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『はじめて読む聖書』 雑誌「考える人」の特集「はじめて読む聖書」をもとに一冊にまとめたもの。収録されているものは質にかなりバラつきがあるが、田川建三のロングインタビューが面白い。 田川のインタビューは生い立ちから辿る自伝的なものともなっている。ストラスブール大学に留学、国際基督教大学で教鞭を取った後ゲッティンゲン大学、ザイール国立大学などでも教壇に立ったという略歴は知っていたものの、どういう経緯だったのかは初めてわかった。 博士課程三年の時にストラスブール大学に留学することになるが、もともとはドイツの大学に留学するつもりだった。ゲーテ・インスティチュートがドイツ政府の留学試験の予備校のようになっており、ドイツ大使館の文化担当官がドイツ語を教えにきていた。その担当官は田川のドイツ語能力がわかっており、田川は当然合格するものだと思っていたが、補欠にまわされてしまった。当時新約聖書は信仰の対象で
ユダヤ人であるフランスのドレフュス大尉がドイツと内通しているとして逮捕され、後に冤罪であることが明らかとなったドレフュス事件が起こったのは一八九四年のことだった。フランス及びヨーロッパ全体の反ユダヤ主義の根深さを表す事件であるとともに、作家のゾラがこれに抗議して立ち上がったように、フランスにおいて「知識人」という存在が大きくなる契機ともなった。 モーリス・ブランショは『問われる知識人 ある省察の覚書』の中で、知識人の一つのあり方としてピカールという人物に注目する。訳注によるとピカールは「参謀本部に勤め、ドレフュスの資料を調査する過程で、アンリ少佐の妨害にもかかわらず一八九六年にドレフュスの無罪を発見。その後、ドレフュス救済のために奔走するも、逆にチュニジア奥地に左遷されてしまう。また、「オロール」誌にゾラの文章「私は糾弾する」が掲載されるや、軍と参謀本部への誹謗の廉で逮捕され、有罪判決を
Morrissey Autobiography 発売してすぐに買ってはいたものの、モリッシーの自伝だけにすぐに邦訳が出るだろうからそちらを読めばいいかと本棚の肥しにしていたのだが、まさかの(いや、まさかでもないのかもしれないが)モリッシー当人が翻訳拒否! モリッシーは翻訳を拒否した理由を明らかにしていないが、翻訳の質を心配したのではないかという関係者のコメントがあり、そんなに難解なのかと恐る恐る読み始めた。 冒頭のマンチェスターの描写は散文詩めいているし、音を優先させて韻を踏みたがったり、回想なのに多くが現在形で綴られ、パートごとにかなりトーンが異なるといった具合に、いざ訳すとなると確かに大変かなという感じではある。ただ多少前後することはあっても基本的には時系列順に語られているので、モリッシーやスミスについて予備知識がそれなりにある人は意味を大掴みする分には困難を極めるというほどではない
斎藤貴男著 『カルト資本主義』 「どうも最近、書店のビジネス書のコーナーに、奇妙な本が増えてきているように思うんです。うまく言えないけど、経済や経営をテーマにしているようでいて、その実、宗教書みたいな〝このままではオシマイだ、だけど未来は日本の時代だ〟なんて調子の。金儲けがすべてだって時期はさすがに過ぎたようだけど、いくら不況だからって、こんなのばっかりっていうのもねえ」。 こう言う週刊誌のデスクに「ちょっとルポしてみませんか」ともちかけられ取材を開始した成果が本書となる。まるで現在のことのようであるが、この本が刊行されたのは今から約20年前の1997年なのである。 近年「社会の底が抜けてしまったかのようだ」と思わせる出来事が相次いでいるが、ここにきて日本社会が急速に変質したのだろうか。そうではなく、メッキが剥げ落ちて地金が出ただけなのだということが本書を読めばわかる。現在に連なる問題の多
バラク・クシュナー著『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』 東京オリンピック開催が決まると、「日本社会は狂喜に満ち溢れていった。東京の高級商店街がひしめく銀座の店舗はどこも五輪の旗を掲げていた。また、オフィスやデパートを含め、ビルというビルのありとあらゆる側面が開催決定を祝う垂れ幕で埋め尽くされていた。さらに、東京オリンピック決定の放送からわずか四十八時間後には、既にオリンピックのシンボルが施されたパイナップルの缶詰、チョコレート、日焼け止めに関する商品広告が掲載されている。東京オリンピック開催は数万人単位で外国人観光客が増加することを意味する、と考えたある英会話学校は「オリンピックの準備」をする場所として自社を位置付けた広告を掲載している」。 このオリンピック狂騒曲は2020年のものでもなければ、1964年でもない。1940年に開催が予定されていた東京オリンピックが決定した後の日本の姿で
ジョージ・パッカー著 『綻びゆくアメリカ 歴史の転換点に生きる人々の物語』 何かがおかしい、こんなはずではなかった、いったいいつからこうなってしまったのか、そう感じているアメリカ人は政治的左右を問わず数多くいることだろう。本書は1978年から2012年まで、様々なポートレートを通してアメリカの「歴史の転換点」を描いている。 もちろん78年に決定的なことが起こったというのではない。アメリカに限らずどの国、社会でも影の部分はある。とりわけ第二次世界大戦以降の数十年、アメリカ合衆国は自由と豊かさを享受していたかのようだが、一皮めくれば人種差別をはじめとする不公正がはびこり、また「赤狩り」をはじめパラノイア的被害妄想も社会を確実に蝕んでいた。70年代後半以降というのは、世界が根本からひっくり返ったというよりは、ヴェトナム戦争、ウォーターゲート事件などを経て、覆いが剥がれて影の部分がむき出しになっ
前にこちらに村上春樹よりもカズオ・イシグロの方がノーベル文学賞を取る可能性は高いというようなことを書いていた。これは別に村上よりイシグロの方が優れているというのではなく(言うまでもなく作家に優劣をつける必要はないし、ノーベル文学賞はそれを計るものでもない)、ノーベル文学賞がポストモダン作家を嫌っていることは明らかなので、世界的にはポストモダン作家に括られる村上が取る可能性は皆無とまでは言わないが、かなり低いというだけのことだ。なおイシグロがノーベル文学賞を取ったら「日本人」に含めるのだろうかという嫌味も書いたが、日本のメディアは案の定の有様のようで……。 僕はイシグロ作品を愛読してきたが、ノーベル文学賞はこれで2年連続英語圏から、しかもボブ・ディランもイシグロも世界的に知名度は抜群で、ついでにカネにも困っていないわけで、このニュースを聞いた瞬間はさすがにどうなのよと思ったが、冷静に考えると
原克著 『アップルパイ神話の時代 アメリカのモダンな主婦の誕生』 「お袋の味」といえば何が思い浮かぶだろうか。日本では「肉じゃが」と答える人は今でも多いかもしれない。しかし、(真偽のほどはともかくとして)明治時代に海軍でビーフシチューの代用品として生み出されたと広く信じられている肉じゃが(つまり「女性ならでは」でもなければ「家庭的」でも「伝統的」でもないということになる)が「お袋の味」の代表格とされるのは、考えてみれば妙な話である。肉じゃがはとりわけ男性が好む家庭料理の代表格とされるのであるが、はたして本当にそうなのであろうか。実際に好む人(とりわけ男性)が多い結果「お袋の味」として肉じゃがが浮かぶというよりも、「肉じゃがは男性が好む家庭料理」という刷り込みがあってのことなのではないだろうか。そもそもが「お袋の味」なる概念ものそのものが、神話であるとしたほうがいいだろう。 ではアメリカ合
ギュンター・ヴァルラフ著 『最底辺 トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ』 「頑丈な体格の外国人、職を求む。重労働、汚れ仕事、低賃金でも可」 1983年3月、ヴァルラフはこのような広告を新聞に出した。 彼は「極薄で黒みがかった色付きのコンタクトレンズ」を専門家に作ってもらい、「客はふつう青い目しか希望しない」と驚かれる。これで「南欧人みたいにするどい目つき」だというお墨付きをもらった。少々心持たなくなっていた頭に黒髪のかつらをつけると、実年齢の43歳ではなく20代後半だと言い張っても通用しそうだ。一番不安だったのは言葉の問題で、「外国なまりのドイツ語」、つまり自然な片言のドイツ語(という言い方も変かもしれないが)がうまく再現できるか自信はなかった。「一度でもこの国に住んでいるトルコ人やギリシア人が話すのに耳を傾ける努力をした者なら、私のことをちょっとおかしい、と気がつかなくてはならないは
ジェイン・メイヤー著 『ダーク・マネー 巧妙に洗脳される米国民』 その1の続き。 ……と、『ダーク・マネー』は読んでいてなんとも気の重くなる本でもあるが、本書はまたコーク兄弟、リチャード・メロン・スケイフ、ジョン・オリンとブラッドレー兄弟といったエキセントリックなビリオネアの実態を描いたものでもある。クルップ社経営一族にインスパイアされた『地獄に落ちた勇者ども』や新聞王ハーストがモデルの『市民ケーン』、近年では潔癖症の謎の大富豪ハワード・ヒューズを描いた『アビエーター』があり、『フォックスキャッチャー』ではデュポン家の一員が起こした殺人事件の顛末が語られているが、本書で描かれるビリオネアたちもそのままこのような作品にしてしまいたくなるような人物たちである。とりわけコーク兄弟についてはポール・トーマス・アンダーソンあたりが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『ザ・マスター』の風味で撮ったらな
クリストファー・ブラウニング著 『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』 「一九四二年七月一三日の夜明け前、ポーランドのビウゴライの町で、第一〇一警察予備大隊の隊員たちは、兵舎として使われていた大きな煉瓦造りの校舎のなかで眠りから覚まされた。彼らは、中年の所帯持ちで、ハンブルク市の労働者階級ないし下層中産階級出身であった。軍務につくには年をとりすぎていたので、代わりに通常警察に召集されたのである」。 「各々の隊員には通常装備を超える弾薬が与えられ、さらに追加の弾薬箱もトラックに積み込まれた。彼らはこれから何が起こるか知らされていなかったけれど、実は最初の重要な戦闘に向かっていたのである」。 隊を率いるのは「トラップ親父」と親しまれていた、五三歳になる職業警官のトラップ少佐だった。ユゼフスの村に着くと、トラップの顔は「青ざめ、落ち着きを失」い、「息苦しそうな声で目に涙を浮かべて
ミシェル・ヴィノック著 『ミッテラン カトリック少年から社会主義者の大統領へ』 ある人物の生涯を辿ることが、そのままある時代を描くことになる存在がある。フランソワ・ミッテランはまさにそのような人物であろう。ミッテランを描くことは20世紀のフランスを描くことであり、20世紀のフランスを描くうえでミッテランという存在を欠かすことはできない。大嶋厚が「訳者あとがき」で数多くの文献に言及しているように、存命中から現在に至るまでミッテランについて膨大な本が生み出されてきた。左翼の立場から彼を高く評価するもの、右翼の立場から酷評するもの、あるいは左翼の立場から告発するもの。本書をはじめとするミッテランの伝記を読めば、これだけ評価が分かれるのは当然のことのように思えるだろう。そしてまた、政治家ミッテランのみならずその私生活等にも関心が寄せられるのは、かの有名な「隠し子」をめぐる逸話のようなゴシップ趣味
森千香子著 『排除と抵抗の郊外 フランス<移民>集住地域の形成と変容』 「日本人は本当のアメリカを知らない」といった物言いがなされることがある。日本に限らず多くの地域の人々が、「アメリカ合衆国」と聞けばニューヨークに代表される東海岸、ロサンゼルスやサンフランシスコに代表される西海岸、あるいはハワイなどのことがまず思い浮かぶであろうし、これらがいずれも先の大統領選挙でヒラリー・クリントンが大勝した(つまりトランプが惨敗した)場所であることを考えると、これはあながち大げさではないのかもしれない。 ではフランスについてはどうだろうか。まず思い浮かぶの「おしゃれ」なパリの中心街であろうし、あるいは陽光降り注ぐ南仏の農村の光景が広がるという人もいるだろう。それだけであれば、「本当のフランスを知らない」ということになるのかもしれない。 サブタイトルからもわかるように本書はフランスの郊外の形成とその変
デイヴ・カリン著 『コロンバイン 銃乱射事件の真実』 「コロンバイン高校の事件についてわたしたちは、次のように記憶している。はみだし者でゴス趣味のあるトレンチコート・マフィアの二人組が、ある日突然、学校を襲って、ジョックにたいする積年の恨みを晴らしたと。けれどもそのほとんどが事実と異なっていた。ゴスでもはみだし者でもなければ、ある日突然起きたわけでもなく、ターゲットも、積年の恨みもなく、トレンチコート・マフィアでもなかった。そういった要素はコロンバイン高校に確かに存在し、通説がまかりとおる原因となったが、実際は犯人とはなんの関係もなかった」。 原著はコロンバイン高校銃乱射事件のあった1999年の10年後に刊行されている。著者は犯人二人の生い立ちから犯行にいたる経緯を詳細に追うとともに、事件を防ぐことのできなかった警察の対応や、杜撰な報道で「通説」を流布させることになったメディア、そして被
ケヴィン・バーミンガム著 『ユリシーズを燃やせ』 「最も偉大な文学作品は何か」、このようなアンケートを取ると、ほぼ確実にジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が上位に食い込むことだろう。そして『ユリシーズ』が、アメリカなどでは長らく発禁にされ、数にして実に千部以上が燃やされたたというのも、またこの作品にまつわる挿話としてよく語られる。 「本書は『ユリシーズ』の伝記である」と「序」にあるように、ジョイスによる構想の芽生えから混乱に満ちた雑誌での連載とそれを巡る闘い、単行本化されてますます激しくなる争い、そしてついに1933年にアメリカ最高裁で出版が許可されるまでが描かれている。 『ユリシーズ』の伝記というということは、もちろんジョイスの伝記ということでもある。彼のエキセントリックで常人には理解し難い人生も辿られることになる。『ユリシーズ』の舞台となるのは1904年6月16日のダブリンであるが、
MONKEY vol.11 特集は「ともだちがいない!」。 チャールズ・ブコウスキーの短篇と詩が収録されているが、「ブコウスキーの作品は案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ない――この思考の連鎖から特集「ともだちがいない!」が生まれ」た。 柴田元幸さんはブコウスキーをビート・ジェネレーションの一部のように扱われることに違和感があったそうだが、それは「ブコウスキーはともだち0、ビートはともだちたくさん集団、という違いが大きいと思うから」で、確かにブコウスキーをどこかに括るというのは似合わないかもしれない。 柴田さんは未だにスマホはおろか携帯すら持っておらず、「携帯なしでどうやって生きられるのか?」と訊かれることがあるそうだ。これに「ともだちがいないから、必要ないんだよ」と冗談半分に答えて
フィリップ・ボール著 『ヒトラーと物理学者たち 科学が国家に仕えるとき』 2006年に出版されたオランダのジャーナリスト、サイベ・リスペンスの『オランダのアインシュタイン』は大きな騒動を引き起こした。一般的にはそれほど有名ではないとはいえ、1936年にノーベル賞を受賞し科学界にその名を残すオランダ出身のピーター・デバイについて、リスペンスは「ナチと共謀していた」と告発したのだった。デバイはドイツでカイザー・ヴィルヘルム研究所で所長を務めていたが、ドイツ国籍を取ることは拒否し、39年にはアメリカに渡っている。そんなデバイが、ナチ党員でこそなかったものの実は「ナチ体制の熱心な支持者」であったという内容であり、「戦時中はアメリカに留まりながらもナチ当局と接触を続けており、それは戦争が終わったらひとまずベルリンに戻る可能性を残していたのではないか」とリスペンスは見た。 デバイの名前と関わりの深か
セリーナ・トッド著 『ザ・ピープル イギリス労働者階級の盛衰』 歴史は勝者によって書かれるという言葉があるが、こう言い換えてもいいだろう。歴史は支配層によって書かれる。エドワード朝についてこう回想する声がある。「すべての人が自分の地位をわきまえ、相応の満足を覚えていた「黄金に輝く午後の長く続いた園遊会」」であったのだと。しかしこれはあくまで「豊かな人たち」の声だ。 本書は、自らも労働者階級出身である著者による1910年から2015年までのイギリス労働者階級の歴史である。労働者たちの声について、「政治家や貴族の回想はよろこんで使う歴史家たち」は「ノスタルジア」だと一蹴しがちだ。また「体面のよさを求めてがんばるか、革命を求めて奮闘するという「伝統的」な労働者階級の典型的な物語」に回収しないために様々な声を集め、「幕間」として1961年にサッカーくじで過去最高の金額を当て、「使って使って使いま
ペーター・スローターダイク著 『シニカル理性批判』 「あえて賢くあれ(sapere aude!)、汝自身の悟性を用いる勇気を持て、これがすなわち啓蒙の標語である」。 イマヌエル・カントは『啓蒙とは何か』で、「まだ自信に溢れていた近代の主観的理性論のスローガンをこう定式化した。「いまだ」理性の基準に従わない世界の様々な動向を、主体的な努力によって制御することができるとする、懐疑的楽天論と自負とがそこにあった。カントが参集を呼びかけた「自ら知ることができる」が、「現状」に絶望した近代が知らない、みずみずしい性質の勇気によって支えられている」。 では現状に絶望した、「みずみずしい性質の勇気」を失った人々はどうなるのだろうか。 「かつて見た世界の破局や今また忍び寄る破局を考えれば、歴史に鬱屈した今日の生活感には、もはや、こんなものをまともに信じることはできまい。この生活感、「自身の悟性を用いる」気
2008年の大統領選挙に向けて、民主党のホープ、若き上院議員バラク・オバマが出馬表明をした時、多くの人が「今回はヒラリーで決まり、これは顔見せでオバマが本気で目指しているのは4年後ないし8年後だ」と考えたことだろう。しかしオバマは本気で勝ちにいっていた。圧倒的劣勢からスタートしても、戦略を磨き上げ、したたかに予備選を勝ち抜いた。もしかすると、オバマはこの時こう考えていたのかもしれない。「自分には残された時間が少ない」。 NPRのこちらの記事を読めばわかるように、ドナルド・トランプは爆発的に票を伸ばしたというよりもなんとか共和党票をまとめたといった程度にすぎず(得票数ではオバマに「大敗」したロムニーと大して変わらない)、ヒラリー・クリントンが一方的に民主党の票を失ったことで勝敗が決したとすべきだろう。 「トランプ現象」を過大に評価する必要はないとすることもできるのかもしれないが、それでも結果
ロバート・アルトマンのドキュメンタリー『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』を見ていたらこんなニュース音声が挿入されている場面があった。 「トルドー首相は教会指導者と会談 カナダはアメリカの徴兵忌避者を受け入れると明言しました」 アルトマンは独立系監督を支援していたためにカナダを撮影地に選び、また『マッシュ』を撮る直前にはベトナム戦争に反対であったことからカナダ移住を考えたこともあったそうだ。 この「トルドー首相」というのはもちろん現カナダ首相ジャスティン・トルドーの父親のことである。これを見たのは数ヶ月前のことで、面白いなあと思ってメモしたもののそのまま放っておいたのだが、全く笑えない状況でこのエピソードを思い出すことになるとは。 今回のアメリカ大統領選の結果は全く予想していなかったし(後知恵込みでいうと投票直前に楽観論が広がったことになんだか嫌な予感はなきに
『明日へ』 大型スーパーの朝礼の場面から始まる。5年間減点がなかった契約社員のソニが正社員になるための研修を行うと発表された。ソニは息子に正社員になって給料が上ったら携帯を買い換えてあげると約束する。しかし会社はソニを正社員にする気などなかった。人件費削減のために契約社員を解雇して仕事を派遣業者に委託することを決める。突然の通告にこれは違法解雇だと憤り、レジ打ちや清掃を担当していた女性たちは労組を結成する。経営陣は労組の存在自体を認めようとせず、交渉の席にすらつかない。組合員たちはストを決意し、店を占拠するに至るが、警察によって強制排除されてしまう。 パート職員に同情的ではあっても何もできなかった正社員のカンは、経営陣の狙いが契約社員の解雇のみにあるのではなく、正社員も契約社員化して人件費を下げることで会社を高く売ることにあったことを知り、正社員にも組合に加わるよう呼びかける。こうして契約
笠原十九司著 『日中全面戦争と海軍 パナイ号事件の真相』 「海軍善玉論」というのを見聞きしたことのある人は多いはずだ。これは敗戦後に海軍幹部が意図的にそのようなイメージ作りに励んだ結果として広まったものとすべきだろう。これは裏を返せば、海軍にそれだけ後ろ暗いところがあったことを自ら告白しているともとれる。 本書はパナイ号事件の真相を追うとともに、その前後の状況を詳述することによって、海軍が日中戦争の全面化にいかなる役割を果たしたのかを明かしている。本書を読めば、海軍善玉論なるものがいかに虚偽と欺瞞に満ちたものかが明確になることだろう。 「海軍中央には、海軍省の枢要ポストを占めていた行政・事務手腕にたけた秀才型のエリート士官で構成する「軍政派」と、軍司令部の中枢を形づくる純武人タイプの猛者で構成される「統帥派」の派閥が伝統的に形成されてきた」。 1920年代末までは「軍政派」が「海軍エスタ
マーク・ブライス著 『緊縮策という病 「危険な思想」の歴史』 不況時に緊縮策をとれば景気はさらに冷え込み、その結果税収は落ち、財政状況はますます悪化する。このような事は経済学を学んだことがない人でも直感としてすぐにわかるはずだ……と言いたいところであるが、日本のみならず、世界的に見ても不況時に緊縮こそが答えだと信じてしまう人のほうがむしろ多数派かもしれない。さらには経済学を学んだことのある人どころか、権威あるとされる経済学者の中にも、依然としてこのような主張をする人までいる。本書で詳述されるように、緊縮策の結果として手痛い思いをした経験を持つ国は歴史的に数多くあり、その教訓を嫌というほど学んでいるはずなのに、なぜ緊縮策という「ゾンビ経済学」はかくも蘇ってくるのだろうか。 本書では『ゾンビ経済学』も参照されているように、著者の立場はケインジアン、またはリベラル派経済学者とほぼ同じだとしてい
「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向は……われわれの道徳感情を腐敗させる大きな、そして最も普遍的な原因なのである。」 どこの左翼からの引用だ、と思われた方もいるかもしれないが、これは古典派経済学の父、あのアダム・スミスの『道徳感情論』からの引用なのである。新古典派(やその影響下にある)経済学者などがスミスのこのような倫理的部分を切り捨てているかについて取り上げられることは少なからずあるが、一般に浸透しているとまではいえないかもしれない。 上の引用はトニー・ジャット著『荒廃する世界のなかで これからの「社会民主主義」を語ろう』からの孫引きである。この本はジャットが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒されながら行った講演に病床で補足したものだ。 ジャットはまたこう書いている。 「スミスにとって
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