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ホームレスと「権利と義務」の話題を、もう少し考えてみた。私は先述したとおり、「義務を果たしてから権利を言え」式の意見を、この問題にただちに当てはめるのは誤りだと考える。ただしそれは、返す刀で「権利を振りかざす」式の意見についても同様である。そこで今日は、そのことを書きたい。 野宿者の居住権──不法なのはどちらか - モジモジ君のブログ。みたいな。 公園は公共の場であり、そこに住まう権利がそもそもないのだ、と、よく言われる。これもまた、物を知らない、ということに起因する典型的な反応である。野宿者に対して同情的であれ批判的であれ、責任を持って物を考えたいならば知っておかねばならない基本的論点について無知であることを意味する。 出し抜けに、居住権というものがあるのを知らないのか!という高飛車な振りかざし方であるが、こういうことをするから反発されるのである。なんぴとにも基本的人権として居住権が保証
大阪長居公園でのホームレス排除について。私から見ると、行政側が用意した代替施設に不備ないし不満が強くて公園に戻っていた人々が強制排除されたのだから、こと問題はもっと具体的なことように思える。この公園でなくてはダメなんだ、ほかのいかなるところでもダメなんだ…ということじゃないと思うから、やはり代替施設の問題が大きかったのではないか…とか。ホームレス側だって、公園に替わるいたれりつくせりの場所を欲しているわけでもあるまいに。何か、問題があったのではないか。当事者だけが語りうる真相といったものが、あるはずだと思う。行政側にしても、彼らだけが語りうる事情とか、ないのかな、とも思う。それこそ住民側(一般の公園利用者)にしても同様だ。 その公園が公費で運営されている以上、納税者サイドが「利用できなくなっています。何とかしてください」というところまでは、私は当然の要求かと思う。ただしそれは、代替施設を公
沈静化しつつあるのかしてないのか柳澤発言。安倍首相はどうやら腹を決めたらしいので、野党への対応そのものは支持することにした。しかしその一方で、こうなると結局、何が論点だったのか、何を論点とすべきだったのか、国会の場では審議されずに終わりそうだとの懸念が残る。いろいろなブログを見ていても、柳澤発言への賛否どちらにも見逃せない意見があり、また賛否によらず「政策の問題なら政策を問うべきだ。人格批判をするのは方向性が全く違う」との声が少なくない。そこでこれから数日間、論点の整理を試みてゆきたいと思う。そこで今日は問題の入り口として、価値判断の前に事実判断を考えたい。 1.本人は実際には何と言っているか 第一報が届けられて以来、通常なら大きく報じられるはずの発言要旨が全くなかったことに疑問符がついていた人は少なくなかったようだ。数日後、やっとスポーツ報知に、より詳しい発言要旨が載った(http://
トカゲの尻尾切りのようになってきたのかそうではないのか柳沢発言。まぁ政治家の進退については好きにすればいいと思うので、せっかくだからこの話題についてもう少し考えてみることにする。そこで今回は、ただ政論としての前回・前々回とは少し趣を変えたい。肉体感覚についてである。私が多く見たのは、「女が子を産む機械だというなら、男は種を撒く機械だろう」というものであった。たぶん、これは「非礼には非礼をもって報いる」ということなのだろう。表現の品や礼の問題から言えば、これは確かに正対称なのだが、どうもそういうことではないようにも思う。ことに女の人で、腹立ちまぎれにそう言い返したところ、思ったより効き目がないことにお気づきになった方もいると思う。そこから考えてみたい。 有り体に言えば、セックスの話である。男が種を撒くといってもそれはセックスのときだけのことで、気持ちが良ございましたの刹那であって、そこまでで
先のエントリのコメント欄で、kmizusawaさんから以下のような指摘を受けた。 柳沢発言の解釈がなんか違うように思うんですが。「産む側の女性の数は決まってるから、あとは一人頭何人生むかにかかっている」って意味だと思ったんだが なるほど、そうかもしれない。ただそうなると、話はもっと簡単であって、いよいよ何の問題もないのではなかろうか。個人主義(ことに個人還元主義)の観点に立てば、政府の大臣が政策上のことにからめてこのようなことを言うのは「大きなお世話だ」となろう。しかし少子化対策を講じることは政府の責務とされており、また、男女共同参画社会理念は個人還元主義を斥けて、「個人が産む産まないを決める意思決定も、社会制度の影響を強く受けて左右されるのだから、社会制度を柔軟にすべき」とする社会学的なジェンダー論を下地にしている。ならば、柳沢大臣の先月と今月の発言は、少しも不整合などないであろう。 1
痛いニュース(ノ∀`) : 【政治】 女性=「産む機械、装置」 柳沢厚生労働大臣が発言…自民・島根県議の決起集会 - ライブドアブログ はてなブックマーク - 北海道新聞 社会 - 女性は「産む機械、装置」 松江市で柳沢厚労相 ニュースそのものより、コメント欄のほうが痛い。これはあれだな、「天皇機関説糾弾事件」の時の怒号と同質だと思う(程度が違うだけで)。 「天皇陛下を機関だなどとはけしからん!不敬である!」 「女性を機械だなどとはけしからん!失礼である!」 美濃部達吉が憲法論議の中で、機関という言葉をどのような意味で用いていたかにおかまいなしに、「機関とは何だ!天皇陛下を何だと思っているのだ!」「こういう機関呼ばわりをするところが、この学者の認識の度合いを表しているのだ!」「かような認識の人間を帝大に在籍させるな!」と飛び交った怒号。…それと全く同じ反応ですね。 まぁ、まさかここでいう「
最近、はてな内で「自虐現代観」なる揶揄の言葉がそこそこ人気を博しているらしい。いわゆる「はてなサヨク」の人たちの間であるが(はてなブックマーク - 自虐現代観という言葉を知る - opeblo)。しかしこれは危うい。「今の世の中、おかしいじゃないか。何が悪くてこんなになったろう…」と過去を探ると、自虐的なんだろうか。というか、「はてなサヨク」って実は保守なんだろうか。そうかもしれない。私の子供二人、小学生だが、ふと思った。この子たちが受けている教育は、彼らの祖父母も、両親も受けた教育である。「教育基本法改悪反対」というのを、団塊世代の人で「全共闘運動以来、自分はずっと左翼ですよ」という人が言うんならまだしも革新の残り香があるんだろうけれど、若い人でそれを言う人は、たぶんすごく保守的な人なんだろうな、と思う。 「ふん、何が自虐史観だ。そういうあんたらこそ、自虐現代観じゃないか」…じゃぁ、そう
NHKの『映像の20世紀』の中で、アメリカ南部の古い映像が流れていた。それは、ダーウィニストでもある私には、かなりショックな映像であった。進化論をめぐる教育論争が裁判になったものを記録した映像だったが、進歩派を代表する進化論者と保守派を代表する牧師が、裁判所で意見をたたかわせているものであった。なにがショックだったかというと、私が事前にイメージしていたものとは正反対だったからである。学校でなぜ聖書を教える必要があるのかと静かに語る牧師。その牧師が聖書のさまざま一節を引きながらその意義を説くのに対し、その進化論者は、ひとつひとつを科学的事実に合わないと尊大な態度で否定してみせ、こたえて牧師が何か語るごとに大袈裟に手を叩いたり周囲の人々に下卑た嘲笑をふりまいていた。しかし牧師は態度を少しも荒立てない。静かに、毅然と、その教えの大切さだけを語りかけていた。私はこれを見て、進化論論争の、生々しい史
例の、身内によるバラバラ殺人事件ね。兄の妹殺しと、妻の夫殺し。こないだも職場で、休憩室で昼食中に、テレビでこの二つの事件を扱ってた。コメンテーターがいろいろ言う。それ観てたおっちゃんが「でも、死人に口無し、だよねぇ」と。俺もそう思う。こういう場合の犯人て、少しでも自分の同情を引きたくて、いろいろ言えるじゃん。でもさ、殺された人は、何にも抗弁できない。生きておれば「それは違う!」って言いたいことも、ほんとはいろいろあるんじゃないかな。それにいたる経過の二人の間に何があったのか、直前に何があったのか、事件の渦中はどうだったのか…でも家族による家の中での密室殺人だから、誰にも知りようのないところって多そうなんだけど。本人の供述の矛盾を突いて、警察の取調べで明らかになる部分もあるだろうけど、本人の言うことが嘘か本当かわからない部分だって、残るでしょ。 バラバラ殺人事件とコメンテーター - あび卯月
沈滞中と言われる左派にあって、好著をものして右派にも一目置かれる気鋭の文士、小熊英二氏。その小熊氏が憂国の情を淡々と語る記事をご紹介するとともに、読んでて自分もいろいろ言いたくなったので、一面識も無い私ながら勝手に対話形式にして書くことにした。なお、ここんとこ硬い文章ばかり書いて肩が凝ったので、たらたら書く。 http://www.jukushin.com/article.cgi?k-20070101 日本の教育は、数々の問題を抱えている。しかし、今回の教育基本法改正による教育の改善は期待できないと思う。逆に今回の改正で、日本社会が不寛容で窮屈になる可能性がある。 いきなり話がそれるけど、「教育基本法改正による教育の改善は期待できない」っていう言い方、これで正しいんだよね。よく「改悪」という言葉を主に左翼が使うけど、あくまで法律用語として「改正」と言うんであって。「正」の対概念は「悪」じゃ
このようなことを考えている人がいる(私にも話させて)。 「ジェンダーフリー・バッシング」(以下、「」は省く。どう呼んだらいいのでしょうか)の力が強くなっている原因について最近考えている。ジェンダーフリー・バッシングを表立ってやっている連中よりも、本来声を上げるべき人々の沈黙・黙認について考えたい。 しかしジェンフリ派はこのようなことを言うのだから(私にも話させて)、叩かれて当然であろう。 『美しい国へ』を読みながら、子供のいない安倍が、子供を持つことの大切さを語るくだりで笑ってしまったが、「ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにすらっとやせていて、ゲッベルスのように筋骨たくましい」人種的に純粋な子供を育てようというドイツ人の冗談(クーンズの紹介による)のように、イデオロギーの必要性は政治家個人の現実を乗り越える。安倍などある意味では「家族」イデオロギーの被害者だと思うのだが。 子供を持
史論を続けているうちにすっかり遅れてしまっていたが、saitoさんからトラックバックいただいていた話題をここでしてみようと思う(http://www.mirai-city.org/blog/archives/2006/12/education.php)。史論の続きは日を改めて、追って書くことにしたい。saitoさんが述べている主旨に、細部はともかく私はおおむね同感であった。いや、同感だったというと「自分もそう思っていた」というような意味になるので、正しくは「教育再生会議で出ている論調について自分が漠然と感じていた違和感について、明瞭な表現に出会った」と言ったほうがいいだろう。これに限らず、自分が表現しあぐねていたことについて、的確な言葉を得るという体験は心地良いものだ。こういうときは、やや異論のある細部ではなく、同感である主旨について語るのが普通なのだろうし、それが「建設的な対話」なのだろ
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070103/p2 感情的な悪口に対して学問的に批判されて「どうだろうか」ときかれても困ってしまうなあ…というのが正直な気持ちである。 まず、「どうだろうか」というのは、いろいろ考えようがある中で、 (1)「櫻井の元発言は引用されたものからすれば、こういうことが言いたいように思うが」 →「どうだろうか」 (2)「その向きの反論をするなら、これこれの先行研究からこのように考えるのだが」 →「どうだろうか」 私はそう考えたが、読者の判断にゆだねます…ということです。いづれも私が断定できる話ではないので、そのように書きました。kmizusawaさんとしては私に返答を迫られたように感じたようですが、そうではありません。まして森浩一の所見を紹介したからといって、「歴史についてこう見るべきってな話をされてもなあ…」と思われたくないから
さて、ここ数日の私の論考(?)の中で、あえて触れていなかった部分がある。それはkmizusawaさんの言う「それともこれはまた別の項目?」に対して、私は心の中で「うん、それはまた別の項目だ」と思ったからである。 http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20061222/p2 「先人たち」の業績は素晴らしいとしても、なぜそれが「日本国のなし得たこと」になっちゃうんだろうね(それともこれはまた別の項目?)。その人たち個々のなし得たことではないのか。 http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/20061227 確かに、積極的な海外との交流なしで江戸時代の和算や江戸というシステマティックな都市を築いたことは驚異的だ。しかし、それが現在の「自分」になぜ直結するのかが私にはわからない。換言すれば、なぜそれが「誇り」になるのかがわからない。多分、km
燕王公孫淵の敗死と、邪馬台国女王卑弥呼の使者 - Backlash to 1984の続きである。hazama-hazamaさんの意見http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/20061227のうち、今度は以下の部分から掘り下げつつ、この話題を振り返ってみようと思う。 「征服王朝」や「遼」といった言葉も中華意識にまみれた言葉だ。「征服王朝」とは、中国は漢民族が支配する土地であるという前提が込められていると言えるし、「遼」と言った場合には中原進出以前のキタイ国家を正式な国家としてを認めていないことにもなる。私はこうした中国人の「欲望」を認める気は無い。それは歴史を歪曲しているからだ。同じ理由で日本の「中華意識」を認める気も無い。 ここの箇所には、やや疑問符がつく表現も含まれているが、大意は理解できるように思う。そこで疑問を感じたところは少しく補足しながら述べること
http://www.kyoiku-saisei.jp/townm/townm_houkoku.html ↑この中の櫻井よしこ氏の講演内容について、kmizusawaさんという人がこのように書いている(http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20061222/p2)。この意見について、私の感じたことを述べてみたい。この人のブログは私は割りと好んで読んでいるのだが、ご本人が言うように「左巻き」な意見がしばしば出てくる。しかし私は、この人はごく普通に保守的な人だと思える。ことに「左巻き」な意見の箇所は、どちらかといえば(使い古されたサヨクのジャーゴンの中で思考停止しているという意味で)守旧的ですらある。私が好んで読んでいるのは、そのような政治的なウヨサヨしている部分ではなく、もっとこの人ならではの斬新で独特な意見の箇所であるので、あまり「左巻き」な箇所については言及する
福田恆存(つねあり)という人がいる。故人であり、私が読んでお世話になったのは氏が亡くなって随分たってからだ。保守の代表論客と呼ばれたそうである。反動とも言われたそうである。その間の消息は、私は知らない。私は左翼の子である。左翼学者を父として、戦没兵の遺児を母としていた私の家庭では、保守的な価値観というものは教えられたことがない。左翼的リベラルな空気を自明のものとして生まれ育ったのであった。そんな私は、絵に書いたような自由礼賛、ゴリゴリの個人主義者になったのであったが、なぜかしら右翼にになった。これはいいだろう、葦津珍彦、三島由紀夫といった、右翼の先達については、また別の機会に述べたい。私は、保守というものには拒絶感があったのだが、こんな私が叱咤されるような思いで読んだ人が小林秀雄であり、福田恆存である。保守の保守たる人の言葉は、重かった。そのような話題のひとつを、恥ずかしながら述べてみたい
今夜、我が家はささやかながら近所の居酒屋で忘年会をした。隣席で赤ん坊が泣いていた。うちの長男(中1)が、うるさそうに両耳を指で耳をふさいでいるのを目にして、「こら、失礼だからそれはやめろ」と諭した。おまえもあぁだったんだぞ、と。あまりに月並みだね、これでは。 続きを読む 平岡公威(きみたけ)が「三島由紀夫」で旅券(パスポート)を作ったら偽造パスポートだろう。だからといって平岡公威にとって「三島由紀夫」が偽名であるはずもない。 続きを読む Marcoさんや、Kanoseさんたちの議論について。 ↑ 最後の一行に噴いたw tasoiさん、あんたって人はwwwww 過激派的外傷あるいは義人とその受難 | 遠方からの手紙 - 楽天ブログ ↑これを読んでいたら、ふと、 2007-05-15 ↑これを思い出した。杉浦日向子作品の名作。 さきほど旧知に久しぶりに電話したら、昨日、お母さんになったとのこと
前回の三人寄れば文殊の知恵 - Backlash to 1984の続きである。さて、いわゆる「弱者男性」について先に少しだけ述べておきたい。この言葉はアンチを含むフェミ界隈でしか見聞きしないのだが、妙な言葉が出てくるものだと思う。おそらくは「男は社会的強者、女は社会的弱者」なる例のアレから、「しかし社会的弱者の男性もでてきたし社会的強者としての女もでてきた」としての表現であろう。私は、このような表現の前提である男女観を有しない。ある男もしくは女が、何らかの理由で弱者の立場におかれることはあるだろう。そうした社会的な弱者というものは存在するが、「男」なり「女」なりが、ただそのカテゴリーでもって弱者であるといったことはないのだから。フェミニズムにおけるジェンダー論というのは、あたかも「女」であることが弱者の初期条件となっているかにも思えるものが多いが、そのようなことはありえない。このことについ
私がこれまでネット上で見た言説の中で、「いまだに部落や在日が弱者だというのか!あいつらこそ優遇された強者ではないか!」とか「税金も払わないホームレスに税金をかけるな!どうなろうが自己責任だ!」といったようなものがある。いずれも「新しい歴史教科書」を支援する掲示板における支持者の投稿で見たものであって、支持者ではない投稿者(私や他の人)との間で、そうした意見と議論になった。今回、またこうした意見を考える機会を得たので、私の考えを少しく述べてみようと思う。たいしたことが言えるわけではないが、あまりにも基礎的なことが誤って考えられているという話なのだ。ただし念のために言っておくが、それらの極論が散見されたからといって、「つくる会」支持者の多くがそうした意見をこそ主張しているとまでは思っていないし、また、こうした意見は「つくる会」の運動に固有のものとも思われない。そもそも私がたまたま見ていたのがそ
いやまぁ、あんまり度を越すとよろしくはないでしょう。でも、異性への嫌悪感が全くない人って、いるのでしょうか(いるかもしれませんが)。大なり小なり、時と場合によりけり、あるんじゃないでしょうか。それを口にするのは、そんなにいけないことなのか、不思議に思うのです。「えぇ?そんなにいけないことだったっけ」と。たしかに「無闇に」「露骨に」「これでもかというほど」出されると不快でしょう、特に言われた異性の側は。でも、男から「これだから女は嫌だ」、女から「これだから男は嫌だ」って、ただ罵り合うだけなら不毛だけど、言われてみて気付くとか、嫌ごとで耳が痛いけど言ってもらったほうがいいとか、そういうこともままありませんかね。「お互い、なるべくそういうことは言わないほうが、男と女が角を立てずにやっていく良策ですよ」という考え方もあるとは思います。それもわかるけど、私はそれなりに言い合ってもいいんじゃない?要は
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