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言語と思考 ――メルロ=ポンティの意味論/序説 1 発語の現象学――「意味」の意味を求めて 〈思考〉や〈延長〉について語らないデカルトを想像することができないように、〈知覚〉、〈身体〉、〈表現〉についての言明を含まない〈語法〉(idiom)をメルロ=ポンティのものとはみなせない。この意昧で彼の遺稿『世界の散文』には、他の著作におとらず、メルロ=ポンティその人のスタイルが描かれている。しかし常のようにではない。ここではメルロ=ポンティのスタイルは、一面で彼の洞察の輝きと、他面、彼の思索にひそむ問題の翳とのきわだった対比のために、いわば二乗されているのだ。 草稿がメルロ=ポンティの思索の全行程に占める位置が、この印象に裏書きを与える。草稿の編纂者クロード・ルフォールの考証によれば、草稿の執筆は早くて1950年夏に始まり、1951年から翌年にかけて中断されたという(Lefort,1969: V
人間は意味を糧として生きている動物である。いや、人間以外のあらゆる生物たちも、彼らなりの意味をいのちの養分としている。生命と意味とは深部で結びついている。彼らは意味を受動的に咀嚼するだけに終始するのではなく、意味を能動的に放射したり紡いだりする。 ただし人間の場合には、地球上の他の仲間たちのとは異なる、人間だけに固有な意味を享受している。それというのも、人間には言語能力が具わるからだ。〈文化〉と呼ばれる記号的構築物を人間だけが本格的に創出しえたのも、この能力のおかげである。とはいえ、人間がいとなむ意味を、ソシュール主義者のように、人間以前(あるいは人間以外)の生命ないし自然から切り離し絶対視するのは誤りだろう。いいや、この世界に意味なんかあるものか、すべてが無意味だとうそぶくニヒリストでさえ、自分の言葉が意味をなすことを暗に要請することで、意味を擁護している。このかぎりで人間は、メルロ=
「言語学はいかなる学問なのか」という問いはどこまで正しいか (‘What in the world is theoretical linguistics as a discipline all about?’: Is this a viable question? ) 菅野盾樹(大阪大学)(Sugeno Tateki, Osaka University) 1 20 世紀以降の<正統的言語学>が依拠する言語イメージとその存在論的含意 ここで<正統的言語学>と呼ぶのは、おおむねソシュールが礎石を据えた以後に展開された言語学 をいう。もちろんそうは言っても、現に行われている優勢な言語学には幾とおりも種類があり、一 概にそれらをひとからげに評価するわけにはゆかない。しかしソシュール言語学が創出し提示した <ラング>(langue)としての言語、つまり<言語記号のシステム>(système de
ここに掲げるのは、Dan Sperber, Explaingin Culture - A Naturalistic Approach, London: Basil Blackwell, 1996 の序論(Introduction)の全文である。英語版の刊行と同時に、フランス語版、La contagion des idées がEdition Odlie Jacob から出ている。〔出版社風にいうと、翻訳書は《ただいま絶賛発売中》です。〕 この訳業は実は自分で志願したものではない。出版社から依頼があり、かねてスペルベルの業績には関心を持続してきた者の1人として悦んでお引き受けした。しかしながら、翻訳業で口を糊するのではない者にとって、翻訳ほど労多くして功少ない仕事はない。時間はとられる、訳は正しくて当たり前、誤訳すれば叩かれる。矮小なことをいうようだが、学術書など訳しても部数はでないし、お
メルロ=ポンティの人間学 ──知覚の現象学から表現の倫埋学へ── 「われわれの身体とは、自ら動くもの、言い換えれば、世界の眺望から切り離せないもの、いや実は実現されたこの眺望そのものであるが、 こうしたものであるかぎりでの身体こそ、たんに幾何学的綜合だけではなしにあらゆる表現の働きの、文化的世界を構成するあらゆる獲得物の、可能性の条件である。思考とは自発的なものであると言われているが、それは思考が自分自身と合体するという意味ではなく、反対に、思考は自らをのり超えてゆくという意味であって、発語(la parole)はまさしく、思考が真理へと自分を永遠化してゆく運動にほかならない。」(『知覚の現象学』より) 人間の自己とその基礎的なあり方を、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908-61)は「身体」ならびに「知覚」という用語で捉える。こうした言葉遣いには、一見して
記号過程の表情原理 ─表情あるしぐさとしての言語 菅 野 盾 樹 1 テレビで、大統領が芝居がかった調子で演説していたときのこと。ところはアメリカ合衆国の失語症病棟。画面を見ていた患者たちは大笑いしていた。もちろん全員というわけではない。なかには当惑の表情をうかべている者やむっとしている者もいた。けげんな面もちの者も一人二人いたが、ほとんどの患者は大統領の不誠実やことばの粉飾を見抜き、それを笑っていたのである。 このエピソードを伝えている神経科の医師によれば、ひどい受容性失語または全失語で言語を解さなくなった患者たちも、実際には言われたことのほとんどを理解している。だからこそ、失語症の診断のために、医師はきわめて不自然に話したりふるまったりしなくてはならない。視覚的手がかりばかりか、ことばに付随する手がかりもすべてこそげ落としてしまう。医師はできるだけ表情やジェスチャーを抑制し、声の調子
恣意性 (仏 l'arbitrarité) スイスの言語学者ソシュール(F. de Saussure)は自らの構想する「記号学」(semiologie)の第一原理として「言語記号(signe linguistique)は恣意的である」という命題を掲げた。 従来の記号観によれば、記号は世界の中の一事物であり、それが他の事物を指示し表示することができる(すなわち、意味機能signification)のは、社会的慣習がこれらの事物を対応づけるからだという。ソシュールはこの種の(ある意味で常識的な)言語観を覆し、記号が二重性の構造をなす点に意味機能を基礎づけた。すなわち、一般に記号(signe)は、記号表現(signifiant)と記号内容(signifie)が一枚の紙の裏と表のように統合されている。言語記号についていうと、記号表現とは言語要素の聴覚像(image acousitique)であ
記号論への入り口(1) 記号論の二人の生みの親 少し前の作品だが、《薔薇の名前》という洋画を観た読者は少なくないと思う。中世のイタリアの修道院を舞台に不可解な連続殺人事件がくりひろげられる。その謎が説き明かされるミステリー映画だ。探偵役──といっても、弟子を引き連れた修道士であるが──を、あの007のショーン・コネリーが、実に渋く演じており、超ロングランを記録した。この映画の土台になったのが、実は世界的なベスト・セラーとなり数々の賞をさらった、同じタイトルの小説である。その原作者こそ、現代における記号論の第一人者ウンベルト・エーコである。彼の著作は、ほかにも日本語に次々に訳されているが、彼の二作目の小説『フーコーの振り子』もかなり評判になったので、ご存じの向きも多いだろう。 記号論という学問が初めて我が国に紹介・移入されたのが何時か、正確なことは知らない。ただ言えるのは、記号論はそもそも西
哲学思想をグループで学びませんか 現在思想の会へのお誘い <現在思想の会>は誰もが哲学思想を基礎から学ぶグループです。 私たちの会は、社会人と学生とを問わず、哲学思想に関心をもつ各人が自前の思索を深め、人々との哲学的対話をおこなうための研鑽を積む場 を提供します。 哲学を学んだことの無い人、哲学書をかじったけど歯が立たなかった人、哲学書を好んで読む人、哲学を専攻する人…どのように人も私たちは歓迎します。哲学 的に思索することは、哲学の知識を増やすこととは無縁だからです。ものごとを原理に遡って考えようとする真摯な姿勢が肝心です。
<シンボルの海>へようこそ! 30億年のはるか昔、海のなかで生まれた私たちの祖先は、すでに記号機能を営む生命体であった その後、いくたの変容を重ねながら、この生命体は現在にいたっている あるとき、私たちはみずからを「人間」と称するようになった ――<人間>が誕生した瞬間である それにしても、人間とは誰なのだろうか、生命はどこから来たのだろうか <シンボルの海>――それは<ホモ・シグニフィカンス>つまり<記号機能を営む人>という存在論を拠りどころにしつつ、生のための哲学思想を模索するホームページ
グッドマンの記号主義 本書〔菅野盾樹『恣意性の神話』〕で筆者は機会あるごとにグッドマン(1906-1998)の業績に言及してきた。特に第七章で藝術を記号機能の面から考察するにあたり、文中でも言明したように、理論枠組の一つの重要な柱として、グッドマンの記号理論を採り上げた。この豊穣な可能性を秘めた記号理論を、彼はほとんど独力で作り上げた。しかし、残念なことに、我が国ではグッドマンに関する十分な紹介がなされてはいないし、また彼に関する研究の蓄積もほとんど無きにひとしい。翻訳された著作は現時点では二冊にすぎず[エルギンとの共著『記号主義』を含め現時点では三冊]、主著の翻訳はいまだに陽の目を見ないでいる。 グッドマン哲学の全体像は、一般読者の前にはまだ姿を現していない。部分的にさえ、彼の哲学に関する一般的な理解はきわめて貧弱である、というのが偽らざる実状であろう。そこで、グッドマンに関する読者
菅野 盾樹による これまでの仕事 <主要なものをあげました。網羅的なリストではありません> 単 著 *の印のついた著作は残念ながら現在品切れです。図書館などでの閲覧をお願いしておきます。共著などは省きます。なお、拙著ならびに私がてがけた訳書は、例えば以下のネット上の書店から購入もできます。Amazon、ジュンク堂、紀伊國屋書店 『我、ものに遭う』*、新曜社、1983.(サントリー学芸賞作品) 『メタファーの記号論』*、勁草書房、1985,1992. 『いじめ・学級の人間学』*、新曜社、1986. 『いのちの遠近法』、新曜社、1995. 『いじめ・学級の人間学』(増補版)、新曜社、1997. (1986年版の内容はすべてこの増補版に含まれています。) 『恣意性の神話』、勁草書房、1999. 本書は、古典的記号論の創始者ソシュールおよびパースの業績を、現代の言語哲学や記号論的探求に
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