サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
www.k-hosaka.com
◆◇◆<怪物>を消尽する--底が抜けた言葉の文学◆◇◆ 「ユリイカ」1996年2月号 特集:ベケット 保坂和志VS宇野邦一 ▼時間の不在 ■宇野さんと会うようになった頃、僕はベケットのことばっかりしゃべっていたんです。 ●そんなときがありましたね。その後ですね、僕が翻訳したのは。 ■そうですね。 ●だからベケットについて話すように言われたら保坂さんの顔が浮かんでね。 ■八〇年から九〇年ぐらいかな、ベケットのことばっかり考えていたのは。でもそんなにいろいろ読んでいるわけじゃないんです。 ●僕が訳したやつも読むのにしばらくかかった。 ■何しろ一冊読みだして、何度も途中で挫折して、その都度大体最初から読むんですけれど、何度目かに最後まで読めるときがきて、しかもそれを読み終わるのにも何ヶ月もかかるんです。 ●僕も自分でなかなか読めないから訳してみたというところもあるからね。 ■でも今回はじつはもの
研総特集=荒川修作+ マドリン・ギンズ アトリエの毛沢東その精神病的 =分析哲学的表象システムと上下反転運動の論理的解明 アラカワは狂っていると私は思う。 あるいはアラカワは狂っているというマトリクスに発することで、人は彼の作品と言葉が示唆する真理の普遍的性格を最もよく理解する、と言った方が、いくぶんかエレガント(社交的‐神経症的)だろうか? ここで狂っている、というのは、言語と表象の精神病的な使用法のことであり、その意味作用すなわち作品の表象メカニズムにおける、隠喩の完璧な排除のことである。それは美の完全な否定へと帰結する。 彼の表象体系は、あらゆる仄めかし、諧謔やユーモア、迂回や抑圧、隠されたものが醸し出す誘惑、快楽、恐怖といったものとは無縁であり、いかなる留保もない意味作用の明晰さ、絶対的で直接的な開示としての意味の分節、情報の伝達をめざしている。彼の作品に「目をつぶれ」「進め」「登
網目状の運動かエネルギーがあり、それがある触媒や刺激によってしばらくのあいだ形らしきものになる。私にとって作品はだんだんそういうイメージになってきている。 あるいは、作品になる前の広がりがあることを予感させる作品。それはたぶん試行錯誤の言い換えというか別の姿をとったイメージなのだろうが、別の姿をとったということは試行錯誤と完全には同じではないということになるのではないか。 小島信夫の小説、おもに長篇小説は、私の気持ちを沸き立たせる。私は読みつつ小説に煽られているように次々といろいろなことを考え出している。カフカもそうだ。音楽に、聴く側をじっと黙らせてひたすら受け身の位置に置かせつづける音楽と、立ち上がっていっしょに踊ったり、思わずメロディをいっしょに口ずさんでしまったりする音楽があるように、すべての芸術には、観る者・聴く者・読む者をじっとおとなしくさせておかないものがあるのではないか。 カ
言いたいことがいっぱいありすぎて、何から書いたらいいかわからない。あるいは、考えなければならないことが大きすぎて(広がりがありすぎて)、どういう道筋で書いたらいいかわからない。 大きかろうが多かろうが連載の回数を何回も使って書けばいい――ということにはならず、一ぺんに言わなければ言いたいことは伝わらない。もちろん原発に関係することだが、それは原発だけの問題でなく、原発によって浮き彫りにされた社会と人間の生き方の問題だ。 今回の見取図を先に示しておくとこういうことだ。 私たちは利便性優先の社会の中で生きている。利便性の追求によって大事なことがたくさん失われた。この「利便性」は私たち自身の欲望が生み出したものだから、利便性優先の社会を作った原因(罪)は私たち自身にある、という受益者である私たちを責める考えがあるが、この考え自体がでっちあげだ。いまの社会は「利便性工学」とでもいうようなものによっ
今回は復興と原発の話だ。 東日本大震災から二カ月が経ち、どういうわけか震災後復興を戦後復興に擬して語る声がすでに聞かれなくなったのは、たんに私がそれを聞いていないだけなのか、自明のこととして言われなくなったのか、忘れられてしまったのか。 震災後復興=戦後復興とさかんに聞こえていた頃から、それは年がいった人たちのノスタルジーでありアナクロニズムであるという意見が同時にあり、それはつまり若い人のあいだでは戦後復興のような右肩上がりは望めないという現状認識が浸透していたからだ。バブルがはじけて不景気になった九〇年代半ば、私は何人もの年長者たちから、 「明けない夜はない。」 「春が来ない冬はない。」 だから若い人たちは夢を持ってもっと頑張ってほしい、という意見を聞いたが、国や社会や経済を地球の自転や公転に喩えるのはあまりに雑な話で、一度滅んだ恐竜がもう一度復活することはない。かつて栄えた中国とイン
二〇〇三年の私の収穫は、柴崎友香という小説家を知ったことだった。 デビューが一九九九年で、この『きょうのできごと』の出版が二〇〇〇年一月だから、三年か四年、見過ごしていた計算になるが、毎年毎年何十人もデビューするこの世界の新人を、特別評判にでもならないかぎり、いちいち読んでみたりしない。つまり柴崎さんは全然評判になっていなかったわけだけれど、秋に柴崎さん本人と知り合って、半分以上「義理で」読んでみたのだが、これが予想に反してすごく面白い。 面白いだけでなく、不思議な緻密さによって小説が運動している。 というより、不思議な緻密さによって小説が運動している、その緻密ぶりが面白い、と言った方が正しいだろう。たとえば、最初の「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」の冒頭、「光で、目が覚めた。」につづく段落。 「右側から白い光が射してて、中沢が窓を開けて少し身を乗り出すのが黒い影で見えた」は
◆◇◆遠い触覚 第二回 「インランド・エンパイア」へ(1) 前半◆◇◆ 「真夜中」 No.1 2008 Early Autumn デイヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』のことを書きたい。『インランド・エンパイア』(以下、『インランド』と略す)は観るたびいろんなことを考えて、考えが次々出てきて止まらなくなる。私はそれを全然制御できないのでこれから何回かにわたって書く予定のことも全然まとまりがない。その最たるものが、ローラ・ダーンが顔に痣をつくって、眼鏡がやけに曲がっている男に向かって話をしている場面だ。彼女はかつて男にレイプだったかレイプまがいの乱暴だったか、そういうことをされた時の話をしていて、それを見ながら私は、 「どうして性器は排泄器官といっしょになってるんだろう。」と不思議になってしまったのだった。 性器が排泄器官といっしょになっていなくて、服や下着で隠すようなものでなけれ
俳優の池部良が亡くなった。一九一八年生まれだから九十二歳だった。言わずと知れた、と言っても若い人たちは知らない人の方が多いかもしれないが、少なくとも昭和のうちにものごころついた人たちにとって、池部良は昭和を代表する映画俳優だったわけだが、私と妻にとってはここ二、三年、毎月一度は話題にのぼるひじょうにホットな現役の書き手だった。 「銀座百点」という、銀座の名店を紹介するPR誌というのかなんというのか、とにかくそういう月刊の冊子があり、池部良はそこで毎号「銀座八丁おもいで草紙」というエッセイを連載していて、これがもうメチャクチャおもしろい! それで池部良の本を調べてみると『そよ風ときにはつむじ風』という一九九〇年に出版された本を皮切りに、続々出てくる。 「日本文芸大賞も受賞するほどのエッセイの名手であり、」みたいな紹介文もあるが、賞なんかとっていてもつまらないエッセイはいくらでもある。池部良の
中井久夫は精神科医で本もたくさん出しているが、意外なことに妻は最近まで知らなかった。しかし1年ほど前から知り合いの70代の人がどうやら認知症らしいということになり、私が中井久夫を見せたらいきなり熱中して読みはじめた。そしたら今度は8月に22歳だった猫のペチャが死んだ。それ以来、20年間、夫婦のように、恋人のように、兄妹のように、べったり寄り添って生きてきたジジがものすごく不安定になった。ジジもまた高齢による体調不良は当然あるが、その不安定さはペチャがいなくなったことと関係しているとしか見えず、妻は中井久夫の本をいっそう熱心に読むようになった。 「猫に精神医学か? 猫も高尚になったもんだ」などと呑気なことを言ってる場合ではない。人間にあるものは基本的にすべて犬猫にもある。人間は犬猫より少し知能が大きくなり、そのかわり感覚がだいぶ鈍くなった。だから体調不良は人間より犬猫の方がずっと深刻なのだ。
◆◇◆遠い触覚 第一回 「いや、わかってますよ。」◆◇◆ 「真夜中」 No.1 2008 Early Summer 小島信夫の代表作は『別れる理由』ではなく、『私の作家遍歴』と『寓話』だ。正確なところはいまは調べるのが面倒なので調べないが、『別れる理由』は一九六八年から八一年まで約十三年間『群像』に連載され、『私の作家遍歴』は七〇年代半ばから八〇年まで『潮』に連載され、『寓話』は八〇年から八五年まで、はじめのうちは『作品』に連載され、『作品』が廃刊になったあとは『海燕』に連載された。小島信夫はこの時期、他に『美濃』を七七年から八〇年まで、『菅野満子の手紙』を八一年から八五年まで文芸誌に連載した。 この中で『別れる理由』ばかりが長さゆえに有名になってしまい、『別れる理由』はその評判のために意外なことに三刷か四刷まで版を重ねているのだが、内容のとりとめのなさにたぶんみんな辟易して、他の本にま
小島信夫著『寓話』 定価4000円プラス送料350円 ご希望の方は、氏名と住所を記入してinfo@k-hosaka.com までメールをください。 折り返し、郵便振替の口座をメールにてご案内いたします。 本の体裁 A5判(文芸誌と同じサイズ) ソフトカバー(クレスト装) 本文2段組 384ページ プラス 小島信夫さんによる書き下ろし「新版のためのあとがき」9ページ
『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー 「図書新聞」2009年1月31日号 「永遠の夜戦」の地平とは何か 聞き手・白石嘉治 松本潤一郎 重厚長大な『夜戦と永遠――フーコー・ラカン・ルジャンドル』(以文社)という書物が出版された。不可思議で魅惑的な表題であり、内容・文体はそれ以上に 魅力的である。著者の佐々木中氏にインタビューした。聞き手は、白石嘉治氏と松本潤一郎氏にお願いした。なお今回、以文社の前瀬宗祐氏に全面的にご協力い ただいた。記して感謝申し上げます。(収録日・12月10日、神田神保町にて。〔須藤巧・本誌編集〕) 「現在」をめぐって 白石 このたび『夜戦と永遠――フーコー・ラカン・ルジャンドル』(以文社)という六〇〇頁を超える大著が出版されました。この書物を無視して、おそらく 現代思想を語ることはできない。ここから静かなる鳴動がはじまるのだろうと思います。今日は私と松本潤一郎さんから、
汎資本主義と<イマジナリー/近しさ>の不在 マルクスのレクチュールではなく、マルクス主義をまもるために (クリティーク1号 1985年10月) ここで述べている議論は、とっても古いことばで言うと人間の共同性の問題である。ただ、今日、すでに<共同性>とか、そして愛、暴力、主―客、等々といった哲学的用語は、着実に科学的記述に、つまりシニフィアン、情報のオーダーでの記述にかわられつつある。それは、私たちの<幼年期の記憶>なのである。私は、(アルチュセールを経て)ラカンに親しみがあるので、ここではイマジナリーということばを多用した(ただしそれはラカンだけのことばではない)。そのことばを使って言いたかったことは、資本主義を批判するのには(「批判」という雑誌の目ざすのは、資本主義の批判だろうから)、人間学をまるごとかかえこむより、より下位の問題群の、症例的ないし政策的レベルで語られるべきだ、ということ
暮れの休暇に私たち家族はメキシコへ旅行した。メキシコといってもカンクンなわけで、ここ二十年かそこらで人工的に作られたリゾート地なわけで、つまりは日本からグアムやサイパン辺りへ行くような類の家族旅行なのだが、とにかくどこでも良いから延々と薄暗い冬のミシガンから脱出したい、というただそれだけの理由で、旅行会社に勧められるがままに、要するに適当に決めてしまった旅行なのだ。 飛行機の出発時間が午前七時で、その二時間前にデトロイトの空港に着こうと思ったら、四時過ぎには家を出ねばならず、そんな時間に子供たちが起きられるはずもなくて、どうせ私と妻で寝ている子供をおぶって行くことになるんだろう、と覚悟していたら長女のみどりも次女のひとみも三時半にスパッと起きた。 三十分遅れが当たり前の我家としては予定外の予定通りの余裕のペースで、まだ真っ暗な中の空港に着き、荷物を預けて、搭乗券をもらったところで、「ところ
村上春樹等いわゆる“全共闘世代”“団塊の世代”の作家たちが作家としてスタートするにあたって、『赤頭巾ちゃん気をつけて』に始まる“薫くんシリーズ”がいかに大きな影を投げ掛けたか――ということを、「文學界」誌上で連載中の『サブカルチャー文学論』の中で大塚英志がものすごく鋭い分析をしていた。で、僕も最近“薫くんシリーズ”を読み直してみた。そしたら薫くんシリーズの傑作ぶりに驚いた。 僕は文学史に疎いので“薫くんシリーズ”がいったい何をその源流として持っているか、月並みにサリンジャーぐらいしか思い浮かばないが、“薫くんシリーズ”は間違いなく村上春樹に代表されるその後の現代小説の源流となっている。その源流ぶりたるやすごいもので第三作『白昼の歌なんか聞こえない』の薫くんの心の密度が高まったときの書き方なんて、いまでも村上春樹が『白鳥』を目の前に広げてお手本にして書いているのではないかと思うほど似ている。
一九七〇年代のおわりは少女まんがの世界にとって、文字どおり眩いばかりの開花の季節であった。それはまんがという一つの表現領域にとどまらず、より広い文化-社会との関わりにおいても、新しい時代を十全に表象したのである。その間の事情を代弁し、ひとつの権利確定を宣言したものとして、七九年に上梓された橋本治の少女まんが評論集、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を思い出すことができる。それは<今までの哲学はもう駄目、だって怒鳴ってばかりいるんですもの>という、たいそう明確なテーゼで少女まんがの時代を主張し、正当にもそれらを古い哲学世界に対置したが、しかし哲学にかわる新しい作品は、それじたいやはり形而上学にならざるをえず、そのために破格の強靱さと、残酷にまで至る論理的整合力を、ときにみずからの罪として受けることがあるのである。じっさい少女まんがは、その本来の出自において、<男性まんが>の大げさな力の世界か
ここでは、保坂和志著作の中でも、 単行本や文庫本になっていない、 雑誌などに掲載された評論、コラム、エッセイなどを、 まとめて紹介いたします。 その他のエッセイ・評論.. ■特別に忘れがたい猫 「ねこ新聞」2017年3月号 ■谷崎潤一郎全集 月報 ■長谷の市 かわら版 2016年12月発行 ■長谷の市 かわら版 2016年9月発行 ■長谷の市 かわら版 2016年6月発行 ■長谷の市 かわら版 2016年3月発行 ■『地鳴き、小鳥みたいな』のこと ■試行錯誤に漂う32「みすず」2015年12月号 ■試行錯誤に漂う30「みすず」2015年8月号 ■小島信夫短篇集成 7 「平安 月光」解説 ■試行錯誤に漂う28「みすず」2015年6月号 ■試行錯誤に漂う26「みすず」2015年4月号 ■試行錯誤に漂う24「みすず」2014年12月号 ■試行錯誤に漂う22「みすず」2014年8月号 ■試
「私とは何なのか?」「私は<なぜ>生まれ、ここにいるのか?」「人間とは結局何なのか?」 こういった問いは完全には消去不能なものとして、今後しばらく、人間に同伴するのだろうか? それとも科学的認識の上昇と普遍資本主義市場が配給する自 己相対化・去勢の感情の中で、完璧に消滅するのだろうか? 楳図かずおの作品は、「私とは何なのか」という問いを、最も根底的な仕方で、言いかえれば純粋に抽出されたヒステリー的配置の中で構成している。だから 彼の作品が、もし今日、古くなっているとすれば、「自分とは何なのか」という問い、存在論的な問いかけが、もはや古くなっている、ということだ。日々の営 為に諾々と従い、自己の存在、人間の存在についてなど全く問わない者、つまり大人、日本人への敵意は、常に彼の作品の裏地となり、その強度の源泉となって いるが、その敵意は、今日でも 権利をもつのだろうか? 『漂流教室』で、未来の
ユートピア思想が所有の廃棄をめざしたのは単に搾取や不平等をなくすためではない。所有はモノから政治経済的に他者を排除することで成り立つが、その他者の感情はモノの裏地となってモノに張りつき、モノの快楽が分泌されるそのただ中にモノから排除された別の場所を再帰させる。この別な場所がなければモノはそれ自身との差異によって自らを識別する以外になく、すなわちもっと、もっとと、常により大きな快楽へと肉の破片に至るまで突き進むが、排除され同じ場所にとどまる他者の羨望の眼差しのゼロ基点は、現下の快楽を常に正量として計上し、そこで消費は無際限な運動から安定した意味へと変換される。だがモノの快楽の感情に同伴する、快楽を得てない他者の感情がそれとして感知されうるのは、それがモノを得ている者自身の過去だからであり、所有がもつ老人的消極性の黴びた臭いは、モノを過去の時間から測定する所有のこの構造によっている。モノは快楽
▼猫は退屈するか ●猫、飼ってるんでしょ。 ■うん。 ●うちでも飼ってるけど、やっぱり犬のほうが忠実でいいな。わがままだもの。一般化できないかもしれないけど、少なくともぼくが飼ってた犬と、いま飼ってる猫は、かなり違う。 ■いや、ぼくが飼っていた犬は本当に言うことを聞かなかったんですよ。気に入らないとすぐ噛むぐらいで、だからあんまり猫との違いを感じないですね。まあ同じ哺乳類じゃないかっていう(笑)。 ●ぼくはわりと動物を差別するほうで、大概の動物はあまりものを考えてないと思うんですが、とくに猫は、まじまじ見ても考えてない。ただ刺戟に反応してるだけという感じがする。 ■そうでもないですよ。うちの猫は、医者に連れていくときの籠の話をしていたら、籠が置いてあるところに上っていった。 ●それは証拠にならない。こいつはものを考えているとこっちに思わせるのは、反応が少し遅れるからでしょう。猫の動きには、
■欲望と資本主義 資本主義とは何か? ここかしこに散在し濫流する商品の流れ、無類の機械化された生産力。加速される競争、時間。逼迫する運動性とそれが生みだす勝者と敗者。脱落する者たち。烈化する速度のなかであたかも空洞へとくり抜かれ、過剰さと稀薄さを併せもたされて、それに喘ぐ人々の生活。一方での冷徹な支配と計算高さ、そして他方での暴力的野蛮と賭博性。禁欲と享楽の共存と相補。しかしその狭間でなお声をひそめるささやかな幸福の、無数の沈黙。 資本主義は<すべて>である。私たちの最初に資本主義があった。資本主義はここに存在する。資本主義はそこかしこに存在する。そして資本主義とは私たちであり、資本主義は私たちを<使って>自らを表現し、私たちとなりすまして地を覆う。 資本主義とは何か? その問いにおいて強く理解せねばならないのは、文字どおり私たちの立ち振舞いの<すべて>が資本主義だということだ。まず最初に
「特集=ジル・ドゥルーズ」 ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点 ドゥルーズの理論は、基本的に一元論的、スピノザ主義的なものであり、起源そのものに差異を措定することで、(自己同一的な本質‐起源とその写しからなる)プラトン的な伝統的二元論と対立している。この起源的‐本源的な差異とは、いわば即自的な差異であり、その内部では、常に自己自身からの離脱と移動、自己廃棄と自己産出がくり返される。この即自的差異は、潜在的、ないし質量的なものだが、そこでの絶えざる移動と置き換えにより、実在的‐象徴的な、現実世界内部での諸差異が構成され、つまりこの起源的な差異とは、単に産出する基体である以上に、それ自体、産出されるものと重なり合う、一つの分節的な場でもある。このカオス=コスモスとしての、一元論的な自己産出的力能は、七〇年代には器官なき身体という概念系に収斂され、そ
挑発座談会 "ポストモダン"を超えて <物(ブツ)>が全て、この陽気な目茶苦茶 出席者 ●京都大学助手 浅田 彰 ●評論家 関 曠野 ●哲学批評家 樫村 晴香 なんてったってマルクス マルクス主義は死んだ。マルクスなんて古い。 ——そういわれて久しい。 たしかに、連帯圧殺、中越戦争、アフガン、ソルジェニーツィン……連合赤軍。死屍累々だ。 が、私たちが"ポストモダンの日々"を生きているこの資本主義社会のからくりを、 マルクス以上に深く掴みとった思想家はいない。 いま、マルクスが使えないはずがない。なんてったってマルクス、なのである。 ★ 浅田 僕自身は「マルクス主義者」ではないけれども、マルクスおよびマルクス主義の思想は現代において依然として乗り越え不能の思想であり続けている、しかも「テクストとしてのマルクス」だけがいいとかいうんじゃなく、レーニンとか毛沢東とかの思想や実践まで含めたマルクス
[1] どうぞよろしくお願いします。 投稿者:枡野浩一 これから皆さんの作品を拝見して、 あれこれアドバイスしていきます。 一応、 皆さんの作品はあらかじめまとめて見せてもらったんだけど、 うーん……。 正直、 「何を表現したいのかよくわからない作品」 「よくわかるけどつまらない作品」 が多いかなあ……。 たとえば俵万智『サラダ記念日』は、 私が18歳の頃にブームになったんだけど、 当時は、 「うまい!」「おもしろい!」「自分には真似できない!」 という感想を持ちました。 あれから時が流れ、 『サラダ記念日』をふまえたいろんな短歌が出てきて、 枡野浩一もデビューし、 加藤千恵や佐藤真由美まで出てきた今、 『サラダ記念日』の歌を 当時と同じようにおもしろがるのは、 無理だと思う。 現代語のみでつくられた短歌、 というのを私は追求していて、 そういう短歌をたくさん読んできました。 投稿作品も辟
<body> 芥川賞・谷崎賞・平林たい子賞受賞作家、保坂和志ワールドへようこそ。 </body>
一昨年の夏、私はラゴス近郊のある街で、人肉を食べさせるレストランに行く機会を得た。招待してくれた画家のLによると、この手の店は世界中にあるが、調理前の肉をちゃんと見せてくれる所はここだけだという。私は禁忌や侵犯の悦楽、といった観念とはほど遠い場に生きているので、大きく期待するものもなかったが、何しろ料理の値段が法外で、独力では又とない機会に思え、招待を快諾した。それにいざ食べるとなれば、多少の葛藤は生じるはずで、その内的感情をもとに、牛肉等の禁止の観念一般も、より深く解析できると思ったのである。 料理屋では白人の料理人が、銀皿の上に乗った肉片を見せにきた。表皮は黒っぽくて毛がなく、最終的確証はないものの、確かに人間のように思われた。かなり待って出てきた料理は、トマトベースに多量の香辛料で煮込んだもので、完全な「料理」であり、余計に奇怪である。私はどちらかというと、友人が期待しているはずの食
先日の新聞に、このまま温暖化が進むと百年後の西日本は夏に雨の日が多くなって、八月の降水量が現在の一・六倍になる、という記事が載っていた。 読んで最初の感想は「百年後か。それなら逃げ切れた」だった。私は子どもがいないけれど、姪と甥ならいる。しかし百年後だったら姪と甥ももう生きていないし、そのまた子どもたちだって七十歳以上になっているだろう。ついでに言うと、その記事によれば北海道から関東までの降水量はほぼ現在と変わらない。 「まずはひと安心」と思いかけたところで、チェーホフの芝居『ワーニャ伯父さん』の台詞を思い出した。 「百年、二百年あとから、この世に生まれてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか。」 これは医者のアーストロフの台詞だ。彼は近隣の貧しい村に治療に出掛けたりするかたわら、森に木を植えている。十九世紀後半のロシアの森
早稲田大学大隈小講堂・保坂和志講演報告 早稲田大学講演会録・その1・その2・その3・質疑応答編 2000年11月29日(水) 講演よりなりよりまず、 早稲田大学正門の前で一匹の猫を発見。 見れば両目とも白濁しており、 目が不自由なのかしら? しかし、とっても太っていて健康そうではある。 早稲田大学にはノラ猫用学食があるやも知れぬ。 午後5:00にいよいよ講演開幕。 保坂和志はいつもの通り、 訥々とした口調で、言いたいことを喋ってゆく。 講演の途中ではちょっとしたハプニングも・・・・。 (末尾「がぶん@@の目)参照のこと) 当講演会の主催者、 早稲田大学現代文学会のメンバーたちと、記念撮影。 しかし、いまだにかけ声が「チーズ!」とは、 びっくりしたなぁもう(死語) 講演会の後で、当HP関係者だけが集まって、 近所のファミレスで保坂和志と歓談する。 人数はおよそ20人といったところ。 しかし、
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『保坂和志公式ホームページ』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く