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縄文時代の江戸 1450年以前の江戸 1590年頃の江戸 江戸の堀と河川 1643年頃の江戸市街 明暦の大火少考 以下は東京湾および低地帯の地盤データによって推定した縄文時代の地勢とその変化です。 縄文海進時代に利根川などの土砂堆積が作った沖積平野が有楽町層で、下図の青の濃淡は関東地質調査業協会の深度データを地中の有楽町層以前の地盤である高砂層(東京層→安定地盤)までの深度を示すものとして作図したものです。 氷河時代(7万年前〜1万5千年前頃)の海面は現在より80mほど低かったと推定されていますが、図の濃い青の部分(-70m)が氷河時代の東京湾にそそぐ河川の河床だったと推定できます。 千葉県側の現材の江戸川周辺では谷が多数いりくんでいて、現在の平坦な地形ではなかったことがうかがえます。 東京側でも東京湾岸道路のずっと南まで低地が延びていて、ここを平川と石神井川が縦に切り裂
利根川東遷概史 江戸川人工河川論 現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。 江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。 江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。 その治水と開拓の総括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。 その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈
江戸川は下流域も人工河川 江戸川(利根川と渡良瀬川の合流以降)の流路は1625の新川通し開削に続いて1641の関宿〜野田間のバイパス流路の開削など上流のほぼすべてが治水のために流路を変えられた人工河川です。 下流域では今に見える江戸川が大昔からそこにあった・・それが常識です。 否、三郷市以降の江戸川も江戸初期に開削された人工河川である、ことを考察してみます。 利根川の下流域は正保図(1644〜1648)の時代では、隅田川筋、古利根川筋(現中川)、利根川筋(現江戸川)の3筋があります(古利根川筋と利根川筋の間にもう一本無名の水路がある)。 現中川筋が古利根川、すなわち正保図時代ではここが往古の利根川だった。 しかし、太政官符にも吾妻鏡にも義経記にも「スミタ」と「フトイ」の2筋の河川名しかでてきません、3筋目の川はどこから現れたのでしょうか。 1947年のカサリン台風による桜堤決
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