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[戻る] 永井荷風『あめりか物語』は「日本文学」か? 日比 嘉高 『日本近代文学』第74集, 2006年5月, pp.92-107 一、はじめに──『あめりか物語』は「日本文学」か? 一九〇三(明36)年に渡米した永井荷風は、一九〇八年に帰国、その後没するまでの五一年を日本で過ごす。明治大正昭和と息の長い活動を続けた彼を、日本を代表する近代作家の一人であると述べても、さしたる異論は出ないだろう。 しかしながらこの論文で私が試みてみたいのは、永井荷風は場合によっては「日本」の文学者とは呼びえないかもしれない、という視点を設置してみる作業だ。それは、彼の滞米経験、およびそのあいだに書き継いだ『あめりか物語』の再規定に関わる論述となる。 問いを、次のような形ではじめてみよう。もし仮に、荷風が帰国しなかったとしたら、在米中に書きついだ彼の小説群『あめりか物語』はいったい「何文学」とされているだろう
機械美の発見 一九三〇年五月、天人社から刊行された『機械芸術論』(*1)の緒言は、次のように述べる。 機械と芸術との関係を考察することは、現代の芸術を理解する上に、是非とも必要な条件である。一九二九年以来、此の種の考察を試みることが急激に流行しはじめた。 この言葉は、おそらくは『機械芸術論』の編者板垣鷹穂のものであることが推定される。板垣は、当時東京美術学校などで教鞭を執りつつ評論活動を精力的に行っていた、美術史家・美術評論家である。彼はこれに先立つ一九二九年の春から秋にかけて、『思想』『新興芸術』『東京朝日新聞』などに連続して五本の論文を発表し、それをまとめて『機械と芸術との交流』(岩波書店、一九二九年十二月刊)を出版している。この本は「機械文明と現代美術」「機械と芸術との交流」「航空機の形態美に就て」などを目次として掲げ、板垣自身の言葉によれば「「機械文明」と云ふ一個の確定的な媒介物を
WWW を検索 「日比嘉高's Web Site」とその近辺(http://park18.wakwak.com/以下)を検索
http://park18.wakwak.com/~hibi/html/mlitenet.htm 日比嘉高研究室 Last update 2023.4.13 このページでは、近現代文学研究を志す方や、高校国語の文学教材の研究をしたい方、他領域の研究者で近現代文学関連の調べものをしたい方などを想定して、いかにして参考文献を探し出すかを説明しています。 目次 文献目録を探す 1-1 叢書・文学全集 1-2 雑誌 1-3 単行本研究書 1-4 事典・資料集 1-5 研究動向 研究図書を探す 2-1 各図書館の蔵書検索 2-2 ネット書店で検索 2-3 古書店の目録検索 2-4 書棚を縦覧しよう 2-5 芋蔓式 研究論文を探す 3-1 雑誌記事の検索 3-2 新聞記事の検索 3-3 芋蔓式 全文テキストから探す 4-1 オンラインで全文テキストを検索する 4-2 紙媒体で本文の中を調べる その他の
http://park18.wakwak.com/~hibi/html/enshu.htm 日比嘉高研究室 Last update 2023.4.13 このページは、日比の近代日本文学関係の授業などにおいて研究発表を行う学部学生向けに、「まずはこのあたりが調査のスタート!」という趣旨で作られています。より詳細な調べ方については、さらに発展的なページ「近現代文学研究関連の情報収集」もご参照下さい。 Step1. まずは文献目録を探そう 自分で調べるのは重要ですが、その前にまずは既存の文献目録があればそれを「踏み台」にするのが早道です。近代日本の著名文学者については、研究文献目録が整備されているものも多いので、まずはそうした蓄積を参照しましょう。 下記の書籍・叢書には文献目録が付されています。 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書』 附属図書館にあります。各作家ごとに経歴から年譜、著
[戻る] 漱石の「猫」の見たアメリカ─日系移民一世の日本語文学── 日比 嘉高 『〈翻訳〉の圏域』筑波大学文化批評研究会編集・発行、2004年2月、pp.227-243 はじめに 漱石が描いた愛すべき猫「吾輩」はビールを飲んで水甕で溺死してしまったが、私の知る限りでも、この猫は少なくとも一二〇回以上生き返っている。ある時は「犬」の吾輩として家庭に潜り込み、ある時は「蚕」の吾輩となっていかにして蚕を飼うかを語った。そしてここで私が論じようとしている小説においては、吾輩は死んで廃棄されたあと隅田川で蘇生し、そのまま横浜からサンフランシスコに渡った。吾輩は移民したのである。 夏目漱石の「吾輩は猫である」の追随作、翻案、続編は、膨大な数に上る(1)。このうち、漱石存命中に書かれた「移民した猫」をめぐる異色の長篇小説が、ここで取り上げる保坂帰一の「吾輩の見たる亜米利加」という作品である。渡米した猫が
一、はじめに 博文館は、日清戦争のさなか一八九五(明28)年一月、『太陽』を創刊した。同誌は、これまで博文館が出版していた『日本大家論集』『日本商業雑誌』『日本農業雑誌』『日本之法律』『婦女雑誌』の五誌を統合したもので、収録分野、発行部数、執筆陣どの点においても既存の雑誌を上回る、まさに日本初の巨大な総合雑誌として誕生した。部数は一〇万部超を誇り、時の著名論客を執筆陣に迎え、二〇〇頁を超える紙数を擁する。永嶺重敏「明治期『太陽』の受容構造」(1)は、このようなあり方を指して「『太陽』は旧来からの「小冊子」的雑誌の概念を根底から覆し、それに代わる全く新しい雑誌モデルを提示した」と評価する。 『太陽』が採用したこの総合雑誌という体裁は、別の角度から言えば、『太陽』の「商業」雑誌性の表れでもある。鹿野政直「『太陽』――主として明治期における――」はいう。「『明六雑誌』『六合雑誌』『国民之友』『日
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