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ノーベル賞
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救命ボートで漂流中のOscar D. LONG二等飛行兵曹とDaniel T. CALVIN海軍中尉の2人が3日後に捕虜。大船海軍捕虜収容所を経て、翌年大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1.連合軍捕虜収容所の設置 太平洋戦争の緒戦において、日本軍は予想外の大勝利を収め、東南アジアや西太平洋の占領地域で多数の連合軍兵士を捕虜とし、その数は最終的に約35万人に及んだ。日本政府は、これらの捕虜を取り扱うために、ハーグ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(1912年、批准・公布)付属書に義務づけられた「俘虜情報局」を、1941年末に陸軍省内部に設置し、翌年3月には、陸軍省軍務局に「俘虜管理部」を設置した。 捕虜のうち植民地兵は、日本に反抗しないことを条件に、原則として釈放されることになったが、欧米人の兵士約15万人は、現地に設置された捕虜収容所で俘囚の生活を送ることになった。そのため、1942年始めの時点では、日本国内の捕虜収容所は香川県善通寺に設置された1ケ所だけで、日本軍がグァム島を占領した時に捕まったアメリカ兵などを収容していた。 ところが1942年5月、日本政府は労働力不足を補
第二次大戦末期、日本本土は米軍の激しい空襲にさらされた。日本側の防空態勢は弱体で、なすすべがないという状況に追い込まれたが、それでも、かなりの数の米軍機(少数の英軍機を含む)が撃墜され、パラシュート降下した飛行士が日本側の捕虜になるという事件も発生した。 その結果、日本本土と周辺の海域で約570人の連合国飛行士が捕まった。 しかし、日本政府・軍は、彼らが国際法に定められた捕虜ではなく、無差別爆撃を行った戦争犯罪人であると見なした。その結果、半数近くが処刑、傷病死、あるいは空襲や原爆で死亡するなどにより、本国へ帰還することができなかった。 このような事件は、日本の敗戦後、横浜で行われた米軍によるBC級戦犯裁判で大きな問題としてとりあげられ、飛行士の処刑や虐待に関わった多数の日本軍関係者が死刑を含む有罪とされた。 GHQ法務局は、この戦犯裁判のために、日本本土空襲で失われた米軍機と搭乗員の運命
日時:2009年10月3日〜4日 場所:千葉県長生郡一宮町・長南町・睦沢町・長柄町 千葉県内では、1944年12月から1945年8月にかけて、数多く(約40機)の連合軍機が墜落し、搭乗員が殺害・処刑される事件も発生した。今回の例会では、千葉県長生郡内で起こった3つの事件(エムリー事件、ホックレー事件、ボナス事件)についての現地見学会を行った。案内役は、POW研究会会員で睦沢町立歴史民俗資料館学芸員の久野一郎氏。 10月3日 ・ホックレー事件現場見学(長南町・睦沢町・一宮町) ・ボナス事件現場見学(睦沢町) ・睦沢町歴史民俗資料館見学(睦沢町) ・ミーティング(一宮町の民宿にて) 10月4日 ・エムリー事件現場見学(長柄町) ホックレー事件(別名:一宮事件) 事件概要 1945年8月15日午前10時頃、長生郡西村(現・長南町)大字佐坪字永沼の田んぼに、イギリス空母インデファティーカブルより飛
≪千葉県日吉村事件≫ (GHQ報告書3号、350号、624号、871号 再審記録25号、270号) 裁判の期間:1946年4月5日〜20日(境野鷹義は1948年1月7日〜21日) 1945年5月25〜26日の東京大空襲時の深夜、1機の29が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に墜落し、搭乗員11人のうち4人は墜落死したが、5人は捕虜になり、残り2人は瀕死の重傷を負っていた。 夜明けとともに、捕虜5人は茂原憲兵隊員によって連行されたが、重傷の2人は日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊(隊長は満淵正明大尉)に預けられた。 中隊では手当を施す術もなく、2人の米兵は放置され、1人は間もなく死亡するに至り、もう1人のDarwin T.EMRY少尉も苦しみ続けていた。中隊長の満淵正明大尉は、命が助かる見込みはないとして処刑を決意し、集まって来た100人以上の村民が見守る中で衛
POW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会は2002年3月に発足、国内外約80人の会員が互いに協力しながら、連合軍捕虜・抑留者や戦犯裁判の調査、元捕虜や遺族との交流など様々な活動に取り組んでいます。 >>もっと詳しく見る
日時:2008年10月25日 場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス はじめに 父島事件とは第二次大戦末期、東京都小笠村の父島で起こった米国捕虜将校らの一連の処刑事件。BC級戦犯裁判の一つとして知られるが、本日の報告では処刑事件のうちの一件に立ち会ったというある少尉(正確には少尉候補生)の目撃証言の内容を伝えたい。 同候補生は日弁連元会長で、戦後補償裁判の一つで現在係争中の重慶大爆撃訴訟の弁護団長を務めている土屋公献さん(85歳)。この事件の青年・土屋に与えた影響は大きく、弁護士活動の原点になった。 父島へ 旧制静岡高校時代の1943年11月に学徒出陣し、訓練を経て1945年1月に東京から南約1300キロの小笠原諸島・父島の第二魚雷艇隊に配属された。ちなみに同島の南約200〜300キロにある硫黄島に米軍が上陸したのは同年2月、翌月に同島の日本軍守備隊は全滅している。 父島事件については
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