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「倒幕」と「討幕」この違いはどこにあるのでしょうか?幕府が倒されることに変わりはありませんが、根本的な違いがあるのです。 まず「倒幕」ですが、これは幕府を倒すために謀議をこらすことを意味します。 例えば江戸時代末期に長州藩と薩摩藩が結びつき、倒幕計画を練り上げました。そして倒幕派の公家たちによって「倒幕の密勅」が薩長へ下されるわけですが、結果的に徳川慶喜が大政奉還を行使したことで、計画は実現に至りませんでした。 薩長に「討幕の密勅」を下した公家・中山忠能(出典:wikipediaより) ところがおかしですね…倒幕といいつつ、密勅は「討幕」となっています。これはのちに説明しましょう。 次に「討幕」ですが、文字通り「幕府を討つ」と書きます。 これは武力によって幕府を倒すことを意味するもの。わかりやすく表現するならクーデターを起こして政権を転覆させることに繋がりますが、日本史のややこしいところは
藤原道隆とは 藤原道隆(ふじわらの みちたか)は、藤原道長の時代に全盛となる摂関家 “藤原氏” の基盤を作った藤原兼家の長男です。道長や超子(三条天皇母)、詮子(一条天皇母)の同母兄にあたります。 一条天皇の時代に、父の兼家から関白を引き継いで実権を握りました。父兼家と弟道長の間の関白だったため、彼はのちに“中関白”といわれるようになります(ゆえに、道隆の一族は中関白家と呼ばれます)。また、娘の定子を一条天皇の后として入内させます。 ちなみに定子の女房があの有名な“清少納言”ですね。ですから、彼女の書いた『枕草子』にも道隆はしばしば登場します。 「藤原道隆ってどんな人?」と聞かれると、摂関家 “藤原氏” の中心人物として活躍したにもかかわらず、スラスラと答えられる人は意外と少ないかもしれません。どうしても先述の有名な3名(道長、超子、詮子)の陰に隠れる少しマイナーな存在です。しかし、道隆か
昭和57年(1982)2月8日、赤坂にある一流ホテル「ホテルニュージャパン」で火災が発生しました。都内では戦後最大規模の火災で33人が死亡、28人が負傷してしまったのです。これほどの大火災になったのはスプリンクラーが設置されていない、防火扉がない、適度な湿度を保つための空調装置が止められていて館内の空気が異常なまでに乾燥していた、宿泊客数に対して従業員数が少なすぎ避難誘導ができなかった、等が原因でした。 当時でも、これらの防火設備を設置することはホテルにとって義務であり、管轄の麹町消防署も点検において不備を指摘し、改善を勧告していたのですが、何の改善も行われていなかったのです。テレビでは燃えさかる部屋から脱出しようと10階の窓の外へ出て、僅かにあった外壁のでっぱりに足をかけて火災から逃れようとする男性の姿が実況中継され、その火災の凄まじさが伝えられました。 そしてホテルニュージャパンの社長
島原の乱は、江戸時代初期に起こった一揆で、幕府のキリシタン弾圧に対する反乱でした。日本歴史上最大規模となる一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦となります。 島原藩主松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てを行っていました。そして、年貢が払えない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して、あまりにひどい拷問や処刑を続けたことに対する反発から発生したのです。 島原の乱とは、寛永14年(1637年)に起こったキリシタン農民による一揆を言います。 島原・天草の乱、若しくは島原・天草一揆とも呼ばれていて、悪辣極まる悪性を敢行した天草や島原の領主に対して、反発し立ち上がった農民たちが、当時廃城となっていた原城を本拠地として抵抗を続けたのでした。 参加農民は3万8,000人とされていますが、幕府が動員した武士の数はなんと12万人と言われています。この兵力の大差にもかかわらず、挙兵してから原城を落城させるまでに半年を
みなさんは、戦国時代の日記と聞いた場合、どのようなものを思い浮かべるでしょうか。一般に学校で習う日記は古典文学のことが多いと思います。 『蜻蛉日記』、『更級日記』、『紫式部日記』など、平安時代の女性が随筆的に書いた作品が多く知られています。しかし、全体として見ると、女性の随筆的な日記は少数派。数量としては、むしろ男性の日記のほうが多く、内容も業務日誌的なものが多いのです。 確かに男性の業務日誌は、文学的に面白くないかもしれません。しかし、歴史研究にとってはそれらの日記は必要不可欠。たとえば「本能寺の変は天正10年6月2日未明だった」というような情報を現代まで伝えてくれるのも、彼らの日記なのです。 そこで今回は主に、戦国時代を知る手がかりとしての著名な日記をご紹介したいと思います。 そもそも日記をなぜ書いたのか? 日記は歴史を知る上でとても重要な史料です。平安時代より公家の間で書かれるように
慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が亡くなると、にわかに政局は動いた。豊臣政権内で秀吉に代わり、実権を掌握したのが徳川家康であり、ナンバー2が前田利家だった。秀吉は生前から、家康が幼い秀頼の後見的を務めることに期待を寄せていた。 翌年閏3月、利家が病没すると、直後に七将が石田三成の非道を訴えた。家康はこの事件に積極的に介入し、事態を収拾した。これにより家康は、五大老の中でさらに抜きんでた存在になった。 やがて、家康は積極的に政務に携わる姿勢を見せ、大坂城に入った。その後、五奉行の増田長盛と長束正家は、前田利長(利家の子)・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康を暗殺する計画をしていると家康の耳に入れた。この時点で、家康は暗殺される理由に身に覚えがなく、驚天動地の心境だったに違いない。 信憑性に難があるが、利長と長政が雄久に相談し、治長とともに家康を暗殺することを持ち掛けたといわれている。
蝦夷(えみし)という言葉を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。蝦夷という字は ”えみし” という読み方の他に、”えぞ” と呼ばれることもあります。 諸説ありますが、蝦夷(えぞ)は、平安時代中期頃より、主に北海道に住む人々のことを指すようになりました。近世では、アイヌの人々が暮らしていた北海道のことを蝦夷地(えぞち)とも言いますね。 ただ、今回紐解くのは蝦夷(えぞ)ではなくて、蝦夷(えみし)のお話です。同じ漢字なのでややこしいのですが、 蝦夷(えみし)とは、古代東北に住んでいた人々のことを指します。 彼らはどんな人々で、どのような暮らしをしており、そして最後はどのように迎えたのでしょうか。本記事でみていきましょう。 東北の蝦夷とは 蝦夷の歴史を辿ると、神話の時代に遡ります。奈良時代の書物『日本書紀』には、「愛瀰詩」という言葉が登場します。 研究者の間では、これが後に「蝦夷」と表記さ
多くの苦難を乗り越え、最後には天下人にまでのし上がった徳川家康。その生涯を支えたのは、三備、岡崎三奉行、徳川四天王など、多くの優秀な家臣たちであったことはいうまでもありません。 今回の記事では、家康時代の徳川家臣団の組織構造、およびその変遷をみていきたいと思います。 三河・遠江時代 ~三備の軍制確立 家康は幼少から今川家で人質時代を過ごしたことはよく知られています。その後、桶狭間の戦いをきっかけに今川からの独立を果たして、永禄9年(1566年)頃には三河国を統一しました。これと同時に領国の支配体制も整備していくことになります。 三備の軍制とは? まず、軍事面においては、"三備" と呼ばれる軍制を構築します。これは以下の図のように3つに分けて家臣団を編成しました。 三備の軍制(永禄末年ごろ) 家康旗本衆:家康直属の部隊。家康を護衛する馬廻衆と、旗本先手衆に分けられる。 東三河衆:酒井忠次を旗
治承・寿永の内乱、いわゆる源平の争乱が起こった時代に、後鳥羽天皇(ごとば てんのう)は即位しました。平家が安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちしたため、天皇不在となった都では安徳天皇にかわる新しい天皇の即位が急がれ、後鳥羽天皇は神器を持たないまま践祚。そのコンプレックスによるのか、多芸多才・文武両道の帝王として君臨しました。 しかし、鎌倉幕府の将軍・源実朝の死をきっかけに幕府との関係が悪化。執権・北条義時追討宣旨・院宣をもって始まった承久の乱で上皇方はあっけなく敗れてしまいます。後鳥羽上皇は隠岐に流され、その後帰京が叶うことはありませんでした。 源平の争乱の中、神器のない践祚 以仁王の令旨を受けて源頼朝が挙兵したのと同じ年の治承4(1180)年7月14日、後鳥羽天皇は高倉天皇(この時点では上皇)の第四皇子として誕生しました。母は高倉天皇の中宮である平徳子に仕えていた坊門信隆女(殖子。のちの七
お殿様の参勤交代のお供をして江戸へやって来た武士たち。せっかく花のお江戸へやって来たのだからあれも見たいこれも食いたいと思った事でしょうが、実際の暮らしぶりはどのようだったでしょうか。 江戸詰・立帰・江戸定府 参勤交代は幕府が命ずる軍役の一種なので、お供をして江戸にやって来る藩士は番方勤務、”江戸勤番”と呼ばれます。 この中で江戸へ着いた途端トンボ返りで国許へ戻る者は ”立帰(たちかえり)”、殿様と共に1年を江戸で暮らす者は ”江戸詰・勤番侍” と言いました。対して江戸に居続けて幕府や他藩との折衝や自藩の領民の保護、国許の米や産物の売買に当たる者を ”江戸定府(じょうふ)” と呼びます。勤番と定府の人数比は半々ぐらいです。 18世紀初めの江戸は人口100万、世界有数の大都市ですがその面積の7割が武家のための土地でした。大名家の数は約300で、それぞれが江戸に藩邸を持っています。 勤番侍が暮
大内義隆が重臣の陶隆房(のちに晴賢に改名)の謀反によって自刃に追い込まれた政変「大寧寺の変」。これにより大内氏は事実上滅亡します。なぜ謀反は起こったのか。複数の動機を取り上げながら、一連の出来事を紹介します。 謀反に至るまでの背景 出雲遠征の失敗 まず発端となったのが、天文11年(1542)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)の敗北でしょう。 吉田郡山城の戦いで尼子に勝った義隆は、さらに尼子を追い詰めるべく月山富田城攻めに出ますが、難攻不落の名城ゆえ戦は長期化。結果的に大内軍は敗走します。このとき、義隆の嫡男(養子)の晴持が戦死。かわいがっていた後継者の死を嘆き悲しんだ義隆はよっぽどこたえたのか、以後軍事から遠ざかります。 尼子氏の本拠・月山富田城跡。戦国期は難攻不落の要塞だった。 相良武任 VS 武断派の重臣 政治に見向きもせず学問、文学、宗教に力を注ぎ始めた義隆。それまでは武断派の、中
おそらく日本の近代作家で芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)ほど、有名な作家はいないでしょう。国語の授業で『蜘蛛の糸』などの短編を読んだ方も多いと思います。その作風は、それまでの「人間を描く文学」ではなく、斬新な語り口の物語であり、どこか知的な雰囲気が微妙に漂うものでもありました。また芥川龍之介の風貌も、いかにも芸術家らしい感じを漂わせるものであり、インテリジェンスに溢れている印象を与えるものでした。 当時の最もエリートコースである一高→東京大学と進み、在学中から文豪、夏目漱石に目をかけられていた彼が、大学卒業後に作家になるのは「既定のコース」だったと言っても良いでしょう。秀作を次々と発表していた芥川龍之介は何故、35歳で自殺してしまったのでしょうか? 既にこれまでにも散々、憶測されていることですが、私が見たものの中には「ある事実」を取り上げているものは、1つもありません。ですので、今回
天正10年(1582)6月、天下統一に向かって邁進する織田信長は「本能寺の変」により、思わぬ形でその生涯を終えました。当然、織田領国は大混乱に陥りますが、その混乱の裏で甲斐・信濃へと勢力を伸ばし、短期間で5ヶ国を領する大大名に変貌を遂げたのが徳川家康です。 しかし、そこに至るまでの過程には様々な困難がありました。本記事では家康が一気に5か国領有に至った経緯、本能寺の変によって激変した外交状況等をみていきましょう。 「甲州征伐」の恩賞で駿河国を獲得 家康は武田勝頼の代の甲斐武田氏とは敵対関係にありました。その領土は三河と遠江の2か国。とはいっても、高天神城での攻防などもありましたので、事実上はそれ以下でした。 しかし、長篠の合戦(1575)で勝利、また上杉謙信の後継を巡って勃発した御館の乱(1578~80)をきっかけに北条氏が武田と断交したことで徐々に有利となっていきます。この後、北条は織田
「地下街」は日本文化の象徴 道路や駅、公園など公有地の地下に通した通路に沿って店舗や施設がならぶ。このような場所を「地下街」という。 日本は他国と比べて地下街が多く、大都市の駅地下はどこも、迷路のように入り組んだ地下街が形成されている。渋谷スクランブル交差点と同様に、これも外国人観光客には興味津々の観光スポットなのだとか。 2010年代頃から東京の各駅では、地下空間のリニューアルがさかんにおこなわれている。「駅チカ」なんて新語も生まれて、小洒落た雰囲気の場所が増えてきた。 しかし「駅チカ」以外となると2000年代に入ってからは、新しい地下街の建設は皆無。リニューアルされたなんて話も聞かない。それどころか、ここで紹介する三原橋地下商店街のように、いつの間にか跡形もなく消滅した地下街もある。 外国人観光客にも日本文化の象徴として注目されている地下街だが、「駅チカ」ブームの影に隠れて、それ以外の
歴史上の出来事を表すワードとして頻繁に出てくるのは、「乱」や「変」と付く事件ではないでしょうか。たとえば「応仁の乱」や「大塩平八郎の乱」、または「正中の変」や「禁門の変」などなど。 いずれも似通った意味に聞こえますが、いったい違いは何なのでしょうか? ネット上の噂では、クーデターに成功すれば「変」。失敗すれば「乱」とされている場合もありますが、それだと応仁の乱(1467年~)はクーデターではありませんし、意味がそもそも通じなくなります。 それでは正しい定義とはどのようなものでしょうか?実は学習院大学の安田元久氏が、1980年代の著書の中で違いをきっちり述べられていました。 乱とは「世の乱れ」「戦乱」「大規模な政治的混乱 = 内乱」といった事象を指し、変とは「凶変」「変化」「小規模な政治変革」、あるい「あり得べからざる変事」などを意味すると書かれています。 ちょっとわかりにくいですね…「乱」
江戸時代は、元和元年(1615)の大坂夏の陣を最後に、250年余の「元和偃武(げんなえんぶ)」とも呼称される文治の時代を迎えました。この江戸期は、緻密に構築された藩幕体制とその鎖国政策により、国内的に安寧の日々を迎え民情も落ち着き、商業も発展し、町人文化が繁栄しました。 こうした鎖国下の日本の内情は、世界からどのように見られていたのでしょうか? この記事では、幕政の安定期(十七世紀末~十八世紀初頭)に日本に滞在していたツンベリー(1743~1828年)の『江戸参府随行記』や、開国政策へ転換した幕末に短期滞在した考古学者・実業家のシュリーマン(1822~1890年)の『シュリーマン旅行記 清国・日本』を元に、探っていきたいと思います。 江戸の鎖国政策下でも外国人は出入りしていた 当時の日本と世界との関係を見ると、徳川幕府がキリスト教や対外的膨張政策を指向するヨーロッパ列強の外国勢力の流入を恐
織田信長の甲州征伐(1582)によって武田勝頼が天目山にて自害したことで、甲斐武田氏は滅亡したと日本史の教科書にはある。しかし、調べてみると信玄の傍系はもとより、直系の子孫さえも家を存続させていることがわかる。一体どのような経緯を辿ってその血脈を維持することができたのだろうか。 信玄直系は絶えたか 勝頼の系統は勝頼の子の代で絶えたとされている。信玄の直系で今に子孫を残している系統は海野信親、仁科盛信、武田信清の3系統である。各系統については個別に後述するが、事前に信玄の子孫の略系図を示しておく。 海野信親(うんの のぶちか)の系統 信親は信玄の次男である。 『甲陽軍鑑』によると、盲目であったため、甲斐の領国経営に携わることはなかったという。正室として海野幸義の妻を娶って海野家を継ぎ、穴山信君の娘を側室としている。後に出家し、竜芳(りゅうほう)と名乗ったとされる。 竜芳は織田信長の甲州征伐の
「イエズス会関与説」とは、スペイン・ポルトガル等の南欧勢力がイエズス会(=カトリック教会に属する男子修道会。)を通じて信長に資金援助を行って天下布武を推し進めさせ、天下統一の暁には信長を利用して中国を征服させようとしていたが、信長が独自路線を進め始めたために謀殺したというもの。 何とも壮大な説であるが、この「イエズス会関与説」は、論拠となる部分に史料の誤読や論理の飛躍が見られるため、多方面からの批判が寄せられており、本能寺の変の黒幕説の中で最も荒唐無稽な説と評されてもいる。 史料に基づく裏付けがきちんとなされていないのも問題だという。ただ、イエズス会には植民地化の先鋒部隊という側面は確かにあった。とはいえ、既に鉄砲の大量保有国となっていた織田政権下の日本を武力で制圧するのはそう簡単ではなかったろう。…となれば、信長を利用してまずは中国を制圧するか、と考えたとしても不自然ではない。 イエズス
戦国時代、常陸国の佐竹家は奥州と関東に勢力を築きます。佐竹義宣(さたけ よしのぶ)は家督を相続すると、豊臣政権に接近。本領を安堵され、豊臣の威光を持って常陸国内を統一。しかしその後、関ヶ原では東軍でありながら、恩義のある西軍に協力しました。 戦後、改易こそ免れましたが、常陸国を追われて秋田への転封を余儀なくされています。義宣は何を選択し、大事に思って戦ったのでしょうか。佐竹義宣の生涯を見ていきましょう。 佐竹家の領国を守り切る 常陸国の名門一族の嫡男として誕生 元亀元(1570)年、佐竹義宣は佐竹家第18代当主・佐竹義重の嫡男として常陸国の太田城で生まれました。母は伊達晴宗の娘・宝寿院と伝わります。 幼名は徳寿丸と名乗りました。元亀3(1571)年には、義宣の将来の正室が那須家から迎えることが決まっています。 天正12(1584)年、北条家と和議を締結。南方を抑えて北方への進出を企図するよ
大河ドラマ「どうする家康」も順調に進んでいますが、その中で家康の女性事情に関する話は意外と多くなっています。「どうする家康」では家康が ”決断” を迫られた出来事を重視しており、女性関係はその重要な要素と考えられているのでしょう。 家康には同父兄弟がいなかったため、血縁の少なさから多くの子どもが求められました。それでも、正室である築山殿が認めた女性以外は側室と認められないのが戦国時代の女性社会です。側室にも序列は存在し、女性を仕切るのは家康ではなく、築山殿でした。 そのために最も辛い思いをしたのが「お万の方(おまんのかた)」という女性です。彼女は次男である結城秀康の母でありながら、しばらく側室として認められない存在でした。今回はそんなお万の方が過ごした世知辛い女性の序列についても触れつつ、その生涯を考察していきたいと思います。 お万の方の出自について お万の方は天文17年(1548)に生ま
かつて、武士の給与が米で支払われていたことはよく知られています。一国の経済力も米の見込み収穫高を基礎とした石高で表され、米は財力を示す指標と位置付けられていました。主君から武士への給与の一種に、「扶持米(ふちまい)」と呼ばれるものがあります。 現代でも使われる「食い扶持」という言葉の語源となったもので、略して単に「扶持(ふち)」ともいわれます。今回はこの「扶持」の意味に対する解説を中心に、武士の給与体系の一端を概観してみることにしましょう! 扶持とは 「扶持」とは主君から家臣へと支給される給与の一種で、米をもって充てられたものです。かつて人ひとりが一日に食べる米の量を5合(約0.9リットル)とし、一か月で1斗5升(約27リットル)、一年で1石8斗(約324リットル)が必要と仮定しました。 当時は精白米ではなく玄米が基準でしたが、米俵に換算すると5俵となり、このように人ひとりが一年間生活する
大河ドラマ「どうする家康」第17話は「三方ヶ原合戦」。元亀3年(1572)10月3日、甲斐国の武田信玄は、徳川家康が領する遠江国に向けて出陣します。信玄が徳川領に侵攻できたのは、それ以前に、敵対していた小田原の後北条氏と和解し、同盟を結んでいたことも大きいでしょう。では、なぜ、信玄は家康を攻めたのか? 奥三河の豪族・奥平定勝に信玄が宛てた書状(10月21日付)によると「浜松に向かい出馬し、三ヵ年の鬱憤を散らすべく候」とあります。つまり、家康に対するここ3年ばかりの、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすために、 信玄は家康領に侵攻したというのです。信玄が言う家康への「鬱憤」とは何を指すのでしょう。 これは研究者によって意見が分かれています。元亀元年(1570)10月、家康が、信玄の宿敵である越後の上杉謙信と同盟を結んだことを指すのだという人。「いやいや、元亀元年(1570)だったら、元亀3年(157
江戸幕府を創設し天下を治めた徳川家康ですが、かつて秀吉と対立したときには重臣の寝返りに遭い、軍制を大きく変更しました。そのときに採用したのが武田信玄の軍制でした。家康にとって信玄は、自領を侵す最大の脅威でしたが、それ以上に学ぶ点が多く、尊敬すべき英雄だったのです。 天下統一も不可能ではなかった信玄は、いつ、どのような理由で亡くなったのでしょうか? そこには今も多くの謎が隠されています。 反信長連合の中心人物だった信玄 織田信長の傀儡と化していた室町幕府最後の将軍・足利義昭の要請もあって、甲斐国や信濃国に巨大勢力を築いていた戦国大名・武田信玄が西上作戦を開始したのが、元亀3年(1572)10月のことです。 甲府を進発した信玄は、隣国・徳川家康の領土に侵攻していきます。劣勢だった家康は浜松城に籠城するものの、包囲せずに西上を続けようとする信玄に対し、12月には城を出て三方ヶ原で激突。家康は大敗
戦国時代で有名な同盟の一つに三国同盟があげられるでしょう。武田氏・今川氏・北条氏の三大名によるこの同盟で、武田氏は信濃方面に、今川氏は三河方面に、北条氏は対上杉・里見等に、とそれぞれが戦力を集中できるようになりました。 この三国同盟の要となる婚姻関係の中で、最も激動の生涯を送ったのが今川氏に嫁いだ早川殿(はやかわどの)です。北条氏の姫でありながら今川氏の凋落の中で住む場所を転々とし、のちに北条氏も滅んだことで、結果的には嫁ぎ先と実家の両方が滅ぶという憂き目に遭っています。 今回はそんな早川殿について、史料上で見える様子を中心に考察していきたいと思います。 北条氏の姫として生まれる 早川殿は北条氏康の四女(諸説あり)と言われています。母親についても諸説あり、側室の子という説と氏康正室の瑞渓院(今川氏親の娘)の娘という説があります。北条氏政の姉とも妹とも言われており、詳細な生年は不明です。瑞渓
当時のオリオンズのオーナーが私財を投じて建設 春になればプロ野球の話題が増えてくる。とくに今年は東京ドームで「 WORLD BASEBALL CLASSIC」の予選や準々決勝が開催されることもあり、例年以上に盛りあがりそうなのだが。 これは、その東京ドームができるよりも遥か昔の話である。 1950年代の東京では、プロ野球の使用できる球場が後楽園だけ。そのため巨人と国鉄スワローズ(ヤクルト・スワローズの前身)、大毎オリオンズ(ロッテ・マリーンズの前身)の在京3球団に共用されて、超過密スケジュールの試合日程が組まれていた。 しかし、絶大な人気を誇る巨人の試合が最優先されて、他の2球団は常に割を食う。オリオンズのオーナーだった大映社長・永田雅一にはそれが癪に障り、新たな専用球場の建設を決断。威勢よく喋りまくる“永田ラッパ”の異名で知られたクセの強い人物なだけに、この時もかなり性急で強引に計画を推
永禄3年(1560)5月19日、織田信長は桶狭間の戦いで、尾張に侵攻してきた今川義元を打ち破った。以下、合戦にまつわる諸説を取り上げ、その謎を探ることにしよう。 義元の尾張侵攻理由と、桶狭間の戦いの通説 そもそも義元が西進した理由については、 ①上洛説 ②三河支配安定化説 ③尾張制圧説 ④東海地方制圧説 などがある。 近年では、織田氏との長年にわたる抗争に蹴りを付けるため、尾張に出陣したという③説が有力視されており、①の上洛説は成り立たないとの意見が根強い。 戦いの結論を先に述べておこう。同年5月19日の午後、桶狭間は突如として視界を妨げるような豪雨に見舞われた。織田方はこの悪天候に乗じて、義元の本陣に突撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。義元は毛利良勝に組み伏せられ、首を討ち取られたのだ。義元を失った今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。これが通
「トーマス・ブレーク・グラバー」坂本龍馬や薩長に協力した幕末の武器商人!明治には高島炭鉱の経営やキリンビール創設に関わった人物 「青い目の志士」と呼ばれ、幕末の討幕運動に協力した外国人がいます。スコットランド出身の商人、トーマス・ブレーク・グラバーです。 海軍軍人の家に生まれたグラバーは、幼い頃から船との関わりを持っていました。 学校を卒業後は商人を志してジャーディン・マセソン商会に入社。やがて長崎に赴任することとなります。 当時の日本は尊王攘夷運動が吹き荒れていました。住むだけでも命懸けの国で、グラバーは新しい商機を見つけます。 討幕派の長州藩や薩摩藩に接近して援助し、最新式の武器を売り捌いていきました。 維新後には、自身の商会が破産の危機に落ち入りますが、日本で継続して活動する道を選びます。 その後、高島炭鉱の経営に携わりキリンビールの創業にも参画。近代日本の商業を支える道を歩んできま
大高城兵糧入れとは、桶狭間の戦いの際に今川方に属した松平元康(のちの家康)が、今川方の拠点・大高城に兵糧を無事に運び込んだ任務を指します。 大高城は敵の織田陣営に深く入り込んでおり、今川方にとって最前線だったゆえに兵糧入れは極めて危険でした。今回はその兵糧入れにフォーカスしていきます。 家康の桶狭間参戦とその背景 永禄3年(1560)5月に勃発した桶狭間の戦いといえば、織田信長が今川義元に奇跡的な大勝利を収めた合戦で知られています。 松平元康(のちの徳川家康)は今川方の将としてこの合戦に参加しており、信長とは敵対関係にありました。というのも、家康は幼少のころより今川の人質に出されており、そもそも家康の一族である松平家自体が今川の従属下に置かれていたからです。 桶狭間合戦を仕掛けたのは今川のほうでした。当時の今川家は既に駿河・遠江・三河の3国を有し、しかも北の武田信玄や東の北条氏康と三国同盟
本名ではなく見た目や性格などからつけられるあだ名。「ニックネーム」ならいい印象もありますが、「あだ名」というとつけられた側からするとなんだか嫌な気持ちになることもあり……。 周りの人はおもしろがっていても、本人にしてみれば悪口に感じられることのほうが多いものですよね。光秀のあだ名「きんかん頭」も決していい意味ではなかったのです。 庚申待の酒宴の席のエピソード 安土桃山時代の16世紀末ごろ(奥書によるが、実際は江戸時代成立とされる)に書かれた世間話集『義山後覚(ぎざんこうかく)』や、『続武者物語(ぞくむしゃものがたり)』に明智光秀のあだ名に関するエピソードが書かれています。 庚申待(庚申(かのえさる)の夜、神(猿田彦)を祀って徹夜する行事)の夜、信長は家臣ら数十人と酒宴の席にあって夜中まで盛り上がっていたのだが、光秀が途中厠に立ったのが目についた。信長はそれを咎めて「いかにきんかん頭、なぜ中
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