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大谷翔平
tsuku-snt.hatenablog.com
昔、本気で友だちがいなかった。引越しをしたことで価値観や文化背景が全く違う集団に放り込まれ、結果的にうまく馴染むことができず、ともかく友だちができなかった。 当時、みんな友だち、友だち100人できるかな!を地で言っていた私は、生まれて初めて「伝わらない」を知り、どんどん心を閉ざしていった。 だけど、本当に心を閉ざしたのはきっとそのあと。 友だちを作らない、自分は自分のまま生きていく、だと日本の学校生活はしんどくなるので、私は周囲の友だちがいる「普通の人たち」の会話や振る舞いを見て学び、なんとか「友だちができる普通のひと」に擬態した。今思えば、人間に馴染むために人真似をする妖怪みたいだ。 なんだかんだ上手くできたのか友だちは増えたけど、私は虚しい気持ちをいつも抱えていた。 本を読むのが好きだった。 本は、別に擬態しなくても私がそのまま、本の中の登場人物や作者と仲良くなれたようなそんな気がする
河原でぼんやり過ごした。たぶん、何もせずに歩いていた時間を入れたら数時間。 ここ数日起きるたびに、いやそれどころか普通に仕事をしていてもずっと頭がやかましい。怖いこと嫌なこと許せないこと……なんだかそういうものが頭のあちこちでザワザワとしていて、その癖、話す先もない。そんなものが、べとりと張り付いていた気がした。 話す先もない、なんて、そんなことはないのかもしれない。本当は、話したら伝わる人だっているのかもしれないし、話すことを待っていてくれているのかもしれない。 だけどそれよりも何よりも時々漏らした言葉が粉々になるまで踏みつけられたり「変なの」と言われるのに疲れてしまった。 信頼する人に話せばいいと言われたらそれまでだけど、もしそれで、伝わらなかったらいよいよにっちもさっちもいかなくなる。その怖さも想像できないなら、黙ってろよ。そんな、ことを思う。 そんな数日を過ごしていたので、友だちに
面白いって変だ。 そんなことをずっと考えている。 面白いって、楽しいって、なんか変だ。 じゃあもう早く感想書けや、なんだけど一昨日ライブに行った時からふわふわと心の一部が帰ってきていない。でも、なんだかいつものような「ひたすら反芻する」ともまた少し違う。反芻してるといえばしてるんだけどライブ自体の光景が2割、そこからそれらに対してのろくろが2割、残りの6割がうまく言葉にできないけど「その時間を経たわたし」のようなものをずっと考えている。 そしてこの「面白いって変だ」はその6割の一部である。 ライブが、ともかく楽しかった。楽しくて心臓がバクバクして「これが気持ちいい」と心が躍った。躍ったのだけど、踊りながら、変なの、と思った。その変なの、は嫌な感じじゃない。むしろ、ニヤニヤとした感覚である。 でも、だって、変だ。 面白いという感覚、楽しいという感覚。 それってなにをもって、なにがあったら自分
誕生日である。 時々1日に2本あげるなんて言う裏技をしていたけども、ともあれ、23本目の3月のわがまま日記である。 今回分かったのは、酒飲みに「毎日何かやる」というのは結構ハードルが高いことである。その前提で予定を組み込めば良いんだけど、これくらいのまだ習慣の赤ちゃんみたいな状態だと平気で酒に負ける。まあ、というか、そもそも予定が狂うほど、日付を越えてまで飲まなきゃいいというのは、もっともなんだけど。 23日毎日1000字以上の文を書いて分かったことがある。 私、たぶん、文を書くのがめちゃくちゃに好きだ。日本語を正しく使えているか、と言われると途端に自信を無くしてしまうけど、それも含めても、文を書くのが好きだ。 そして何より、毎日あーでもないこーでもないと考えるのが好きだ。別段なにもないことを私は毎日考えていてそれは悩みと紙一重なんだけどこうして考えているからこそ、毎日楽しいんだろうな、と
ステージが好きだ。 演劇、ダンス、HIPHOPにJ-POP。その他もろもろ、ともかく生身の人間がそこに立ち、作り上げるステージが好きだ。 特に熱をあげるジャンルはその時々で違っても結局私は「生身の人間」を感じられるステージが好きなのだと思う。 そのステージで「こんなに美しいひとがいるのだ」と呆然としたことがある。 しかも、近い距離で見たわけじゃない。なんならそこそこ遠い席で、それでも「本当にきれいだ」と見惚れたことがある。 推し文化が苦手だ。 「推しラジオが終わったから本を作ることにした」なんて本を書いたり、このブログでも時折「推しが、」と書きながら何を言うのかと自分でも思うが、ともあれ、いまだに本当は「推し文化」が苦手だ。それは批判したいというよりもむしろ自分と周囲の熱量を比べて引け目があるのだと思う。 こんなブログを書いていたりTwitterも基本的に「好きなものの話」をするために使っ
近所の定食屋が潰れていた。 と書き出すと、まるでその定食屋の常連、そうとまでは行かなくても何か思い入れがあったみたいだけど、ぶっちゃけ一度も行ったことはない。こないだ家賃が引き落とされる通帳を観たら次の秋にはこの家に住んで3年が経つのに、だ。 ところで、住居期間を「3年」とすると、それは「もう」になるのか、「まだ」になるのか自信がない。 一人暮らしになってからはなんだかんだと数年越しに生活背景から引越しをせざるを得ない生活だったし実家の時もなんだかんだと何度か引越しをしていたから思えば何年からを「長い」とするのかは難しい。 とはいえ、少なくとも三年近く住んでいて一度も行かなかった定食屋、はほぼ街の風景とカウントしても良いだろう。 良いはずなのに、なのか、それとも街の風景だったからなのか、最近、その店の看板を剥がされた跡の黒ずみを見るたびになんだかぼんやりと落ち込んでしまう。落ち込むたびに「
死んだような過ごし方をした週末だった。 予防接種を済ませ、お、ここ数回より随分楽じゃないか、と油断した夕方。スコン、と意識が落ちてそこからじわじわ熱が上がった。息も苦しいしあちこちが痛い。 念のため、と着けていたスマートウォッチを確認したら「37度」と表示されていて、あちゃあ、と思った。しかも、液晶を見ると頭がズキズキと痛む。 そもそも、副反応で抵抗してるんだから睡魔の一つや二つきてくれたらいいのに、夕方寝たでしょう、とばかりに目は冴えている。 何かを聞くか、と考えて、でもなんだか頭の痛み的に初めて聴くものは疲れてしまいそうだな、と思った。なんだか、そういう痛み方だったのだ。 こういう時初めて聴くラジオも良いけど何度も聴いたラジオ音源も良い。どちらかというと体調不良からくる不眠には、聞き慣れた音の方が落ち着くことが多いし、逆にぐるぐると考え込んでしまう夜は、初めて聴く放送に耳と頭を集中させ
カフェに寄った。朝ゆっくりな出勤の上に、思い立って自分の身体のメンテナンスをしようと病院に行ったら出勤までが半端な時間になったからだ。ついでにいえば、放置していたメンテナンスをやった自分へのご褒美もしたくて、カフェに寄る。 本当は、さくらドリンクが飲みたかった。 毎年楽しみにしていたスタバの新作は世界情勢や今の自分の心持ちを思うと気楽に飲めなさそうなので何となく手を出せずにいたのだけど、そういえば、去年コラボカフェで(一方的に)お世話になったプロントさんもさくらドリンクをやってるじゃないか!と意気揚々と飛び込んだ。 ところがどっこい、プロントのさくらドリンクはアイスオンリーらしい。お腹が万年ちょっと不調な私はよほどハイじゃないと冷たい飲み物を飲まない。ので、結局カフェラテにした。リサーチ不足の自分を恨めしく思うような、ともあれ、もこもこの泡の乗ったカフェラテを飲めるのもそれはそれで最高のよ
星野源のオールナイトニッポンが放送された。 1月2日にやる予定だった2023年の放送を振り返る「星野源アワード2023」をこのタイミングで再編集され、満を持しての放送だった。 1年って早いな。こうして星野源アワードを聴くのは4回目だろうか。2020年の秋から聞き出したまだまだど新規リスナーだが、一端に「今年もこの季節か」なんてしみじみしてしまう。 こうして振り返ると、覚えている回ばかりで驚く。そして何よりも、エントリーされていないことも含めて好きな時間ばかりでびっくりするな。 ところで、私は星野源のオールナイトニッポンでジングルのコーナーが大好きである。 このラジオを聴き始めて、強烈に惹かれたのは、間違いなくこのコーナーからだった。 リスナーから送られてきたジングルを紹介し、良いなあと思ったものは実際に番組としてジングルに使われるという神コーナー。本当に私はこのコーナーが好きで、音楽から喋
毎週、楽しくラジオを聴いている山田裕貴さん……ここでは、あえて普段呼んでいる「やまゆさん」と表記させてほしい……を最初に好きになった時期を確認したら2017年だった。ということは、もう7年くらい経っているのか、と驚いた。 今でも、やまゆさんを「好きだ」と思った理由は覚えている。たぶん、一生忘れないのだという自信がある。 それはHiGH&LOWの「村山良樹」のドラマシリーズでの台詞だ。 コブラとの出会いからのタイマンシーン、コブラの様子に、村山が叫んだ、「俺とお前、何が違うんだよ?!!」という言葉。それがずっと、心に刺さっている。 あの頃、私はHiGH&LOWに出逢えたことでずいぶんと救われたのだ、といまだにずっと思ってる。社会人に出てから早々に躓き、なんとか見つけた仕事でも「お前なんて」と言われながら仕事をしていた、そんな時だった。 何が違うんだよ、とずっと思っていたし、絶対にここで終わる
やりたいことって難しい。 仕事でぐちゃぐちゃに疲れることが増えて、そうなると遅い時間でも「何かやりたいことやろう…」としおしおになりながら歩く。 やりたいこと。強めのお酒とジャンキーなつまみを食べること、風呂に湯船を溜めて音楽なりラジオなりを聴くこと。随分前に放送されたラジオを聴いて思い切り笑うこと。ちょっと高めのお惣菜が割引されてるのを買うこと。お菓子を買ってあえてコーヒーを飲んじゃうこと。台詞まで覚えたドラマを観ること。芝居のDVDを見て、劇場に魂だけでも戻ること。 自分の好きな文を書くこと。 しかしそのどれもが大体「いやでもさ」と嗜める自分が出現するようになってしまった。いやでもさ。明日が、カロリーが、時間が、気力が。 嗜めは山のように溜まって結局何もできずに、ぼんやりと夜を過ごす。 文くらいに好きに書けよ、と言われそうだけど、ただ書き溜めるだけじゃ嫌なのだ。 昔からそうだ。書いたら
人は嬉しいと、泣いてしまうんだな。 そういう感覚が嬉しくて、びっくりして、なんなら我ながらちょっと大袈裟だなあとバカバカしくもあって、でもどうあっても、嬉しかった。 急遽、Adoさんの体調不良により、元々事前収録予定だった放送をCreepy Nutsが生で代打で担当することになった。 その知らせが、昼間ぼんやりTwitterを見ていたら飛び込んできて、脳内いっぱいに???が浮かんだ。 去年の春、惜しまれつつ、と何度も聴いた文言。自分の中で2023年の出来事として大きく、飲み下すのに時間がかかった大事件。そんな彼らのラジオが急に一夜限りの復活を遂げるという。 え、え、と思いつつ、お知らせを読み、Adoさんのお休みが台湾のツアー公演に向けて大事をとったものであること、ツアーは予定通り行われることを把握してははあ、と思う。 良かった。 時々聴くくらいのリスナーではあるけど、Adoさんの世界ツアー
刺さって抜けない放送になったらいいなと思って そう源さんに言われた夜を覚えている。どころか、その放送の一部を録音した音源は眠れない夜の毛布みたいに使い込んで、これまで、何度も何度も聴いてきた。若林さんと源さんが笑い、喋るその放送が大好きで、大切で刺さって、時々思い出す、いざという時に取り出すお守りのような放送だった。 そういう意味で「リトルトゥースか」と問われると曖昧に微笑んでしまうようなところがある。 だというのに、今までの自分なら「自分よりもあの会場にいるべきひとがいるし」なんて怯み続けただろう奇跡みたいな場所に、「私がここに来たくて来たんだよ」と思いながら開演前、座っていることにびっくりした。だけど、どうしたってそうだった。浅い年数も、もちろん、そうなんだけど。だけど、私はあの夜の時間が好きで、彼らが好きで、だからここにいるんだよ。 最初に興味を持ったのは2021年、9月7日の星野源
映画カラオケ行こ!の好きなシーンは数多くあるが、どれか一つだけを選べ、と言われたらあの大人数のヤクザたちに囲まれながらのカラオケ教室のシーンだと答えると思う。 それは狂児にしがみつく聡実くんの可愛らしさもあるが、それ以上にあのシーンを観た時にこの二人が出会った時間や、あの愛おしい作品を生身の人間が演じることの意味のようなものがストン、と自分の中で腑に落ちたからだ。 聡実くんの「声変わり」の描写をはじめ、合唱部の、そして映画オリジナルである映画部とのやりとりで「中学生なんだよな」としみじみ思う。大人びて思っていた彼は中学生なのだ。 25歳歳の差のある彼らがあの距離感で関わり惹かれていくこと、そして離れることのなんとも言えない感覚がとんでもなく面白かった。 そうしてそう思うと狂児のきちんと線を引く姿は「大人」だと思う。 今回、随所にそんな「大人」と「子ども」のことを思った。ヤクザ……ブラック企
音楽があって、踊ってて、何より何かを「好き」な人たちがいる。そのことが無性に嬉しかった。 突然だけど「フェス」に対して漠然とした苦手意識を持っていた。スカしていると言われたらそれまでだけど、いろんな音楽を一度に楽しめてわくわくするという気持ちに恐怖心が勝つ。 しかし、職場でも好きなアーティストの話やライブが楽しいという話をするものだから「じゃあフェスに行ったら良いのに」と勧められてきた。 しかし、どうしたって怖いのだ。 その度に「楽しそうだなって思うんですけど、いろんな音が聞こえる空間って怖くないですか?」とわけも分からないことを言って、上司や同僚を戸惑わせてきた。 でもだって、音楽って主義であり、主張であり、信念なのだ。 多少の音楽ジャンルの括りがあるものもあるけれど、とはいえ、同じジャンルならなんでもあり、という人ばかりではない。なら、そういう信念だとかが(アーティストの、というよりも
ちょうど週末、「会話って聴いててしんどくなるやつありません?」なんて話をしたばかりだった。自分が混ざっている混ざってない関係なく、なんでその言葉を選んだんだろう、その声音で話したんだろう、今のリズムだったんだろうを考えてるとたまに、話を聞き逃したり疲れたりする。逆に聴いていてずっと心地いい会話もあって、あれってなんでしょうね、みたいなオチのない話をしていた。 ふと目の前のステージで、ラッパーが握ったマイクに言葉を吐くのを観ながら思う。 私がこういうショーケースに来るのが好きなのはそんな中で「ずっと聴いていたい言葉」がたくさんあるからかもしれない。毎度ショーケースに足を運ぶたびに言ってるけど今回、生まれて初めてオールナイトで行ってみてより強く思った。 そこにある音楽が好きで、ステージの上で吐かれる言葉が好きで、なんだかその感覚がずっと癖になってるんだろう。 行くたびにちょっと自分の場違いさと
好きなものがないと、この世はちょっと生きにくいよなあとよく思う。 時々それが行き過ぎて「かと言って好きなもののために生きてるって思うとそれはそれで足元がふらつくよな」なんて考え込んでしまうけど、それでもやっぱり、この世は好きなものがないとちょっと生きにくい。逆に言えば、好きなものがあるからクソみたいなことまみれの毎日をなんだかんだと笑いながら過ごせているんだろう。 それはやっぱり、何度「好きって結構暴力だ」と落ち込んでも、どうしたって行き着いてしまう結論である。 スラダンをきっかけにバスケを始めた人を知っている。今回の映画を、漫画を、熱く語るひとがいる。そのこと含めて、この作中描かれたリョータの「好きなことを手放さなかったこと」は物凄く意味合いとして濃く、素敵なことなんじゃないかと思う。 私にとっての「SLAM DUNK」は確か学生時代、途中まで読んで、途中だったのに姉が友だちに返してしま
寝るのが苦手だ。 苦手というか、そもそも寝ることについてそこまでの執着がないし、寝るよりも動いてる方が楽しいし、寝て嫌な夢を見ることも多いので優先順位が下がる。そういう意味で「寝れない前提」がある深夜バスの方が安心してむしろ眠れる。 かと言って、じゃあ「不眠症」と名付けるほど眠れないか、と言われるとそうでもない。意外に(質はともかく)眠れている。 そうなるとただただ、「寝るのが下手」と諦めて、ほどほどに折り合いをつけてやっていこう。それが、私の中の睡眠への向き合い方だった。 その時の私の睡眠装備、硬めのベッド枠(木製)とぺらめの3点セット2980円(敷布団、掛け布団、枕)。見た友人が「畳で寝た方がマシ」と言い放つレベル。 もうこの時点でそりゃ寝つき悪くて当たり前だろ何言ってんだお前と言われそうだけど、いやでもずっとそれが普通だったんだもん…と口をもごもごしたい。 ついでに言えば、自分がここ
火曜にタイムラインを見て知った知らせからずっと考え込んでいる。 何にこんなにダメージを受けているのか分からなくてびっくりする。 分からない。本当に。寂しいのと、彼らの言葉の一つ一つに納得しているのと、でも4月から不安で仕方ないのと、これからの彼らの音楽が楽しみで仕方ないのと、本当に、いっぱい降り積もって、まじで分からないよ。 街を歩きながら、どこに向かってるか分からなくなる時がある。家に帰るべきだし休むべきだし、そうしないならせめて楽しい何かをするためにどこかに入るべきなんだけど、それすら思い浮かばない。 そんな時、ふと、源さんのラジオのあと、Creepy Nutsのラジオをやってたな、と思い出す。年明けから聴くようになった彼らの音楽はいいなあと思ってたし、まだ歩くならラジオでも聴いてみようとradikoを立ち上げた。 そこから聞こえてくる会話に笑って笑って、気が付けばススキノのキラキラ光
深夜バスが好きだ。 東京に行く時に「深夜バスに乗って」と言うとぎょっとされる。お金ないの?と心配されるし(まああるわけではない)しんどくない?と聞かれるしそっから大体深夜バスでやられた時のエピソードを聞くことになる。 んだけど、それでも私は深夜バスが好きだ。 みんなが言うようにくたくたに疲れるか、というとそうでもないし、なんなら普段の朝よりも熟睡できるような気がする。 朝、休みだろうが仕事の日だろうがなんだか身体に纏わりつく疲労感みたいなスッキリしなさが、深夜バスに乗るとない。 とはいえ、このコロナ禍、深夜バスに乗る機会はめっきり減った。おいそれと遠征できなくなり、劇場やライブハウス、会場に向かう足だけではなく、バスへの足も遠のいた。 久しぶりに深夜バスに乗った時、嬉しかった。 私は、安いからとか時間効率が良いからだけじゃなく、この乗り物が好きで乗ってるんだと思った。 一番バスに乗っていた
ドーナツが好きだ。 正確には、ミスドが好きだ。 今もぎゃあぎゃあ騒ぎながら日々の生活を送ってしまってる自覚があるけど、学生時代はもっとダメな感じだった。 友人曰く、自分ごと以外の理不尽だのにもいっこいっこブチギレてた、らしい。 らしいと言いつつ覚えてもいる。今よりよっぽどしんどくて感情に振り回されてて(今より!)大事にしたいものが多くてそのくせ大事にもできずにされずに確かにひたすら怒っていた。 そんな私が覚えている言葉がある。 「人はドーナツを食べている時、悲しい話を話せない」という言葉だ。 もしかしたら、細部は違うかもしれない。ともかく、ドーナツを食べてる時、悲しい顔や怒った顔じゃなくて人は笑顔になるのだという言葉がトレイに敷かれた紙に印刷されていた。 その日もやっぱり怒り悲しくなり、やってられないと友達に話を聞いてもらっていた。なんでかは覚えてないけど、怒ってたことは覚えてる。その合間
フワちゃんのラジオがなんとなく好きだ。 そもそものきっかけはCreepy Nutsのゲストきっかけでいよいよラジオを聴いたことだ。 そのラジオがぶっささり、録音し、それから何回聴いた分からない。なんなら録音してるのにいい音質で聴きたいとSpotifyでその回を聴くこともあるしいややっぱり音質が悪くてもあの日の放送を楽しみたい&あのカラオケタイムや冒頭の曲へのコメントをより楽しみたいと録音を聴くこともある。 一つわかってるのはもう何回、と数えるのが無理なくらい聴きまくってる、ということだけである。 まじでただただうるさい回だし聴き慣れたから何言ってるか分からないところはほぼないけど、初聴の時は本気で訳わからなさすぎて笑ったし、分からなくて好きだった。人間だったらどっちか黙れという無茶苦茶なツッコミに頷いたりもした。 そうしてげらげら笑ってから時々、Creepy Nutsのゲスト回以外も聴くよ
家族、という投稿を見て、たまらなく嬉しかった。 喜劇が出た時、自分がこの曲に共感できるだろうか、と怯んで、それから繰り返し聴く中で「あなた」に入るのは狭い定義である必要がないんだ、と腹落ちし、 まさしくそんな話を源さんがしてくれるたびに安心したりした。 家族、という言葉の意味を広くとっていいはずだ、と思いながらも自分が無意識に狭めていた「婚姻関係のある人々、あるいはそこから派生した集団」と限定していたんだ、と自覚した。でもそうじゃない。家族は同じ人間相手である必要もないし、他人である必要もない。 そう思いながら過ごしていたけど、インスタの投稿を見ながら改めてそうだよな、と思った。 いつだか、源さんが仕事仲間だって家族だよ、と言っていて私はそれが本当に好きだったんだけど、大好きなひとたちが集まる写真に添えられた家族、という言葉が嬉しかった。彼らが笑いながら音楽をする姿が好きで、まるで家族みた
※21日放送の「ミステリと言う勿れ」7話と「恋せぬふたり」5話のネタバレを含みます。 どっかに行きたい。 日々予定を詰め込み過ぎるたちな上に、今は私生活も仕事もしっちゃかめっちゃかにし、去年の後半くらいから続けている人生のサイコロを強引に振り回していく期間のせいで、疲れているからかもしれない。 どっかに行きたい、と定期的に思う。 どっか、なるべく人が少なくて知ってる人もいなくて、できたら水が海でも川でも良いからあって、温泉もあったら嬉しくてそこでなるべく携帯を見ずにぼんやり過ごしたい。 そんなことを日々現実逃避のように思っていてかと言ってご時世的にも自分の状況的にもじゃあ!と飛び出せはしないので、極力ひととのやりとりも減らして思考回路も沈めて過ごしていたそんな月曜日。ドラマを二本観て、何をどうやっても晴れなかった気怠さがなくなって私は苦笑している。もちろん、嬉しくて清々しい気持ちで。 21
文を書くことに執着して数年。実際、小さい頃から唯一「これは私の」と言えるのが文を書くことくらいだったし、もっと言えば喋り含めて言葉を使うことくらいなので、ほぼ年齢とイコールかもしれない。 とはいえ、もう一回文と向き合おうと決めてからは数年。 「語彙がない」という言葉がある。 私自身、自分の語彙の無さにはうんざりする。 だけど、最近「語彙のあるなし」以上に表現することについて妥協するかどうか、言い当てられるかどうかなんじゃないか、と思うようになった。 この「言い当てる」というのはCreepy Nutsの動画を見ながらなるほど、と「言い当てる」さまを観て以来考えている概念ではあるんだけど、 たしかになるほど、「いいな」と思う文の多くは「語彙力」の差を感じる見知らぬ言葉と出会うものではない。 むしろ、そこにあるのはよく知る馴染みのある言葉なのに全く思いつかないような繋がり、流れになっているものだ
恋せぬふたりの2話を観て、物凄くしんどかった。 殊更に……それは、限られた話数、時間の中で描こうとしてるテーマを最短距離かつわかりやすく伝えようとしている結果なのかもしれないが……強調される台詞が耳の奥、嫌なくらい残っている。 「普通は」「当たり前」「おかしい」「特殊な」 それは正直にいえば、耳にしていて苦痛なくらいのそれである。たぶん、このドラマのキャストと脚本家に思い入れがなければ、あまりにあの家族の団欒シーン(いや団欒という言葉は似ても似つかないような地獄の時間だったけど)で観るのをやめていたかもしれない。 この「恋せぬふたり」は「アロマンティック」「アセクシュアル」、つまり他人に恋愛感情・性欲を抱かないふたりの「恋愛ではない共同生活」を描く。 多様性という言葉やセクシュアルマイノリティという言葉が身近になるなかでも、比較的知られていない言葉かもしれない。実際私も、言葉としてはそれぞ
※直接的なネタバレは極力避けていますが、ネタバレのような話は出てきますので十分お気をつけください。 根本的に「グロい話」が苦手だ。痛い、ということを過剰にもしくは丁寧に伝えられるとアアアアアアア…と言いながら折り畳めるだけ身体を折り畳みたくなる。 だというのに確実に「痛い」描写があるだろう『CUBE 一度入ったら、最後」を見ることに決めたのはいくつか理由がある。 一つにはもちろん、こないだブログも書いた星野源のCubeがかなり最高だったからだ。 しかし、それ以上にラジオやインタビューで語られた菅田将暉さんの言葉と、菅田さんの目を通して語られる監督の姿勢に興味を持ったことが大きい。 CUBEとは元々、カナダで作られた映画である。箱の中……1シチュエーション(いろんな箱を移動はするが)という制約のなか、極限の状況とそこに追い詰められ浮かび上がる人間の姿、というものを描いた作品らしい。 (まだオ
9月30日、20時から。 Creepy Nutsが生配信のライブをやるらしい。 私はそのニュースを観て嬉しくて興奮して、いやしかし幻覚だったのでは?と疑い、 どうやら本当にあるらしい、とわかって慌ててこのブログを書いている. ライブは彼らの最新アルバムCaseの曲を全曲やるという。 しかも、セトリはそのアルバムの順番、そのままで。 飛び跳ねたくなった。なんなら、心の中では結構かなり、飛び跳ねている。 私はこの「Case」というアルバムが大好きだ。それは、一曲一曲の完成度の高さはもちろんのこと、何より、その曲順によって紡がれた彼らの物語が大好きだからだ。 世界をひっくり返す、とラジオで悪ふざけをするように、でも真剣に言う彼らに、本当に心から楽しみにしていた。 アルバムは初め、彼らのここ数年の快進撃をそのまま音楽にした曲たちで始まる。 とはいえ、私はど新規もど新規、ある程度知名度が広がった今年
長く長く、ザワについて考えていたような気がする。 全くもって、勝手に、ではあるんだけど、私は初回まるでタイマンをするようにザワを観て打ちのめされ、それからもうだうだと考え込んでいた。もちろん、2回目観た時点で「エンタメ」としてかなり楽しみもしたのだけど、それでもどこか、小骨が引っ掛かったままというか、周りの熱気とは裏腹に、ザワに対してうだうだと考えてしまっていた。 なにをそんなに考えていたのかはまた書くものの、一番は観た直後、混乱のまま書いたブログを引用した方が早いだろう。 http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2019/10/10/012723 ザワの感想からちょっとズレるけど、なんで楓士雄が持ってる人だとそんなに苦しかったか、の個人的な感傷のブログ http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2019/10/10/1
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