンでは、午前11時半から午後1時半までの2時間は公式のお昼寝タイム。 公共機関に行っても全職員が爆睡しているのでご注意を。 *** 先日の『思想地図』のシンポジウムに関するエントリーに対して、賛否両方のコメントを頂いた。 どうもありがとう。 さて、そのなかにこのような指摘があった*1。 いわく、これは出版のイベントにすぎないのであって、宮台真司や東浩紀らは書籍の売り上げを増やすために意図的に対立を演じて見せているのだと。 これを拡大解釈すれば、宮台や東は<正しい意見>ではなく、言論の消費を問題にしているのだから、決して「正しいことを言えばそれでどうにかなる」と信じているわけではないということになる。 いいだろう。 彼らの心のうちは知りようもないが、そうは信じていないといわれればそうなのかもしれない。 しかし、当人たちがどう思っていようと、結局、彼らはそう信じているのと同じように
今朝も病院の近くで不法屋台の強制撤収。 このところ、毎日のようにこういう光景をみかける。 来月に迫ったミス・ユニバース大会に備えて公安がはりきっているらしい。 *** さて、目に入ったのでいちおうコメントしておく。 『思想地図』発刊記念シンポジウム 「公共性とエリート主義」 東浩紀×北田暁大×姜尚中×宮台真司×鈴木謙介 http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080617/1213664146 http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20080616/p1 http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976 「公共性とエリート主義」 いまどきの日本の思想家や文系の学者たちは、なぜこんな奇妙な話をしているのか。 シンポジウムを聞いている人には、その本当の理由がわからなかった
4ヶ月ほど前に、柄谷行人に会った。 今年の1月、大阪で開かれるアジア感染症フォーラムに参加するため、半年ぶりに一時帰国した。 発表を終えたその日の夜、私は関西空港の隣にあるホテル日航の部屋で、ひとり缶ビールを飲みながら、ソウルの研究所とメールでやりとりしていた。 返事を待つ間、ちょうどそのころYouTubeにアップされたばかりの柄谷行人のスタンフォード大学での講義を聴いた。 相変わらずだなあと思っているうちに、いつの間にか私は、柄谷氏に「ぜひお会いしたい」と英語でメールを送っていた。 発表が終った開放感に、酔った勢いが重なったのだろう。 翌朝、福岡に向かう新幹線のなかで、なぜあんなことをしたのかという多少の後悔の念がよぎったが、どうせ無視されるだけだろうと自分を納得させた。 夜、長崎に着き、大学病院の近くの浜口町の安ホテルでパソコンを開く。 ソウルからの大量のメールにまぎれて柄谷氏からの返
総表現社会という言葉がある。 検索すると、梅田望夫の『Web進化論』という本で出てきた言葉らしい。読んでいないからよく知らないが、たぶん、インターネットや携帯電話の発達によって実現される、誰もが簡単に自分を表現できる社会というような意味だろう。 そういう傾向が、多くの先進国や途上国の一部でみられることは間違いない。実際、私の書いているこのブログだってそういうたぐいのものだ。自分の身の回りの出来事や、読んだ本、観たテレビ、起こった事件や参加したイベント、他人の書いたエントリーへの感想を書いて公開する。自分で書いた小説や、撮った写真、編集した動画を投稿しているひとたちもたくさんいる。 そういう意味では、確かに私たちはみな表現したがっている。 しかし、考えてみれば、いわゆる人気ブロガーのエントリーですら、閲覧するのは多くて何万人か何十万人かである。そのうち本当に読んでいるのは半分にも満たないだろ
柄谷行人の「言語・数・貨幣」は、第二章から唐突に議論の様相が変化する。この論稿は、「内省と遡行」(1980年)以降の柄谷の試みの集大成となるべく、1983年4月から雑誌「海」に連載がはじまった。しかし、その議論は途中から動揺し、同10月には未完のまま連載が終了してしまう。そしてその後、柄谷が同じ試みを繰り返すことはなかった。なぜ、それは打ち切られなくてはならなかったのか。おそらくそれを解明する鍵が、この第二章にある。 整理してみよう。「言語・数・貨幣」の議論は、基本的には先行する論稿「形式化の諸問題」の構図を踏襲している。最初に柄谷は、形式化と形式体系を区別する。そして形式化の徹底により、形式体系は自己言及的な形式体系となるとする。この自己言及的な形式体系において、一元的な形式体系はその一元性を保証するものを失い、解体される。同時に一元的な体系は、自己言及的な形式体系の自己言及性を禁止する
『思想地図』が出版されるようである。予告どおり、ここに完成稿を公開する。もとより勝手な「挑戦」であるから、その結果については読む方の判断にゆだねたい。 「トランスクリティークとポストモダン」 なお、これまでいささか冗長な「草稿」を公開してきたが、本稿はそれとは独立した単独の論稿である。それでも、本稿を読んで細かい議論に興味をもった方には、「草稿」と「『世界共和国へ』を読む」は参考になると思う。サルトルについては、あらためて時間をかけて取り組むつもりである。 また、本稿の完成に先立って柄谷行人氏とお会いする機会があった。後半部分は、そのときのやりとりに着想をえて書いたものである。付記するとともに、この場を借りてあらためて柄谷氏に謝意を述べたい。 鈴木 基 ポスト・モダンな言説の「嵐」は、すでに少数の学者・批評家の範囲をこえて吹きまくっている。私自身の書いたものがその原因の一端であるといわれる
先日、萱野稔人の国家論において、国境という概念が十分に理論化されていないことを指摘した(「国家・国境・領土」について)。実際、萱野の理論では、国家の構成員が移動しても国境がなくならないことの理由を説明することはできない。いっけん、高度な整合性を保っているかに見えるその議論において、なぜこのような事態が生ずるのだろうか。それを考えるにあたって、萱野の最新エントリー(「交差する領域〜<政事>の思考〜」第6回 価値判断と認識)は参考になる。 このエントリーで萱野は、自らの国家論に対する価値判断の欠如という批判に応えて、社会の分析に際しては認識と価値判断を区別し、まずは価値判断を括弧に入れて分析理論を構築すべきであるとしている。 もちろん私は、思想や理論のなかで価値判断をしてはいけない、と言いたいのではない。しかし、認識と価値判断のどちらが先行しなくてはならないのか、といえば、間違いなく認識のほう
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