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パリ五輪
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以下、菅義偉『政治家の覚悟』(文春新書版)とその刊行元である文藝春秋への抗議です。シンプルに言って、絶対に許される行為ではないです。 大変わかりやすい。行動に記述を合わせたということか。 菅首相の著書、改訂版が発売 公文書管理の記述消える:朝日新聞デジタル https://t.co/YCfJJvolmy — 岩永直子 Naoko Iwanaga (@nonbeepanda) October 19, 2020 残していないので、「残すのは当然」を残さずに削除。 「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です。その作成を怠ったことは国民への背信行為」を削除。 https://t.co/L0DULOgAFE — 武田砂鉄 (@takedasatetsu) October 19, 2020 削除する箇所が凄いな。公文書なんぞ残さんぞの強い意志。→「政府があらゆる記録を克明
幻冬舎、そして見城さんの対応について本屋がすべきことについて考えている。作家さんからの声はたくさん出ている。もちろん読者からも。 しかし本屋は声をあげにくい。以前の『日本国紀』騒動や昨夏の「新潮45」問題などでも同様だったが、本屋が出版社から本を仕入れて営まれるものである以上、どうしても上下関係を意識してしまい、批判の声をあげることが難しく思えてしまう。もちろんこれは作家-出版社間の関係でも同様だし、さらに言うと「出版社は本屋に本を置いてもらってる/作家に本を書いてもらってる」とも考えられるため、場合によっては上下は逆転しているかもしれない。 でもやはり本屋は出版社に対して弱いのだ。少なくとも幻冬舎や新潮社のような「大手」に対しては。まあとにかく。今回、幻冬舎が津原さんに対して行なったことは、そのまま本屋に向けられる刃でもある、ということは、知っておかないといけないと思う。 津原さんは『日
現在の出版業界の苦境は配本制度が生み出したものだと思っている。端的に結論というか理由を書いてしまえば、本屋に本を選ぶ力がなくなってしまったから、ということだ。 配本制度のすべてが悪いということではない。初回配本やサポート(リリーフ)配本に意味はある。ただそれは、あくまで書店員の補助としての役割であって、配本が主になってはならないのだ。 おそらくかつては本屋がすべての本を選んでいたのだろう。それがいつの時代かはわからないが、自分ですべての本を選び仕入れることが難しくなってしまった。本の点数が増えたこと、本を読むひとが増えたこと(かつて本は嗜好品かつ高級品だった)、そのふたつが相互に作用してとにかく「数(量)」が増え、本屋の脳ひとつでは処理しきれないようになったのだ。もちろん本屋の規模も大きくなる。店舗数だって増える。そこで登場したのが配本という考えなのだろう。このあたりの歴史的なものは確実に
2019/11/18追記・修正あり トランスビューという、出版社なのか取次なのかよくわからないところでしこしこと働いているのですが、最近少しずつ世の認知度も上がってきて、というか取り扱い版元数の増加と良書の増加によって読者がトランスビュー扱いの本を所望する絶対数が増え、だがしかし書店側はあまりトランスビュー(の仕組み)を認知していない、故のあれやこれやが増えている、気がするので、ちょっとここらで簡単に、僕が知っている仕組みだけでも説明しといたほうがいいような気がしまくりまくりなので、はい。この本欲しいんですけど。(うーんよくわからないな。検索も出てこないし)取り寄せできない本ですね。とかなっちゃうとみんな悲しみ切なみ溢れまくりですし。おすしたべたい。 ここはちがうね!というところがありましたらお直しをおねがいしまする特に関係者のみなさま。 ちなみにトランスビューの仕組みについては『まっ直ぐ
先日ヘイト本や差別本についてのnoteを勢いで書いたら思ったより反響があった。なので、追記というか、その後に考えたことなどを記しておく。 まず、僕が僕の本屋で行なう「対応」は、僕が僕の本屋で行なうからこそできるものであり、それをやっていない本屋はクソである、ということではないし、そういう風に捉えてほしくない。そしてそうやって拡散されるのも望んでいない。書店、そしてそこで働く書店員には各々事情がある。僕が例の対応をできるのは僕に(他者への)責任や失うものがないからだ。ようは僕の本屋が潰れても困るのは僕だけだし、そもそもまともにスタートもしてないから借金が残るわけでもない。だから思い切ったことができる。 で、だからこそ僕がきっかけになればいい、とは思った。動きやすい人が動く。その先は、各々のできる範囲で。クラスのお調子者が「はいはーい」と手をあげてバカなことを言う。するとそのあとが続きやすくな
長いことモヤモヤしていたことへの区切り、覚悟のようなものがついた。いや、つけたいからつける。いまから。 講談社のケント本、そして新潮45と、いわゆる大手の出す「腐った本」への向き合いかた。 念のためはじめにことわっておくけど、「腐った本」という判断は個人的なものでしかなく、僕が「腐った本」と判断した本を良書として扱っている本屋があってもいい。あくまでも本と本屋への評価を下すのは読者であり、僕は僕と僕の本屋を信頼してくれているひとのために本を選び本屋をつづける。だからこれから話をする「向き合いかた」は、僕個人の向き合いかたであり、その「やり方」を真似るとしてもその「中身」が違うことはあっていい。 本題に戻って、ようは、 心ではこんな本置きたくないと思っているが本屋をつづけるための売上を維持するためには置かざるを得ない(「大手だから」という理由も込みで)、という「現状」と。 新潮社や講談社の本
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