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体力トレーニング
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僕の体験した東京の80年代 第22回 アンファン2 吾妻光良&スゥインギン・パッパーズ 平沢進 オリジナル・ラヴ 橋本一子 1989年にいとうせいこう「MESS/AGE」がリリースされ、 同じく僕は自身のプロデュース作品第2弾「アンファン2」をリリースした。 クレジットを見ると、まだエムパイヤ・スネーク・ビルディングだ。 1987年にリリースした初のプロデュース作品「アンファン」が好評で、 リリースしてから割りと早い時期から続編の話が出ていた。 と言うより、自分の中では1をリリースする前から既に2を作る事は決めていた。 更に言うと、当時のインタビューをいま読み返していると、10作品出せば古典になる!とまで言っていた、最低でも5作品は出したい、と。 残念ながら今のところリリースは3作までだ。 CDという、当時の最新型を如何に上手く使って、どう表現出来るか? と、毎日のように頭を巡らせて考えて
1987年「アンファン」がリリースされた同じ年に、 リアルフィッシュのあの名盤「ジャンクビート東京」がリリースされた。 矢口博康君がまだエスパー矢口名義だったかな、、、戸田誠司君率いるSHI-SHONEN、ムーンライダース周辺、高橋ユキヒロさんの事務所オフィス・インテンツォのスタッフとかと割と仲良くしていた、飲み会の写真があったりするから、きっとそうだったのだろう。 既に「アンファン2」の準備に取り掛かっていたのかもしれない。 実際に「アンファン2」には矢口博康君、鈴木さえ子さん、ムーンライダースの鈴木博文さんとカーネーションの直江政広君とのデュオ、政風会も収録されているし。 確か矢口君か戸田誠司君から僕に打診があって、桑田佳祐さんがラップに興味があるんだけど、いとうくんに参加して説明してもらってラップを一緒に、みたいな話からヤン富田さん、タイニイパンクスも参加して、、、という経緯だった気
カセットマガジン「TRA」と出会ったのは、池袋西武にあったストア・デイズだった、と思う。 その圧倒的なカッコ良さにやられてしまった。 TRA自体は集合体であり、カメラマンの伊島薫さん、デザイナーのミック板谷さん、そしてプロデューサー、後にThe Thrill(ザ・スリル)の指揮者にもなる式田純さんから成り立っていた。 TRAに関する実務は式田さんの会社「パーソナリティーズ」が行なっており、僕はこちらに所属、勤務することになった。 式田さんは元丸紅の商社マンで、だからなのか、は未だにわからないのだが、メモ書きなどの文字は全てカタカナで統一だった。外国人が読みやすかったからなのかな。ならばローマ字の方が良いような気がするけど。 朝は9時半に西麻布の事務所に出社。終業は毎晩終電ギリギリ。 家に着くのが深夜1時近い毎日だった。 当時、フィオルッチ、ストレンジ・クラシックなどの代理業務をやっていたの
今年惜しくも亡くなったハル・ウィルナー。 彼が手掛けた作品はどれも本当に美しかった。 なかでも、1981年にリリースされた「アマルコルド-ニーノ・ロータ・メモリアル・アルバム」は、もとの映画音楽、ニーノ・ロータのことも好きだった僕には格別だった。 これこそが"コンピレーション"だ! このアルバムと「星空に迷い込んだ男 - クルト・ワイルの世界」がなければ、マーティン・デニーのコンピレーションも、そしてのちに触れていくことになる、僕の初めてのプロデュース作品「Les Enfant」も存在しなかったと思う。
富ヶ谷にあった僕の事務所は地下にあって、ちょっとした異空間だった。 初めての自分だけの場所。 それは幼少期から作っていた「基地」だったかもしれない。 「宇宙」をテーマに。 デスク・スペースには銀色の鉄板がテーブル代わりに。 そこに60年代に実際に使用されていた電話、とアクリルで出来た椅子。 そこに僕が東急ハンズで毎日のように買ってきたホワイト、ピンク、ブルーの風船が膝丈くらいまでに。 それをかき分けないと電話すら取れない。 またもう一つの打ち合わせスペースには巨大な宇宙のポスターが。 その星を一つずつを蛍光ぺンで塗り、ブラックライトで照らしていた。 扉にはP-Funkのポスター。 ちなみにブラックライトはオリジナル・ラヴ「Love!.Love!&Love!」のアルバム・ジャケットで使用したものだ。 毎週木曜日の夜12時には事務所がバースタイルに。色んな知り合いがふらっと来ては語らい、飲んで
1991年1月25日から遂にオリジナル・ラヴはメジャー・デビュー・アルバムのレコーディングに入る。 4月14日に終了。 これはリリースに先駆けて、メディア関係者向けに配ったものだ。 デビュー・シングル「Deep French Kiss」及びデビュー広告らのメイン・イメージは横浜の老舗ライブ・ハウス、エアジンで撮影。 女優の高岡早紀さんのお父上がオーナーだとは最近知った。彼女のジャズ・アルバムもどおりで素敵なはずだ。 この場所を選んだのは、ジャズの持つ凛としたダンディズムなセクシーさが必要だったからだ。 デビュー・アルバムのビジュアル・イメージはジミ・ヘンドリクスの歴史的名作「エレクトリック・レディランド」をモチーフにした。 この辺りからは、ほぼ毎日はオーバーだけど、当時中目黒にあった信藤三雄さん率いるコムテンポラリー・プロダクションに本当に良く通った。(実際に後にクレモンティーヌ、ボニー・
初の渋谷クアトロ・ワンマンを大成功に終え、 3カ月毎のクアトロでのレギュラー・ライブがスタート。 田島君のやりたいサウンドにメンバーが入れ替わり、立ち替わり。 そんな中、レッドカーテンの頃からのオリジナル・メンバー小里誠が去ることになる。(その後彼はコレクターズから自身のユニット、フランシスで活動中。うちのパーティにも参加してくれている。) ベースを誰にしよう?オーディションを繰り返す。 そんな時、あ、井上富雄君はどう?と田島くんに提案した。 ブルートニックを解散したばかりだし、彼ならではのブルーアイド・ソウル・フィーリングはいまのオリジナル・ラヴのサウンドにピッタリなのでは! 早速アポを取り、2人で井上君宅へ。 聞けば、ザ・ルースターズを辞めてからはベースは弾いておらず、そもそもベース自体も手放してしまっていた。 思えばブルートニックではベースではなくギターだったし(汗)。
田島貴男君との出会いの前に、 やはりピチカートファイブとの出会いの話になるかな。 初めてピチカートのライブを見たのは渋谷パルコ・パート3だったと思う。細野晴臣さんのノンスタンダード・レーベルのイベント。 ブルートニックとピチカートファイブの対バン、に僕がDJとして参加。 まだデビュー・シングル「オードリー・ヘップバーン・コンプレックス」がリリースされたあたり。 その後、CBS SONYから出た初アルバム「カップルズ」があまりに素晴らしく、当時僕が担当していた雑誌「ホットドッグ・プレス」の巻頭ページ、Viewのコラムで「カップルズ」を紹介してから、小西君と仲良くなっていった。 ちょうどその頃、青山にあったサル・パラダイスでの僕と東京スカパラダイスオーケストラのドラマー青木達之とのレギュラー・DJパーティにも小西君がゲストでDJで参加してもらったりするようになったり。 そういえば、小西君が当時
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