サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
体力トレーニング
news.yahoo.co.jp
■不思議だ ここのところ、「働けない人は働かなくてもいいんじゃないか」的記事を連続して書いているのだが(働かなくてもいいよ~就労や自己責任の呪縛から解き放たれよう、ほか)、先月集中的に投稿した「9月1日に自殺する子どもたちを守ろう」的記事群よりもはるかに多くの感想が寄せられている。 それらには「よくぞ言ってくれた」という感想もあるものの、その多くは批判的なものだ。 それらの批判コメントはおもしろくて、批判者の日常は非正規雇用であるらしくおそらく食べていくのもたいへんだと想像できるのだが(はっきりとはわからない)、現在の日本経済を「俯瞰的に」みて、働かないことは非常識だと憤っていらっしゃる。 不思議だ。そもそもは、政府が掲げる40才以上への古臭い就労支援(「氷河期世代」を集中支援=安定就労へ3年計画策定-諮問会議)への批判的考察として、こうした「就労」へのそもそも論を僕は提起した。 氷河期世
■アルバイトで「グラドル 」 自分が通う保育園の保育士さんがアルバイトで「グラドル 」をやっており、しかもその写真やビデオはグラビアというよりはほぼポルノな表象だった時、子どもたちにとってその作品群はどんな意味合いがあるだろう。 大人にとっては当然、好奇の目だったり批判の対象だったりする。 大人ではなく、「ポルノ」の意味がわからない子にとって、これはどういう意味になっているのだろうか。 これは、幼児への性的虐待にも通じる話だと思う。 性的虐待を行なう側にとっては、そこでは倫理的規制はまったく働いておらず、自分の欲望に忠実なのであろう。加害者が10代だろうが(きょうだいやいとこ)成人だろうが、幼児や子どもへの性的暴力という衝動を素直に受け入れ、欲望そのもので動く。 一般の倫理観からすれば醜悪極まりない行ないである。 が、性的暴力・虐待の加害者は、その暴力の最中には倫理観が吹っ飛んでいる。児童
■「なぜ誰か気さくな大人と出会うことができなかった?」 斎藤環さんもTwitterでつぶやいているように、ひきこもりの人々の犯罪率はかなり低い。だが、何か事件があると、メディアはすぐにひきこもりを援用し始める。 僕が驚いたのは、川崎殺傷事件後、これはどちらかというと社会的養護ではないにしろそれに似た不幸な育ちの環境の問題が注目されると思っていた。 それが事件後1日か2日後には、もう「ひきこもり」と事件の関連性が取り上げられ始めた。犯人は自殺したので真相はわからない。自殺しなくとも、なぜ身近な人々(彼にとっての「家族」)ではなく児童らを狙ったのか、その動機は推測以上のものは得られないだろう。 練馬区の事件も、元官僚トップが川崎の事件の反復を恐れて、予防的に起こしたという。殺された息子さんはネットでは有名人だったそうで、僕もリンクを辿っていき、亡くなった彼がつぶやいた言葉たちを見た。 それで僕
■「独身で身軽な若手スタッフは(非常勤とはいえ)食べていける」 昨日、東洋大学(東京・文京区)にて、NPOと「企業化」について考えるイベントがあり、僕も講師と司会で参加した。東洋大の小川祐喜子先生のご厚意により現実化できた企画だ。そのイベントの冒頭、「企業化ということは、NPOで食べていけるのか」という質問が出た。 長らくNPO業界では、「NPOの仕事だけで食べていく」ということがテーマになっており、ここ15年、行政からの委託事業を受託することがNPOの主だった収益となったことから(収益にはほかに「寄付」と自主事業があるが不安定)、一応「食べていける」といことになっている。 が、現実は、各労働者との契約は年間契約社員かアルバイトの非正規雇用であることが多いと思う。その理由は、主材源である行政委託事業は、特に青少年支援分野では単年度契約であることが多いということと結びつく。継続の一応の見通し
■困ることは、サバルタンが生み出されること 新自由主義が支援業界に混入することで僕が困ることは、「サバルタン(G.C.スピヴァク)」が生み出されることだ。 サバルタン/真の当事者は、貧困問題の中にもひきこもり問題のなかにも必ず混入している。現代日本風にいうと「声なき声」の人々といってもいいのだが、これは古くなった左翼言説に辟易する中道~保守的価値観の「普通の人々」も表す言葉であり、サバルタンといっしょにするのはマズイ。 虐待サバイバーにしろ高齢引きこもりにしろ、いまある支援サービスの網ではなかなか救えない人々がいる。しかも、数十万~200万人単位でおそらくそれらは存在する。 スピヴァクが100年以上前のインドを分析するなかで析出したサバルタンの女たちは、夫の死後、固有名を剥奪されたまま代わりに花の名等を与えられ、亡き夫とともに無理心中させられる。 また、おそらく反体制運動の結果自死した10
■まだ「就労」させるか? 就職氷河期に20代を過ごした世代(ロストジェネレーション→ロスジェネ)が40才前後となり、その一部はひきこもりになるなどさらなる社会問題化するなか、そんな人々をまだ「就労」させたいという政府の思惑が報道されている(ひきこもり多い氷河期世代…「生活保護入り」阻止へ早期対応)。 10代の不登校体験からそのままひきこもりになった人々に加え、氷河期での就職の失敗や、非正規雇用4割社会のなかの「ブラック」な就労環境から退職に追い込まれた人など、「高齢化」に至った背景は様々だ。 前々回に当欄で書いたとおり、きめ細やかな就労支援ができない現状の就労支援機関の問題もある(サポステは失敗だった~40才以上ひきこもりが61万人。「居場所」に予算を)。 ここに発達障害や発達凸凹の問題も絡み、長期間に渡って就労できなかった人々が数百万人単位で我が国には存在する。40代以上のひきこもりが6
■61万人! 内閣府の最新調査で、40才以上のひきこもりの方が61万人いると推計できるという結果が出た(内閣府調査の中高年ひきこもり「推計61万人」報告で見えた、人は何歳からでもひきこもる現実)。 この数字自体に僕は驚かない。この61万人と、39才未満の50万人ほどを重ねれば100万人を超え、これでようやく調査が実態に追いついたと思っている。 精神科医の斎藤環氏もTwitterで、 この調査方法でこの数字は驚き。20年前に提唱した「ひきこもり100万人説」が期せずして実証された形になったけど、これで間違いなく200万人以上はいると確信した。 出典:斎藤環と書いており、以前からの氏の主張がやっと裏付けられたかたちだ。 僕としては、ここ10年ひきこもり支援の中心だった「地域若者サポートステーション」が、僕も含めた多くの方々が指摘し続けた通り、「失敗」だったと断言せざるをえない。 当然サポステの
■「貧困」に伴う事件 児童養護施設の施設長が刺殺され、その容疑で逮捕された同施設出身の青年について、ネットでもさまざまな記事が書かれ始めた。 たとえばこの記事(児童養護施設長を刺殺した青年は、なぜ「大人」になり切れなかったか)などは、現時点での少ない情報の中から問題を一般化し、18才以降のアフターケアがわが国では皆無な点など問題を深く論じている。 同じ筆者が書いたこの記事(貧困に殺された九大オーバードクターはなぜ生活保護に頼らなかったか)では、46才のオーバードクターの非業な死について報告・論じている。 いずれも個々のケースにおいては単独的で複雑な事情があるだろう。 が、両者やそれ以外の「貧困」に伴う事件全般に共通すると僕が感じるのは、当事者の「プライドと孤独」という問題だ。 情報としては、当事者のほとんどは「生活保護」という言葉を知っていただろう。9ヵ月の家賃補助や住宅の初期資金の貸付制
■医師の「告発」 今年僕は55才になるので、本稿のタイトルがいかにも80年代っぽい(映画「ブレードランナー」の原作タイトルのパロディ)になることはお許しくださいね。 さてみなさま、今年も本欄をよろしくお願いします。 昨年末は有意義な「提言」にたどり着けたものの(であうことをつづけること~「高校生サバイバー」最終回、高校内居場所カフェの真髄ローカリティとは「つながることをつづけること」~ひらの青春ローカリティ3とアンチソーシャルインパクト)、超バタバタと時間が流れたことは否めない。 だから年頭くらいはゆっくりすごそうと思ったのだが、そうもいかなかった。 それは、有名医師によるこの「問い」が大きな原因だ。 年の瀬に怒っていること・NPOフローレンスの寄付集め1 年の瀬に怒っていること・NPOフローレンスの寄付集め2 年の瀬に怒っていること・NPOフローレンスの寄付集め3 長年、特別養子縁組に取
■いつからだろう 僕は、ひきこもり/ニート・不登校の支援をしてはや25年になる。 が、いつからだろう、「支援の成果」として、たとえばひきこもり/ニートであれば、就労や就労実習に至った数や、そこまでは至らなくとも就労に至るまでのモチベーションが形成されたか否かという、ある種の成果指標が、支援の意味あるいは支援の実績として評価されてきたように感じていた。 それはそうだろう、若者の(あるいは不登校の)支援をするための予算の大元は税金にさかのぼる。その血税をつかってまで行なう支援については、「目に見える」成果を出して報告する必要がある。 だから、たとえば地域若者サポートステーションや各自治体で行われる若者への就労支援事業に関して、その事業内で「いかに就労へのモチベーションが形成されたか」「何人の若者が就労に向かうためのセミナーを受講できたか」「何人がアルバイトできたか」という、目に見える数字として
■「なぜ子どもがたたかれてしまうのか」 児童虐待の問題を、支援という側面や支援ネットワークの側面(あれ、「虐待情報の全件共有」が変更された? )で考えていると、肝心要な問題点を忘れそうになる。 また、ソーシャルセクター/NPOたちは、それがどれだけ現政権に影響を与えるNPOであろうと、問題の本質からは程遠い活動をするNPOである場合(学習支援や病児保育)、それらの提言はピントはずれだったりする。 肝心要な点とは、「なぜ子どもがたたかれてしまうのか」という点だ。 古くはフロイトが「子どもがたたかれる」という有名な論文を書いているが、児童虐待の事実よりは、当事者の空想の起原に焦点化されており、ここではあまり役に立たない。 現在は、「虐待の連鎖」という説明もなされる。僕もその点から、しつけと暴力の境界が出身階層で異なる皮肉についてここで述べてきた(監視社会が虐待を潜在化させる)。 が、これだけで
■「劣化する支援5@東京」 4月28日に、東京・飯田端にて「劣化する支援5@東京」という集まりを開き、NPO等「ソーシャルセクター」で仕事をする人々が40名も集まって、現在我が国で展開される「社会貢献」「ソーシャルビジネス」等について話し合った。 これは「5」がついているだけあって、これまで、大阪・静岡・京都・松江で開催してきた。毎回定員を上回るソーシャルセクター界隈の人々が集まって議論を交わしている。 この取組を通して感じることは、これまでNPOを中心とする「ソーシャル」界隈には、このようなメタレベルな批評行為はあまりなかったのだなあということだ。 もちろん、NPOたちは孤立しているわけではない。それらは、「つながり」という言葉に象徴されるように、いくつかの団体が組んで貧困支援等の事業を展開している。 が、実はそうした「つながり」はオープンなようでオープンではなく、気の合う代表同士がそれ
■殺人から監禁まで この頃、以前にもまして子ども(成人含む)が関係すると思われる凄惨な事件が全国で起きている。それは殺人から監禁までさまざまであり、子どもの立ち位置は被害者や容疑者を疑われるあり方まで幅広い。 僕の役割は、個別の事件を個別にあつかわず、それらをヒントとして一般化し、できれば概念化(今回であれば「子どもを隠す」)して提示することだと思っているので(それが「哲学」だとドゥルーズは書いていた)、細かい事象には踏み込まない。 が一方で僕は、不登校やひきこもり、発達障害や虐待サバイバーの支援をしている。僕は主に保護者支援やスタッフへのスーパーバイズや行政等との連絡会議への出席なのだが、現場にいまだ立っていることは現実である。 そうした現場からみて、以前にもまして加速度的に報じられる子どもにまつわる諸事件を聞かされると、やはり嘆息せざるをえない。 また僕は、子ども若者支援分野でもう20
■発達障がい者支援-精神科診療所に期待すること 12/14に、大阪で「発達障がい者支援-精神科診療所に期待すること」と題するフォーラムがあり、僕も登壇することになっている(「発達障がい者支援-精神科診療所に期待すること」 2017年12月14日(木) 19:00~21:00)。 これは、(公社)大阪精神科診療所協会という精神科開業医の先生方の組織主催で、ドクター以外にも、僕(ソーシャルセクター支援者)や広野ゆいさん(NPO法人DDAC代表)など民間支援者や当事者もいっしょになって登壇する。このようなイベントは比較的珍しいと思う。 進行の大久保圭策さんや西川瑞穂さんは、大阪ではよく知られた開業医で、また発達障害治療に対して先験的だったことでも知られる(医師業界では発達障害治療について、つい最近までそれほど前向きではなかった)。 だから、医者の先生方主催で、僕のようなマイナーな支援者や、まさに
■「女子会」 最近、「ひきこもり女子会」が盛況だという。この記事(「ひきこもり女子会」が盛況な3つの理由 実態調査から漏れる主婦、家事手伝い…)によると、東京で開かれた「女子会」にはなんと100人も集まり、地方から訪れた方も珍しくなかったとか。 僕は、以前より「ひきこもり女子」の存在を知っており、その存在をなんとかポジティブに顕在化したいと思っていたので、この動きは嬉しい。 実はこれは「高齢ひきこもり」のポジティブな側面で、ひきこもりの中核世代である団塊ジュニアたちが続々と40才になっていることと関係する。 悩みの中身としては10代や20代の頃から変わらず傷つきやすいものの、なんというか、少し肩の力が抜けおおらかになっている。ある意味「諦め」もそこにはあるのだが、ユーモアも混じり始め、肩の力が抜けている。 これは「女子会」だけではなく、ひきこもりの「ピアサポート」にもいえることだ。 僕の法
■平等と貧しさ 少し前の話題だが、上野千鶴子さんが「みんなが平等に貧しくなればいい」と提起して「炎上」したようだ(上野千鶴子氏「貧しさを受け入れる」発言が炎上 批判の対象とは?)。 人々の炎上の動機はおそらくそれほど深くはなく、「無責任だ」とか「移民の難しさ」など、以前から日本社会でささやかれていたテーマを上野氏が彼女らしく顕在化しただけであり、その行ないはある意味賞賛されてもいいと僕は思う。 そうした点を差し引いても、実は僕にはどことなく違和感が漂う。その違和感をたぶん、炎上させた人々もどこかで抱いていると想像する。 上野氏らしい主張を無条件に支持してしまう人々はそれこそ「ポリティカル・コレクトネス」な人々であり、あのアメリカでトランプ政権支持者が過半数いたということを証明できない人々だ。 僕の思想はリベラルだが、上野氏的行為を無条件に支持してしまうことは現代社会のおもしろさと不思議さ(
■何かが足りない 僕の情報収集は、自分のFacebookタイムラインに貼り付けた各情報類(日経や朝日からローリング・ストーンまでメディア類中心⇔個人のページはあえてフォローをあまりしていない)のみになってしまった。 そこにこの前、BEAMSがつくったミュージック・PRビデオが貼り付けられていて、70年あたりから現在に至るファッション・モードの移り変わりが一瞬にしてわかり、それが結構おしゃれであり、でもなんとなく「ゾッとした」のでここに簡単に書いてみる。 その動画はこれ↓ 南佳孝の「スローなブギにしてくれ」ではなく、「ダンスフロアーに鮮やかな光~」という小沢健二「今夜はブギー・バック」のカバーから始まるこの動画は、途中あの森高千里も出てきたりして(まったく年取ってない!!)、最後は話題のサチモスで締める、ほとんどパーフェクトな動画だ。 繰り返し見ると、年代ごとのモードやブランドのロゴが流れ、
■それらが渾然一体となって「貧しさ」という意味をつくりあげる 前ウルグアイ大統領のムヒカ氏は、いわゆる「清貧」代表として度々日本のメディアでとりあげられる(少し前のインタビューだがたとえばこれ→【世界一貧しい大統領インタビュー】 「富を求めるよりも人生には大切なことがある」「広島へ行くのは日本人へのリスペクトです」)。インタビューを読むとたしかに尊敬できる人物のようなのだが、僕などは、この裏にはインタビュー内容以上に複雑な人生の旅路があっただろうと想像してしまう。 いわゆる「清貧」的イメージは、貧しさのリアルが曖昧になるという点で僕は苦手だ。貧しさは、清いだけでもないし、当然美しくもない。 また、「子ども」だからといって、同じく清いだけでもないし美しくもない。だから、少し古いが中野孝次『清貧の思想』への支持や、現在の子ども支援NPOが無条件に貧困層の子どもを肯定する思想には僕はついていけな
■「保護なめんな」ジャンパー 今回の、小田原市の生活保護担当職員の「保護なめんな」ジャンパーに関して、旧知の石井正宏さん(NPO法人パノラマ 理事長 )がブログでおもしろいことを書いていて(「保護なめんな」ジャンパーはケースワーカーの特攻服)興味深いのだが、なかでも、生活保護ワーカーたちが自分たちの職場や職種に対して「懲役4年」と自虐的に語っていたというエピソードは印象的だ。 特に教育を受けた人は除き、行政の生活保護ワーカーは基本的に福祉の素人で、3年か4年たてば、また違うセクションに移動していく人々だ。 それが彼女ら彼らのキャリアにどう影響を与えるかはわからないものの、どうやらそのセクションは「懲役」と呼ばれるほど苦行に満ちたものらしい。 まあ、福祉の素人がいきなり日本では最もハードな福祉分野のひとつである生活保護行政にまわされてみれば、それを「懲役」と自虐的にくくっても仕方ない。 行政
■AppleのCEOティム・クック AppleのCEOティム・クックは、早朝から始動しているので有名だ(朝4時、なぜ最も生産的な時間なのか?)。 同記事にもあるように、クックCEOだけではなく、アメリカでは早朝をいかに有意義に使用するかということが、エグゼクティブの証明でもあるようだ。 この引用記事を読むと、アメリカの早朝族は別にジムやジョギングやメールしたいから早起きしているわけではなく、静かに一人で過ごす時間を確保するため目覚めているようだ。 クックCEOも、朝イチでメールほかに臨んでいるようだが、それは部下からの煩雑な相談が提出される前に自分だけの用事を済ませることが目的のようにも思える。 ところで、オルデンバーグ『サードプレイス』(サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」)によると、アメリカと日本では「サードプレイス」が消滅してしまって久しいらしい。 フ
■「若者のすべて」 現在、地域若者サポートステーションの対象者は39才までに設定されており(地域若者サポートステーションって何?)、これは、行政的には若者の上限は39才であると定義していることと同義だ。 僕もここ20年間、子ども若者の支援(不登校からニート、高齢ひきこもりまで)を行なってきて、生きづらさを抱えた若者を支援するために、その対象年齢が徐々に39才まで上がってくるのを見守っていた。 それはそれで仕方ないと思いつつも、一方では「理念的な若さ」というものが人々に共有されており、それはたとえば「18~25才」だったり「18~29才」だったりするだろう。 ヴィスコンティ監督の作品に「若者のすべて」というアラン・ドロン主演の映画があったが、そんな古典を持ち出すこともなく、若者とは当然39才であるはずがなく、若きアラン・ドロンに象徴されるように遅くとも20代なかばあたりまでだろう。 また、今
■ヒラリーの謎 アメリカ大統領選の結果は明日わかることになるが、今回さかんにメディアで指摘されたのは、ヒラリーとトランプの両候補とも人気がなく、史上最低の大統領選になったということだ。 この人気がないということは、一般市民に人気がないということであり、貧困層が50%を占め中間層がどんどんやせ細り「降格する貧困」化していくなか(セルジュ・ポーガム (著), Serge Paugam (著), 川野 英二 (翻訳), 中條 健志 (翻訳),新泉社、また、望月優大氏ブログも参照,2016-10-23 日本の貧困は「降格する貧困」に近づいている。セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態』講演から。)、アメリカでは、貧困層と降格する中流層を真に代表する候補者が現れなかったということだ。 ずっと僕は、ヒラリーという女性候補を当選させない男性優位社会の力が最後の最後まで働き、FBIの介入などがあるのかと感心し
■全国の貧困支援NPOはがんばっている この前、わりと信頼できるNPO法人が、貧困子どもへの学習支援として新しい居場所を開設したニュースを読んだのだが、それがその都市では比較的裕福なエリアで、申し訳ないけれども僕はがっかりしてしまった。 別にそのNPOが悪いわけではない。そのNPOは、あるいは全国の貧困支援NPOはがんばっている。 ついでにいうと、僕自身の法人「officeドーナツトーク」も、経済的貧困エリアが集中する大阪市南部においてがんばっている。が、しょせんNPOでは限界がある。 というのも、貧困支援を含む行政の子ども若者支援事業は、その多くが単年度事業だ。ということは、毎年スタッフを雇用しなければいけない事業だということだ。 これが障害者支援や高齢者支援といった、既存の福祉事業であれば継続契約であることが多く、複数年に渡ってスタッフを雇用できる。けれども、貧困子ども若者への支援とい
■「孤独死には40代が多い」 僕の法人で雇用している40代元ひきこもりの男性スタッフSくんが、自分のFacebookページで「孤独死には40代が多い」というこのニュースを紹介していた(特殊清掃人が断言 孤独死で多いのは「独居老人より独身40代」)。 Sくんは言外に、ひきこもり問題と40才孤独死問題を僕に伝えたかったようだが、それはわざわざ言われなくても僕にはわかった。 孤独死は一般に高齢者の年代と言われてきたが、「高齢ひきこもり」の問題が徐々に一般化されるにつれ、いずれは40代50代の問題になると僕は予想していた。 それはもう少し先だと思っていたが、予想外に早くやってきたようだ。 上の記事にもあるように、孤独死の割合は40代50代に増えている。それは今のところ20~25%のようだが、この先さらに増えていくだろう。記事のなかでは「ひきこもり」のひの字も出てこないが、勤めていた企業をやめて一人
■「共生食堂」と「ケアつき食堂」 湯浅誠さんが「子ども食堂」のわかりやすい解説を最近書いていて(「こども食堂」の混乱、誤解、戸惑いを整理し、今後の展望を開く)、急拡大した「子ども食堂」を主として「共生食堂」と「ケアつき食堂」の2つに分類している。 昨今の貧困支援の一環として位置づけられる子ども食堂の取り組みは、湯浅氏の言う「ケアつき食堂](貧困の子どもへの食事支援)と捉えられがちだが、そもそも子ども食堂を創設した方や現在子ども食堂に各地で取り組んでおられる方々の多くは「共生食堂」、つまりは「コミュニティづくりとしての食堂」をイメージして始めているらしい。 僕自身は、大阪府立西成高校ほかで「高校生居場所カフェ」事業を行なっていることから(たとえばこのMBSドキュメンタリー予告編などを参照→ここにおいでよ~居場所を見失った十代のために~)、生徒からのニーズとしてよく現れる「食」に即時対応する貧
■メンバーシップとミドル・アップダウン 今回の「電通社員・過労死認定」に関しまして、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。 この出来事に関して、すでに多くの報道や論評があるが、日本の子ども若者問題と関連ある立場から、僕はやや「一般化」して問いかけてみたい。 それは、今回お亡くなりになられた方を含め、「スーパーエリート」が過労死してしまう社会環境をもつ我が国で成長していく子どもたちにとって、東大や電通といった学歴社会の頂点に立ったあとも待っているらしい過酷環境を想像することは、彼女ら彼ら子どもたちが抱く「夢」とどう関係していくか、ということだ。 こうした過労死を導く要因として、 1.「メンバーシップ」制をベースにしたドメスティックな職場環境 2.「ミドル・アップダウン」制単位で動く決定機構 3.1と2を背景にした、過剰な会議・稟議・ホウレンソウ 等があると言われる。 1.は僕はFa
■高齢ひきこもりをもつ高齢化した保護者支援 僕は、貧困支援(「18才以降に本格的にPTSDが出現しながらも、行政支援からは離されていく人々」の支援)をいろいろな支援機関とともに行ないながらも、一方では「高齢ひきこもり」の支援は引き続き行なっている。 僕が行なう「高齢ひきこもり支援」とは、「高齢ひきこもりをもつ高齢化した保護者支援」のことで、それは面談支援が大半だ。 現在よく出会うのは、本人40才超え、保護者(主として母)75才前後という組み合わせだ。 高齢化のために夫も生存している場合も多いが、夫=男性ジェンダーは、生存していたとしてもほぼ高齢ひきこもり子どものことには関心が向かなくなり、自らの老後生活を淡々と過ごしていることが多い。 母=妻=女性ジェンダーの人々は75才になったとしてもまだ割合とお元気で、かといって体力の衰えも隠せず、40代で相変わらずひきこもり生活を送る子どもを眺めつつ
■死者という他者はいつまでも生きている 僕は祖母を20代で亡くし、父を30代なかばで亡くした。 叔父も不幸な事故のようなもので亡くし、ほかに何人か親しい友人が死んだ。 また、詳しくは書けないが、支援の仕事でかかわってきた若者も、数人が旅立ってしまっている。 その全部の葬儀に出席したわけではないものの、出席した通夜・葬儀ではいつも棺の中に眠る故人たちを見てきた。故人たちは棺桶のなかで「花束」に囲まれ、鼻には綿で詰め物をされてはいるが、いずれも微笑的なものを浮かべている。 女性は「薄化粧」を施されている。 それらの死の一つひとつを、僕は今も時々思い出す。死の知らせを聞いたときは、予想通りの出来事であったり、あまりに唐突な知らせで時間が止まってしまったような感覚を抱いたこともあった。 ただそれらの死から年月が経ってくると、それらの出来事の一つひとつに徐々に意味が付け加わり始める。 また、死んでし
■子ども食堂は一種の「敗北」 貧困問題とは、実は「増殖するマイルドヤンキー問題」でもある。 エグザイルやワンピース人気もこの流れの上に乗っていると僕は思い、その線から当欄で記事を書いてみた(たとえばこれ→ヤンキーは「海賊王」がすき~階層社会の『ワンピース』)。 そのヤンキー層にとっては、実は「子ども食堂」は一種の「敗北」でもある。 一部の貧困層にとって「生活保護を受給することはダメなこと」と捉えるのと同じ意味合いで、子ども食堂のような「福祉的サービス」は、社会からの落ちこぼれ層が得るサービスだとしてラベリングされる。 そのこと自体はよくあることで、例の「弱いものがさらに弱いものをたたく」(ブルーハーツ「トレイン・トレイン」)の構図だ。 皮肉なことに、子ども食堂を提供する人々はどちらかというとミドルクラス=中流層中心で占められており、「子ども食堂」が醸し出す「人にやわらかい社会包摂的なイメー
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『田中俊英の記事一覧 - 個人 - Yahoo!ニュース』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く