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大谷翔平
aesthetica.hatenablog.com
第3回世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG 2013)に出ます。 文化庁メディア芸術祭関連事業のサイトはこちら ICOMAG 2013のサイトはこちら 第3回世界メディア芸術コンベンション 「異種混交的文化における批評(クリティーク)の可能性」 異種混交的文化における「批評」をテーマに、国内外の9名の哲学、社会学、音楽史、芸術学などの研究者によるパネルディスカッションやラウンドテーブルを開催します。文学や美術といった芸術領域においてきわめて重要な役割を果たしてきた「批評」は、現代的状況にふさわしい新たなスタイルを見出せるのか?そうした新しい批評のスタイルとはどんなものでありうるのか? この会議では、そうした問題をめぐる率直な議論を交わします。 会期:2013年2月16日(土)〜2月17日(日)13:00〜17:00 会場:政策研究大学院大学 想海樓ホール 登壇者:エルキ・フータモ、
日本ポピュラー音楽学会(JASPM)の第24回全国大会が今週末(12月8日〜9日)に武蔵大学(江古田キャンパス)で開かれます(→JASPM24(第24回日本ポピュラー音楽学会年次大会)のサイト)。 で、参加予定もないし、そしてそもそも学会員でもない私が、どうしてここでそんなことを書くかというと、この大会のワークショップ「ポピュラー音楽の美学と存在論──今井論文をめぐるオープン・ディスカッション」で、私が過去に論じたことがある「リマスター」の問題が取り上げられそうだからです(詳細は増田聡さんのサイトを参照)。 リマスターについて私は二度ほど論じたことがあります。 吉田寛「2007年の音楽シーン──音=音楽の所有と管理をめぐるポリティックスの諸展開」『artscape[アートスケープ]』(2007年2月)(→artscapeのサイト) 吉田寛「われわれは何を買わされているのか──新リマスターC
私が顧問を務める学生主体の研究会で以下の特別企画を行います。 森功次さんと今井晋さん(a.k.a. 死に舞)という今をときめく二人の若き美学者(お二人とも立命館は初見参だと思います)をお招きしますので、関西方面の美学、哲学、芸術学関係者はぜひともご参加下さい。 なお翌日12月2日(金)にもお二人を交えてゲーム関連の研究会を予定しています(詳細が決まり次第、お知らせします)。 お問い合わせは下記の田邉さんか、あるいは吉田までお気軽にどうぞ。 「分析哲学と芸術」研究会・特別レクチャー&セミナー 日時:12月1日(木)13:00〜17:20 場所:立命館大学(衣笠キャンパス)創思館303/304号室(→キャンパスマップはこちら) ※事前申し込み不要・参加費無料 (1)レクチャー(13:00〜14:00) 森功次「われわれは芸術作品の価値をどのように査定すべきなのか?──不道徳作品を中心に」 (2
以前からtwitter等でポツポツと予告・ご案内しておりました「文化庁メディア芸術祭京都展」のプレスリリースが本日行われました。ようやくここまで漕ぎ着けました。長らくお待たせしました。 文化庁のサイトは以下です。 http://www.bunka.go.jp/ 「文化庁メディア芸術祭京都展開催」のプレスリリース資料(PDF)は以下です。 http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/media_geijutsusai_shiryo_110912.pdf 私は京都展プロジェクトチームの一員として「エンターテインメント部門」の企画と統括を担当しています。その「エンターテインメント部門」の企画は以下の通りです(プレスリリース資料14頁より抜粋)。 エンターテイメント部門 「ゲームってアートなの?──エンターテインメントのいま・これから」 日時:2011
次の週末、二松學舍大学(九段)で日本記号学会の大会があります。 私は非会員ですが、パネルに呼ばれているので参加してきます。 今回、日本記号学会は「ゲーム化する世界」という大会テーマを掲げています。人文系・思想系学会の先手を切って、ゲームを研究テーマとして正面から取り上げることに、一ゲーム研究者として、心より賛辞を送りたいと思います。 日本記号学会第31回大会〜「ゲーム化する世界」 開催日:2011年5月14日(土)、15日(日) 開催会場:二松學舍大学九段キャンパス1号館 参加費:無料 5月14日(土) 14:30-16:00 【セッション1】 「マイコンゲーム創世記」 三遊亭あほまろ(庶民文化研究家)、吉岡洋(京都大学) 16:15-18:15 【セッション2】 「オンラインゲームにおける共同性がもたらすもの」 香山リカ(立教大学)、田中東子(十文字学園女子大学)、小池隆太(米沢女子短期
10月の美学会全国大会(東京大学)で「聴覚の座をめぐる近代哲学の伝統」という題で発表をします。要旨は以下の通り。 そのうち要旨集として会員には配布されると思いますが、どんなことやるのかと数人から聞かれたので、ここに書く次第。ここを見てる人のほとんどは会員でないわけだし。 かつて中村雄二郎は『共通感覚論』(1979年)で、現代の実験心理学等が説く視覚の絶対的優位に対して、感覚論の古典的伝統がむしろ触覚の優位を説いてきたことを強調し、「視覚の専制支配」を超克しようとした。その後、ジョナサン・クレーリーは『観察者の系譜』(1990年)で、全く別の文脈においてだが、やはり視覚と触覚をめぐる哲学的伝統の再読解を試みた。彼によれば一七、一八世紀の視覚理論では、形而上学的な視覚が特権化される一方、それが現実の知覚世界から浮き上がってしまい、その間隙を埋めるべく「触覚としての視覚という概念」(デカルト、バ
そういえば、いつの間にか10月、すなわち科研費申請書類作成の季節ですね。 私は今年は珍しく、申請書類を書かなくて良い年なので、数年振りに楽してますが、例年この時期はたいへん消耗・荒廃しておるわけです。 最近では、本務校の無い非常勤教員でも、非常勤先の大学で研究者番号(文科省側が国内全ての研究者に割り振る番号)を取得して、科研費の申請ができるようになりました(私の身の回りでそうなだけで、全ての大学でそうかは知りません)。 (ということは同時に、本務校が無くても、他の人の科研費プロジェクトの研究分担者にもなれることをも意味します。) これは大変よろしい制度なのですが、一点、落とし穴とも言える注意点があります。 それは、非常勤先が「勝手に」研究者番号を発行・付与して、それを非常勤教員の側が知らずにいる、というケースです。 これの何がマズイかというと、最近できた「若手スタートアップ」という種目(過
村上春樹に「パン屋再襲撃」という短編(コレの巻頭に入ってる)があり、大昔に読んだことがある。 ただし設定や細部はすっかり忘れていたのだが、先日とある人から(誰だか覚えてないが、若い人だったような記憶が。うちの学生かしら)「あれってヴァーグナーを聴かされる話ですよね」と言われ、それはまったく記憶になかったので、軽く驚いた。そういえば、これを読んだ時分(学部生の頃だったか)は、私はヴァーグナーにはほとんど関心がなかったから、覚えていないのも当然でもある。 で、昔買ったその文庫本は研究室の本棚に入っているので、先日ふと手に取ってみた。いやー、今読み直すと面白いね。ヴァーグナーがネタだと教えてくれた誰か、サンクスです(今度会ったとき、御礼を言いたいので教えて下さい)。 「大学時代、友人とパン屋に強盗に入ったら、そのパン屋がたいへんなヴァーグナー・マニアで、パンをもらう代わりにヴァーグナーの序曲を聴
少し前から考えていたことだが、音楽は実は「聴覚文化」研究の対象ではないかも知れない。(そこから翻って、そもそも「聴覚文化」研究なるものの内実は空虚ではないか、ということでもあるのだが。) 「美術」が「視覚文化」研究の中で(も)それなりの位置を占めているようには、「音楽」は「聴覚文化」研究の中で場所を持たないかも知れない、ということだ。 「聴覚文化」研究と言った場合、その主要なコンテンツは、私が考えるに、聴覚・耳の研究(例えばヘルムホルツ、ベケシー)、言語・声・聴取の研究(例えばオング、マクルーハン)、メディア・器具の研究(例えばキトラー、スターン)などであり、いわゆる「音楽作品」は、「聴覚(耳)に基づく独特の文化的編成」云々といった議論と実はそりが合わないのではないか。かりに「聴覚」と「聴覚性」を区別したとして──この区別自体、「視覚」と「視覚性」ほどには自明・有意義ではないだろう──この
一部の間ではすでに議論し尽くされた感のある、新幹線の新名称についてだが、新たな情報を得たので書いておく。 よく言われるように、「こだま」で音速、「ひかり」で光速ときて、次の「のぞみ」(1992年運転開始)に至って、ついに(というか進歩するなら当然だが)光速をも超えてしまった、われらが新幹線。 その光速より速い列車にどういう名前をつけるか。JRも悩んだのだろう。そこで、のぞみを出してきた。内的世界である。精神論だ。宗教的とも言える。60年代の科学的気分から大きく逸脱して、内側へ向かってしまった。90年代の停滞が見事にあらわされる名前である。当時は気づかなかったのだろう。内的世界に向かう気分は、その三年後に東京の地下鉄でテロを起こすことになる。同じずらすにしても、形あるものにしたほうがよかった。(堀井憲一郎『若者殺しの時代』、2006年) この堀井氏の着眼点は、きっと多くの人にとって必ずしもオ
だから彼らに教わる学生はどんどん下流化するのが当たり前。 三浦センセの新著『下流大学が日本を滅ぼす!』によると、そういうことだそうです。 【大学の先生自体が下流だ】だいたい大学の先生自身、下流っぽい人が多い。自分の好きなことだけやっていたい人たち。で、収入は低くてもいいやという人たち。下流の条件を満たしてる。だから、大学で4年も過ごせば学生がどんどん下流化するのは当然だ。それと、大学の先生に会って名刺交換しようとすると、「今、名刺を切らしてまして」とおっしゃることが多い。サラリーマンならまずありえない。社会常識がないんだ。あいさつも苦手、話すのも苦手、まさにコミュニケーション力がない人が多い。アキバのオタクと変わらない。こういう先生たちが、いま社会が求めるコミュニケーション力のある若者を育てられるわけがない。(p. 128) [参考]:「大学の先生よりも所得の高い親なら(…)大学の先生は役
研究者として大学・研究所・シンクタンク等に就職(転職)を予定・希望する人は、絶対、自分の仕事の概要をインターネット上で公開した方がいいです。 自作のサイトでも、ブログでも、とにかく、その人が何をやっているのかが名前を検索すればすぐに分かるなら、かたちは何でもいいと思います。 今は所属機関の側でやってくれる場合もありますが、そうでない場合にも、面倒くさがらずに自力でするべきです。大学院生や研究生の場合でしたら(教員も同じですが)自分の研究業績は、そのまま所属機関の業績にもなるので、双方にメリットがあります。 研究者(とくに駆け出しの)にとっては、自分がどんなことをやっているかを「世の中」(狭い意味でも広い意味でも)にアピールすることは、研究それ自体に劣らない重要性を持ちます。それは改めて言うまでもないでしょう。もちろん学会発表や論文出版といった日頃の活動もその一環であるわけですが、並行して、
水月昭道『高学歴ワーキングプア』以来、あちこちで散々言及されている人文系ノラ博士問題ですが、ここでは個人的動機から、あえて屋上屋を架す真似をします。 第一には、現在の持ち場を離れるにあたって、今考えていることを、身近に「遺言」として残したいのですが、その時間がないこと。 先月から歓送迎会の類をたくさんやって頂いておりまして、すごく嬉しいのですが、そこでは(当然ですけど)中々じっくりお話しする時間が取れません。 でもこれは、実は今の私が、子育ての次ぐらいに真剣に考えている、すごく大事なことなんです。われわれみんなの将来に関わるんです。その意味では、子育ての問題と同じくらいの重要性があります。 第二には、大学の博士課程のあり方については、今後いっそう私の仕事上の関心事になるであろうからです。 自分に関係ないことは考えないし口も出さない、というのが私の基本姿勢でして、本当は考えないほうがすごく楽
まったく脈絡もなく、時機も関係なく、これまで私が言ってしまった後で反省したエピソードを二つ書きます。一つはかなり昔のことで、もう一つはごく最近のことですが、どちらも、それ以後の私の言動や価値観を変えた、トラウマティックな出来事なので、身近な人にはすでに話したことがあるかもしれません。 一つ目は、私が大学生(か大学院生)の頃。新宿紀伊國屋本店のエレベーター(確か二台あるのだけど、なかなか自分の階に来ないヤツ)に乗っていたとき。小学生くらいの男の子とその母親らしき二人と乗り合わせた。母親が先に降りて、しばらくその男の子と私は二人きりになった。母親は降りる前にその子に声を掛けたのだけど、それが英語だった(終わったらすぐに降りてきなさいね、みたいな内容だったと思う)。その親子は、見た感じは日本人だったんだけど、英語で喋っていたので、私はその子に「どこで降りますか?」と英語で話し掛けた。そしたらその
最近学生と話題にしたことで面白かったことを忘れないうちに書いておく。 それは新宿西口にある、かの奇妙な「オブジェ」についてである。 この突起物は、1996年の新宿西口地下道からホームレスを退去させる騒動のなか、突如として作られた。 武盾一郎氏の記録が正確だとするなら、それは「道の外観を良くするオブジェ」(『東京ジャーナル』)として東京都によって設置されたものだ。そして、アーチストとして西口地下道のダンボールハウスに絵を描いてきた武氏は、このオブジェに絵を描いたことで、「政治犯」として22日間の拘留を受けている。 明らかにホームレスの排除のみを目的としたこのオブジェについては、セキュリティ社会を論じる文脈のなかで、すでに度々論じられてきた。例えば五十嵐太郎氏はそれを「排除」という観点からのアーキテクチャー(「セキュリティ戦争の空間」『新現実』vol. 2)と呼び、北田暁大氏はそれを「環境管理
一通りソフトも入って、どうにかMacBookも研究用マシンとして落ち着いてきました。もはやG4そしてClassic環境に後戻りは不可能。 そこで次に辞書を入れようと考えた次第。 『リーダース英和』や『新和英大辞典』、『英和活用大辞典』あたりをすいすいインストールして、次にドイツ語辞典を入れようとしてハタと気づきました。 手持ちの『クラウン独和辞典』は、DTONICというビューアソフトがOS Xが出てない! しかもサポートの気もさらさらないようで、今では後継商品が堂々と「Windows対応」とうたっています。しょうがないからEPWING版を入手しようと思ったら、これが絶版! ちょっと調べた限りでは、三省堂が数年前にEPWING規格と手を切ったらしいんです。どんな「大人の事情」がそこにあったのかは知らないですが、困るのはユーザー。で、ネットの書店で色々探して、奇跡的に『EPWING版 クラウン
今回の捜査・逮捕劇で不可解なのは、なぜ今なのかという点である(少なくとも今日見たテレビではどの番組もそれを分析していなかった)。さらに言えば、今までホリエモンを泳がせていたのは誰で、それがどういう理由で今、彼を不要としたのか、ということでもある。 容疑の中味そのものはかなり前のもので、しかもそれが「違法」であることも周知であった。 すでにプロ野球の新規球団参入審査に落選したとき(2004年秋)に、(1)「時価総額」イコール企業価値という見せかけ、(2)「現金500億」は借入金を計上しない粉飾、(3)本業であるポータルサイトに実がない、という問題点が指摘されていた。 また有名な「ホリエモンの錬金術」 サイト(http://blog.goo.ne.jp/yamane_osamu/)も今から一年前には立ち上がっていて、2005年3月の時点で「第8期と第9期の有報を私なりの方法で分析した限りでは、
菊池誠の「ニセ科学入門」は、ニセ科学の代表例として血液型性格判断、フリーエネルギー(永久機関の存在)、マイナスイオン、波動をあげている(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_nyumon.html)。うちは前回買ったエアコンがマイナスイオン対応で、それ以来、今まで以上によく眠れるようになって感心していたが、マイナスイオンが存在しないなら、あの眠りは何だったのか、単に眠かっただけか、と思う。それはさておき、このうちの「波動」ブームの牽引者が、いま話題になっている「水からの伝言」の著者・江本勝である。 この「水からの伝言」問題によって、ネット上にはかつてないほどに「ニセ科学」問題をめぐる議論があふれかえっているが、それを大づかみに分類すると、大体以下のようなスタンスにまとめられるようだ。 [反対派]これは客
以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSFに携帯電話のイメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代のSFやアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。 もちろんテクノロジー的には携帯電話はトランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日本の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか? この問題に興味を持って以来、いろんな人と会う度に話題にしてきたが、そのなかから何となくヒントになることが浮かんできた。 それは、携帯電話によるコミュニケーションはそもそも人類に必要がなか
という会にシンポジウム・パネリストとして出ます。 11月19日と20日に東大駒場キャンパスで開催されるもので、私が出るのは20日の午前中、パネルC「近代の上演」というセッションです。 (チラシは以下からDLできます。http://www.repre.org/flyer.pdf) 内容の告知を送るリミットが過ぎているのですが、まだ思案中です。 タイトルを「可聴化されたネイション──音楽と《ドイツ的なもの》」としたので、本当はいろいろ話したいのですが、どうやら持ち時間(一人が話す分)が15分くらいしかないそうなので、トピックを一つか二つに絞ってお話しするのが良いかな、と思っているところです。何にせよ、ディスカッション重視というのは、いい傾向です。 タイトルはもちろん原武史さん(以前、音楽学会のシンポジウムでご一緒したこともある)の『可視化された帝国』を意識していて、ヘーゲルのいう「主客未分化」
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