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猫
flapjack.hatenablog.jp
id:kmiura:20031210とid:sivadさんにいただいたコメントに対して。 id:kmiura:20031210#p1でクリッピングされてましたが、結局「明らかに日本では憲法よりも国際条約のほうが優先する国家である」ということなんでしょうね。それが完全に明白になった。それはkmiuraさんの言葉を借りれば、「非線形力学とかカオス理論でいう「分枝」の大きな分岐点をすぎた」ということでしょう。 それは容易なことではかわっていかないでしょう。けれども、法を大事にするという原則をなくすると、議論は積みあがらないままです。 なによりもそれがもたらす息苦しさが嫌だ。結局、何をいってもどうにもならないだろう、という日本のニヒリズムを僕は嫌悪する。再び、kmiuraさんの言葉を借りれば、ネット上にみられる「当事者感覚の喪失ぶり」、川上直子「セカンド・カップ」ダイアリーが ってかなんてか、昨日
先月、一年ぶりにヨーロッパのある国でひらかれた学会で発表した。いつものことだが(今回は80人の参加者中)日本人ひとり。尊敬する研究者たちを目の前にしてしゃべり、そのあと彼等から笑顔で握手を求められる。非常にうれしい。その場になってみれば緊張はしなかった。多少ゆっくりしゃべっても時間オーバーしないぐらい、おもいきって刈り込み(それは非常につらい作業で極度の寝不足になったが)自分のいいたい論点を明確にできたので、早口になることもなく余裕をもってはなせた。やはり早口はいかん。あるアメリカ人の研究者の発表は僕がおもうにとてもよい内容だったが、早口すぎて多くの人々に十分に理解されず不評をかこっていた。最初にかましたジョークがうけたのもよかった。やはり早い時点での笑いは重要。 他のひとの発表からいろいろ刺激をうける(でもダメなのもある)。こういうところにきて、自分も含め研究者たちの関心がいくつかの方向
某月は学会シーズンで初めて出席したものもふくめていくつか参加した。何度も出席したことがある学会で聞いた個々の研究発表のレベルは、もちろん当たりはずれはあるものの総合的には上がっていると思う。 しかし、出席したどの学会でも、個別の研究報告ではないシンポジウムのほうはその質がてんでばらばらだった。つまり、全体として一定の水準が保証されているとはとてもいいがたい。 一般論として、以下この点を述べてみる。 一定の水準といったがこれには二つの側面がある。一つは、そのシンポジウムの個々の発表のレベルであり、もう一つは、シンポジウム全体としての整合性・かみ合わせかたのレベルである。シンポジウムという形式をとるとき、この両方においてとたんにその質が保証されなくなる。 まず、前者の個々の研究発表レベルでいうと、そのレベルでは密な仕事をだす人がシンポジウムのレベルでは非常に雑駁なレベルの発表をすることがよくあ
今、どうしても時間も体力も気力も割けないので、一般論をつぶやく。 自分の言い分(の結論)は明示せずに、しかし論争相手はそれを理解するよう要求するという書き方は好ましくない。 論争相手はそれを深読みし、さらに、それが相手の意図としているところか定かでないまま、その意図を書くことをせまられる。 それを見た上で「それは私の意図しているところではない」とか「そんなことは自分はいっていないのに、勝手に深読みされてしまっている」とかというのは非常に簡単だ。 もちろん議論の最初期にこう述べざるをえない場合はある。 しかし、同じ相手と議論を続けていくなかで、こうした意味のことを言い続けるのであれば、相手に加重な負担を強いるフェアではない議論の仕方である。
ブルーバックス2点を回収・絶版への件について。 http://shop.kodansha.jp/bc/books/bluebacks/oshirase.html 朝日新聞の記事で重要なのは以下の部分。 巻末に参考文献として挙げてはいたが、本文中に引用個所の明示がなかった。 「巻末に参考文献として挙げてあるから引用箇所を明示していなくても剽窃ではない」という考えは通用しない、ということである。 ポピュラー・サイエンスの本だからこの基準は緩くてかまわないのではないか、という考えがあるかもしれない。しかし、ポピュラー・サイエンスの本であるからこそ、余計にこの基準は厳守される必要がある。 サイエンス(これに文系学問を加えても)の本質は、手続き的厳密さである。ポピュラー・サイエンスは、科学の知識とそのおもしろさをわかりやすくつたえることだろうけれども、だからといって、基本的手続きをおろそかにしてもよ
http://d.hatena.ne.jp/zappa/20051202#p3 http://d.hatena.ne.jp/zappa/20051203#p1 禿同。英語(あるいは欧米言語)で書くときはこれ。 この話は、実は、英語から日本語への翻訳にもつながっている。 http://albion.main.jp/memo/archives/2005_10_12.html をごらんいただきたい。 昨日書いたことについて少し書き直したいのだが、時間なし。 ++追記++ PDFファイルにまとめられたようで。 http://d.hatena.ne.jp/zappa/20051208 ダウンロードしませう。
すでにbewaadさんが論じられているように、今回の自民党がこれだけ議席を獲得したのは、小選挙区制がその制度的特性をもろに発揮した結果だ。その小選挙区制はイギリスを見て導入したものだと覚えている人も多いだろう。 さっき、90年代の終わりごろにイギリスで友人としゃべってたことを思い出していた。たとえば、わかりやすい例として山口二郎北大教授はこういっている。 自民党が結党以来半世紀守ってきた再分配の政治は確かに崩壊しつつある。これをそのまま温存することは無理である。自民党流の再分配政治は、腐敗、無駄、官僚の既得権など多くの弊害をもたらした。ここで問われているのは、再分配そのものを否定するのか、仮にそれを維持するなら新たな再分配の仕組みをどう打ち立てるかという点である。小泉自民党はユートピア主義的な市場中心主義で国民の支持を得ようとしている。これに対抗する民主党や造反勢力が、効率的で公正な再分配
やっぱり外堀だけ埋めてほっとくのはよくないか、と思い、昨日のエントリー(id:flapjack:20050906)の続きを書く。 今度BBC政治部長に選ばれたニック・ロビンソンは、タイムズ紙にNick Robinson's Notebookというコラムを連載していた(ここ:写真も拝める)。最後の回は6月25日だが、そこで、ITVからBBCに移るにあたっての弁がある。このコラムの最後の二段落だけ訳してみよう。 私がBBC政治部長に選ばれたことに対する人々の反応は、いってみれば、賛否両論だった。国会議事堂で私はトニー・ベン(2001年に引退した労働党ベテラン大物前議員)に出くわした。彼は目を輝かせ、力強く私の手を握り、「非常に重要な仕事」を得たことを祝ってくれた。彼は言った。「君は、首相官邸の外に立って、10分前に首相官邸の中で聴いたことを世界にむかっていうんだ。私は、それを《埋め込み取材》*
総選挙になると決まってから日に日に、いやーな感じがおなかにたまってきて、非常に気分がわるい。ここに何か書こうと思っても、そのいやーな感じについて触れざるをえなくて、でもそういう感じでは書きたくなくて。なんか、書き込みに行った先でも、無駄にいらついてる感がでてるような気がするし。あー。もう、ええわ。吐き出してしまえ。 マスゴミ。仕事に没入したりしてシャットダウンしようとしても、選挙のことについて見聞きしないわけにはいかないような状況で、で、テレビをつければ、あるいは新聞を読めば、なんやら、むかむかしてきてどうしようもない。 夜にたまたまモスバーガーにはいったのだが手元に読むものがなく、おいてあった朝日新聞を手にとると、北川知事(まだ知事だっけ?)と誰かどっかの大学の人が対談している頁があった。二人はマニフェストについて話していて、それはいいのだが、司会の立場にある記者だったか論説委員が途中で
台風一過。部屋から富士山がくっきりと見える。ひさしぶりだ。 Jane Stevensonによる「イエズス会士再訪 Jesuits revisited」というガーディアンの論説。この中には一度もイスラム教徒が言及されていないが、500年前のカトリック教徒急進派と現在のイスラム教徒急進派が重ねあわされている。要約・部分翻訳する。 ヘンリー8世による「宗教改革」を経て、イングランドはカトリックの信仰を持つことを禁じた。だが、当然ながらカトリックの信仰を維持しようとする人々は存在しつづけた。そういう人々のネットワークの中心には、カトリックのなかでも急進的なグループでだったイエズス会士たちがいた。当時のイングランドの政府にとって、カトリック教徒はすなわち外国勢力(とくにフランス)による国家転覆に繋がる危険な存在だった。なかでも、イエズス会士たちは、今のイギリス政府の言葉をつかえば内なる「テロリスト」
連れと近くの図書館で落ち合ったとき新着雑誌をなんとなくぱらっとみてたら、小澤俊夫編集『子どもと昔話』という季刊小雑誌が目にとまる。小澤俊夫は昔話研究でしられる碩学である。2000年に白百合女子大を引退され、今は小澤昔ばなし研究所(website)を主宰されている。昔ドイツ語を先生の授業で習ったことがあり(語学初級の授業としては最高の授業だった)なつかしかったのだ。手にとったのは最新号である24号(7月20日発行)だった。ある頁で、次号25号への掲載予定の内容が地味に予告されていた。小沢健二による小説〈うさぎ〉が連載開始されるとある。知っているひとは知っているが、先生は小沢健二の父である(小沢征爾の兄でもある)。というわけで、オザケンの動向が気になる人は、この雑誌次号(10月発行予定)をチェックするのがよいかも。 追記訂正:アクセスがすごいことになってます。知ってる人は知ってんだろな、と思い
数日前にこのニュースを聞いたときはかなりショックだった。スコットランドで山歩きの途中に心臓発作で死去。何度もここで書いているが、彼のイラク戦争に反対する閣僚辞任演説(これは訳さねば)は歴史に残るだろうし、フランス・欧州憲法否決の際に彼が書いたガーディアン論説にもふれた(id:flapjack:20050606#p1)。秘書との不倫から再婚へとタブロイド的に大騒ぎされたが(僕のイギリスの友人の一人は「あんな不細工な人のことを好きになるなんて信じられない」といっていたw)、しかしこと政治弁論・ロジックという点では彼を上回る政治家を見つけるのは難しいだろう。 ロビン・クックは、ゴードン・ブラウンが首相になった暁には閣僚として内閣にもどってくるだろうと思われていた*1。その日が見られないことは非常に残念だ。 ロビン・クック(イギリス前外相)2005年8月6日死去。 ガーディアンのオビチュアリー(死
今日のガーディアンの社説(Leader)(3本のうちの最後) http://www.guardian.co.uk/leaders/story/0,3604,1098422,00.html いっとくけど、これ、イギリスを代表する新聞の「社説」だよ。すばらしい。 汝の敵を知れ。 「わかりやすい英語」について ドナルド・ラムズフェルドは、多くのことのかどで、批判されうる。しかし、この合衆国国防長官を、英語の使い方のかどで批判するのは違う。「わかりやすい英語運動(The Plain English Campaign)」は、今週、ラムズフェルド氏が今年記者会見で述べた以下のコメントに対して、本年度の「口に足(Foot in Mouth)」賞を贈ることに決めたのだが、同運動はそうすることで運動自体の価値を下げることになった。ラムズフェルド氏のコメントは以下のとおりである。 何かが起こっていないというレ
読書能力の発展段階を<①論理を追うほどの能力がないので、適当に名句のようなものを探し当て、そこだけに過剰反応する>→<②論理が追えるようになり、ついつい性急に結論部を探してしまう>→<③全体が見渡せるようになり、細部をじっくり楽しむ余裕ができるようになる>というふうに三段階に分けるとすれば<以下略> そのとおりだなあと。この場合E.H.カー『歴史とは何か』という名著について書かれているわけだが、概説書とか教科書についても同じようなことがいえるような気がする。もちろんその概説書というのも分野によっていて、経済学とかだと、初級をきっちりマスターして次、みたいなふうに段階を追っていく必要があるのだろうけど、人文系だとそういうわけではないというか。もとの少し話がずれるのだろうけれども、ちょっと書いてみよう。 自分のことを振り返ると、人文系の概説書/教科書というのは初心者が読むべきものとされているの
昨日のエントリー(id:flapjack:20050603#p2)で EUをひっぱる政治家たちが民衆の不安に対してまともに対応してこなかった という分析がでている話をかいたけど、土曜日の論説でもスラヴォイ・ジジェクがこの点をさらに強調している。 彼の論説のタイトルは、欧州憲法は死んだ。まともな政治よ、永遠なれ。以下、要約しつつ訳してみたけど、かなりポレミカルだなあ、と。 真の(とはいってないけど)左翼は、政治エリートとかメディア・エリートと同一化しちゃあまずいでしょ、むしろ欧州憲法の国民投票はまともな選択肢を示していなかったわけで、むしろ否決することによって、ヨーロッパとはどうあるべきかについての、まともな政治的議論を再開することができる、という内容。id:fenestrae:20050604#TCEDepartAuTourの話とダブっているところもあるのでぜひそちらも。 アーミッシュ派の
東浩紀(id:hazuma)氏のところの日記で記された出来事については周知のことだし、自分はこの件それ自体について何の感想もない。ただ、彼のシニシズムについての以下の発言そのものについて僕は深く同意する。 要は、村社会というのは、決して「おれたち村を作りたい」というストレートな(動物的な?)欲望で作られるものではなく、「村ってキモいよね」とかいうシニカルな連中こそが実はいちばん村社会を作りやすくて、日本ではそういうシニカルさが妙に発達している、という話なんだけど。まあ、それはそれで、日本社会独特の個人主義というか懐疑主義や反権威主義の基盤になっているのでいちがいに否定できないんだけど、シニカルさの発達がある世代の生産性をかなり奪ってしまったことも事実。 イギリスに来てからまる5年以上が過ぎた。で、自分が日本について知っていることと同じくらいはとはいわないが、それでもかなりイギリス社会のあり
少し前に、非常勤先の授業で、レポートを課すけれども、剽窃plagiarism厳禁、発見されたら(これがなぜか結構簡単にわかる)即落すと述べた上で、では剽窃とは何かということについて話す。 剽窃とは、他人の考察・分析を引きながら、それに対する出典指示(reference)を示さずに(結果的にせよ)自分の考えとして提出することと言う。だから「自分の考えを述べよ」というと、少しわからない顔をする学生がいる。学部時代の自分を振り返りつつ(かなり遠くの過去になってしまったが)考えると、「自分の考えを述べなさい」というのを「オリジナルな考えを述べなさい」と聞いてしまう極端な傾向があった気がする。そんなものは本当は要求されていないのだが、そう聞こえてしまう。それは自分=個性=オリジナルといった、凡庸な、しかしあまりにも強力な80年代末期以降(?)のイデオロギー作用のためだろう。 しかし「オリジナルな考え
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