サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
体力トレーニング
dryanbaru.xyz
ある高機能のASの人とのカウンセリングの中で、本人から「庇護を求めていた」という言葉が出てきて、さまざまなASのタイプを統一するイメージが浮かんだ。 もとは「庇護」なんだ。だから「100パーセントが当たり前」で、「対等の関係にはならず」、「相手の人格を想定しないで良い」のだ。 「庇護」という言葉は無条件の理解と保護を意味する。だいたい胎児から乳児に対する親の行うことが「庇護」で、親は当たり前に100パーセントの責任を負い、乳児本人からの要請や 親子の相談は必要なく「以心伝心」で親は乳児の求めていることを理解し、提供する。 反対にケア(世話)する立場になった場合はASの人はケアされる側のニーズを聞くことをせず、結局第三者から見ると「支配的な押し付け」になるが、これも「庇護」モデルの反対側を演じているのだと考えると説明がつく。 ASの人の理想とするコミュニケーションのあり方にも非常に似ている。
(以下は私の一当事者としての私見であり、学問的な見解ではないことをご理解願います) ADHDの本質は、脳の働きの質が異なることである。 私の最近の考えは、「数多くのプログラムが並行分散処理で複数同時に動き続けている」という状態であると考える。 一般的な思考が、「ひとつのプログラムを開始し、それが終わると終了として次のプログラムを」という形であるとすれば、 そういうプロセスが同時進行で並行して回り続けていると考える。 これ自体は、よく言われる男性と女性の脳の違いと比較すると、 一見すると女性型の、「話をしながらテレビを見たり作業をしたり」というタイプと共通するように見えるが、 女性型の場合には、それぞれの働きは独立し、言わば脳の別々の部分で一つ一つのプログラムを回しているということになり、かなり異なる。 むしろ 女性型の融通性とは逆に、男性型の強く集中するようなプロセスが、複数同じ場所で動い
発達障害、特にADHDは「説明」という答えを求める。 カウンセリングを受けても、「話を聞くだけで何も言ってくれなかった」と言って不満を述べたりする。また答えを待てない。答えがあるなら早く知りたい。 知らせるべき事実があったのに、配慮して知らせなかったとしても、「何で教えてくれなかった」と腹を立てることが多いのは発達障害の特徴である。 診断もそうだ。ADHDであるのかどうか? 疑問を持ったからには答えを出して欲しい。 ADHDは、発達障害は、何故このように答え、説明を求めるのか? を最近考え続けている。 発達障害の臨床を経験している人であれば、「ADHDが小学校5年生頃の時期に突然周りが見えるようになり、物事の理解がその時期を期に急速に進む」 という現象を目にしたことはおありだろう。 私はこの現象を、私自身の遠い体験からも、「それまでバラバラだったさまざまな知覚や認識が突然説明可能な形でまと
積極奇異型ASの場合に、小学校4年くらいになると、「廊下を走る(ルール違反をする)人が居る自体ストレス」と言うのがよく見られる。 また受動型ASは、「社会全体が自分を理解しない」とか「社会全体から迫害されている」という発想によくなる。 これらから推測してASにとっては、常に「社会全体が相手」という認知と思考の特徴があるように思う。 自分と「社会全体」があり、(特に受動型ASには)それが平和に一致しているか、または決裂状態にあるかどちらかしかない。 無理に説明をしようとすれば、「関連付け思考」の結果、ASの認識の細密画の一方の端がぼやけていることは許されないので、どんなに遠い社会の果てでも明確に白か黒かになっている必要があると説明は出来ないことは無いが。 ジャイアンから見ると、「常に社会全体を相手にしている」というのは、「誇大的、自意識過剰もいいところ」という風に映る。(これは多数派から見て
ASと自己正当化型ADHDは自分の非を認めることが苦手である。もともと自分と異なる価値観があること自体、かなり現実の中で苦労して学習しないと想像することは難しい。 その結果、どうしようもない失敗や、どうしようもない現実の問題に直面すると、「くよくよ悩む」ことはしない代わりに、頭痛や吐き気、ふらつきなどの身体症状が出現する。人によっては強迫症状や聴覚過敏、視線恐怖がひどくなることもある。 こられの症状を治す方法は、当然症状が何故起こっているかを解明し、本人に直面化を促すことになる。もともと非を認めたくない発達障害の場合、さまざまな抵抗をするけれど、それ以外に回復の道は無い。 くよくよ悩むことは、見た目は良くないし、後ろ向きで生産的でない印象があり、悪く言われることが多い。しかし現実には前向きの発想ではどうしようもない問題もあり、時には愚痴ったり泣き言を言ったりすることが必要な場合もある。 一
ADHDの説明に戻ろう。ADHDは自分の障害と二次障害のために、自分以外の多数派について、いくつか幻想を持つようになると私は思う。 幻想1.多数派の人はお互いを言葉で説明しなくてもよく理解しあっている。 幻想2.多数派の人はお互いを傷つけないで平和的に人間関係を進めている。 幻想3.多数派の人はお互いに配慮しあって、激しい意見の対立も無くスムーズに合意を形成し「調和」的な解決をしている 。 以下はADHDとしての私の観察結果であり、私の「推測」「仮説」でしかないが、多数派を見るときのひとつの参考にしてほしい。 1.まず「理解」の意味が違う。多数派にとっては「理解」は単に「表面上の対立が無い」というだけの意味しかなく、ADHDの求める真剣な話し合いの結果としての理解とは大きく異なる。 だからADHD的に言えば、「多数派は理解しあっている振りをしているだけで、表面上話を合わせているだけに過ぎな
自己コーチングガイド各論② ASの自己理解そのH (その他の諸特徴) H.ASのその他の諸特徴について理解する。 <感覚過敏・強迫症状・身体症状> 多数派の感覚は、「意味や状況で逆に感度が調節できる」というような特性を持っており、「自分に関係ない」と思えば聞こえなかったり(実際には耳には入っているが情報として脳の中で小さくなったりして)、運動会のピストルのように初めから分かっていれば驚かないレベルに調節したりして、外界からの情報を取捨選択調整するメカニズムが働いていると私は考えている。 これに対しASの感覚の特徴は、全体的に感覚は過敏であるのに加えて、「興味関心のある情報が増幅される」、「人に関する(特に感情的な)情報が増幅される」ことと、「取捨選択できないでナマの大きさそのままが入ってくる」と表現できるような特徴がある。 例えば目の前の人と話していて、話題が興味のないことであったとして、
統合失調症の幻覚や妄想を抑える薬を「抗精神病薬」と呼んでいる。今は使われなくなったが「メジャートランキライザー」というのもほぼ同じ意味だ。以下「メジャー」と略すことにする。 ほんの2、3年前までは抗精神病薬といえばドーパミン神経の「ブロッカー」のことで、セロトニン系やノルアドレナリン系を同時に一部分ブロックする等タイプは違っても、基本的には ドーパミン神経をブロックするのが抗精神病薬の作用だった。 ドーパミン神経はいくつかあるが、意欲や快感などに関係するドーパミン神経の一群をブロックすると、当然意欲が低下し、基本的に思考能力は低下し、メジャーを服用しながら普通に就労することはほとんど不可能と言っても良いように私は思う。 だから私は「メジャーは最後の手段」で、なるべく思考力を抑えない感情調整薬(躁うつ病の薬)やてんかんの薬をいろいろ組み合わせてイライラを抑えたり衝動をコントロールすることを目
AS(アスペルガー)関連 親子の相性③親子ともASの場合 2006/12/20 AS(アスペルガー)関連, その他(医療関連), 研究, 診療 コメント: 3 ASの親は、多くが子供に愛着を持つが、時に「妻だけに愛着を持ち、子供は無視」であたり、子供にASとADHDの両方がいる場合などに愛着のある子供だけをかわいがるということが見られる。 他方ASの子供も、愛着を持った親に絶対服従し、どんなにひどい仕打ちを受けてもその親からの愛着をひたすら求め続ける。 私は思春期以降「死のうとし続ける」という経過をたどったASの人を数名知っているが、良く話を聞くと、「愛着の対象の親ASの愛着の対象にならなかった」というケースだった。 ASで、しかも愛着の対象である親から無視され、しかもその親は自分以外に母親であったり兄弟に愛着を持つ状況を目の当たりにするという体験はASの子供には辛すぎる。 小さい頃からそ
のび太とジャイアンの関係を図示することをずっと考えてきたが、やっと図が完成した。 https://docs.google.com/open? id=0ByyeK0qS9vvSekFqWndqSUpnMkU https://docs.google.com/open? id=0ByyeK0qS9vvSaHJNN3dYc2dlU3M (上記の改行をくっつけて閲覧してください。同じものです) さて図の意味は、以下の通り。 1.ADHDは能力の特徴でのび太とジャイアン予備軍に分かれる。その違いは状況察知能力である。いわゆる空気が読めないADHDがのび太で、自分の有利不利だけは察知できるのが「ジャイアン予備軍」だ。 2.のび太は理解の乏しい環境で二次障害が重症である場合は「のび太AC」となり、逆に理解された寛容な環境では「合理的ADHD」に成長する。 3.ジャイアン予備軍の中で、「合理的な説明があり例
最近孤立型ASDの診断がつくケースに数例出会い、どういう人なのか少しずつ私の中でイメージが出来てきた。 本来孤立型ASDの人は本人が困ることが少ないので医療機関には相談に来られない。以下に説明するが、「普通」で「発達障害っぽくない」という印象にすらなる。 ざっと説明してみよう。 1.対人関係は一見ADHDに似る 基本的に束縛を嫌い、人への愛着はあるにはあるが非常に薄い。 その意味で一見ADHDの「平等」に近いかと見えるが、よくよく見ると「個別の相手により行動が変わる」というASDの根本特徴は備えている。 ただし、積極奇異型や受動型のASDとの違いは、「大事な相手への愛着は自分のこだわりの中で最上位ではないことが多い」ということだ。 極端には、「相手が自分をどう思っているかはさほど重要でない」という形になることもある。 「3歳から一人で留守番していた」という超自立している子供時代のエピソード
ASの典型的な積極奇異型や孤立型の人の表面的な特徴は、「首尾一貫して杓子定規に筋を通す」「禁欲的」というイメージだ。だからそうでないASの人は表面上ASに見えないことがある。 例えば同じ服を着続けたり、同じ道しか通らなかったり、日課の順序が決まっていたり、「後悔するくらいならはじめからするな」という考え方をしたり、(特に積極奇異と孤立型の)ASの人はもともと「こだわり」、「関連付け」、「時間認識」から「首尾一貫した」「禁欲的」という外観を呈する。 これが、例えば「最新性能や新製品にこだわる」とか、「ファッションへのこだわり」などの形で、どんどん変化していくことがこだわりの対象になることも時にはある。 また、受動型のASの人は、基本的に状況に合わせるので、他の相手や状況の場合の本人の行動との首尾一貫性はあまり本人には問題にならない。その結果外見的には「ころころ変わる」「享楽的」という風に見え
私自身最近気づいたことだが、ASの人と近く接し続けると、(多くはADHDの場合に)「認知と思考がASのようになって意欲が低下する」という現象があり、仮にAS被影響症候群と名づけた。 ASの人の認知と思考の重大な特徴として、「あらゆることに可能性が一つしかない(もしくは無い)ように考える」という面があり、よく「想像力の欠如」と表現されるのもこの特徴だろう。お金に困った場合などには特に激しくなるようだ。 ADHDから見ると、「どこへ行っても袋小路で、あらゆる可能性が閉ざされて出口がない」という話ばかり聞くことになり、著しくADHDの活力を削がれる状況になる。実はそれだけでなく、「本人を救いたいという気持ちを逆手に取られて脅されている」に近い状況も出現する。 私自身もこの状況に陥っていて、最近回復したのだが、必要なことは、「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」、「現実の可能性は依然として
私のブログを見て、「頭では理解できたが、自分がダメに思えてきた」という複数のASの人の感想があり、少し考えた。 これも「関連付けのし過ぎ」の結果だと思うが、「ASの人は***だ」と書くと、「ASの人だけが***で、他の人は全て***ではない」という意味にASの人は受け取っているように思う。 例えば「ASの認知のゆがみ」と書くと、もともとの意味は「ASの人は認知のゆがみがあることがある。(他の人についてはあるとも無いとも言ってない)」 という意味であるのに、「世の中でASだけがどうしようもなく認知がひん曲がっていてまともにものを見ることも出来ない」という風に非常に極端に(感情的に)受け取っているのではないかと私は想像する。当たり前だがこの二つは全く違うことだ。 このあたりも、「可能性が即必然性に飛躍する」というAS独特の認知の特徴のせいかもしれない。 その意味では、「認知のゆがみが無い人はい
支配的な親からの理不尽な愚痴をずっと聞かされ続けている依存型ジャイアンのケースの言葉。 「親も精神的に持たないから」「死ぬといっているから」。 こう考えて本人は理不尽と感じつつも親の現実的、心理的なフォロー、尻拭いをずっと続けてきた。 私は本人に聞いた。「何故子供であるあなたがフォローする必要がある?」「親本人はその 問題から逃げていいのだろうか?」 本人は再度「でも親は本当に責任を突き付ければ死ぬかもしれない」と言いつつも、 自分の発想の問題点に気付いた。 私はその本人を見て、依存型ジャイアンの発想のひとつの特徴に気付いた。 「逃げて良い」のだ。依存型ジャイアンの世界では辛ければ、死ぬといえば、どんな責任からも逃げて良いのだ。いつもながら依存型ジャイアンの世界には驚かされる。 その理由は、結局「その場だけ」という一瞬に生きる依存型ジャイアンの認知と行動を考えれば容易に推察できる。「自分が
ADHDは本来「アウトロー」である。自分が納得するしか無く、納得できなければ法律だろうが多数派の常識だろうが平気で無視する。 「何でもあり」という表現も出来る。露骨になりふり構わず、自分の衝動や欲望に向かってどんなことでもする。 「現金」という言い方も出来る。ある意味徹底的に現実的実際的で、「お金をいっぱいもらえば割り切って何でも出来る」ようなところがあり、他方こだわりで偏屈な部分と非常に対照的な面を見せることが多い。 中でもジャイアン型ADHDは「丸投げ」が大好きである。やってくれる親切な人がいれば「ラッキー」と丸投げしてしまう。自分ですると責任を取らねばならないから、ジャイアンにとって丸投げは「責任を回避するため」という意味がある。 一方で馬鹿正直でこだわりには忠実で融通が利かない部分と、この「何でもあり」の極端なルーズさが同じ人にも並立していて、見る人に理解が困難となることがある。
ジャイアンとAS② ジャイアンはすぐに「ばれる」 ジャイアンとASを見分ける時の分かりやすい特徴は、ジャイアン(自己正当化型ADHD)は状況が分からないので、自慢しすぎたり、そのたびに被害を訴える相手が変わって怪しまれるなど、「この人は自己中心的だ」ということがすぐに「ばれて」しまうところだ。 AS(特に受動型)の人はそんな風に思われるようなヘマはしない。AS独自の理解の仕方ではあるが、厳密に状況を読みながら行動しているからだ。 ジャイアンが「ばれる」のは、状況が分からないADHDであるからだと私は考えている。「ここで自慢話をしたら明らかに自慢と受け取られてかえって尊敬されない結果になる」ということが分からないのだ。 また、周囲のいろいろな人を代わる代わる加害者として、自分がストレスを受けているという訴えも、あまり相手がころころ変わると、「この人は結局自分が同情してほしいだけなのか」という
以前から積極奇異型ASDの人の「愛着」について書かなければと思っていた。発達障害の最大の不条理のひとつだ。 積極奇異型ASDの人は、本人の生き様を見る限り「立派な人」である。向上心が強く、非常に根性があり努力家で、時には自分自身の限界を超えて努力もする。 管理能力に優れ、細やかな気配りも出来、正直で何よりも責任感が強い。仕事上の関係者としてはもっとも信頼できる相手と言える。 ただこの積極奇異型ASDの同じ人が、こと愛着の相手に対しては「ベタベタに甘い」「断れない」「ひたすら尽くすして依存させてしまう」という結果になることが多く、「本人は非のうちどころのない立派な人なのに家族やパートナーには最悪の甘やかし対応をする」という不条理としか言いようのない真実が存在するのだ。 社会に対しては「オレ流」で自分の主義を貫き、自分の言葉を決して違えない責任感と行動が見られ、対決を恐れない同じ人が、愛着の相
受動型ASの特徴は、「登校してしまえばストレスが逆に減る」という相手や状況への「受動性」と「順応能力」とも言うべき行動特性である。 そのため、「自分から動く」ことが出来ず、思考も行動も「100パーセントの依存」を求める結果になる。 現実的には「外面が非常に良いが家ではとんでもないわがままを言う」という極端な行動パターンとして現れる。 この依存性は乳幼児期から成人後までずっと継続し、本人の現実世界への適応に大きな問題となる。 思春期には愛着の対象となっている親に対し、また成人後にはパートナーに対し、100パーセントの理解と一方的なサポートを要求し、99パーセントでも不足として愛着の相手を攻撃する。攻撃しない場合も情動不安定になったり、うつ状態や身体症状が出て現実への著しい不適応を来たす。 だから受動型ASに幼少期から満足できる依存関係を提供すると、思春期や成人後も同じ依存の立場を愛着の対象に
最近の考察を受動型ASの本人から見た場合で考えてみた。 受動型ASの本人が理解するべきことは、以下の通り。 1.「誰かが本人を理解することも、本人を大事にすることも、100パーセントを求めることは出来ない」という単純な当たり前の真実を認める。 2.親でも。親友でも、パートナーでも同じである。「100パーセントを目指して努力し続ける」ことは出来るが、結果として「100パーセントの理解が成立した」と感じるとすればそれは「錯覚」であり、「勘違い」である。 3.当たり前に100パーセントの理解や100パーセントの受け入れを要求した場合、関係が長持ちすることは不可能である。これも考えれば当たり前であるが、現実的には「4、5歳までの幼児期に親が一見それに近い状態になれる」か、または「胎児期の母親は100パーセントの庇護をすると言えるが、その母親に胎児が現実的に要求することは出来ない」と考える。 4.だ
ASにとって想定しにくいものには、未来にあるという意味で「未定」であることの他に、「知りえない他者の意図や意志に基づく未定」があり、実は対人関系においてはこちらが重要となる。 よくASが「被害妄想的」と言われるのは、「本来は知りえない他者の意図まで少ない情報からはっきり断定して考える」というところからだろう。実際表面に現れた行動からは、「本心」や「意図」は高々「推測」出来るに過ぎず、断定は本来不可能だ。しかし通常(表現の問題でもあると思うが)ASの人は「***と思う」とか「***と想像する」とは表現しないことが多い。 もともと知りえないだけでなく、ASから見るともっと困難なのは、「他者の意図が時間とともに変化する」ということだ。ASの人には「あの時こういった」という発言が多いが、他者の発言であっても、変化すること自体に抗議しているのだろう。 これらの断定から逃れるためには、「(特に対人関係
精神疾患に見えない発達障害シリーズ① --- うつ状態なのにうつに見えないADHD ADHDにもうつ状態はある。意欲が低下し、自己評価が下がり、イライラして、何もやる気が起こらない。しかしADHDは「うつ病」と診断されない。なぜか? ひとつは「強弁できる」ことにある。一生懸命に訴える。「私はうつなんです」と強く言う人は多数派の世界の見方では「うつ」とは見てくれない。いわゆるうつ病の人は、そのことを訴える元気もないからだ。この点は実はASにも共通する。 だから「抑うつ神経症」と言われることが多くなる。 もうひとつは、「うつ状態の真っ最中でも特に好きなことには熱中できたりする」ことだろう。ある年配のADHDの御婦人は、うつの真っ最中で寝込んでいるのに、好きな大正琴の練習だけはばっちり3時間集中する。「これが出来るのに」うつだと言っても多数派の世界で理解されるのは難しいのは容易に想像できる。 他
精神疾患に見える発達障害シリーズ② 強迫性障害に見えるADHDやAS ASとジャイアン型ADHDにはそれぞれ特有の強迫症状や強迫的傾向があり、見かけは「強迫性障害」となるが、特にASの場合ケアとしての「認知行動療法」が逆効果になる場合がある点で注意が必要だ。 ASの強迫症状はASの自閉的なこだわりとしての場合と二次障害の場合があるが、いずれも「皮膚感覚の延長線上」という特徴があり、「身体的な違和感」「穢れた感じ」という様に体験されるため、本人が「不合理」と感じることは少ない。 対してジャイアンの強迫症状は一種「抽象的」で、ガスの元栓確認とか、「車で運転中何かを踏みつけた」とか、「全部確認しておきたい」といった強迫的不安を背景にすることが多い。こちらは本人も「不合理」と頭では分かる。 表面だけ見るとASの場合は統合失調症と間違えられやすく、ジャイアンの場合はいわゆる「強迫性障害」と診断される
AS(アスペルガー)関連 強迫症状を見たらアスペルガーを疑え 2006/7/26 AS(アスペルガー)関連, その他(医療関連), 研究, 診療 コメント: 4 私自身も見逃していたケースがいくつかあったが、強迫性障害という診断の人に実際はアスペルガー症候群(以下AS)であった人が何人か居られた。 一つのケースは、思春期からの入浴に時間がかかるという不潔強迫の症状で、ある県立病院で厳しい行動療法を行い、退院時には一時症状はよくなったがすぐに再発し、その後本人が「大人のいじめに遭った」「元主治医を訴えたい」と言い続ける経過になっている。 ADHDにも強迫症状はあるが、私の臨床経験では、ASやADHD等の発達障害の強迫症状に行動療法は効かない。 SSRIや時にはジプレキサ等の抗精神病薬は有効だが、本当の治療は発達障害を診断して、その発達障害ならではのストレスを理解し、現実的に解決するコーチング
私は心療内科でパニック障害や社会不安障害、うつなどを診てきて、そのうちの少なくない部分がADHDやアスペルガーなどの発達障害の人であることを発見した。 本来発達障害は自分が納得するように生きるしかない。納得できない生き方をするとそれだけでストレスとなり、身体症状やうつで苦しむことになる。病気になった発達障害の人を診てきて私が理解したことは、「世間に適応すれば病気になり、適応しなければ引きこもりや反社会的になる」という発達障害のどうしようもないジレンマであった。 だから発達障害の親などによく言うのは、「あなた(親)が楽になるということは本人がその分苦しいということですよ」ということだ。 ADHDは多くはうつになり、アルコール、薬物、時にはギャンブル依存などにもなる。アスペルガーは強迫症状と身体症状が多く、頭痛やアトピー、喘息等、時に攻撃的になることもある。 上記のジレンマへの答えはこうだ。「
「普通」、多数派の形成している「空気」に合わせていて自然な状態となる受動型ASは、結果として「普通」にこだわる人が多い。 直感的には当然の結果のように思える。「特に友達にASをカミングアウトする」ことは非常に大きな困難を伴うようだ。 このブログでも過去に受動型ASと思われる常連のコメント氏が居られ、誇大的ともいえる態度で私をはじめ多くのジャイアン氏の怒りを買ったことは記憶されている方も居られるだろう。 ここまで書いてきた受動型ASの「特定の人への異常な愛着」と「普通へのこだわり」は、二つの平衡点とも言うべきもので、この間に山型にストレスの高い状態があり、「普通から遠ざかりすぎると特定の人への依存に行く」という関係になっていると私は想像する。 受動型ASの普通へのこだわりの大きな特徴は、少しでも普通であることを否定された場合に限り、「自分が普通だ」「自分が正しい」と死に物狂いに自己正当化する
ADHD関連 ASと想像力⑥ 理解の可能性と結果の要求 2007/1/10 ADHD関連, AS(アスペルガー)関連, その他(医療関連), 研究, 診療 コメント: 17 引き続きASの側から問題を記述してみる作業を続ける。 ADHDから見ても非常に不思議なことなのだが、ASの人には「相手が自分を理解してくれる可能性を感じると同時に、結果として完全に理解することを要求してしまう」という現象がよくみられる。 「相手が自分を理解してくれるかもしれない」というのは一つの可能性であり、当然理解してくれない可能性もあるし、結果としての理解を保証するものでは全く無い。 しかしASの人は、一足飛びに「だったら全部分かってくれるはず」というところに飛んで、100パーセント理解していることを前提に行動したりする。これは事実上「理解の要求」になっている。 理解の「可能性」と「結果の要求」は明らかに別物であり
アスペルガー症候群の一大特徴は、「特定の人への愛着」である。知的障害に近い人からIQ130の高機能の人まで、みんな同じく愛着の問題に苦しむ。 この愛着は、本人の認知としては、「一心同体」「相手の全てを知っているのが当たり前」「自分の全てを相手が分かっているのが当たり前」という形になり、それを前提に、例えば「お母さんは全部分かっているはずだから説明する必要は無い」ということになり、説明する必要があることがなかなか了解できない。 また「愛着」であり、ペットや物に対する執着に近く、「相手の(自分には想像もできない)思い」等は前提に無く、断ち切りがたい特徴を持つ。また当然の結果として「支配的」または「服従」ということになる。 だからASの人がストーカーになったりDV、モラハラになったりするのはある意味発達障害の認知のどうしようもない特徴から来ているという意味で必然的な面があり、ASを理解すると何故
(以下一部のASの人を話題にしますが、これはあくまでも「十人十色の中にはこういうASの人も居るかもしれない」ということで、間違ってもASの人は「自分のことを言っている」と勘違いしないで下さい。特定の誰のことでもありません。十人十色の人のうちにはこういう人も居る可能性があるという話です。これを理解しないコメントは無視します)。 受動型ASの一部の人は相手中心で「自分が無い」という特徴があり、常に相手からのアクションを受けて受身の反応として認知も行動も体験され形成される。 だから常に「特に愛着の対象がこうしたから私はこうした」という受動的な発言や行動となり、表面上は「無責任」「人に責任転嫁している」という相手から見たときの見掛けとなる。 これに加えて、受動型に限らずASの一部の人に見られる「直接その場で相手に言葉で要求や希望を伝えられない」「後で相手の居ないところで別の人に本音を話す」「愛着の
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『意味不明な人々−発達障害(ADHD、アスペルガー)と人格障害に取り組む』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く