サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
パリ五輪
lessor.hatenablog.com
元少年Aの手記出版について、辛辣な批判が目につく(それに同調しない主張に対しても)。 少年A 神戸連続児童殺傷事件加害者の手記「絶歌」のあとがきに怒りに震えた http://quadstormferret.blog.fc2.com/blog-entry-224.html はてなブックマーク - なぜ、あなたが加害者を憎むのか? - キリンが逆立ちしたピアス http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20150611/1433990832 彼はとてつもない罪を犯して、それから多くの大人が彼をもういちど社会の中で生きられるようにしようと力を尽くしたわけだ。彼はこれまでの言葉を聞く限り深く反省もしていたように見えた。「『本当に』反省しているのか」なんて問いは無意味だ。心は見えない。行動から押し測るしかない。 「被害者の心情を無視して本を
さて、千葉市長の発言が話題になっているようだ。 千葉市長が「障害者」にこだわる理由 「障がい」「障碍」論争に一石 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150525-00000002-withnews-soci もう、このテーマは障害者支援業界では何度となく繰り返し議論されてきたことであり、表記の問題と真摯に向き合おうとする関係者はみんな自分なりの考えをもっている。表記に何らかの社会的メッセージを込めようとするもの。特定の表記を嫌がる当事者の心情に配慮しようとするもの。世の中のイメージを変えたいと思うもの。 それらの考えを今さらひとつずつ列挙したいとも思わない。自分は「障害者」表記派であるが、他の表記を用いる人がいても「この表記において大事にしたいものが違うのだな」と思うだけである。表記によって、相手の「障害観」の全体が理解できるなんてこともない。同じ表記
中学校の学校開放があるというので、支援学級を見に行ってみる。 50分にわたって、一問も解けないプリントを前に放っておかれる生徒。教員は板書した問題を他の生徒が解くのにずっと付き合い続けている。途中で近づいてきて1分くらいだけ指導するが、やはりわからないので教員が離れたらまた同じ状態になる。複数名の生徒がやらされているのは、みんな同じ問題である様子。まったく学力のレベルが違うのに。 何がひどいって、これは学校開放日の出来事であり、その保護者も見に来ているわけである。子どもがあまりにほったらかされているので、保護者は生徒のところまでちょくちょく足を運んで、プリントの内容とか確認している。にもかかわらず、教員は取り繕おうとする様子さえない。こんなものだと開き直っているとしか思えない。 加えて、教室の後方ではひとりの生徒が別の科目の指導をマンツーマンで受けているという混沌っぷり。ずっと後ろから別の
就学前の療育をはじめて最初の就学先の選択にいくらか関わるようになり、もう5年ほどが経つ。中学をどうするか、という悩みにも付き合っていくことになるのは必然だ。そして、中学の選択は、もっと先から逆算されたりするから、高校選択とも深く結びつく。 しかし、保護者のもとには情報が集まらない。小学校への就学時以上に集まらない。「保幼小」の連携はあるが、「小中」の連携はどうやらあまりない。「普通学級」と「支援学級」のあいだで、通級指導も含めて、子どもの状態に応じた選択を続けていけるような雰囲気がない。そして囁かれる「支援学級に行ったら、もう普通学級には行けない」「支援学級に行ったら、もう普通高校には行けない」という制度的には何の根拠もない情報。法規のレベルでいくら確認したところで、運用のレベルで前例に引きずられたり、教員が本気で進路指導にあたる気がなければ、保護者はただ分厚い壁の前に立ち尽くして、無力を
そだちの科学 24号―こころの科学 特集:発達障害と発達論的理解 作者: 小林隆児,滝川一広出版社/メーカー: 日本評論社発売日: 2015/04/10メディア: ムックこの商品を含むブログ (2件) を見る 精神医学において「発達障害」と「発達理論」が「まったくつながっていない」という認識からまとめられた特集号。 フロイト、ラカン、ユング、ワロン、ピアジェ、エインズワース、エリクソン、ボウルビー、ヴィゴツキーらの理論から発達障害を理解すると、どんな知見が得られるか、というあまり読んだことのない中身。研究者の名前が冠されているような理論がそれぞれの観点から「発達」を説明(意味づけ?)しようとするのであれば、「発達障害」についても独自の貢献ができるのではないか、というのは期待されるところだ。「定型発達」と「発達障害」を分断しないアプローチとも言えるだろうか。 ただ、企図した「つながり」は作れ
「きょうだいそろって自閉症」というのは、まったく珍しくない。そのような家庭の相談が続いた。 子どもの障害の程度にもよるけれど、自閉症児が同じ家に2人いると、大変さも2人分、ではない。それぞれへの対応に加えて、子どもどうしの特性がぶつかりあったときの難しさに親を困り果てる。その苦労は、学校や事業所ならば物理的に回避できる場合も多く、教員や支援者に共感してもらえないことも多い。 2人いっしょに同じ車に乗りたがらない。お互いに好ましくない行動を助長してしまう。ひとりならば周囲の環境を整えたり、おとなの対応を改めれば解決できるのに、きょうだいがいるためにそれができない。お互いに接触せず別行動をとれればよいが、それもまた現実的でない。しばしば2人が家にいる状況で解けるのだろうかと思えるような課題が、自分たち支援者にも突きつけられる。 きょうだいの衝突を避けるのに最も手っ取り早いのは、どちらかだけが(
貧困のなかでおとなになる 作者: 中塚久美子出版社/メーカー: かもがわ出版発売日: 2012/10/01メディア: 単行本この商品を含むブログ (1件) を見る ひょんなことからひとり親家庭の支援に関わることになりそうで、読んだ。 これまでも「当たり前の暮らし」とは何だろうか、と仕事の中で考えさせられてきたけれど、子どもの貧困についても同じだ。 「医療」のような生存に直接関わってくるものを欠けば、誰もが問題だと思う。しかし、たとえば「教育」はどこまで必要か、と言われれば、よくわからなくなる。 「そんなことはない。ほとんどの子どもは高校ぐらいまでは進むのだから」と言われるだろうか。それでも、高校で学んだことが実社会で役立つから高校に行くのではないと思う。将来に向けて具体的な夢や目標があって、そのために必要な勉強をしよう、でもない。 社会に出るには、大学に行ったほうが有利だ。大学に行くには、
気分が沈んでいるときに、何かをして、気分が前向きになれたことがない。 問題に向き合わずに過ごすあいだにも状況はますます悪くなっていく。たとえそれが半日であっても、数時間であっても、そう思う。 今日はシフト上の休みだったので精いっぱい気分を変えようとした。職場にもなるべく足を運ばないようにした。ずっと問題が頭にへばりついている。だからといって、仕事したいかと言われれば、疲労感も強い。ただ職場にいる時間を短くするだけ。 「どうしたらいいか」「どうするつもりなのか」と問われるばかりの人生をあとどのくらい送り続けるのだろう。各自が望むような働き方や生き方を認めながら、そこで生じるひずみを自分が回収してきたつもりだったけれど、もうそれも限界のように感じる。 事業は増えたし、スタッフの数も増えているのに、まったくそれがプラスに転じない。属人化した仕事から抜け出そうとしないかぎり、組織としては柔軟な危機
なんで「この子は障害児じゃない」とか軽々しく保護者に言う「事業所」があるのだろう。さらに親の育て方を責めはじめるとか、自分の理解を超えている。 「障害」を診断のように「客観的」な基準に基づこうとするものとしてとらえずに、個人の主観が入り込むことをひとまず認めるとしよう。その支援者からみて「障害児」でない子どもがいたとして、それを「障害児じゃない」ということにいったいどんな意味があるのか。 事業所に来るのは、親が悩んでいるからであり、子どもが困っているからだ。「障害じゃない」なら当事者の感じている困難さは幻なのか。親は「うちの子が障害児だから支援してほしい」と願っているわけではなく、ただ「困っているから支援してほしい」のである。 にもかかわらず、ただ「困っている」と訴えるだけでは十分な支えが得られずに、あれやこれやと責任を問われる。そこで、支援を得るための根拠として「障害」というラベルを徐々
もう2年ほど前のことになるが、少し多くの人に読まれた記事を書いた。江戸川区の学童保育における「おやつ」の話である。 「おやつ廃止」はもうちょっと複雑な話 http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130227/1361989441 江戸川区の異様な「便宜供与」について http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130306/1362568023 新たな動きがあったのだが、まずは振り返ってみよう。 学童保育所では「おやつ」を出すのが一般的だった。ところが、江戸川区では保護者の就労を伴わなくとも使える「放課後子ども教室」と学童保育所の一体的な運営がはじまり、それを機に「補食(おやつ)」を廃止してしまった。学童は社会福祉事業であるのに対し、放課後子ども教室は一般に教育行政が受け持つのだが、自治体によってはどちらも同じ課が管轄していることがある。 学童保育に
・教育が「教える」のは「できる」ようになることを目指すからだ。何ができるか、の水準はいろいろあるけれど。 ・福祉が「できる」ようになることを目指すことがある。「福祉」にそれを求める親もたくさんいる。 ・支援には目標が大事だと言われる。そして、それを達成したかどうかが問われる。「療育」の「計画」に目標が書き込まれて、「できる」ことを支援者が目指す。 ・支援者の目標は、子ども自身の目標とは違う。とはいえ、子どもの「できる」といつでも切り離して考えられるわけでもない。「余暇を楽しむ」ことでさえ、能力と切り離すのは難しい。 ・「楽しむ」というのは「楽しめるようになる」ということでもある。楽しいから楽しい、ことばかりでなく、楽しいとわかるようになったから楽しい、ということがある。それはひとつの学びだ。 ・「できる」ことが子どもの自信や喜びにつながることがある。「できる」ことが子どもの快適さにつながる
ひとりっ子の頭ん中 (中経の文庫) 作者: 朝井麻由美,小山健出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版発売日: 2014/10/27メディア: 文庫この商品を含むブログ (1件) を見る 「血液型本」みたいなものは読んだことがないのだけれど、たぶん特定の血液型の特徴がずらずらと書かれて「あるある」「これって私」という感想を抱きながら読み進められるものなのではないかと想像する。その点で言えば、同じような本である。軽いノリの本だ。 自分はひとりっ子である。そして、子どもの支援をしている。 その立場からすると、きょうだい構成というのは、血液型診断のたぐいよりは、ずっと真剣に受け止められるべきではないかと思う。 環境がその個人の得意なこと、苦手なことと結びついているかもしれない、と理解できたら、周囲の見る目も変わりうる。また、当の本人が周囲と自分との違いを感じているのであれば、その理由を与え
関係者向けの内容になるが、わが地元自治体は児童のサービス利用計画がまったく進んでいない。 計画相談の指定を受けている唯一の事業所が「大人の相談で目一杯なので児童の計画は作成できない」というのだから、当然である。実質的に児童の相談支援事業所がゼロという悲惨な事態。行政は、代替プランのことなど一切触れることなく、しれっとセルフプランを推奨してくる。様式を行政が決めないので、自分が作った様式がなんとなく地域のスタンダードになった。 この「セルフプランを立てて役場に出してね」という案内が出されたのが2月半ばである。この2月半ばの案内ではじめて利用者は「さーびすりようけいかく」というものを立てねばならないことを公式に知らされたことになる。3年前からはじまっている仕組みを。 ついでに言うと、受給者証の更新時期が4月以降のところには、その案内さえ送られておらず、国のおっしゃる「3月末までに全員作成」は確
豊中で行方不明になっていた子ども、気になってその後の経過もずっと追っていたが、残念な結果となった。関係者は本当に無念だろうと思う。心からご冥福を祈りたい。 事業所を責めるのは簡単であるが、知的障害児者と関わりのある多くの事業所は「ありえないこと」と済ませられていないだろう。ひとつ誤れば、どこでもありうることだ。もちろん今回のような結果にまで至るのは稀であっても、福祉業界で「ヒヤリ・ハット」と言われるような「あわや行方不明」のケースは多くの支援者が体験しているのではないか。 福祉施設に限らず、子どもが家を抜け出して大変なことになった、という経験をもつ保護者も多い。特に重い知的障害を伴う自閉症児が家からいなくなって警察に通報されることは、週に2度や3度は全国のどこかで起こっているのではないか。この10年ほどの間に、わが地元だけでも4〜5件はあった気がする。 子どもが事業所から出ていかないように
知的障害や自閉症の子どもの支援をしていると、わかりやすく振る舞っている自分がいる。子育て広場などで出会う乳幼児に対しても、そうだ。 日常的にはとても抑揚のない人間なので、支援しているときの自分は「演じている」に近い。それも相手によって、役は使い分ける。 少し「無理をしている」のかもしれない。自然体で支援者としての構えのようなものができている人はいる。誰と接するときも同じ態度で問題なくやれる人をうらやましいとは思う。 子どもに「人は、信頼できるぐらいには理解可能である」と知ってもらわないといけない。便利な機械や世の中の基本的な仕組みと同じくらいに、人もまた頼って大丈夫なのだと。 硬貨を入れてボタンを押せば飲み物が買え、鉄道やバスで移動ができたりすること。それに対して、人がいつも変わらずにいてくれること。後者のほうがずっと難しい。人間は社会よりもずっと信頼するのが難しいのかもしれない。しかし、
年末に亡くなった子の保護者に偶然会う。 相手がこちらに気づくまでの様子がどうにも元気がなく見えてしまった。気づいてからは、いつもの元気なお母さんだったけれど。相手は信号待ちの車の中だったので、やりとりができたのは一瞬だけ。新事業所に併設されたカフェを宣伝して招くのが、せめてものできたこと。 子どもを通じて出会えた人は、子どもがいなくなると、どんなふうにまた出会えばいいかわからなくなる。 うちはあまり「障害福祉サービス事業所」らしくない事業所なので、唐突に理由もなく連絡とったりしてもたぶんさほど違和感ないのだろうけれど、どんなふうに話ができるだろうか、という不安もある。何しろ自分のベースがコミュ障なので、子どもの話を抜きにすると、自然に話せる自信がない。子どものことをまた想うことが大事なときもあるだろうが、そうでないときもあるだろう。そんなタイミングもよくわからない。 でも、このままなんとな
Yahooのトップに載ったのは時事通信の記事。 6歳男児が施設から不明=大阪府警、200人で捜索 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150301-00000071-jij-soci 2月28日夕方以降、同市若竹町の児童施設から行方不明になっている・・・帰り支度をする28日午後4時半ごろ、施設職員が室内にいるのを確認しているが、10分後には姿がなかった。室内にジャンパーや靴下、靴、バッグが残され、裏口のドアが開いていたことから、はだしのまま外に出たとみられる。 「児童施設」となっているが、他紙では、 大阪・豊中の6歳男児が行方不明、府警が捜索 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150301-00000543-san-soci 軽度の知的障害があり、昨年12月から同市内にある障害児の支援施設に月数回通っていた。 という
業界関係者には、それなりに衝撃が走っているのではないか、と思う。 障害者施設で虐待か 長崎県が処分 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150226/k10015779301000.html 世間は「また虐待か」ぐらいの印象かもしれないが、その障害者施設の運営法人が「南高愛隣会」である。「誰もが優良企業と思ってきた会社の不祥事」ぐらいの意味をもっている。「マクドナルド」や「ワタミ」が事件を起こすのとは、わけが違う。 改善命令を受けたのは、障害者の生活援助や就労支援を行っている雲仙市の社会福祉法人、「南高愛隣会」です。 長崎県によりますと、この法人が運営する雲仙市などの4つの施設で、平成17年ごろから平成24年にかけて、▽興奮状態になった男性の利用者を職員が馬乗りになって押さえつけあばら骨を折るけがをさせたり▽宿直の男性職員が障害のある女性利用者に複数回にわた
保護者と話しながら、ふと整理がついたようなこと。 子どものことで教員に「わかってもらえない」と行き詰まったとき、つい「権力」に頼りたくなって、「管理職」「教育委員会」などに頼りたくなるけれど、「上から叩いてもらおう」で成功するのはレアケースであって、だいたいかえってこじれる。上にチクられたと思う教員は、すねる。意固地になる。 それよりは、子どもについての「客観的な評価」を示せる者に関与を促したほうが、ずっとうまくいきやすい。もちろん厳密に言えば、客観的って何だ、という難しい話になるのだけれど、ここではひとまず子どもに「何ができて、何ができないか」「何がわかって、何がわかっていないか」というデータだと思ってもらえればいい。親が「それは無理です」「支援してください」と言って、教員が「いや、頑張ればできるはずだ」「普通級では、これができなければ困る」というようなやりとりはどこまでも平行線。不毛だ
どこかでお試し版の第一話だけを読んで「ふーん」と思うだけで済ませてしまっていた。考えてみれば、「このマンガがすごい!」の一位をとった作品がそんな他愛もない話のまま終わるはずがない。最後まで読まなければいけないマンガだった。 ちーちゃんはちょっと足りない (少年チャンピオン・コミックス・エクストラ もっと!) 作者: 阿部共実出版社/メーカー: 秋田書店発売日: 2014/05/08メディア: Kindle版この商品を含むブログ (9件) を見る ちーちゃんは中学2年生の女の子だ。おそらく「知的障害」の。 かぎかっこをわざわざつけたのにはもちろん理由があって、作品中でそのような言葉は一度も出てこない。割り算ができなくたって、漢字が読めなくたって、空気が読めなくたって、彼女は友人や家族に囲まれながら、明るく日常を送れている。もし医療機関に行けば、きっと診断名はつくだろうが、そのような必要は周囲
ずっと過酷な日々が続いていた。まだ続いている。 1月から新しい事業所を始められた。いわゆる放課後等デイサービス。国が「儲けすぎ」と標的にしており、間もなく公表されるであろう次年度の報酬単価でも何らかの影響が見込まれている事業である。 周辺地域でうさんくさい事業者が次々と放課後等デイを開設する中、収益性が高い支援にしか手を出さない人たちとはいっしょにされたくない思いは今もあるが、法人の今後を考えると既存のやり方ではもう限界だった。これで放課後の支援は経営的に少し改善される、はず。 営利企業なども含めて参入条件はどんどん緩和されていく一方で、建物等への規制は非常に厳しく、地域で事業ができる物件がほとんど見つからなかったことは、たぶん過去にも書いた。土地を借りて、小さな建物でも新築するしかないかと思っていたところ、大きめの建物が広さの割には安く使える可能性が出てきて、それから2年あまり。 助成金
年の瀬も押し迫っていた頃の話。 朝、見知らぬ番号から着信がある。出てみると、以前に自分が支援をしていた子どもの身内だと相手は名乗る。次の言葉が出てくるまでのわずかな時間にも嫌な予感はあった。 子どもが昨日、亡くなったと聞かされる。 言葉を失う。 彼は、進行性の障害をもっていた。 知的障害や自閉症の子どもを主に支援している自分たちであるが、田舎というのはそんなにたくさんの支援者、事業所があるわけではない。どんな障害の子どもでも可能な限りの支援をする。彼は出会ったときからすでに自分で歩くことができなくなっていて、支援の中でいわゆる身体介護の占めるウェイトが重かった。けれど、好奇心が旺盛で、知的な発達にも少しの特性があって、支援者もいっしょになって楽しめることが多い子だった。 だんだんと体を思うように動かせなくなり、頻繁に検査入院を求められたりもするのに、嘆き悲しむ様子を見せない彼が少し不思議だ
特に選挙前だから、というわけでもないのだけれど、偶然に書店で見つけたので。 政治はどこまで社会保障を変えられるのか 作者: 山井和則出版社/メーカー: ミネルヴァ書房発売日: 2014/10/10メディア: 単行本この商品を含むブログ (2件) を見る 民主党政権時代に、厚生労働大臣政務官など務めた国会議員による著作。介護、福祉、医療、雇用など、社会保障にずっと力を入れてきた議員が、政権についているあいだ、何を考え、どのように動いてきたのか、が少しわかる。 当然と言えば当然だが「こんなに頑張りました」「こんな成果を上げました」という内容が中心になるので、いろいろ不満は募る。とりわけあんなに批判していた障害者自立支援法をほとんど変えられなかったことについて、 この2年後(引用者注:ホームヘルプや通所サービスなどについて、市町村民税非課税世帯の利用者負担を無料化した2年後)に自立支援法を改正。
当ブログで選挙時恒例になっている「障害者分野限定」マニフェスト比較。なんとなくやらなければいけない責任を感じて、今回もまとめてみました。もちろん景気だって、安全保障だって障害者とは関連するわけで、「障害」という言葉が使われているところを抜き出した範囲での比較であることをご了承ください。 政党間での比較以上に「過去のマニフェスト」との比較をすると、「いま」障害者が置かれている状況がよく感じられる内容になっていると思います(ついでに言うと、各政党の盛衰も)。なお、過去のマニフェスト比較は以下を参照してください。 参院選2013 衆院選2012 参院選2010 では、解散前の議席数の順番に。少しだけコメントをつけておきます。 自民党 http://jimin.ncss.nifty.com/2014/political_promise/sen_shu47_important.pdf <出産・子育て
某所で安井(大友)愛美さんのお話をお聞きしてきた。はるばる北海道から来てくださっての5回連続講座。テキストは以前にも紹介した本である。最後は、短い時間だが、トークセッションのようなことまでさせていただけた。主催者には、ただ感謝の言葉しかない。 やはりすごい人だった。何の制度にも支えられずに障害児者の支援をはじめた実践は、相手との関係、社会との関係、自分との向き合い方、すべてをいつも省みながら調整してきておられた。その結果としてたどりついた地点は、ソーシャルワークの教科書に書かれていることであったり、社会哲学としては素朴なことであったのかもしれない。大学でも勉強できることだ。しかし、そこに「経験」から改めてたどりつけるのは容易なことではない。 経験豊かな人間はどこにでもたくさんいるのである。現場で何十年と支援経験を積み重ねている者を見つけるのは簡単だ。にもかかわらず、そのすべてが優れた支援者
・「『自立』の反対は何だと思う?」「…寄生?」。 ・ときに想像の斜め上をいく学生たちが連日22時まで事務所につめかける例年通りの光景。11月上旬。 ・一部の保護者からは大量の手作り夜食やらお菓子やらカップスープまでもが差し入れられ、これはもう断固として拒否すべきかと思いつつ、何だか差し入れるほうも楽しそうなので、結局なにも言えなくなる。 ・やっぱりうちが期待されているのは、元気そうな学生たちがたくさんいる、ということなのだろうか。そろそろそこからも脱却しなければいけないのだけれど。 ・特定の事業で専門性が高まっているのに、法人全体には波及しない。そして、発信力があるのは、学生たちの関わる事業だ。内部からの見え方と外部からの見え方はかなり違う。 ・一方で、支援学校を出て間もない子が「同じくらいの年ごろの人と出かけたい」と言うときに、これは専門性に変えられる話でもなく、ただ属性の問題だったりす
地域で昔から続いている行事に参加する。 きっと多くの地域でまだ行われているであろう障害者向けイベント。行政が中心となって企画して、地域に暮らす障害児者や支援者が体育館とかに集まって、簡単なレクリエーションして、みたいな。 しばらくぶりに出会った保護者がたくさんいて、じっくり話を聞く。みんな1年から数年くらい話す機会がなかった人たち。子どもはみんな成人している。ほとんどの生活が大きく変化していて、少し驚く。もちろん学齢児でも変化はあるが、これほどの割合にはならない。そして、どこもが必要な支援をうまく得られずに苦労している。 障害をもつ本人が20代半ばから後半くらいになり、親自身が、あるいは祖父母が体や心を痛めていく。家族の中に元気な者がひとりぐらいはいるからどうにか保たれている生活状態。もうひとり倒れたらどうなるのかと思われる家ばかり。 これほど厳しい状況にありながら、支援がもっと優先的に受
子ども(支援の利用児)と公園へ。 遊具を使って全力で遊んでいると、2〜3歳くらいの女の子が自分に近づいてきて、無言でたくさんの木の実をくれようとする。とてもなごむ。すぐにお礼を言ってありがたく頂戴する。そのときは気づかなかったが、後になってよく見たらひとつだけ木の実じゃない。ポイフル…? それはさておき、間もなく女の子の母親がやってきて、お礼を言われる。地面から拾ったものではあろうが、こちらがお礼を言われるのもなんだか不思議だ。さらに続けて、子ども(利用児)に向かって言う。 「パパがいっぱい遊んでくれていいね」 自分が父親と間違えられるのはもはや慣れっこなのでどうということもない(この日も数回あった)。実際の父親とも同世代だ。しかし、なんだかその母親の言い方がうらやましさをにじませているようにも聞こえ、少し心にひっかかったままでいる。物静かな雰囲気で、子どもとはじっくり向き合おうとする様子
自閉症連続体の時代 作者: 立岩真也出版社/メーカー: みすず書房発売日: 2014/08/26メディア: 単行本この商品を含むブログ (6件) を見る 一読した後に「自分にとってはそれほどインパクトのある内容ではない」と思ったのだが、いくつかのニュースと世間の反応を見て、やはり意義がある本なのだと思いなおした。けっこう時間が経ってしまったのでタイムリーとは言えないけれど、書き留めておきたい。 もう数週間前のことになるだろうか。視覚障害をもつ高校生が白杖につまづいた中年男性に蹴られる事件が起きた。世間の反応は「なんてひどいことを」であった。少しして「蹴られる方にも非がある」という声があがりはじめた。すぐにそのような声に対する批判もまた巻き起こった。 そこに、どうやら犯人がわかった、という報道がなされる。知的障害の男性だったと言う。そして、その後の報道はあまりなされなくなったような印象もある
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『泣きやむまで 泣くといい』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く