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円安とは
mamedlit.hatenablog.com
清水由美子さんの論文「『吾妻鏡』と『源平闘諍録』ー千葉氏関連記事をめぐってー」(「国語と国文学」2022/12)を読みました。源平闘諍録は真名書きによる平家物語の異本で、千葉氏と深い関係にあることは知られていますが、未だ解明されていない問題の多い本でもあります。清水さんは、鎌倉幕府の記録吾妻鏡と闘諍録とを、依拠関係に限定せず意図や表現方法の違いに注目して読む作業を通して、平家物語という作品の立場を描き出そうとしています。 吾妻鏡に於いても千葉一族の存在感は大きい、その点では闘諍録の成立圏は吾妻鏡から遠いものではないと推測、しかし千葉胤頼の人物造型や日胤関係記事を見ると、両者が異なる叙述意図を以て編纂されたことが分かる、というのです。そして闘諍録は千葉氏の中でも嫡家の活躍に焦点を絞り、その功績を伝えたいという姿勢を示していると結論づけました。敗者に寄り添う物語としての平家物語に、合戦に加わっ
佐々木孝浩さんの論文「「大島本源氏物語」の再検討ー新発見の定家監督書写本「若紫」帖との比較を中心としてー」(「斯道文庫論集」55)を読みました。複雑な問題を丁寧に説明した長い論文ですが、分かりやすい。近代国文学における本文研究のバイブルともいうべき池田亀鑑『源氏物語大成』の大島本評価に関する誤りを、今なお旧套墨守する学説に対しての反論を述べ、新出の写本「若紫」帖を大島本と比較して、その来歴に迫り、正しい評価を求めようとしています。 佐々木さんは、大島本は飛鳥井雅康筆ではなく、室町後期の写本19冊に、永禄6年(1563)頃に大勢の手で34冊を補写した吉見正賴旧蔵本であること、飛鳥井雅康筆の根拠とされた「関屋」冊の奥書は本奥書であって、全冊に関わるものではないことをすでに述べてきたのですが、さらに2019年発見された大河内元冬氏蔵「若紫」帖(定家監督書写本)について、ツレとみられる既知の4本と
同業者の言動を見ながら、ああ、あの人は老いた、と思う瞬間に2つの場合があります、必ずしも年齢とは関係なく。第1に研究動向を人の名前で言うようになったとき、第2に用語をあれこれ規定したがるようになったとき。 かつて畏敬の念を以て眺めていた先輩が、研究課題を「こと」でなく人名で言うようになり、怪訝に思っている内に、どんどん話が内輪向きになっていったことがありました。聞いている方はコメントしにくくなり、やがて専制君主のような存在に変貌してしまわれました。悲しかったのですが、私自身が校務その他で多忙が続き、ある時授業でふと、研究動向を人の名前の羅列で話していることに気づいて、愕然としたことがあります。つまり不勉強なんだ、と深く恥じました。後年、学界で活躍している(と自認している)後輩が、○○がやっている××、という言い方で、ある研究テーマに言及しているのに出くわし、ひどく落胆しました。 人文学は、
永井晋さんの『将棋の日本史 日本将棋はどのように生まれたのか』(山川出版社)という本を読みました。永井さんは金沢文庫の学芸員を永く勤め、院政期から鎌倉初期日本史が専門です。初めタイトルを見た時、藤井聡太の人気にあやかったブーム本かと思いましたが、歴史書です。あとがきによれば、永井さんはアマチュア四段なのだそうで、建春門院中納言の日記『たまきはる』に八条院の御所で将棋が指されていた記事があることや北条時房邸跡から将棋駒が出土したことから、本書の執筆を思い立ったとのこと。 我が家は囲碁文化で、栢木の碁盤があり、昭和20年代には日曜の午後、母方の叔父と父が縁側で打っていました。私は将棋のルールは全く知りませんが、読み始めたら本書は面白かった。日本の将棋の発祥地がインドか中国かという論争があるそうですが、永井さんは日本に入ってきた印度文化は結局、大陸を通って中国の文化として入り、日本で作り替えられ
高橋秀樹さんの『古記録入門 増補改訂版』(吉川弘文館)を読みました。帯に「もう古記録はこわくない!」とあって、怖いのは私だけじゃないんだ、と苦笑して開いてみると、日本中世史・中世文学を専攻する修士課程の院生が対象、とあります。はしがきによればこの半世紀、歴史学で扱われる資料の範囲が広がり、文書論は進展したものの日記・記録類は注目されてこなかったが、松薗斉さんの『日記の家』(1997 吉川弘文館)を初めとして古記録研究に新しい視点が開け、さらにこの十数年、DBや史料画像の公開、影印本や工具書が続々出されたことを踏まえて、教育現場の要請に応えたとのこと。 内容は1古記録を知る 2古記録を読む の2部構成で、関係文献目録(98~2021)や中世主要古記録一覧などの付録が充実しています。第1部は古記録について、歴史学ではどのように考えられているかという概説、第2部では『玉葉』の治承寿永記事と、『民
植木朝子さんの論文「白拍子の芸能―歌詞と旋律の間、身体と装いの間―」(「国語と国文学」3月号)を読みました。白拍子とは、平安末期から中世にかけて貴族社会で大流行した歌謡(音曲・舞およびそのリズムをも言い、それを得意芸とした芸能者=遊女をも言う)ですが、植木さんはその歌詞自体にも、歌詞と旋律、舞の構成、芸能者の身体と装い(異性装)にも、相反する要素が同時に含まれていることに注目しました。 最初に、興福寺の延年で稚児が舞う白拍子について記録した『今様の書』(仁和寺蔵)所収の歌詞を、同名の曲が多い早歌と比較して、その共通性と相異とを考察しています。両者とも祝意が濃厚で、物尽くしの形式が多いが、前者が色に興味を示し、視覚的に華やかな雰囲気を持つこと、しかし恋の要素が少ないことなどを指摘しているのは面白いと思いました。男性集団の大寺院の儀式で稚児が舞うのと、武士社会で素人でも舞える芸能との違いが明瞭
高木浩明さんの連載「古活字探偵事件帖3」(「日本古書通信」1124号)を読みました。前回(本ブログでも紹介)に引き続き、古活字版か整版かを欠損活字の存在によって見分ける方法、及びその体験談を語っています。 従来、匡郭は古活字版のものを使用しながら枠内は整版刷、と認定されていた本も、よく見ると欠損活字を繰り返し使用している例があり、古活字版であることが認定できる、というのです。また匡郭内の行頭・行末を埋める駒(空白部分を作る駒。クワタというらしい)の痕跡や、1~2字だけの誤植を訂正するために、紙面の一部を切り取って訂正した紙片を貼り付けた痕跡など、職人の手仕事がまざまざと見える例にも出遭えるそうで、まさに書誌調査で体験するわくわく感を、私たちにも伝えてくれます。 匡郭がない版本の場合はどうするか―物語など和文体の本には匡郭のないものがあります。こういう平仮名交じりの文体の場合、連綿体の文字を
伊藤新之輔さんの「卯月八日の花摘みと死者供養」(「國學院雑誌」1390 2月号)という論文を読みました。旧暦4月8日に行われる、民俗学で「卯月八日」と呼ばれる行事について、近世史料をもとに花摘みの意義、竿花の機能、死者供養の場を取り上げて考察したものです。 TVのローカルニュースで、子供たちが4月8日に山で躑躅や藤などの花を集め、花びらを撒きながら村を練り歩く行事を視て、なんて美しい思い出が、この子たちには残ることだろう、と感激したことがありました。釈迦誕生の灌仏会の行事だと思っていたのですが、各地に(近畿と北関東に多い)先祖の霊を迎える行事として伝わってきたと民俗学では考えられているのだそうです(田の神を迎えるとする旧説を伊藤さんは否定)。かつては、盆花は山で採ってくるものでした。民話にもそんな話があり、現在でもそのための草地を維持する地方がある由、4月8日もそうだったとは目から鱗でした
大津直子さんの「『伊勢物語』六十段「花橘」小論―女子大学の教室から、注釈のジェンダーバイアスを考える―」(「同志社女子大学日本語日本文学」34号 2022/6)を読みました。伊勢物語六十段は、主人公の昔男が宇佐の使として下った際、「宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほど」の「家刀自」が今は他国で人妻となっているのを知り、酌をさせて、「さつき待つ花橘の」という歌を詠みかけ、女はそれを聞いて「思ひ出でて、尼になりて山に入」ってしまったという、有名な話です。 近世以前から、伊勢物語の注釈は、この話が昔男を見限った女の浅慮と後悔を語っているとして、やや懲罰的に説いてきました。しかし女子大で、それを鵜呑みに講じようとすると何かひっかかる、と大津さんは言うのです。昔男のふるまいからは、優雅な懐旧の情よりも、自分を捨てて格下の男の許に移った女への陰湿な執着心を読むべきでは、と。 そして「まめ」「家刀
『百人一首の現在』(青簡舎)という本が出ました。中川博夫・田渕句美子・渡邊裕美子編。あとがきによれば中川さん主宰の研究会の成果がもとだそうで、「百人一首」に関して、現在最も熱い研究を展示した、と言えるかもしれません。12本の論考と資料5篇が載っていますが、大きく①「百人一首」の成立、②「百人一首」と絵カルタの関係、③中川さんによる「百人秀歌」注釈、という3本の柱が立てられそうです。 全体を貫いて、「百人一首」は果たして定家の作なのか、という問いが意識されており、それに絡んで「百人秀歌」と「百人一首」の関係、歌仙絵との関係、「百人一首」の近世・近代の享受などのテーマが取り上げられています。 私はまず、平藤幸さんの「国語教科書の『百人一首』」を読みましたが、近世の寺子屋教育、女子用往来物の歴史を受け継いで、男女を問わず日本人の素養になってきたのが「百人一首」だったのは周知のことでしょう。実際、
伊藤愼吾・氷厘亭氷泉編『列伝体 妖怪学前史』(勉誠出版 2021/11)を読みました。伊藤さんの仕事もいよいよ実を結び始めたなあ、というのが率直な第一印象です。本書の内容は、広義の「妖怪」に関する広義の「研究」史、そういう仕事をした23名の人々の略伝と、「妖怪学名彙」と題した解説11項目、その隙間を埋めるコラム7項目、妖怪学参考年表、それにたっぷりの図版などです。7人の共著になっていますが、いずれ劣らぬマニアらしく、体系的な資料収集はなされて来なかったであろうこの分野のディープな部分にまで、目配りがされています。明治以降1996年まで、列伝は物故者に限り、第一部戦前編に始まり、1965年を以て戦後を前期と後期に分けた三部構成です。 列伝中、私が多少なりとも知っている名前は井上円了、柳田国男、南方熊楠、江馬務、平野威馬雄、水木しげる、渋沢竜彦の僅か6名でしたが、その中の幾人かは幼年時代に児童
福州版一切経調査研究会編『宋版一切経(福州版)調査提要―本源寺蔵の調査を通して』(勉誠出版)という本が出ました。編者の研究会員は故渡邊信和さんを含め10人の名前が挙がっていますが、本書は牧野和夫さんや高橋悠介さんが中心になってまとめられたと見受けました。あとがきによれば、牧野さんは延慶本平家物語の一節へのこだわりがきっかけで、平成元年頃から宋版仏書の調査に注力するようになったのだそうです。 私は仏書の書誌や中国の刊本については全く無知なので、本書の真の価値が理解できているとは言えませんが、本書をめくりながら、この事業に費やされる労力の膨大さはもとより、その成果が関わる範囲の広大さはおぼろけながら想像できました。本書207頁に言う、僧侶が海外からもたらした文物の我が国への影響、出版の歴史における中国との関係、それらから波及する我が国の政治史、経済史、地方文化史的なテーマ(その多くが未開拓の分
高橋悠介編『宗教芸能としての能楽』(勉誠出版 「アジア遊学」265)という本が出ました。法政大学能楽研究所の共同研究の成果をもとにしたそうで、勉誠出版は科研費や機関プロジェクトの報告書をこのシリーズでどんどん出版しており、有意義だと思います。書名を見て私が意外だったのは、能が宗教的芸能であることは周知の事実だと思っていたからですが、近年の仏教資料の博捜や、仏教史の他分野への食い込みに基づき、従来とはやや異なる視点を含む「宗教芸能」という用語のようです。 本書は論文13本、コラム3本を4部構成に並べていますが、その区分は必ずしも歴然としてはいません。大東敬明さんは「除魔・結界の呪法と芸能」というタイトルで、「翁」の成立環境を考察、天野文雄さんは「春日若宮と能楽」と題して、若宮臨時祭・法楽能・祈雨立願能を取り上げています。小川豊生さんは世阿弥の「離見の見」という語を追究して禅思想との関係、高尾
Nスペ「新・ドキュメント太平洋戦争~1941開戦~」を2日に亘って視聴しました。真珠湾攻撃から80年の記念日を前に、「さきの大戦」を国から押しつけられたものとのみ捉えるのは誤りで、国民の多くが切望し熱狂した事実を忘れてはならない、というメッセージを籠めて制作されたと推測しました。そのメッセージそのものには賛成ですが、全体的に薄味の印象を持ちました。戦後76年、実体験としてのあの時代はもう再現することが不可能に近くなり、いわば二番だし、三番だしのような水っぽさを感じたのです。 しかし驚いたのはその制作手法でした。当時のさまざまな人々250人以上の日記をAIに読み込ませ、現代のSNSトレンド分析の方法を用いてデータ化した、というのです。なるほどこれは、NHKでなければ出来ない規模と技術でしょう。画像も当時の写真・動画の一部に彩色を施し、また(多分)再現映像もふんだんに交えて現実感を出し、アクセ
国書総目録では、諸本分類には踏み込まない、というのが原則でしたが、平家物語の場合、それでは所在情報として役に立たない、と私は主張しました。先輩の栃木孝惟さんも同意見を具申したので、平家物語に関しては判る範囲で諸本を( )つきで注記することになりました。能や幸若に関しても例外措置が執られたようです。都内に在る本はできるだけ実見することになり、栃木さんに同伴して2年がかりで見て歩きました。 読み本系はだいたい判定できますが、語り本系はどう分類すればいいか(殊に端本の場合は同定に困ることもある)悩み、山下宏明さんに相談しました。同門の師である市古貞次先生が「山下君はどっかに平家物語があると聞くと、すぐ飛んで行っちゃうんだよ」と仰言っていて、日本中の平家物語を見ている人、という評判だったのです。膨大な所在情報の塊から、まず「平曲譜本」を切り離し、語り本系諸本は灌頂巻の有無によって「一方系」「八坂系
平家物語の読者、もしくは読んでみたいという人はこんなにいるんだなあ、とやや意外でした。新作アニメがTV放映予定とのニュースに反応するツイッターを見ての感想です。折から小説連載も始まったらしい。大河ドラマが失敗して以来(あれは日本史とCGとに頼りすぎ、脚本に一貫性がなかった)、軍記物語は不人気と思い込んでいました。 しかし研究の前線と、読者の期待との間は果たして貫通しているのか。私自身、読者のための平家物語論(単なる解説や梗概書ではなく)をどう書けばいいのか、ここ数年ずっと考え続けていました。「こう読むべき」だの「これが正解」だのではない論で。 そこで、ふつうに平家物語を通読するためのお勧め本を列記してみます。基準は原文全体があり、現代語訳か語注があって、入手しやすく読みやすい、誤りの少ないもの。 Ⅰ 持ち歩いて読める ①杉本圭三郎『平家物語全訳注』(講談社学術文庫 覚一本)*1巻1冊。全訳
岩波ジュニア新書『国語をめぐる冒険』を読みました。渡部泰明さんが序を書いていますが、5人のリレー執筆のようになっていて、編集部もかなり関わったのではないかと思われ、以前『ともに読む古典』(笠間書院 2017)を編んだ私としては、企画・編集の過程を知りたい気がします。1国語は冒険の旅だ(渡部泰明) 2言葉で心を知る(平野多恵) 3他者が見えると、自分も見える(出口智之) 4言葉で伝え合う(田中洋美) 5言葉の地図を手に入れる(仲島ひとみ) という構成になっていて、さらに国語学的な話題を出口さんがコラムとして書いており、5人の共著です。 1は『伊勢物語』東下りの段を中心に、文学と生きにくさの問題を取り上げ、2は歌占を中心にして自分探しと言葉について語ります。3は太宰治の「走れメロス」と中島敦「山月記」を取り上げて、文学と虚構の問題を考えています。4は文章を「書く」ための手順を説明、5は日本の近
原田敦史さんの論文「慈光寺本『承久記』の一側面」(「国語と国文学」9月号)を読みました。承久の乱を扱った『承久記』には流布本のほかに慈光寺本という異本があり、こちらが古態本とされています(新日本古典文学大系所収)が、諸本群を擁するのが通例である軍記物語の中では、やや異色な在り方を示します。慈光寺本は構成も合戦記事も流布本とは大きく異なり、しかも流布本への「成長」傾向が窺えません。まるで別作品とみなしたくなるほど、同じ時代と事件を扱いながら異なる様相を呈しているのです。 また慈光寺本では、合戦の詞戦の際に東国武士が「誰カ昔ノ王孫ナラヌ」と言い返したり、官軍に勝った北条義時が武士たちの面前で、「王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ」と悦に入る場面があって、王の権威を相対化する視点があると論じられてきました。原田さんはそれらの場面を丁寧に読み解いて、東国武士たちが京都の王権を直接相対化したという
中世文学会初日、オンラインによるシンポジウム「徒然草の視界」を視聴しました。会員外も含め370人の参加申し込みがあったそうで、盛会でした。講師は中野貴文・小川剛生・川平敏文、司会は荒木浩という、いま徒然草研究の最前線を走っている人たちです。予め会員全員に資料集が配布され、講師の発表をVTRに収録しておいたのは、事務局の行き届いた準備の結果でした(但し共有画面の文字がぼやけて読みにくい)。 オンラインによるシンポや講演では、発表資料の作り方やプレゼンテーションにも、従来とは異なる工夫が必要だと痛感しました。癖なのか座姿勢がじっとしていない人、語尾を呑んでしまうので声がよく聞き取れない人、モニター画面が横にあるのか視線が落ち着かない人・・・TV中継ならばディレクターが注意したり、ミキサーが調整したりするのでしょうが、当人が気づいて改善しないと視聴者はつらい。 シンポの内容は分かりやすく、面白か
最近、フレイルにならないために、とかフレイル予防、という表現をよく見かけます。おや、と思ったのは、以前聞いた使用法とは意味がややずれてきた気がするからです。もともとfrailtyという語を縮約した和製の造語です(虚弱と訳されることが多いようですが、老年学の用語なので、ずばり老衰と訳した方がよい)。 私が初めてフレイルという語を知ったのは、2017年春、臨床倫理学の公開講座で、でした。健康な状態から瀕死までを9段階に分けた「老衰度」の意だと理解しました。その時の講師は、フレイル5(自力で食物摂取ができなくなる状態)になったら、一切の治療行為をやめるべきだ、と説き、反対するジャーナリズムをえせヒューマニズムだと断罪し、私は慄然としました。医療費軽減などには好都合かもしれないが、実際に大事な人を見送る時、そんな数値でぱちりと決められるわけではない。家族を相次いで看取ったばかりだったので、憤慨しま
今年は伝通院の枝垂桜は観に行かれませんでした。枝垂桜には染井吉野よりも前に咲くものと、遅れて咲くものがあるようです。長野の友人からは早咲きの枝垂桜の写真が来ていました。一重・八重、色にも種類があるらしい。 象山神社の枝垂桜 赤門脇にある八重桜は2日には満開になり、例年よりも多くの花をつけて天蓋のようでしたが、コロナのため門が閉められ、入れません。塀の外から、通りの向かい側から、何度も眺めました。私が在学中からありましたから(当時は2本あった)、半世紀は生きてきた樹です。ふと、切なくなりました。あの樹の傍にも行けないなんて・・・扇屋へ入り、女将と、今年はいつもより沢山咲いてるね、でも色が少し薄いようですよね、と会話をしました。桜饅頭と道明寺を買って帰り、仏壇に上げた後、一気に食べました。塩味が効いていて、美味しい。何だかやけ食いのようでもありました。 松代城跡の夜桜 昨日、友人からは松代城の
政府・知事会のコロナ対応は、まるで裏目裏目を狙ったかのようです。感染者数を抑え込めないまま緊急事態宣言を解き、蔓延防止「措置」に切り替え、送迎会シーズン、行楽シーズンになだれ込んでしまった。詰めが甘く、最終責任を負う覚悟がない。まず感染拡大を停め、同時に医療体制と生活安全網を整え、経済復興をデザインしていくのが、行政の役目ではないでしょうか。マスク会食だの飲食店見回りだのが解決策とは思えないし、ワクチンに重症化を防ぐ効果はあっても、感染や伝播を止める効果はない。医療従事者への接種も未だ2割前後、16歳未満にも感染・伝播の可能性はあるわけですから。 みんな疲れてきました。実際、仕事に支障もあります。私の場合で言えば、注釈の仕事を抱えているのに図書館が使えない。新着雑誌を一読する場所もない。見比べて買う消耗品の買い付けに行かれない。しかし今必要なのは、まず感染者数を増やさないこと、安定した治療
小秋元段さんの「嵯峨本とその前史の一相貌」(法政大学文学部紀要82号 2020/9)を読みました。近世初期に、嵯峨で角倉素庵が関わって開版された、美装本の古活字版があり、嵯峨本もしくは光悦本と呼ばれています(実際には光悦は関与していなかったらしい)。小秋元さんは、嵯峨本の大半は慶長10年代前半に刊行されたようだが、10行本『方丈記』や下村本『平家物語』なども、嵯峨本前史に属すると言っています。 嵯峨本『徒然草』第1種第2種、嵯峨本『方丈記』、10行本『方丈記』、下村本『平家物語』、『観世流謡本』においては、文節が行を跨がないように工夫され、漢字や仮名の当て方によって1行の文字数を調整していると、小秋元さんは指摘しました。また漢字平仮名交じりの古活字版は、しばしば連綿体の仮名を2,3字まとめて彫ることがあり、そうすると本来の字数分だけ必要な空間を、伸縮させることができます。小秋元さんは、嵯峨
話はやや旧聞に属しますが、6日の夜、うっかり、You Tubeのオンラインミーティング「Dont Be Silent わきまえない女たち」を視聴してしまいました。まず、こんなに速く、これだけのメンバーを集めて企画、実施できたことに驚嘆。司会の永井玲衣さんが素晴らしい。冷静、公平に、それぞれに個性豊かな女性たちの発言を引き出していきます。調べると、上智大学の哲学の院生だそうで、職業柄、思わず、上智大学はいい教育をしているんだなあと感心しました。哲学も今や実践的な学問になったようです。 うっかり、とは、2時間半画面に惹きつけられて、この日の予定がすっかり駄目になってしまったからです。右側を走るチャットをちらちら視ながら、発言を聞き落とすまいとへとへとになりました。癪なので、友人たちにも勧めました。翌日感想が届きました。 【時宜を得た、有意義な取り組みであったと思いました。24人の参加者は多士済
高木浩明さんの『中近世移行期の文化と古活字版』(勉誠出版 2020)という本が出ました。1下村本『平家物語』とその周辺 2「嵯峨本」の世界 3古活字版をめぐる場と人々 という3部構成になっており、27年間に亘る古活字版の書誌調査を通して、書名通り、古活字版が作られる環境を描き出しています。書誌データや図版もたくさん入っていて、有益です。全870頁、手に取る方はまず17頁にも及ぶ「はじめに」から読むことを、お勧めします。 「あとがき」にも書かれているように、『平家物語』一方系本文が固定化に至る過程の研究は遅れており、下村本は、中でも流布が広かった本文と見込まれます。高木さんは精力的に下村本の書誌調査に取り組み、そこから嵯峨本や他の古活字版、それらの制作環境へと視野が開けていき、この道の巨人川瀬一馬氏の後を追いながらさらに越えていこうと決意したのでした。 私には、第1部の下村本・覚一本・源平盛
和田琢磨さんの論文「点描 西源院本『太平記』の歴史―古写本から文庫本まで」(『古典の未来学』文学通信)を読みました。本ブログの4/25欄で取り上げた「西源院本『太平記』の基礎的研究―巻一・二十一の書き入れを中心に―」(「国文学研究」190)の続稿です。西源院本『太平記』は古態本として注目され、これまでに翻刻、影印、校訂本が4回も出されていますが、原本は火災で焼損し、大正年間の「影写」本で代用してきたのでした。 しかし「影写本」は実際は臨模本で、巻によって書写の態度が異なり、原本の書き入れや抹消を区別せずに本文として扱っている、と和田さんは指摘しました。しかも水戸の修史事業(『参考太平記』編纂)に貸し出された際に、傍書の一部を塗抹したらしいが、その点も臨模本ではよく判らないという(彰考館の修史作業がこんなことをやったとは、私には驚愕でした)。昭和11年刊行の翻刻(鷲尾順敬校訂 刀江書院)は、
昭和43年12月、軍記物談話会では渥美かをる氏を講演にお招きしました。その頃、会員は50名に近づいていましたが、会員の同窓会館などを会場に、手弁当で運営されていました。有名な女性会員は3名いた(それぞれ、『承久記』、『平家物語』や幸若、『太平記』が専門でした)のですが、2人は運営には参加せず(それには理由があったことを後に知りました)、会計を務める同窓同門の先輩が活躍していました。 私は会社員を辞めて大学院に入りましたが、直後に学園紛争が始まって大学は機能しなくなり、プロの文学研究とはどうすればいいのか、途方に暮れている時期でした。卒論のテーマを選んだ当初から、渥美氏の研究に導かれたり噛みついたりしていたので、当日の講演はほんとに楽しみにしていたのです。ところが始まるやいなや、先輩から、ちょっとちょっと、と水屋へ呼ばれました。おもてなしの紅茶を淹れるから、というのです。さっさと済ませて、講
田中大士さんの『衝撃の『万葉集』伝本出現―広瀬本で伝本研究はこう変わった―』(はなわ新書 美夫君志リブレ)を読みました。田中さんとは、2004~06年度科研費(C)による共同研究「汎諸本論構築のための基礎的研究―時代・ジャンル・享受を交差して―」に講師としてお招きして以来のお付き合いですが、正直に言って、当時私には広瀬本の研究上の意義がよく判っていませんでした。 本書は172頁の新書判に収めるべく、問題点を思い切って整理し、細部の論証は省いています。1993年にその所在が世に知られた、天明元(1781)年奥書のある全巻揃いの写本―広瀬本を通じて何が判ったのか、『万葉集』本文の伝来をどのように推測するのかが一気呵成に説明されます。周知のように『万葉集』は、平安初期にはすでに、考証なしには読めなくなっていました。殊に長歌は、すべてに訓をつけたのは13世紀半ばの仙覚でした。広瀬本の訓や題詞の書式
ウェブ掲示板方式の説話文学会大会に「来聴」してみました。説話文学会のHPに前日から発表原稿(+資料)をアップしておき、当日は発表者ごとにスレッドを設け、書き込まれた質問に発表者が答える、というやり方です。メールを使える人ならば比較的容易に参加することができ、書き言葉なので発表もまとまっていて分かりやすく、抵抗の少ない方法でした。事務局と司会者の労をねぎらいたいと思います。 質問もこういう方式だと効率的な発言になり、よかったと思います。但し発表原稿の分量からすると、全員25分で収まっていたかどうかはやや疑問です。質問に答えるには、口頭よりも大変だったかもしれません。機関誌に掲載する時には、質疑応答も併せて載せて欲しいと思います。私が関心を持ったのは、平本留理さんの「テキストマイニングによる説話集間の関連分析ー三大説話集の解析結果を中心に-」と、金有珍さんの「日本中世のホモソーシャルと男色ー寺
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