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大谷翔平
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本年春、大月隆寛氏の新刊『あたしの民主主義』(毎日新聞社)が刊行されました。 十年来の愛読者としても、なかり出来のよい本だと思います。 こういうと実に偉そうですが、わたしは「ゴーマニズム宣言」のブレイク以前から(小林よしのり氏に関しても「ゴー宣」以前の「おこっちゃまくん」いや80年代初頭の「マル誅天罰研究会」以来の愛読者だけどね)浅羽通明・大月隆寛両氏の愛読者を続けてます 。 で、今回は、そんなオヤジ世代として一つ、私なりの大月隆寛読解入門を展開させていただきます。非常に長文になりますが、ひとつお付き合い下さい。 『あたしの民主主義』はこう読め 本書の内容は、直接間接にほぼ、歴史認識、戦争、民主主義ってことの「語り方」「語られ方」についてだといえるでしょう。つまり論壇論、ジャーナリズム論というメタな視点ですね。なるほど、それら「語り方」「語られ方」の点検、という意味は大きいし、それがすっぽ
と、いうわけで、以前から予告だけはしていた、これまでほとんどのメディア で取り上げられたことのない「『王立宇宙軍』監督、山賀博之氏のインタビ ュー発言など」の再録です。 ※お断り:おそらくWEB上でもこんな物を再録してるのは多分ココだけなの で、下手をすると本ページ作者の恣意的抜き出しによって「山賀監督のイメー ジ」が偏見的に形作られる恐れがあるかも知れませんが、まぁココで取り上げ た発言は、あくまで本ページ作者のいい加減な選択によるものと御了承の上で お読み下さい。 ●「王立宇宙軍」公開当時(1987年)の発言 「とにかく、宇宙に行くこと自体は、特に問題がないと言うか、行かなくても いいんですよ。それよりも、現実がある中で、その延長上にちょっと現実から はみ出した部分に何か新しいものが見えるようなものができないかと考える と、宇宙まで行かないとダメだったということです。」 ・『キネマ旬報
(注1:20年も前の話なので、記憶が曖昧で不正確な部分があると思われます) (注2:文中の公共機関の仕様は1988年当時の物で現在と異なる可能性があります) (注3:客観性を期すつもりであえて三人称で書きました。以上、ご了承ください) 1988年の夏というのは、福岡市で日教組の定期大会が開かれることになっていたわけだが、大会の開催前から、同地にはこれに反対する右翼団体が日本中から膨大に集まってきていた。当時の朝日新聞福岡版の報道によると、93団体、1400人、街宣車その他の車両は350台だったそうである。 で、7月の半ばに入ってからというもの、福岡市内では、もう毎日毎日、連日、何十台という数の右翼の街宣車が列をなして大音量で軍歌を鳴らして走り回り、日教組を罵倒する街宣活動を繰り返していた。 さらには、日教組大会の会場に予定されていた福岡市中央区の大手門会館では、右翼が抗議のため拳銃を発砲し
■※遠藤浩輝『遠藤浩輝短編集1』『EDEN It's an Endless World!』第1巻(講談社)■ ●スカも共感も含めて同世代人、遠藤浩輝 98年春に『遠藤浩輝短編集1』『EDEN It's an Endless World!』第1巻の2冊の単行本を上梓した漫画家遠藤浩輝は、漫画家としては私が現在もっとも「同世代」を感じる人物(これは一時期の安達哲以来だろう)の一人だ。 月刊「アフタヌーン」97年11月号での『EDEN』第1話のハシラの近況を読むと「『パタリロ』のバンコラン少佐と同じ歳になってしまった」云々と書いているから、この時27歳、逆算すれば1970年生まれ、おおっ、だとすればまさに私と同じ歳の筈である。 遠藤の作品と最初に出逢ったのは96年の春、地元(福岡)の先輩と電話で話していて紹介されて読んだ。その先輩は特にマンガに詳しいわけでもなく、他の趣味でも私とはけっこう志向が
ブルーハーツは、80年代も後半に向かう時期、矢沢栄吉をヒーローと崇めるような従来のヤンキー系不良でもなく、サブカル教養のあるニューウェーブ系でもなく、大多数の中間的なマス層の若者に語りかけるロックとして登場した。 それまでになく平易な日本語で、例えば「いつか会えるさ きっと会えるさ そんな仲間に」(街)といった、孤独やそこから生まれる他者と繋がりたい願望、「戦闘機が買えるくらいのはした金ならいらない」(NO NO NO)といった大人への素朴な反発を歌った彼らに共感していた、80年代後半の多数の中間的な若者とは、どんな存在だったのだろうか? 当時、既に60、70年代的なカウンターカルチャーや学生運動の文化は消えうせ、その後のツッパリ、暴走族ムーブメントも、80年前後頃の最大の盛り上がりを経て(金八先生や校内暴力を思い浮かべて欲しい)沈静化し、番長ヒーローはリアリティを失って極端にインフレ化す
矢作俊彦『ららら科學の子』(文芸春秋)を読了した。この小説、刊行直後に福田和也が書いてた書評が実に興味深く、また周囲の友人の評判も高かったので、読む前から実に期待していた。 実際、21世紀初頭の日本にあって、実に貴重な視点とそれを支える描写力とセンスの良さに彩られた、大変な力作、傑作であるとは思う。 が、読んでて非常に反発や違和感を覚えた箇所も多い。一冊の本にこんだけ好印象と悪印象を同時に覚えるのは久しぶりである。 もっとも、その悪印象というのも、単にわたしの視点が変に時代の一側面に毒されてて偏ってるだけかも知れないが、それでも一応、ひょっとしたら誰も同書に対してこういうツッコミを入れてないかも知れないので、ひとつ書き出しておこう。 ●「わかる奴にだけわかればいい」で良いのか? 物語の主人公は、かつて1960年代末に学生運動に携り、半ば不可抗力で大学内に突入した警官を殺しかけ、そのまま、偶
・別名「映画監督・山賀博之を勝手に支援するホームページ」 SINCE 1997 3/31 LAST UP DATE 1999 06/07 ※またもやリンク一件追加! (C)GAINAX 東宝東和 バンダイ
「B級保存版」って何? 佐藤賢二こと葦原骸吉(自称:売文プロ(レタリアート))の個人サイト、過去の文章アーカイブです。 ネーミングの由来は、汎田礼氏の「永久保存版」にあやかったもので、大して考えてません。 ■商業原稿再録 過去にライター仕事で書いた原稿のうち、初出からだいぶ経っていたり、現在書店で入手もできなそうなものを、部分的に再録してます。 (2007年5月18日更新)
「この世に正義はない、と人は言う。しかし、あの世にだって正義はない。」 アレクサンドル=プーシキン『モーツァルトとサリエリ』第一幕第一場 以前「B級保存版」開設に当たり、「坊や哲宣言」ってのをやったが、「ドサ健」と「坊や哲」という例に続いて、「B級、二流ながら、しかし二流なりに誠実にして一生懸命の人生」ということを語るために引き合いに出したいのが、大杉栄と甘粕正彦の話である。 無政府主義者大杉栄(1885-1923)に関しては、浅羽通明氏が別冊宝島の『巨人列伝』にその人物像を、その魅力と危うさの両側面併せて書いてくれている。この文章を半ば意地悪く読まれれば、浅羽氏がかつて大杉の生き様に強く魅せられ、「しかし、俺にはこんな生き方はできそうにもない」と結論したのであろうということが伺えるだろう(ついでに言えば、別冊宝島『おたくの本』収録の富沢雅彦伝にも同じことが言えるのだが)。 大正のドン・キ
佐藤 河田先生はライターとして仕事をされてて、取材で富野由悠季氏、ガイ ナックスの庵野秀明氏、山賀博之氏に直に会われたこともあり、この三氏につ いては思うところも多い、という人物なワケですが、今回は「『オネアミスの 翼 王立宇宙軍』はこう見ろ!」みたいな話をしたいと思うんですけど、一つ よろしくお願いします。 河田 いやあ。インターネットなんて見たこともない超アナログ人間なんで、 誰に向けてどういうレベルの話をすればいいのかよく把握してないんですが、 まあその辺は佐藤先生に舵取りしてもらうとして。とりあえず自己紹介をして おくと、ライターをやっていて、28歳。最近は太田出版『スキゾエヴァンゲリ オン』『パラノエヴァンゲリオン』を手伝いました。と言っても、アニメに関 しては中学くらいまでは思い切り生活の中心だったんですが、それ以降ほとん ど興味を失ってしまい、この10数年のことはほとんどわか
●知られざる日本のサイレントマジョリティ? 前回までの「B級保存版」では宮台真司先生とそのフィールドワーク対象であるブルセラ女子高生やクラバーキッズ、そして宮台氏のファン・読者の方々への疑問点を論じてきたわけですが、それらについて考えている内に、それって実はほとんど東京ローカルの、それも本を読む人間だけの話題でしかないんじゃないのか? ってな疑問を抱きました。 そこで今回からひとつ、これまで語ってきた宮台真司先生とそのフィールドワーク対象、そして宮台先生のファン・読者の方々とは完全に住み分けられた補集合の関係に当たる「地方」「高卒」「男」という問題についてを考えてみようと思っています。 「地方」かつ「高卒」かつ「男」というのは、実は日本のサイレントマジョリティです。でも、その内実についてきちんと語られたことなんか(俺の知る限り)ぜぇ〜んぜんありません。 まぁムリもないことです、「地方」で「
「おたく文化の原点としての80年安保的価値観の救出したい部分」の話です。良くも悪くも、皮肉や嫌味抜きに「80年代を知らない世代」ってのが既に出現してる、ってのはカルチャーショックでした。自分も「今だに80年代固執派」には相当に反感がありますが、難しいところで、同時に、ホンの一瞬だけど、彼らの言うような物が「輝き」を持ってた時代もあったと思います。それを後から出てきた世代の強みでムゲに否定しバカにして終わりにするのはちょっと無責任かなぁ、って思いもある。 それと、しょせんは自分にとっての西部邁とか福田恆存ってのは20歳を過ぎてから後づけの知識で仕入れた付け焼き刃で、やっぱ十代の頃に「アニメや漫画や怪獣」とかいったおたく的サブカルチャーにまみれていた頃に得た物が物を考えるベースとしてしっくり来るんで、そのへんを一度虫干ししとこう、ってな思いもあって。今回はそんなわけでそういうオタク話ばっかにな
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