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ドラクエ3
onoya.hatenablog.com
http://www.helloproject.com/news/0907110000_arihara.html こういうんじゃないよな、と思います。こういうんじゃないです。 語弊のある言い方かもしれませんが、アイドルがアイドルを辞めて普通の女の子になるということは、ぼくらにとっては死んだも同然なのです。 メディア現象であるところのアイドルが、メディアから姿を消すことは、それはアイドルの死なのです。 ぼくはアイドルが死ぬことを惜しむんじゃないのです。惜しんだこともあったけど、それはもう仕方のないことです。 ただ、その死を受け入れる仕方というものがあるだろうということなのです。 愛する人が死んだと、病院から急な電話があり。もう死体は荼毘に付しました、お葬式もしません。と。 もう会えません、もう見ることはできません、言葉をかけることなどできません。 語弊のある言い方かもしれませんが、それでもア
なっきぃと似ているというクッキンアイドルについて書こうと思う。 顔が似ているのは間違いないが、もっとも「なっきぃ性」を感じるのは、このまいん役の福原遥が、全然口を閉じないということだ。 教育テレビの番組に出る子役がアイドルとして立ち現れることは、別に珍しいことではなかろうと思うが、いくつかの点において、アイドル現象に関して考えることを書こうと思う。 ①実写とアニメのコラボ ハロプロにおける「久住小春―月島きらり」をはじめとするアイドルの声優化は、アニメとアイドルの、虚構という点においての親和性を示すものだ。ただ、この番組と、ハロプロにおけるアイドルの声優化のあり方は若干異なっている。久住小春―月島きらりの関係性が、基本的にはモーニング娘。の久住小春が月島きらりを演じていることにおいて、月島きらりが久住小春に従属するという縦の関係になっているのに対し(もちろん「おはスタ」等で実写においても久
「なぜヲタはヲタTを着るのか」という問題について考えたい。 ここで「ヲタT」という語で指示したいのは、ハロプロ系のコンサートグッズとして売られる、アイドルグループの各メンバーごとに色分けされたTシャツのことである。ヲタの多くはこのTシャツを買い、コンサート中にそれを着用してアイドルを応援する。一体なぜ、ヲタはヲタTを着るのか。*1 この問いは二つの面から問われることになるだろう。一つは、「なぜ男性ヲタの多くは、アイドル(好きな人)に会う*2のにおしゃれをせずにヲタTなんか着るのか」という問題、またもう一つは、「ヲタがアイドルにもしただ一人の存在として認識されたい・愛されたいと思うならば、他と差別化された独自の格好をするべきなのに、なぜ多くのヲタは他のヲタと揃った同じTシャツで応援をしてしまうのだろうか」という、いずれも「見られ方」に関する問題である。 まずは前者、「なぜヲタはおしゃれをせず
あまりまとまらないことを書こうと思う。 性的な欲望に関して、仮に 「女性 → 少女・少年 → 動物 → 非生物」 というようなアブノーマルな方向性があったとする。 欲望の対象が「少女・少年」だと、いたいけな子供たちを陵辱するイメージで、犯罪の匂いがどうしてもしてしまうのだけれど、対象が動物になるともはや変態度が高すぎて犯罪という感じがしない(少女をくすぐるビデオに興奮するのは犯罪の匂いがしても、動物がくすぐられるイメージビデオに興奮する人には犯罪の匂いがしない、犯罪というより、ただひたすら変態であるという気がする)。性的な欲望が非生物を対象にする例はうまく思いつかないのだけれども、というかそもそも無生物を相手にした段階でもはや「性的」ではないのだが、それに類するものがあるとすればフェティシズムだろうか。 参考:世界の5大ありえないフェチhttp://gigazine.net/index.p
昨日のことですが、どうしても行きたいと思ったので行ってきました。 SHIBUYA BOXXというキャパ280名の会場。 ℃-ute現場でも見るような顔がちらほら。 客層は℃-ute現場と大して変わらなかったが、ブランド物と思しきもので身を包んだ女の子が、やはり派手派手しい格好をした母親と歩いていた。なぜか小さい男の子もいた。 さて、イベントはまず、アミューズ所属の「ミニパティ」が登場し「Over the Future」の振り付け講座をするという、要は顔見せ的なコーナーから始まった。「ミニパティ」はアミューズのサイトによれば、「小学生による見習いパティシエユニット」ということだが、いまいち方向性がよく分からん。 さて、可憐Girl'sの登場。 Fly To The Future(初回限定盤) アーティスト: 可憐Girl’s出版社/メーカー: Geneon =music=発売日: 2009/
「月刊加護亜依REMIX」というのも最近売っているそうですが、買わず。 1月に買った「月刊加護亜依」の感想をまだ書いていなかったので今さらながら。 月刊加護亜依 (SHINCHO MOOK 111) 作者: 笠井爾示出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2009/01メディア: ムック購入: 2人 クリック: 300回この商品を含むブログ (32件) を見る どうしてもアイドルの実存的な問題を考える上で、僕の中では加護亜依は批判すべき対象になってしまう。別に個人攻撃をしたいわけではなくても、今のような彼女のあり方とか言動とか(まあすべて追いかけているわけではないのだが)を見ていると、不安定な感じがしてしまう。それはアイドルの弱さゆえのかわいさ、などとは全く違う。 写真集中盤のインタビュー記事を読むと、やはりぼくは釈然としない思いを抱いてしまう。 『もっとリアルな人になりたいと思った。すべて着
昨日、コミケの3日目に行ってきました。 サークル参加のお手伝いで行かせてもらいましたが、貴重な体験でした。 単純な感想ですが、いろんな人いるなあ、ということと、好きなことに力を入れることは素晴らしいな、と。 モーニング娘。学会でコミケに出ることも検討中。 さて、コミケ後は飲み会でいろんな人との議論をしましたが、特に2次元側の意見を聞くことは重要だと思った。 アイドルとは?オタクとは?主体とは?現実と虚構とは?っていう議論が、様々な視点が入ることで、答えは出なくとも問題としてクリアなものになる、というのが楽しい。 特に検討すべきは、主体の問題と、2次元ヲタと3次元ヲタが歩み寄る様(カンナギ騒動などを例として)、信じるってなんなんだということ、そしてそれに恋愛論がどう絡んでくるのか。来年は長い文を書こうと思う。
先日のエントリは諸々反応をいただきましたが、言いたいことは、コミュニケーションそのものが目的化している人間や、目的化する場面が、(自分も含め)増えているのではないか、ということです。そのことを強調したかったがために、歴史問題に関してうんぬんすることは避けました。最終的に制作陣が謝罪するのは妥当だと思うけれども、そこまでに至る盛り上がり方がなんだかおかしいという違和感があったわけです。 ところでぼくは先日も書きましたが、歴史は単純に何でも相対化できるとは考えていないし、すべきではない、という倫理観です(どうも誤読されていそうですが)。 もうひとつ、考えていかないといけない問題は、アイドルがバカであることについてです。これについては、実は非常に難しい問題を抱えている。 ぼくはアイドルがバカであることは仕方がないと思っている。だけれども、アイドルがバカでいいと思っているわけでもない。例えば、珍解
テレ東の深夜番組「よろセン!」で偉人としてヒトラーが取り上げられたことに関する批判があるとかないとか。日刊サイゾーでも記事になっています。 …大したことじゃないなあ。 アイドルを知識・常識がないという点で批判することの愚かさは今さらいうまでもない。そんな当たり前のことを指摘することによって辛うじて優越感に浸って生きている人間のことはほっておけばよいと思う。 制作スタッフへの批判もある。まあそれは理解できる。無難に作ろうと思えば、いくらでも出来たはずだ。 ここで、視点の取り方によって歴史の記述の仕方が圧倒的に変わってしまう(例えばヒトラーを偉いと記述できる可能性がある)、という相対的な歴史観を論じることも可能性としてはできようが、しかしそれは深夜のアイドル番組に関してなされるべきではないように思う。 アイドルということに関して重要と思われることは、歴史(実際にあったとされる事実)という権威あ
恋もヲタクも全力投球といきたい斧屋ですこんばんは。 さて、アイドルへの執着が擬似恋愛である、などと言う向きもあるようですが、一体に恋愛とアイドル愛がどう違うのか、ようやく体感できてきたので書き記してみたいと思います。 恋愛をちゃんと始めて(つーか久しぶりに恋愛をして)思うのは、①恋愛をメタ化する視点を持つことが極めて難しいこと、②恋愛が双方向的コミュニケーションであり、どう思われているかという恐れが常につきまとうこと、がヲタと違って面白いな、ということです。 どちらも、そこに厳然と、濃密な他者がいる、と、そういうことなのだと思います。 ①恋愛をメタ化する視点を持てない ヲタと恋愛、むしろ恋愛がこんなにも脆弱な、不安定な地盤の下に進むものだとは。少しでもメタ化した瞬間に崩れ去るような不安がある。逆に、ヲタと比べ、濃密な身体性の濃度。これが恋愛体験をメタ化する契機を失わせる。メタ化とはともかく
アイドル愛を擬似恋愛と捉える方は、上記エントリの①のような相対化する視点を持つヲタではなく、まさにベタにアイドルに恋愛をしてしまっている人間をこそ念頭に置いているかもしれない。 アイドルとアイドルオタクが幸せな関係を築く方法(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080913/1221280617) 上記エントリにおいては、「擬似恋愛」と「ほんとうの恋愛感情」とが区別されているが、そんなことはどうでもよい。ともかくも、ベタにのみ対象に耽溺しているヲタを考えた時、「アイドルオタクたちが、本当の意味で幸せになれること。ぼくが野球や小説に感じたような幸せを、アイドルオタクたちもアイドルに対して感じられること。そうして、死にたくなるようなショックを受けるといったことは、絶対に回避すること――」という問題意識を上記エントリの筆者は書き記す。そして結論としてアイドルの恋愛
ちまたでは、はてなにおけるハロヲタの存在みたいな話題もあるようですが、それとも絡む問題かも。 モーニング娘。学会で話題になったことは、アイドル論の成り立ちづらさ、である。僕はメディアに載るアイドル論でまともなものというのは宇多丸氏か、あとは中森明夫くらいしか思いつかない(もっと知ってる方、教えてください)。 アニメ・まんがに関する言説はあふれているのに対し、なぜアイドルに関する言説は少ないのか。印象論だが、はてなにおいても、アイドル論を書いているブロガーは少ないと思う。これはよく言われる、ハロヲタがブクマをしないからその存在が知られない、という話に終わるものではないだろうと思う。 また、もちろんアニメ・まんがに耽溺するオタクの数とアイドルヲタの数の比率のことも考えなくてはいけない。ただ、それにしてもちまたにあふれるアニメ・まんがに関する言説とアイドルに関する言説の量の差には、もっと決定的な
現実にうつつを抜かして、ブログ更新もままならない斧屋ですこんにちは。 リアルの濃度ということに思いをはせる。 現前性、そこに身体があるということの強度を思う。 身体があるからさわれるんではなくて、さわれたら、そこに身体があるということ。 さわれなければ、そこには身体はないということ。 アイドルはなかなかさわれないから身体性が希薄なのだ。 ベタベタさわれるようじゃアイドルじゃない。 かろうじて手と手が触れ合うのみだ。 だから相対的にはやはり軽い。 身体が希薄だということは、その対象の重みを引き受けないということだ。 それに対して、現実に身体をべったり触れる行為は、その対象の重量を抱えることだ。 その重さを耐えうるか。しかしその重さこそが圧倒的なリアルとして立ち現れる。 恋愛の濃密さから、リアルを学ぶ。 さて、八王子の良席を狙う。 身体性まで引き受けたくて、どうしても近くへ。濃密な知覚へ、アイ
僕は写真集を買う。 今まで買ったのは、矢口真里、辻希美、松浦亜弥、道重さゆみ、矢島舞美、嗣永桃子。ほか、グループの写真集もたくさん買っている。 それでいて、そもそも僕は写真集というものがよく分からない。なんで買うのかなあ。これは、ライブになんで行くのかなあ、と同じ疑問だろうか。 2002年あたりから、ハロプロのメンバーが写真集を出すようになって、それもまあ、水着ショットを含むものが当然のように売られるようになって、僕は当時大きな違和感を感じたことを記憶している。水着なんか着なくても十分魅力的だ、というよりは、水着を着てはいけない、というような感覚か。それまで、モーニング娘。は明らかに物語で勝負していた。例えば「うたばん」が面白かった時代というのが、モーニング娘。の物語性が力を持っていた時期だと言える。 それに対して、アイドルの身体性を露わにして我々に提供する写真集というのは、我々の物語る能
以前の「場のルールはどのように形成されるのか(3)」(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080807/1218128487)は、いろいろ思惑があって書いたものだが、内容としてはやはり不備があった。 神宮花火大会におけるベリキューヲタのはっちゃけぶりに関して、僕はヲタの立場から徹底してヲタの立場を擁護した。が、http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/nacci/ の8/13〜14で極めて正当に批判されているように、場のルールを運営者に委ねることによって理論的に責任転嫁を図ることであったり、ヲタ対一般という構図における非対称性を考えた時、実質上ヲタの居直りでしかありえないような言説を著してしまったことには問題があったと思う。とは言え、それであってもなおやはり、ヲタという立場から言葉を紡ぐ時、前回のエントリに意義はあったのだととりあえず言い
2008年8月13日 レジュメ「複相化戦略」を一応あげておきます。ほとんど実際のと変えていません。先日のエントリのまとめなので、読んだ方にはあまり意味がないと思われる。 *複相化戦略* アイドル現象を以下の図によってカテゴライズしてみる。 【本質】…アイドルを、「何をなしたか」という「行為」において評価する軸。それが歌であったり、演技であったりした場合、その「作品」を評価する、という視点。 【表層】…アイドルが「何であるか」が問題となる。顔や肉体、声といった現象がそのまま受容される。アイドルが「存在」として見られる。 【リアル⇔非リアル】 「リアル」…「もっともらしさ」と「現前性」によって定義づけられるものとする (伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」P85)もっともらしさ…「実際にありそうなこと」に感じさせるもの 現前性…「目の前で起きているように感じさせたり」、「作品世界の出来事がありそうか
アイドル概念は、恒星である。直視できない。それを観測するにはサングラスをかけないと。サングラスはメディアだ。メディアを介さないとアイドル概念を捕捉出来ない。ちなみに個々のアイドルは惑星である。恒星の周りで付かず離れずの距離を取っている。あまり近くにいるとその熱で早々に消滅してしまう。惑星の構成要素はいろいろある。個々の惑星は時と場合によって様々に構成要素を変えながら恒星の周りに位置づけられる。例えば、以下の図によって、暫定的にアイドルをカテゴライズすることが可能になるだろう。 まずは【本質⇔表層】と、【リアル⇔非リアル】の軸についての説明が必要だ。 【本質】は、アイドルを、「何をなしたか」という「行為」において評価する軸である。それが歌であったり、演技であったりした場合、その「作品」を評価する、という視点になる。逆に【表層】は、アイドルが「何であるか」が問題となる。顔や肉体、声といった現象
ま、全て最高で終われば言うことなしなんだけど。 こういう、開かれた場では、どうしても「一般人VSヲタ」が問題となる。 多くの一般人は、花火が目的で来ているため、特にその前のライブが見えづらくたって、ヲタが気持ち悪く叫んだり踊ったりしたって、逆に楽しんでくれたりもする。だけど、それが自分の至近距離で自分を脅かす形でされたら、当たり前だが不快だし怒るのだ。 具体的には2つ。 1つは、自分の席の後ろが親子連れだったのだが、自分含めてヲタが立ったものだから、ステージが見えなくなって、前の方の席に移っていってしまった件。この親子連れはその後も通路はさんだところのヲタが激しく踊っていることでかなり迷惑を被っていた。 2つ目は、ヲタがドリーム(席移動)して狂喜乱舞していた席に、本来そこの座席のチケットを持っている人が来て、係員がヲタをもとの席に戻るようにうながしたところ、特攻服を着たヲタが逆ギレしながら
先日の、「1.誰がアイドルを信じているのか」の続きです。 「信じる」という言葉は不思議だ。「信じている自分」を意識した途端に、その信じる対象の不確かさに思いを馳せている。以前新宗教の信者の方に、「宗教の真理を「信じている」じゃなくて、「知っている」と言うべきではないのか」と問うたことがあるが(それへの返答はどうだったか忘れた)、「信じている」という言葉を使うのは不確かだけどあえてそう思う、ということにおいて、信じていない。信じている状態の時に、信じているという言葉は使えないはずだ。 一方それでも、その「信じる」という言明によって、あるいは信じようとするその精神の志向性の強さによって、信じるという行為が成立する余地がなお存在するのではないかという気もする。 「アイドルを信じる」という言明をする場合、まずそのアイドルが括弧の中に入っている。「アイドルを信じる」とは、「自分がそのアイドルをこうい
夏焼の件がとりあえず収束した、と見ていいのだろうか。 とは言え、STK対策ってのは本気でなんとかしないといけない。アイドルが、そうした存在がいることへの恐怖を感じることによってアイドルの魅力を削がれてしまうことはあまりにも悲しい。そこらへんの対処って、やっぱり裏の稼業が必要なんだろうか。 さて、こうした騒動における我々の自戒として、件の画像や動画を見た時点で同罪であるとか、片棒を担いでいることになるのだ、とかいう議論がある。ふーむ。 STKの快楽というのは非常に分かりやすくて、自分の影響力に全能感を感じる、自分が特権的な位置にいるという優越感だ、という凡庸な解釈で大して間違っていないと思う。騒げば騒ぐほどSTKの思う壺だと、まあそういうわけですな。 ところで、この時STKは、自分が情報量として特権的な位置にいる、ということとともに、「対アイドル関係」においてもメタ的な位置から俯瞰しているか
なんだかんだ他のことを書いていたので、℃-uteイベ品川を1週間遅れで振り返る。 仕事が終わってギリギリ間に合わせる、ということを2週連続でやってしまった。 ℃-uteヲタとして感想を述べるならば、最高だった、という一言で十分だ。最近の℃-ute現場では、℃-uteと自分、少なくともどっちかは泣いている気がする。 握手会は、例によって、なっきぃに「頑張れ!」と言ってもらうプレイ。なっきぃのために頑張ります。 さて、「場のルールがどのように形成されるか」ということを先日考えたのだったが、具体的な事象としての「サイリウム祭」等を今日は考える。(ヲタじゃない方はキーワードの「サイリウム企画」の説明をお読みください。) Ⅰ.ヲタがルールを作る サイリウム祭の是非については昔から考えてきた。簡単に言えば、「タンポポ祭」の奇跡は、ヲタの無償の愛の表現であったが、それが次第にヲタの自己満足になってきたの
4.ヲタ芸の死 ハロプロの現場である程度確立したヲタ芸の型は、主に秋葉原で活動するようなマイナーなアイドルに対する応援の文化としていつの間にか定着したらしい。 気がつけば、昨年、今年と、メディアで取り上げられるヲタ芸というものが、もはやハロプロとは何の関係もない現場におけるものになっている。フジ深夜「コンバット」における「オバ芸」にしても、NHK教育で2007年5月に放送された「一期一会 キミにききたい!」にしても、僕からすればなんだかずいぶんヲタ芸が遠いものになったな、という印象。 昨年4月には「ピュアロマンス」という、「ヲタ芸を世に広めよう!」というコンセプトのアイドルまでデビューしている(9月に解散)。(参照 ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=oupZqTqjZyQ)映像を見てもらえば分かるけれど、こんなマニュアル化された「ヲタ芸」は、もう死んでいるの
3.ヲタ芸の衰退 ヲタ芸がハロプロの現場において見られなくなるのは2005年だったか。僕は2005年10月16日の相模大野の後藤真希のコンサートで、はっきりとヲタ芸が打たれなくなっていることを感じた。今もって、僕はハロプロ現場におけるヲタ芸の衰退の理由をうまくつかめないでいる。ただ、原因となりそうなことがいくつか思い当たる。 ①マナー意識 当然のことながらヲタ芸は常にマナーという観点から非難の対象だった。OADもロマンスも隣の人にひじが当たる危険な技だ。隣がヲタ芸師だとたまったものではない。僕も打つときはヤフオクで通路席を取るという申し訳程度の配慮はしたが、そもそも、隣の席でなくても目障りだ、おまえの狂喜乱舞を見に来たわけではない、と言われるとどうしようもないのだ。いずれにしても、ライブ会場内でのヲタ芸は相対的に減ってくる。一方、2005年以降でも、ライブ会場ではないところでのヲタ芸は激し
ヤンヤンを今読んでいるところ。 1.ヲタ芸の発生 の補足 さて、まずは上記のエントリの補足をしなければいけない。タイムリーな話題とは言え、こんなりブクマがつくとは思わなかった。ここまでヲタと関係のない外部の方が読むとなると、もっと厳密に言葉を選ばなければいけないし、慎重に語る必要がある。 さてまず上記のエントリはだいぶはしょって語っている。まず、前田有紀がヲタ芸の起源だと言う気はないのでそこは誤解のないよう。あくまでヲタ芸発生の要因の象徴的事例として挙げたということです。 トラックバックもいただいて、極めてもっともな批判をいただいています。ハロープロジェクトの合同コンサートにおける前田有紀の曲でヲタ芸を打つことがなぜ「最悪の応対ではない」のか。これ、実際にハロヲタとして共通体験をしている人にとってはおそらくある程度理解してもらえることだと思っている。ところが外部の視点から見ると、圧倒的に納
2.ヲタ芸の隆盛 さて、基本的には推しではない演者のところでするものだったヲタ芸(主にOADやロマンス)は、2002〜2004を流行のピークとしたように思う。 2001年夏にコンサートに初めて参加した僕の記憶では、はじめはPPPHくらいしか統一性のある動きはなかったように思う。そこから年を経るごとにOADやロマンスは次第に現場で広まっていった。 そして、2003年初頭(たぶん2月11日)のテレビ東京の音楽番組「MUSIX!」にて、藤本美貴のよみうりランドでのイベントの映像が流れ、「マワリ」をするヲタが晒された。スタジオで矢口真里らが「ステージを見てないんですよ」と「マワリスト」を笑う映像が放送されたことによって、ヲタ芸はアイドルのお墨付きを得たのだ。基本的にヲタ芸は「指差されて笑われる」ことを志向している。アイドルに笑われることはヲタにとって至高の喜びであっただろう。この放送がゴーサインと
1.ヲタ芸の発生 の補足 さて、まずは上記のエントリの補足をしなければいけない。タイムリーな話題とは言え、こんなりブクマがつくとは思わなかった。ここまでヲタと関係のない外部の方が読むとなると、もっと厳密に言葉を選ばなければいけないし、慎重に語る必要がある。 さてまず上記のエントリはだいぶはしょって語っている。まず、前田有紀がヲタ芸の起源だと言う気はないのでそこは誤解のないよう。あくまでヲタ芸発生の要因の象徴的事例として挙げたということです。 トラックバックもいただいて、極めてもっともな批判をいただいています。ハロープロジェクトの合同コンサートにおける前田有紀の曲でヲタ芸を打つことがなぜ「最悪の応対ではない」のか。これ、実際にハロヲタとして共通体験をしている人にとってはおそらくある程度理解してもらえることだと思っている。ところが外部の視点から見ると、圧倒的に納得がいかないことになりそうである
前回のエントリを引き継いで、ヲタ芸について考える。過去2年くらいで書いてきたこともふまえて。 ちょっと仕事まで時間がないから途中まで書きます。 1.ヲタ芸の発生 ヲタ芸は広義のものとしてはPPPHも含むとは思うが、批判の対象になるヲタ芸はOAD・ロマンス・マワリ・MIX等になってくると思う。それらが一体どのように発生したのか。おそらく(2000〜2003あたりの)ハロ紺の存在が大きかったのだと考える。 OAD・ロマンス・マワリを現在の形態に完成させた・普及させたのはハロヲタだろうと思う。言うまでもなく、これらのヲタ芸はステージの演者を見ない志向性がある。ヲタ芸をする者はそれに自覚的である。では、なぜわざわざコンサートに来てヲタ芸をするのか、それは不毛ではないのか。そうではない。なぜなら、ハロ紺(ハロープロジェクト総出演のライブ)では、特に好きでもないメンバーが多数出演するため、正直言えばス
MELON GREETING・渋谷O-EAST オールスタンディングは嫌なのだが、たまたま週休でBuono!も出るので見に行く。 渋谷O-EASTなんてところは初めてだ。渋谷のそこらへんはラブホばっかりだが、土地がデコボコしていたり猥雑としていて、オシャレ感とは全く違う毒が感じられて、大通り沿いのいい子ぶりよりは居心地がよい。 到着したら丁度整理番号付近を呼んでいたのですぐ入る。中は蒸し暑い。結構な密度なのに、「前に詰めてください」と言われる。 メロン記念日の曲がよく分からなくなっていた。僕のメロン記念日は2年前くらいから止まってしまっている。 なっきぃがいないので、比較的ライブ中全体をゆったりと見る感じになる、と言っても1メートル先では人がピンボールのようにはじけ飛んでいるのだが。 Buono!の時の狂乱は予想通りすさまじい。押し合いへし合いど突き合いでこける者ありのしかかる者あり。天国
日テレのバラエティ番組『おネエ★MANS』に出ている鳥居みゆきを見た。ひどいことになった。 以下の秀逸なエントリは是非読むべきだと思う。読めば、何が問題なのかは分かる。 http://d.hatena.ne.jp/onodan/20080423 問題点をまとめるならば、芸人鳥居みゆきの発言が、すべて「素直な自分を出せない屈折した性格の女」としての発言だという解釈がなされるような演出がされ、最後「素直になった」鳥居を見て「めでたしめでたし」という風に番組が構成されているということ。 要は、ここで見事に芸人殺し、というよりは「鳥居殺し」がなされたのだと思う。僕は問題点を理屈で認識する前に何か怒りが湧いてきたのだが、それはアイドル鳥居みゆきに対しての愛だったのかもしれない。 鳥居論ははてな界隈でもかまびすしいので今さら付け加えるでもない。僕もつい一月前にこう書いたばかりだ。 『鳥居みゆきは、極め
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