実は1961年京都美大の学生相談室に発するわたしの臨床の活動は最初の4年間こそ実験心理学との掛持だったのですが1965年以後は専ら精神病院での臨床活動にあけくれていました。当時、実験心理学の道こそ心理学者の辿る道であり、余程の変人ででもない限り、臨床心理学はどの大学においても選択される道ではなかったのです。当時教授の命令は絶対であり、これに逆らうことはできなかったのです。院生で見込のある者は母校の研究室に助手としてとどまり、それに次ぐものは他の大学に講師、助手として採用されるか、女子大、短大に採用されていました。それに準ずる職は研究機関の研究院で、病院とか教育研究所とか児童相談所とかに行かされるのはもはや研究者としては落伍者の烙印を押されたと同等でした。 少なからず屈辱を味わされたわたしはそれでも週1日は病院から研究日を貰い、これを女子大学での講義にあてていました。 6年間田舎の病