サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
akanisin.hatenablog.com
三国志を好きになりはじめたばかりのある日のこと。 ふと図書館で「三国史記」なる本を見つけ、すわ三国志だと思って手に取ってみたら、三国は三国でもそれは朝鮮の三国史(新羅・高句麗・百済)だった―― という哀しき過去を我々は誰しもが抱えているわけですが、ついこの前、そんな昔の傷を思い出させる体験をしました。 それはうちの図書館の地下書庫でのこと、ハングル書架に並んでいたその本は『大三國誌』という題名で、「三国誌」と「後三国誌」それぞれ五巻から構成される全十巻の本でした。 著者は――あとで検索して分かったことですが――金龍済(三国誌担当)と趙誠出(後三国誌担当)という人で、1979年にソウルの平凡社(あの平凡社?)から刊行されたものだそうです。 その本を初めて見たとき、もちろん僕は「おっ」てなりました。「三国」という文字を見たら反応するよう、我々は躾けられておりますので、これは自然な反応ですね。し
*1 以前にブログに書いた京都大興寺の関帝像を、先日の三国志学会の折に見てきました。 通常は非公開なのだそうですが、NPO三国志フォーラムの清岡さんや教団さんがツアーを企画し、お寺さんとの交渉をしてくださったんで、スムーズに拝観できました。 それにお寺さんが大変親切な方でして、快く拝観を許可したくださった上、これまた貴重なお話をたくさん教えてくださいました。 皆さま本当にありがとうございました。 さてその関帝像、とにかく興味深い点がたくさんあり、僕もいろいろ考えてみました。 まず、いただいたパンフレットよりその解説文を紹介します。 関帝像は、三国志演義の関羽その人であり、関帝聖君ともいいます。中央には玉座に坐す関羽、左右の脇士は子の関平と関與(周倉)です。像高さは約八寸でいずれも玉眼入りの彩色木造です。 作年代および作者は不詳ですが、関帝と刻まれた額には、南宋武幹謹書とあります。縁起に尊氏
先週、宮城谷昌光の『三国志読本』をめぐって、ツイッターでもろもろの意見が飛び交いました。ひろおさんから始まり、僕が食いついたことで広まった話の様子は、ひろおさんの方でまとめられております。 http://3guozhi.jp/l/tn.html その中で、議論が飛び火したきっかけが以下のツイートでした。 「これはなかなか怖いことなのです。読者はみな『三国演義』こそが『三国志』だと思っていますから。逆に私の書くほうが嘘だと思われるかもしれない。連載が始まったころは、三国志ファンをすべて敵にまわすのではないか、という恐怖感さえ抱いたほどです」(宮城谷昌光『三国志読本』)— にゃも (@AkaNisin) June 13, 2014 これに対して、三国志ファンが正史と演義の区別を知らないかのような認識は古いとの批判が起こり、また一方では演義の再評価をする声も挙がりました。いずれもその通りだと思い
「関忠義」という三字は忠義将軍関羽ということなんだろうか。初めて聞く。 #建康実録— 六合 (@Rieg__Goh) 2014, 5月 19 これ見て(゚д゚)ハッとなりました。 どう見ても、乾隆帝のせいだと。 『清史稿』卷八十四 禮志三 關聖帝君にこんな一条があります。 乾隆三十三年、以壯繆原諡、未孚定論、更命神勇、加號靈佑。…… 四十一年、詔言、關帝力扶炎漢、志節懍然。陳壽撰志、多存私見。正史存諡、猶寓譏評、曷由傳信。今方録四庫書、改曰忠義。武英殿可刊此旨傳末、用彰大公。 関羽は景耀三(260)年、劉禅から「壯繆侯」と諡されていますが、後世にはこれが悪諡なのではという議論が起こりました。理由はけっこう複雑なのでおいときますが、とにかくその議論を受けた乾隆帝は、詔して関羽の諡号を「忠義侯」と改めるよう命じたのです。時に清代、関帝信仰の最盛期であります。 そして乾隆帝がすごいのは、単に諡号
ただの思いつきなんで、適当なこと書いてたらすみません。 趙雲って、びっくりするほど女性関係のイメージがない人物じゃないですか。 もちろん趙雲には趙統趙廣という息子がいますから、当然夫人だっていたはずです。当たり前です。 でもググってみると、たとえば「趙雲は生涯妻帯しなかった」とか「趙統は養子」だとかのイメージが浅からず広まっていることが垣間見れます。 それに身近な話でアレですが、前にいた大学院に『演義』を研究してる先輩がいまして、これが大の趙雲マニアでした。常日頃から「趙雲に奥さんはいない、結婚してない」って言うのです。趙雲研究で学会発表をしたほどの方がそうゆうのですから、きっとやんごとない根拠があるのだと思います。たぶん。 もちろん、繰り返しますけど正史『三国志』に基づけば、こんなのは荒唐無稽でありえない話と一蹴できます。が、現代の創作物などを見れば、どうやらイメージが存在する事実はある
ふと思うところがあって、「三国志大戦3」に登場した女性人物を調べました。 やたらマイナーな人物が多かったとプレイ当時も感じていたのですが、改めて調べてみると気になる傾向が見えてきました。 以下は、三国志大戦シリーズでの登場順に並べて一覧にしています。また、その人物のカードが大戦3で何枚あるか、どんなレアリティかも付け加えました。当然枚数が多いほど、レアリティが高いほど重要視されてる人物と言えます。 ver1から参戦の人物 ・王異〈4枚(SR、SR、EX、GSR)〉 ・郭皇后〈1枚(魏C)〉 ・蔡文姫〈2枚(UC、GR)〉 ・甄皇后(甄洛)〈4枚(SR、UC、R、R)〉 ・張春華〈4枚(SR、SR、UC、GSR)〉 ・卞皇后〈1枚(UC)〉 ・夏侯月姫〈2枚(C、EX)〉 ・甘皇后〈1枚(UC)〉 ・黄月英〈2枚(UC、GSR)〉 ・孫尚香〈4枚(SR、R、SR、EX)〉 ・糜夫人〈1枚(C
別の用事で『通俗三国志』の目次をぼーっと見てたところ、ちょっと面白いことを知りました。 三国与太噺 ‐『通俗三国志』目次(付李卓吾本) いわずもがな、『通俗三国志』は李卓吾本『三国志演義』を底本として翻訳したものですから、当然ながら目次の回題もほとんど李卓吾本を踏襲しています。ところどころ表現の違うところはあっても、言わんとしているところが同じなので特に気に留めなかったのですが。 しかしよく見てみると、表現の修正部分のほとんどは人物の呼び方にあることがわかり、しかもその修正には一定の決まりがあることに気が付きました。 圧倒的に多いのが、呼び方を「姓+諱」に修正している例です。大半を占めます。 たとえば、あざなを「姓+諱」に改めているものですね。 「曹孟徳謀殺董卓」⇒「曹操謀殺董卓」(『演義』第四回) 「趙子龍盤河大戦」⇒「趙雲大戦磐河」(『演義』第七回) 「呂奉先轅門射戟」⇒「呂布轅門射戟
長い分裂時代をへて久しぶりの長期統一国家となった唐では、自分たちがどの国家を継承しているかについてしばしば議論になったと聞きます。 そのことが二王三恪の制にも表れています。 (天寶)七載五月……以 魏、周、隋為三恪。 九載……、九月辛卯、以商、周、漢為三恪。 十二載五月己酉、復魏、周、隋為三恪。 ―『新唐書』巻五 玄宗紀 二王三恪とは、前王朝、前々王朝、前々々王朝を祀り、その子孫を賓客として遇する礼です。曹魏が漢の劉協を山陽公とし、また西晋が魏の曹奐を陳留王としたのはこの礼に依ります。 唐では、はじめは北魏、北周、隋を三恪としていましたが、のちにこれを殷、周、漢に改め、さらにまたもとの北魏、北周、隋とした、とあります。つまり北魏⇒北周⇒隋⇒唐を正統なる王朝の系譜とするか、殷⇒周⇒漢⇒唐を正統とするかで揺れ動いてる様子が見られます。 現実的に考えれば北魏⇒北周⇒隋⇒唐という王朝交代が当たり前
先日のBSプレミアム「ザ・プロファイラー」という番組にて諸葛亮が特集されていましたが、ご覧になられたでしょうか? 監修・解説はおなじみ渡邉義浩先生でしたが、個人的にはVTRで渡辺精一先生が出演されていたことにびっくりしました。二松でお世話になっていたので... さてその番組にて、諸葛亮ゆかりのものとして「孔明菜」が紹介されていました。冒頭で岡田くん黒田官兵衛が食べてたやつです。 あれはけっこう由緒正しいものでして、自分が以前に調べた限りだと、唐代の韋絢『劉賓客嘉話録』にその典拠があります。吉川英治がをいたく気に入って『吉川三国志』で紹介していたため、日本でもわりと知られている伝承です。 公曰、「諸葛所止、令兵士獨種蔓菁者何」。絢曰、「莫不是取其纔出甲者生啖、一也。葉舒可煮食、二也。所居隨以滋長、三也。棄去不惜、四也。回則易尋而採之、五也。冬有根可劚食、六也。比諸蔬屬、其利不亦博乎」。曰、「
DNA解析の結果、曹氏と夏侯氏の間に遺伝的一致はなかった、すなわち曹嵩は夏侯氏から養子に入ったのではなく、曹氏傍系の出身だったのだ。 そんな中国の研究が三国志界隈を震撼させています。 曹操出自の謎に完全決着というセンセーショナルなニュースは、いろんなニュースサイトで取り上げられてるみたいですし、僕はツイッターで話題になっているのを見て知りました。けっこうな三国志ファン、曹操ファンが、曹操と夏侯惇が従兄弟ではなかったということにショックを受けたみたいです。 すでに枕流亭さんやてぃーえすさんもブログで取り上げられてます。 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20131113/p1 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20131114/1384355146 ところで文献資料上では、曹嵩の出自はよくわかっていません。『三国志』武帝紀は「曹嵩の出自は明らかで
以下は立間祥介訳『三国志演義』第七十八回の一段落である。 頭痛に悩まされる曹操は、神医と称される華佗を辟紹して治療にあたらせる。以下を読んで問いに答えよ。 華佗の言うには、 「大王(曹操)の頭痛は風がもとで起こったものでございます。病根が頭の中にあるゆえ、風涎(病原体)を出すことができず、薬湯をもっては癒すことはできませぬ。それがしは、まずは痺れ薬をお飲みいただいたうえで、鋭い斧で頭を切り開き、風涎を取り除きまするが、これでのうては根治はかないませぬ」 「貴様はわしを殺そうというのか」 曹操が怒ると、 「大王には、かつて関公(関羽)が毒矢にあたって右臂を痛め、それがしが骨についた毒を削り落して療治いたしました時、恐れる色も見せなかったということを、お聞きおよびにはございませぬか。大王のご病気はさしたるものではございませぬに、それはちとお疑いが過ぎましょうが」 「臂を切り開くこともできようが
中村圭爾先生の「魏蜀正閏論の一側面」(『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013)収録)を読んだ感想であります。 習鑿歯『漢晋春秋』の蜀漢正統論は、『四庫提要』が言うように蜀漢と同様に亡命政権を建てた東晋の正統性を主張するため、と解釈されてきました。あるいは『晋書』習鑿歯伝の言う、桓温の野心に対する牽制ともされます*1。 でも中村先生は、更なる習鑿歯の真意に踏み込みます。自分が興味を感じたところをまとめますと、以下の通りです。 習鑿歯『漢晋春秋』は漢から晋の継承を主張する。魏は僭称にすぎず、また蜀漢は正統なる漢の一部である。しかし習鑿歯の真意はあくまで「尊晋」にあり、その点では陳寿『三国志』と同様である。共に「尊晋」を目的にしながら、陳寿は魏を正統とし、習鑿歯は漢(蜀)を正統とする。 陳寿が「尊晋」のために魏を正統とする理由は、司馬炎が魏から受禅したことを重視するから。しかし習鑿歯は、魏の
「わたくしは姓を胡、名を華と申します。いま息子の胡班と申すのが、滎陽太守の王植殿のもとで従事をいたしておりますが、将軍がもしあのあたりをお通りになるようでしたら、息子に手紙をことづかっていただけないでしょうか?」 ―『三国志演義』第二十七回「美髯公千里走單騎 漢壽侯五關斬六將」 この間、大東大の中国古小説研究会で、小川陽一先生の「明清時代の民間郵便事情」という講演を聞いてきました。 ご存じ中国では古代より文書行政のシステムが非常に発達しており、公的な文書伝達のあり方についてはかなり研究が進められています。しかし小川先生によれば、公文書とは対照的に民間の手紙伝達事情はあまり記録に残らず、研究もほとんどないとのことです。 古代で既に成熟していた公文書伝達に対して、民間の郵便システムは明清時代でも無いに等しい状態で、多くの場合は、個人個人がちょうど差出先へ行く人に委託するという原始的な方法に頼っ
水軍の中央は黄旗の毛玠と于禁、前軍に紅旗の張郃、後軍に黒旗の呂虔、左軍に青旗の文聘、右軍に白旗の呂通を配した。陸上の前軍には紅旗の徐晃、後軍に黒旗の李典、左軍に青旗の楽進、右軍に白旗の夏侯淵である。水陸路の接應使には夏侯惇と曹洪、護衛往来監戦使には許褚と張遼となった。 ―『三国志演義』第四十八回「宴長江曹操賦詩 鎖戰船北軍用武」 時は赤壁の決戦の直前、錚々たる魏の名将たちにしれっと混じっているこの"呂通"なる人物。『三国志演義』のこの一ヵ所にしか見られない謎の人物で、僕も昨日ひょんなことから見つけるまで全然知りませんでした。 最初は訳本の誤字だろうと思ってたのですが、『三国志演義』の原文を見てもやはり"呂通"。どの訳本にも"呂通"。渡辺精一先生の『三国志演義人物辞典』にも載っていましたが、しかし「この場面でのみ名前が見える人物」としか書いていない。かの沈伯俊先生の校理本ですら何も触れていま
『センゴク天正記』11巻、初期からの主要人物であった竹中半兵衛が陣没するこの巻は、かかる引用で締めくくられています。 秀吉の御座す平山に行きて六月中の頃 終に失せにしそかし、秀吉限りなく悲しみ劉備孔明を失いしに劣らずという 『豊鑑』 秀吉を劉備に、半兵衛を諸葛孔明になぞらえて秀吉の悲嘆を表現しているのですが、もちろん実際に諸葛亮が亡くなったのは劉備の没後です。さては何か深い意味があるのかと思い、この『豊鑑』なる史料を参照してみました。 (竹中半兵衛は)播磨にて死なんこそ軍場に命をおとすに同じかるべしとて、いまだなやみながら、秀吉の御座し平山に行て、六月中の此終に失にしぞかし。秀吉限りなくかなしび、劉禅、孔明を失ひしにことならず。 『新校群書類従』16巻(内外書籍株式会社、1928)収録、『豊鑑』巻一 このように、秀吉がなぞらえられていたのは劉禅でした。こちらの方が歴史的には正しいのですが、
・「三国与太噺」‐丈八蛇矛の分かればな ・「三国与太噺」‐和製蛇矛の曲がりばな その1 『絵本通俗三国志』によって広まってしまった三叉槍の蛇矛。 では、日本の蛇矛が「曲がりはじめる」のはいつ頃なのでしょうか。 そこで注目しましたのは、『絵本通俗三国志』に匹敵する影響力を持つこの作品。 ご存じ横山光輝『三国志』です。 *1 しかし本作でも「蛇矛」ではなく、大薙刀になっていました。 「横光三国志」の連載開始は1971年。聞く話だと、当時は日中関係の問題から資料面で苦労されたとのことですが、逆に言えば、資料がなくては「蛇矛」が描けないほど未だ日本に「蛇矛」のイメージが乏しかったことを窺わせます。 また、横光に遅れて79年から刊行された、久保田千太郎・園田光慶『三国志』においては、 *2 『絵本通俗三国志』の影響と思われる「三叉槍」になっていました。 これらを見る限り、70年代に至ってもまだ「曲が
蛇矛(だぼう、じゃぼう)は、柄が長く、先の刃の部分が蛇のようにくねくねと曲がっているため、そう呼ばれる矛。 ―wikipedia‐「蛇矛」の項 『三国志演義』張飛の得物が「穂先の曲がりくねった長矛」であることはもう言わずもがなであろうと思います。 ところが今回の『三国志研究』に載ってます上原究一先生の「丈八蛇矛の曲がりばな」は意外な論文でした。 そもそも語源的に「蛇矛」に蛇の意味はなく、"蛇"の字が音通によるものであることは先行研究で既に指摘されるところだそうです。 それが後に"蛇"の字に引きずられる形で「蛇のように曲がりくねった刃の矛」という意味に変わったのでしょうが、そこで歴代『三国志演義』の挿絵を見てみれば、実は張飛が「曲がりくねった矛」を使っている挿絵はほとんどないんだそうです。 上原先生の結論としては、『三国志演義』における「蛇矛」とは「一丈八尺ほどの柄の長い矛」という意味であり
『演義』における龐徳の最期は、みじめに降伏した于禁と違い、堂々と関羽と戦い、そして曹操への忠義で死んでいった・・・とずっと思っていたのですけど、どうやら違うらしいとのウワサを最近聞きました。 そこで、現在の『演義』を編纂した毛宗崗が、この件についてどう評価をつけているかと思ったら、それはもう罵倒と皮肉の数々でした。正確でない部分があるかもしれませんが、以下に挙げられるだけを紹介します。 龐徳は彼なりの忠義を貫いて死んだのだ――漠然とそう思い込んでいた方としては、とてもびっくりしました。 馬超はすでに関羽と共にあるのだから、龐徳が関公と戦うということは、すなわち主に背くと言えないことがないだろうか? 馬騰に背いて曹操に降ったと言うのに、どうして曹操に背いて関公に降れないということがあろうか。 龐徳の死に、君子が習うものはない。 戦場で死んだのならば、ただ馬の皮でもって死骸を包むのみであり、ど
←これ このかぶりものは「冕冠」と言うそうで、じゃらじゃらしてるやつを「旒」と言うそうです。たぶん。 冕冠、垂旒、前後邃延、玉藻。……冕皆廣七寸、長尺二寸、前圓後方、朱䖝裏、玄上、前垂四寸、後垂三寸、係白玉珠為十二旒、以其綬采色為組纓。三公諸侯七旒、青玉為珠。(『後漢書』輿服下) それによれば、アレの本数は身分によって異なり、天子なら12本、三公諸侯ならば7本なのだそうです。 なので、左の劉協を見てみてください。数えにくいですけど、なるほど12本です。 そして、上画像と同じ話に描かれている曹操の冕冠を見ますと、 ちゃんと劉協より少ないです。6本というと『後漢書』の記述とは異なりますが、、 このように王欣太さんは、おそらく冕冠を知った上で描き分けていたんだと思います。 もう少し具体的な話をしましょう。 この画像は劉備が漢中王に封ぜられたときのものですが、 旒は7本です。諸侯は「七旒」という『
「四世三公」と言いますけれど、それはつまりどれくらいすごいのか。 たとえば弘農楊氏は「四世太尉」ですし、蜀郡趙氏も四代続けて宰相格を出してますし。割といるんですね。 だから袁家にしても、そこまでめちゃすごいって訳ではないのかなって。 ということが気になったので、後漢において「複数の三公を輩出した家系」はどのくらいあるのか、挙げてみました。 1位 汝南郡汝陽の袁氏 袁安…司空⇒司徒 袁敞…司空 袁湯…司空⇒司徒⇒太尉 袁逢…司空 袁隗…司徒→司徒 袁紹…太尉⇒大将軍 計6人、のべ12人もの公とひとりの皇帝を輩出した汝南の袁氏がダントツの1位です。 やっぱり「四世三公」は伊達ではありませんでしたw この他でも九卿などの高官もたくさん出しています。 明帝期に現れた袁安から後漢末の群雄袁紹まで、およそ150年に渡る息の長さってのも他を寄せ付けません。 2位 弘農郡華陰の楊氏 楊震…太尉⇒司徒 楊秉
一年くらい前からずっと下書きに保存されていた記事です。(´・ω・`) そのうちちゃんと書ききろうと思っていたんですけど、面倒くさくなったのでぶっぱなしました。(´・ω・`) 【鹿蜀】 又東三百七十里,曰杻陽之山,…有獸焉,其狀如馬而白首,其文如虎而赤尾,其音如謠,其名曰鹿蜀,佩之宜子孫.(南山経第一) 馬に似ており、首は白く、虎のような文様があり尾は赤い。鳴き声は歌うようであり、佩びると子宝に恵まれる。 作中においては飛行する馬、あるいは鹿。縞がある。 目立った登場はなく、『図南』で一行の剛氏である近迫の騎獣*1と、恭に護送される祥瓊が乗っていた騎獣*2の二か所だけだったと思います。 『山海経』の挿絵はこちら。*3 【蠱雕】 又東五百里,曰鹿吳之山,…有獸焉,名曰蠱雕,其狀如雕而有角,其音如嬰兒之音,是食人.郭璞云:「蠱或作纂.」 (南山経第一) 雕はワシ。『月影』で幾度となく陽子らに襲い
1939年8月26日より中外商業新報などで連載を始めた吉川英治『三国志』ですが、それに先だって24日の夕刊に新連載の予告記事が出されていました。 作者が、新聞社が、この新連載をどのように考えていたかアピールしようとしていたか端的に窺えて、なかなか面白いです。戦前の大衆三国志観、大陸観が見え隠れしてるかなーって感じですね。 以下に全文を紹介します。太字はにゃもです。 長らく愛読を賜りました子母澤寛氏の「女夫系図」は好評裡に明日完結致しますので続いて、吉川英治氏の「三国志」を以て夕刊第一面を飾ることになりました。 呉、蜀、魏の三国鼎立に纏るこの大歴史小説「三国志」は、大衆文壇の第一人者吉川氏を得て新しい興味と感銘を盛ることと信じます。背景は今や皇軍活躍の天地、新東亜の建設と併せ考えて頂ければ興味は倍増することと思います。挿絵は南画壇の重鎮たる矢野橋村画伯にお願いしました。画伯の枯淡、雅到に富む
劉封はもと羅侯の寇氏の子にして、長沙劉氏の甥なり。 先主荊州に至り、未だ継嗣あらざるを以て封を養い子と為す。 自分これまで劉封の出生を「羅侯の寇氏の子」「異姓養子」という印象を強く持ちすぎて、長沙劉氏の甥であるという設定を完全に見逃していました。関さんが余計なこと言うから・・・。 ですから異姓養子と言えども実際には―ツイッターでT_Sさんに指摘していただきましたが、「母族の養子になってその母族の跡を継ぐ」という、当時ではそう珍しくもない事例だったんですね。そして養子にした当時には劉備に子がおらず、またその後にも嫡子はとうとう生まれませんでしたから、劉封にもワンチャンスがあったかも知れませんね。 ところで気になるのは劉封の母方系統「長沙劉氏」です。 長沙で劉氏とは言わずもがな、景帝の皇子、長沙定王劉発を思い出させます。その傍系から光武帝や更始帝が出た、あの長沙王家です。 長沙王家は後漢初まで
『三国演義』の各版本によって、長坂橋で張飛に大喝されて落馬する人物が「夏侯傑」と「夏侯覇」とで異なっているらしいけどそこんところどうなのか。 というネタを先日いただきまして、大学に行ったときに見て参りました。追記で示しているように十種ほどの版本で参照することができました。版本それぞれの系統や関係はリンク先記事をご覧ください。 結論から言ってしまうと、毛宗崗本のみ"夏侯傑"であり、その他ではすべて"夏侯覇"でした。 となると恐らくは毛宗崗が初めて夏侯傑に改めたのでしょうが、しかしそうだとすると何故毛宗崗は夏侯傑に改めたのでしょう?夏侯覇は後に蜀勢力として奮戦してますので、このような"かませ"は相応しくない、といったところでしょうか。 ではそもそも逆に毛宗崗以前では、何故そんな夏侯覇をこの役に起用してしまったのでしょう?このようなやられ役こそ、夏侯恩や夏侯徳など『演義』お得意のオリジナル夏侯氏
・「てぃーえすのワードパッド」‐平原王と平原侯(2011/4/4) ・「てぃーえすのワードパッド」‐曹叡って(2008/12/15) ※参考 曹魏諸王公一覧 曹叡は黄初二年に斉公、黄初三年に平原王に封じられていますが、たとえば漢の明帝や魏の文帝など、普通では太子が封建されることはありません。 甄夫人の誅殺が黄初二年、曹叡が魏王朝から最初の爵位(斉公)を与えられたのも黄初二年。庶長子曹叡が封建されたということは、おそらくこの時点での曹叡は太子候補から(表向き)脱落していたのではと思います。 それに対して曹蕤は、兄弟で唯一文帝期に封建されなかった人物です。 北海悼王蕤、黄初七年、明帝即位し、立てて陽平縣王と為す。太和六年、北海に改封す。青龍元年薨ず。 文皇帝の九男、甄氏皇后は明帝を生む、李貴人は贊哀王協を生む、潘淑媛は北海悼王蕤を生む、朱淑媛は東武陽懷王鑒を生む、仇昭儀は東海定王霖を生む、徐姬
これまでぼくは、曹叡とは正妻の子ながら、母が死を賜ったために不遇を受け、しかし最終的には後継ぎに収まる、といったイメージを思い込んでいました。 しかし今朝の記事で甄氏はあくまで妾のひとりに過ぎず、曹叡は嫡子ではなく庶長子である可能性を書きました。今度は、本当に曹叡は長子だったのか、ということについて考えました。 というのもそもそも彼の字は元"仲"じゃないですか。曹叡と言えば長男と言う先入観があったため、何故長男なのに次男っぽい字なのだろうかと前から不思議で、史料に残らず夭折した長兄でもいたのだろうかと思っていたのですが、普通に考えたらこの曹協こそが曹丕の長男だったのではないでしょうか?ってヤフー知恵袋が言ってた 贊哀王協、早薨す。太和五年、追封し諡して曰く經殤公。青龍二年、更に追て號諡を改む。三年、子殤王尋嗣ぐ。正始九年薨ず。子無し。國除く。(『三国志』贊哀王協伝) 早薨したという曹協の没
北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、 などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。 ●吉川三国志と『三国志演義』の関係 吉川三国志は随所随所にオリジナルを仕込んでいますが、基本的にはほぼ『演義』をなぞって書かれております。 序文に曰く、 「私は、(三国志の)簡訳や抄略をあえてせずに、長編執筆に適当な新聞小説にこれを試みた。」 「原本には「通俗三国志」「三国志演義」その他数種あるが、私はそのいずれの直訳にもよらないで、随時、長所を択って、わたくし流に書いた。これを書きながら思い出されるのは、少年の頃、久保天随氏の演義三国志を熱読して…」 「本来、三国志の真味を酌むにはこの(久保氏の)原書を読むに如くはないのであるが、今日の読者にその難渋は耐え得ぬことだし…」 ところが面白いことに、現代では吉川三国志ならびに横山光輝三国志
作中の出来事そのものではなく、作中の出来事の周辺にある、因果関係がありそうなものを選びました。 とは言えそれでもほとんど網羅しているはずです。 また特に60年代と70年代の区切りを意識しながら作りました。 作中での時期と、作品そのものの初出は以下の通り ※1970.8.8〜26 『風の歌を聴け』(初出:1979) ※1973.9〜11 『1973年のピンボール』(初出:1980) ※1978.9〜11 『羊をめぐる冒険』(初出:1982) ※1974.4〜19??.11 「双子と沈んだ大陸」(初出:1985) ※1983.3〜6 『ダンス・ダンス・ダンス』(初出:1988) 1879.アイヌの青年ら開拓団が十二滝町へ至る(羊) 1905.羊博士誕生(羊) 1909.デレク・ハートフィールドが生まれる(風) 1913.先生が生まれる(羊) 1922.アイヌの青年が亡くなる(羊) 1925.先
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『三国与太噺 season3』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く