サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
www.futenma.info
このサイトは、沖縄県宜野湾市にある普天間基地移設問題の渦中、普天間基地の実態はどうなのか、周辺住民の暮らしぶりや生活環境はどのようなものか、当事者の本音など、多くの人が持つ素朴な疑問と現地の状況を「宜野湾市民の目線」ですっきりわかりやすい内容にしてご紹介しています。 普天間基地(普天間飛行場)の実情に焦点を当てることで、米軍基地による過重な負担を強いられている沖縄県・宜野湾市・普天間基地近隣住民の生活環境や暮らしに関心を持っていただくキッカケになれば幸いです。 【普天間基地】(ふてんまきち)がどこにあるのか、意外と知られていませんが、普天間基地の所在地(住所)は、沖縄県宜野湾市(ぎのわんし)の中心部にあります。 宜野湾市は、沖縄本島中南部の東シナ海に面しており、北には北谷町(ちゃたんちょう)、東には中城村(なかぐすくそん)、北東には北中城村(きたなかぐすくそん)、南東には西原町、南には浦添
沖縄は戦後、日本から切り離され1972年まで27年間を米軍統治下に置かれました。そのため、1960年代の日本の高度成長の波に乗り遅れてしまいました。そればかりか、米軍の極東戦略の中核を担う広大な軍事基地建設のために、農地や宅地や産業用地を強制的に接収され、戦前の主要産業であった農業が壊滅的な打撃を受けました。 米軍は、大規模な米軍基地建設需要に労働者を投入するために、基地労働者の給与を極端に引き上げて、他の産業からの労働移動を促しました。そのため、基地労働者はピーク時には7万人を越え、沖縄最大の雇用先となったのです。そうして基地関連収入は急増し、「基地依存型経済」の構造がつくられたのです。戦後の米軍統治下の県経済は1957年には県民所得の46.5%を占めていました。 「沖縄県の統計」によれば「基地経済=軍関係受取」の中味は、軍用地料、基地従業員所得、米軍の消費支出の3つを指しています。 2
普天間基地建設前は、いくつかの泉があり、それらを水源に畑作が営まれており、なだらかな小山が続いている丘陵地で広大なサトウキビ畑やサツマイモ畑が広がる村でした。 また、本島南部と北部を結ぶ位置にあるため、交通の要衝を占めており、道沿いには松並木が続いていたようです。 【↑画像クリックで拡大】 宜野湾市よりお借りしました この昔の写真は、1944年(昭和19年)9月に米軍が上陸用の作戦地図をつくるために撮影した写真だそうです。民家もたくさんありますが、広大な畑が広がっている様子がわかります。 1945年(昭和20年)の沖縄戦の最中、宜野湾一体が米軍の支配下に置かれると、米陸軍工兵隊が民間地を強制的に取り上げ(接収)、米軍上陸と同時に普天間飛行場建設が始められられました。 短期間に普天間飛行場が整備されました。このときに2,400mの滑走路が建設されました。 【↑画像クリックで拡大】 宜野湾市よ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『普天間基地@米軍飛行場がある暮らし』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く