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「SFは絵だねえ」というのは野田大元帥の名言だが、確かにSFを視覚的イメージとして捉えることは多い。絵だけでなく音楽にもSF的なものはある。しかし何といってもSFの大部分は小説であり、物語として表現される。ここでは物語とSFの関係について考察してみよう。 物語にはいくつかの側面がある。読んだり聞いたりして楽しむ物語であったり、事実ではないという意味での物語であったりする。さらに物語は、作者が丹精を込めて完成させた作品であることもある。これらをそれぞれ区別し、「物語」「虚構」「物語作品」と使い分けることにしよう。つまり、次のようになる。 物語……いわゆる「物語」のエッセンス。あらすじのようなものであったりする。「説話」あるいは「お話」といわれるものが、ニュアンスとしては近い。 虚構……事実とは無関係な物語(当然のことながら事実にこだわった物語もあり、それは「実話」と呼ばれる)。 物語作品…
2001年2月中旬のダル星住人(その1) 2月11日(日) ――「塵理論」―― 恥をさらすことになりますが、グレッグ・イーガンの『順列都市』(ハヤカワ文庫SF)について書いた書評(これです)には見当違いのことが書かれている、と訳者の山岸真さんからご指摘を受けたことがありました。それは作中で語られる「塵理論」なるものの解釈についてなのですが、どこがどう見当違いなのか、じっくり読み直して確認しなくては、と思っているうちに時間ばかりが経ってしまったのでした。 しかし、有り難いことに最近『順列都市』を読んで大感激したという、森下の大学時代のSF研の友人・中川格氏より「塵理論」の解説を賜ったのです。ここにそれを引用させていただきます。同書を読んだ方も、未読の方も、イーガンの(そして中川氏の)ただならぬアイデアをご確認ください。 小説の中でポールは、コピー環境の計算が、時間的に飛び飛びでも、前後して
日本にSFという小説のジャンルが定着したのは、1960年代に入ってからだ。思い切った言い方をすれば、それまで「日本SF」というものは存在しなかった。 もちろん、60年代以前にもSFは書かれていた。熱心な読者もいた。しかし、SFが社会的に認知されたジャンルとして存在するようになったのは、1960年を過ぎてからだった。くわしい年号をあげるのは、あまり意味がないかもしれない。でも、あえて、1962年という年を、日本SF誕生の年としよう。 その理由としては、まず、この年、小松左京、平井和正、光瀬龍らが〈SFマガジン〉でデビューすることをあげたい。小松左京は前年の第1回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)の努力賞だった。62年の第2回コンテストの入賞者には、筒井康隆、豊田有恒、半村良らの名が並んでいる。また今日泊亜蘭は、この年、東都書房から長編『光の塔』を刊行した。すでにショー
小学生のためのSFの書き方 森下一仁 SFの書きかたについて、これから書くんだけど、本当はね、こうすればSFが書ける、なんていう便利なやりかたはないんだ。 書きかたはたったひとつ、きみが頭で考えたことを、ひとつずつ、言葉にして、紙に書いてゆくだけ。どんなにえらい作家だって、そうやって、コツコツとSFを書いているんだ。 だから、SFを書こうと思った人は、紙と鉛筆を用意して、まず書き始めること――ということになってしまうけど、でも「SFの書きかた」が、これだけじゃ、あんまりだよね。味もそっけもないというのは、このことだ。 そこで、これから「紙と鉛筆」以外のことで、きみがSFを書くために役立ちそうなことを、あれこれと考えてみよう。 仲間をみつけること まず最初に、ぼくがすすめたいのは、SFの好きな友だちをみつけることだ。 きみがおもしろいと思っているSFを、同じように、好きで好きで
個人的なことから始めなければならない。すべて経験は個人の裡にのみあり、世界は経験によって個人の裡に築かれるのだから。 今から30年あまり前のこと。私は中学生だった。ある日、1冊の雑誌を、隣に住む従兄から借りて読んだ。 変な気がした。作品が、わかるようで、わからないのだ。これは何だろう? 雑誌が〈SFマガジン〉であり、掲載されているのがSFと呼ばれる類の小説であることはすぐにわかる。私は乱読家で、山田風太郎の新聞連載小説も手塚治虫のマンガも少女小説もノンフィクションもいわゆる名作もさまざまな事典類も、目につく読みものは片っ端から読んだ。SFも、子供向けのものなら読んでいた。 だが、その雑誌の短篇を読んだ時の感覚はいつもの読書体験とは違った。まるで、固くて付きにくいチョークで黒板に字を書いているようなものだった。変な言い方だが、理解が脳ミソにうまく刻みこまれない そんな感じだった。我
頭の中によびおこす強烈なショック、 認識異常のショック。 ――P.K.ディック SFをこれから読んでみたい人 ずっと読んできてもっとSFについて知りたい人 SFに興味を持つ人みんなのページです。 to ENGLISH VERSION ベストSF2007集計できました。
アメリカ在住のくみちゅさんから難しい質問が届きました。なぜ、日本にはSFが根付いたか、というものですが、まずは質問の全文を―― 先月あたりに、ヒューゴー賞が発表されましたね(さいきんはどうもSFを読まなくなったので、あわてて発表後に本を読んでいたわけですが)。ノンフィクション部門受賞の本を読んでいて疑問に思った、日本とSFの関係です(またもや)。 正直、アカデミックな価値はあまりないのですが、この本の作者の言い分は、SFがアメリカ的なジャンルで、アメリカにしか根付かなかった、ということなんですね。まあ、イギリスは別として、ヨーロッパでもアジアでも、とくに第三世界では、SFは受け入れられていないジャンルです。ゴシック文学と関連しているとはいえ、50年代のハードコアSFや80年代のサイバーパンクは、やはりアメリカで起こったものでしたね。 日本のSFも、いわば19世紀末からのモダニズムに似て、
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トップレス獅子舞考 深堀 骨 二つ或いはそれ以上の全く異なる概念が不図したきっかけで結合し、そこに第三の新しい概念が誕生する。これが「文化」と呼ばれるものの製造過程の一つの形であると筆者は確信する。 無論、トップレス獅子舞のことである。 今でこそ「トップ」という呼称で親しまれ、良家の子女の嗜みの一つにも数えられており、また夏のレジャーとしてスキューバ・ダイヴィングを凌ぐ程に近年益々人気が高まり、「冬はスキー夏はトップ」が若者達の合言葉となり、オリンピックの正式参加種目に認められることが既に決定しており、最近逮捕された連続婦女暴行殺人犯の趣味がトップレス獅子舞であったりして社会現象化し、エアロビクス、ジャズダンス、フラメンコ、日本舞踊と並んでトップレス獅子舞が科目に加えられていないカルチャー・センターを探す方が難しいというまでに国民の間に広く浸透した感がある。 しかし、筆者の真情を
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