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筒井康隆断筆事件から『蘭学事始』まで 「被差別者への配慮」を考える 関西大学『人権問題研究室紀要』29号、1994年4月 はじめに 一九九三年九月、人気作家であった筒井康隆氏は作家活動をやめるとして、「断筆宣言」をし現在に至っている。ことの起こりは、同年七月八日、日本てんかん協会が角川書店発行の『高校国語Ⅰ』に収録されている筒井作「無人警察」がてんかんに対する差別を助長するとして削除を要求したことに端を発する。筒井氏が著名なSF作家であったことやその筒井氏が断筆に至ったこともあり、この事件は新聞や雑誌でたびたびとりあげられ、さらにこの事件を扱った単行本も数種刊行されるなど、差別と表現をめぐる問題としては『ちびくろサンボ』絶版[(1)]以来の多くの人を巻き込んだ論争になっている[(2)]。この事件の一連の経過は、月刊『創』一九九三年一二月号の特集「差別表現とマスコミタブー」において詳しく整理
新しい差別論のための読書案内(2) 河合文化教育研究所編『上野千鶴子著「マザコン少年の末路」の記述をめぐって』 こぺる刊行会『こぺる』20号、1994年11月 ――――――――――――――――――――――――― 上野千鶴子が差別問題にからんで何か「やらかした」らしい。ちまたでは、そうした風説が流れている。事実経過はこうである。一九九三年一月の終わり、大阪府立高槻南高校で障害者問題に取り組む冨田幸子教諭より、フェミニズムの旗手上野千鶴子および大手進学塾である河合塾のもとへ、質問・抗議の葉書が寄せられた。一九八六年に河合塾より発刊された上野千鶴子著『マザコン少年の末路―男と女の未来』(河合ブックレット1、河合文化教育研究所発行)の中でなされている、“自閉症は母親の過干渉・過保護によって引き起こされる”という記述は自閉症への誤解にもとづくものであり、差別を助長するのではないかというのである(この
差別って、いったい何だろう 京都部落史研究所月報『こぺる』165号、1991年9月 考えるようになったきっかけ 京都部落史研究所の灘本と申します。今日は、『ちびくろサンボ』を題材に差別問題について考えていこうということで提起をさせていただきます。新聞などで見ておられると思いますけれども、長い間、日本で子どもたちに非常に人気のある絵本として読み継がれてきた『ちびくろサンボ』が、人種差別絵本であるということで、絶版になっており、現在、本屋さんでは買えない状態になっています。私は、今回の『ちびくろサンボ』が批判され、絶版にされていく過程に、現在の差別問題の扱われ方がよく表れており、よくないことであると思っています。「差別」というレッテルが貼られた途端、皆が議論しなくなって、何が本質かわからない間に、出版物が消えていく。消えていったら、それでおしまい。こういうことが本当に差別問題の解決につながるの
映画「橋のない川」上映阻止は正しかったか 今井正版・東陽一版を見て 部落問題全国交流会事務局『第9回部落問題全国交流会報告書』、1993年4月 灘本昌久 はじめに ここ十年来、少し気になっていたことに、今井正監督による映画「橋のない川」がある。この「橋のない川」の第2部は、差別映画であるとして部落解放同盟や共闘団体が一九七〇年より糾弾闘争、上映阻止闘争を続けており、私も一九七〇年代半ばに2回ほど、この「闘争」に参加していた。どうして、それが心に引っかかってきたかというと、大きな声ではいえないが、実はつい先日まで、私はこの映画を見ていなかったからである。よく見てもいない映画の「上映阻止」などという無茶なことができたものだと今になって思うが、当時は差別映画を上映させるわけにはいかないという一念だった。 ところが、最近、差別語や差別表現について考えたり発言したりすることが多くなってきてみると、自
灘本昌久のホーム・ページ Welcome to Nadamoto Masahisa website! 最終更新日:2007/12/31 新着情報(2007/12/31更新) (過去の新着情報) ブログ 著作(2007.12.31更新) 講演(2007.12.31更新) 略歴(2007.12.31更新) リンク・フリー! どのページへでもご自由に ←迷惑メール対策のため画像にしてあります http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/ 京都産業大学文化学部教授 〒603-8555 京都市北区上賀茂本山 京都産業大学 学内からのアクセス 学外からのアクセス(since 1998.10.1)
瀬川丑松、テキサスへ行かず ―『破戒』のキーワード「隠す」と「引き受ける」について― (上) 『こぺる』1996年7月号 灘本昌久 『破戒』との不幸な出会い 思えば不幸な出会いだった。 私が高校一、二年生のころ(一九七二、三年)、部落問題を勉強し始めた早い時期に読んだのが、『高校生の部落問題』である。そこには、野間宏による評論「『破戒』について」が掲載されていた。野間氏は、『破戒』を次のように極めて否定的に評価している。「丑松は自分の教える生徒たちの前に土下座して自分の出身を告白し、その後、新天地を求めてテキサスに渡るというのだ。藤村が部落民の問題を人間の問題として、十分考えつくすことができなかったことをあらわにしているのである。『破戒』というのはこのようなことなのだろうか。破戒とは父のさずけた戒の意味を根底からくつがえす心をもって、自らその戒を破り去り、父にそのような封建的な戒をもたらせ
「マンガと差別」 現代風俗研究会『現代風俗 93』1993年1月 はじめに 現代風俗研究会の今年度のメインテーマは「マンガ」。マンガとゲンプーケン。よくわかる組み合わせだ。クリープとコーヒーのようによくわかる。しかし、私にいただいたテーマである「マンガと差別」となると読者諸氏にはわかりにくいかもしれない。私も二十年前ならまったくわからなかっただろう。しかし、今はよくわかる。本書の編集者には、現在の「差別!」という観点からなされるマンガへの異議申し立てに違和感があったのだ。 私は、マンガに対して「差別だ!」という異議申し立てがなされることを全面否定しようとは思わないが、最近反差別運動の立場からなされるさまざまな表現への「差別!」という抗議の内容には少なからぬ違和感をいだいている[(1)]。その違和感というものは、こんなことだ。いまどきの人で、差別と聞いて良いことだと思う人は少ない。たいていは
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