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東日本大震災から半年以上経過しました。被災された方々に心よりお見舞とお悔やみを申し上げます。多くの被災された方々に区別はありませんが、特に突然、親を亡くした子供たちの心中を察すると涙が止まりません。 越後の良寛さんは与板の山田杜皐(やまだとこう)という俳人と親友でありました。良寛さんの住む五合庵から与板まで行くには時間がかかりましたが、与板へ行けば杜皐さんの家に泊まり、話に花を咲かせるのが常でした。杜皐さんは造り酒屋でもあったので、良寛さんは大好きな酒を心ゆくまで飲ませてもらいました。良寛さんが71才の時、三条市を中心に大地震が起こりました。良寛さんの住んでいる地域は被害が少なく、与板の方は被害が甚大であったそうで、良寛さんは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています。 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ と、見舞の一文の中に
臨済宗大徳寺派の大本山で龍 寶山と号する。 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。 勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が
―仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ(『臨済録』示衆) 正しいものの見方を持とうとするならば、決して人に惑わされてはいけない。自分の内であれ外であれ、出逢うものは直ちに殺せという教えである。危険極まりない臨済禅師の言葉の陰に、人間としての主体性を確立させようという、禅師の熱い慈悲心が隠れているのを、見落としてはいけない。 『臨済録』が初めて英訳されて世界に紹介されたとき、「仏や祖師に出逢ったら直ちに殺せ、父母や親族に出逢っても殺せ」とあるのを見て、西欧のクリスチャンたちは禅はなんと恐ろしい宗教ではないかと眉を顰めたらしい。 およそ宗教とは思われないこの「禅宗」という東アジアに独特の宗教は、いわゆる有神論ではない。そうかといってまた、ニーチェが神を殺して唱えた「ニヒリズム」でもない。 臨済は決して無神論者ではない。彼は門人たちに向かって、お前ら一人ひとりの中に具わっている「一無位の真
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瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾(おうだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、喏(だく)。他時異日、人の瞞(まん)を受くること莫れ、喏喏(だくだく)」(『無門関』第十二則) 瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」といって、毎日ひとり言をいっておられたというのです。 ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、会社の社長でもない。人間一人ひとりの主体的な人格のことです。 私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、私たちをとりまく環境からくる刺戟はたいへんなもので、外のものに目を奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主体的な自分
南禅寺―穏やかな東山の緑につつまれ、こけら葺きの方丈(ほうじょう)から、虎の児渡しで有名な庭園を望む広縁(ひろえん)の頭上に、左甚五郎(ひだりじんごろう)作の両面透彫(すかしぼり)の欄間(らんま)があります。 その図柄は「牡丹に唐獅子、竹に虎」という、古来より耳にし目にする絵図ではありますが、そこに彫り込まれているメッセージは、 あなたの依所(よりどころ)は、何んですか。 あなたが安心して身を寄せられる安住の地は、どこに在りますか。 透彫の小さな空間から、我々に発せられる問いであります。 獅子は、百獣に君臨する王といわれます。その無敵の獅子でさえ、ただ一つだけ恐れるものがある。それは、獅子身中の虫です。我身の体毛の中に発生し、増殖し、やがて皮を破り肉に食らいつく害虫です。しかし、この害虫は、牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたると死んでしまいます。そこで獅子は夜に、牡丹の花の下で休みます。獅子
『無門関』第三十七則にある話です。一人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に問います。「如何(いか)なるか是(こ)れ祖師西来意(そしせいらいい)――達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意とは何か!」。それは言ってみれば禅を伝えるためです。 だから、この問いは「禅」とは、「仏」とは、「悟り」とは、という事です。 これに対して、趙州和尚は、「庭前の柏樹子」といい切ります。 「子」は助辞(じょじ)で意味はありません。「柏樹」とは、所謂(いわゆる)、日本の「かしわ」の樹ではなく、柏槙(びゃくしん)といわれるもので、無数に分かれた小枝の周囲に糸杉に似た葉が付き、繁茂力が強く、冬も夏も色を変える事なく、常に緑を誇り、幹は檜に似て赤く、縦じまが美しい樹です。趙州和尚の住した観音院は別名、柏林寺ともいわれ、柏樹が蒼々(そうそう)と繁っていたといわれます。そこでの問答です。 「如何なるか是れ祖師西
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。 「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、定着する、などの意味だと辞典にあります。要するに、動かないように安定させることです。 身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。 次に「禅」ですが、これは「禅那」といい、サンスクリットの dhyana とか、パーリー語の jhana とかの音写で、静慮と漢訳されます。現代の中国語では、channa と発音するようですが、静慮の意味であることに変わりはありません。ただ静慮という訳は、適訳ではないので余り用いられず、「禅」で通っています。そして、禅那と
1、毎月第2・第4日曜日 9時~坐禅(10名) 10時~般若心経法話。終了後茶礼。 2、水曜~日曜日 坐禅(10名)初心者対象 18時00分~20時30分 3、毎月18日 9時~坐禅(10人) 10時~十一面観音諷経 10時30分~法話、終了後茶礼。 *都合で臨時の休会あり。参加希望者は電話で確認のこと。
中国晩唐の詩人に杜筍鶴(とじゅんかく)がいますが、その詩の「夏日、悟空上人の院に題す」というのが元の句です。 三伏門(さんぷくもん)を閉(とざ)して一衲(いちのう)を披す 兼(か)ねて松竹の房廊(ぼうろう)を蔭(おお)う無し 安禅(あんぜん)は必ずしも山水を須(もち)いず 心中を滅得(めつとく)すれば火も自(おの)ずから涼し ――夏の暑いまっさかりに、悟空上人という方は相変わらず一枚の破れ衣をキチンと身に着けて坐禅をしておられます。しかも炎熱を避ける一株の 松も一本の竹もない、まったくの炎天下と同様です。この方を見ていると、坐禅をするのに静かな山中か水辺に居を求める必要はなさそうです。上人のように心頭を滅却し寒熱を超越された方は、暑さに心を煩(わずら)わされることもなく、炎熱もまた楽しといった様子です――。 この句の下二句を、特に持ちきたったものです。しかし、この語を特に有名にしたのは、山
「一切(いっさい)は唯(た)だ心の造るものなり」と読まずに、「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」と読みます。 盆の季節になると各寺院では、施餓鬼会(せがきえ)――釈尊在世当時、弟子の阿難(あなん)尊者が、「定命尽(じょうみょうつ)き餓鬼道に堕ちるのを免れたくば、餓鬼に十分な食事の施しをせよ」と陀羅尼経(だらにきょう)を唱え供養する修法を釈尊より伝授されたことより始まったといわれる、餓鬼、すなわちむさぼりの心を持つ者への食(じき)の施しをする行事――が修行されます。その折り、大勢の僧が独特の節回しで唱和する経文に、『施餓鬼―甘露門(かんろもん)』というのがあります。その初めに、 若人欲了知(じゃしんにゅーりょうしー) 三世一切仏(さんしーいしんふー) 応観法界性(いんかんはかいしん) 一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)・・・ 若(も)し人、三世一切(さんぜいっさい)の仏を了知(りょうち)
私たちの人生は雨の日もあり、風の日もあり、晴れの日もあります。しかし、雨の日は雨の日を楽しみ、風の日には風の日を楽しみ、晴れの日は晴れの日を楽しむ。すなわち楽しむべきところはそれを楽しみ、楽しみ無きところもまた無きところを楽しむ、これを日々是れ好日というわけです。どんな苦しい境界に置かれても、これ好日、結構なことですと、カラ元気でなく心から味わえるようにならなければなりません。 《原典・碧巌録/引用・細川景一著『白馬蘆花に入る』(禅文化研究所)より》 *写真 京都/建仁寺・四頭茶会
死に臨(のぞ)んで怖がっている人を見て、私たちは何ができるのでしょうか。「私も後から行きます」と手を握って、孤独を癒すのも一つの方法です。また、ともにおろおろ泣いて慰めるのも一つの方法です。 しかし、それで死んで行く者に、果たして安心を与えることができるのでしょうか。また、臨終(りんじゅう)の枕もとで信仰を説くのも一法です。しかし、もう間に合いません。所詮(しょせん)、死んで行く者自身が常日頃から意識的に、安心を得て行くこと以外に方法はありません。 先頃、大阪に、誰も避けることのできない死を視野の中に入れ、死にゆく人々の言葉に耳を傾け、死を学ぶことを通じて、よりよく生きる道を探るという主旨の「生と死を考える会」が発足したことが『読売新聞』(昭和五十八年六月二日)に報ぜられていました。その発会式の折り、「私にとって死とは」と題して三人の体験発表がありました。 大阪の枚方市の山本さんは結婚二年
今回は、全国の臨黄各派本山の雲龍図などを展示いたします。 龍は仏の教えをたすける八部衆の一つで龍神と呼ばれます。そのため多くの本山では、住職が上がって仏法を大衆に説く法堂(はっとう)の天井に龍 が描かれ、それが法の雨(仏法の教え)を降らすという意味や、龍神が水を司る神であるため、火災から護るという意味 がこめられます。 どの龍もそれぞれ特徴があり、目を見張るべき迫力に圧倒されます。通常は一般公開されていない場合もありますが、機会があれば是非実際の雲龍図をごらんください。 なお、各派本山の許可を得て掲載しておりますが、写真の無断転載は厳禁と致します。
参加随意(予約不要)。無料。 ●法話 午前 9:00~10:00 ●坐禅 午前10:00~11:00(自由参加)※必ず法話から参加すること
唐代の詩人、劉(りゅう)希夷(きい)(651~680?)の「白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代(か)わりて」と題する詩の第4節です。 古人(こじん)復(ま)た洛城(らくじょう)の東に無く 今人(きんじん)還(ま)た対す落花の風 年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず 言(げん)を寄(よ)す全盛の紅顔の子 応(まさ)に憐(あわ)れむべし 半死の白頭翁(はくとうおう) 昔の愛人はもはや洛陽(らくよう)にはいない今、また、若い恋人同士が風に散る花を眺(なが)めています。思えば、寒い冬が終わって春になると、昔年と同じように花は美しく咲くけれど、一緒にこの花を見た人はもはやこの世にはいない。若く、美しい君達に云っておく。若いと云うがすぐ年老い、黒い髪も白くなってしまうぞ! 「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。自然の悠久(ゆうきゅう)さと人間の生命のはかなさを対峙(たいじ)させて人生
臨済宗と黄檗宗には全国に15派の本山と7000もの末寺があります。各派本山の紹介に加え、お近くにある全国の末寺寺院を検索することができます。
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