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大谷翔平
king-biscuit.hatenadiary.com
氷河期ロスジェネ世代の「勝ち組」のネオリベ原理主義的になってゆくのって、熾烈な競争に生き残ってきた経験からくる身の守り方ではあるんだとおも。殊に学歴その他で優越性持ってたりした分、なんでこの自分がこんな目に……的鬱屈は傍目よりずっと発酵して拗れとる可能性が高いような気がする。— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) January 11, 2020 氷河期ロスジェネ世代の「勝ち組」のネオリベ原理主義的になってゆくのって、熾烈な競争に生き残ってきた経験からくる身の守り方ではあるんだとおも。殊に学歴その他で優越性持ってたりした分、なんでこの自分がこんな目に……的鬱屈は傍目よりずっと発酵して拗れとる可能性が高いような気がする。 一般的な労働者とは意味も文脈もまた違うんだろうが、大綱化以降のポスドク野良博士で非常勤渡世や任期付き縛りをくぐりぬけて何とか片隅のポストにありつい
1970年を「まだ飢えと欠乏への恐怖が社会に幅広く共有されていた頃」というのは、ちょっとどうかな、と……「まだ飢えと欠乏の記憶が社会の多くの大人の間にあった頃」くらいかなぁ……(*゚ー゚) https://t.co/fBy2BTWYqr— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月10日 1970年を「まだ飢えと欠乏への恐怖が社会に幅広く共有されていた頃」というのは、ちょっとどうかな、と……「まだ飢えと欠乏の記憶が社会の多くの大人の間にあった頃」くらいかなぁ……(*゚ー゚) すかいらーくは1970年創業、敗戦から25年、まだ飢えと欠乏への恐怖が社会に幅広く共有されていた頃。安くて美味しい料理という一言にどれだけ多くの人々が惹かれたかわからない。元々は小売業なので、良品廉価というのは創業者の横川四兄弟にとって疑いようのない共通のテーマだったと思う。 東京オリ
「なつかしさ」とは別なモードになって初めて、文化史や風俗史は成り立つものかも知れない。逆に、「なつかしさ」を駆動させておかない・おけないジャンルだと、資料が失われやすいのかも知れず。このへんパラドキシカルに思えるかも知れないが、案外見逃されているポイントかも。 「なつかしさ」が素直に同時代の気分として稼動している間は、直近の記録が残されやすいのに対して、それが一定の期間を過ぎ、「なつかしさ」を親身に覚える世代が世の中から退場し始めるようになると、それに比例して残される記録のタイプも変わり、またそれら記録に対する意識の仕方も変わってくるような。このへん、「現代史」というもの言いに関連してこれまでもあれこれ議論が繰返されてきたあたりのこととも関連するかと。「歴史」はどこから始まるのか、またあるいは、どこまでが「現在」でそこに「歴史」はどのように介在し得るのか、とか。 「歴史」のための資料、記録
「なんだ古谷か」で済むコラムですけど、麻生政権頃の「ネトウヨの言う事はだいたいおかしい」時代から、「リベラルと名の付く連中はだいたいおかしい」に至るまで思えば遠くに来たもんだ感が。https://t.co/ce1uk29Uai— bibibi (@burubur56030897) 2019年9月21日 古谷ってぇとあれかい、ツネヒラかい、とおもたら違った。こっちだ。「パブリック・ソシオロジー」のねえちゃんだ。 news.yahoo.co.jp まあ、近年「社会学」の看板を毀損しまくっとるアレな界隈のおひとりということで。 にしても、まあ、どうしてこういう人がたが揃いも揃って「リベラル」を標榜しとらすんだろう、というのは素朴にギモンではある。てか、ウソでもそれなりの学問的背景なり何なりをほのめかしてものを言うたり書いたりしとらす以上、その「リベラル」の内実についてもまたそれなりの見識があって
自殺したい人々 (宝島SUGOI文庫) 作者: 別冊宝島編集部出版社/メーカー: 宝島社発売日: 2008/09/18メディア: 文庫 クリック: 74回この商品を含むブログ (2件) を見る かつての別冊宝島のうち、文庫化されてたりするのがなにげにあったりするんだが、そのうちのひとつに、これはちとわけありだったこともあり、その後単行本に収録されないままだった某精神科医との対談が入っているのに気がついた。で、その中身が今の時点でも、というか今の時点だからこそ、なのか、何にせよいろいろ示唆的だったりする気がするので、そのセンセイの発言の部分を中心にいくつか抜粋して備忘録として。*1 「「ひきこもり」にしても親がカネ持ってるからだと思うんですよね。つくづく高度経済成長というのはとんでもない富の蓄積やりやがったなと痛感するんですが、未だに我々はその時期に貯えた富で喰って、それをさらに普遍的で抽象
*1 おまえら、あの界隈こんなこともやっとったの、もう忘れとらんか?(´・ω・)つ 「東浩紀さんが“福島第一原発麻雀化計画”の件で炎上」 https://t.co/S9LaFhRuKb— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) August 6, 2019 「内輪」の制御が初手からできとらん上に、そもそもその「内輪」の密度や内圧自体がショボいもんでしかないのと、さらにそもそもそのこと自体に自覚がないまんま、という三重苦複合汚染なわけで、な。 「【速報】24日から29日まで6日間だけの開催だった福島第一原発観光地化計画展、入場者584人。再入場を数えたら600人をはるかに超える入場者がありました!自画自賛になりますがこれは大成功。美術業界だけでなく、東電、原子力産業関係、被災者など多様な方に訪れていただきました。」 「なんといっても話題を呼んだのはカオス*ラウンジの新作
*1 自分の過去からブーメランが刺さるんだけど、学生でフォロワー多くなるとキツいもんがあるな。SNSはいやおうなしに「未熟で愚かな時分」を可視化されてしまうんで、なるはやでバチっと躾けられるタイミングが来ないと厳しい感じになり、その機会は今後ますます乏しくなっていきそうだ。— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー)🌤️ (@terrakei07) 2019年6月10日 えらてん師匠に最後絡んでた大学生に必要なのはお勉強とかではなくて、「他罰性を叱ってくれるちゃんとした大人」なんだけど、そういうのはもうハラスメントとして回収されるのでなすがままに怪物になるルートが保証されてそうでキツいな。他人事だからどうでもいいっちゃいいんだが。 立場が偉くなると周囲に叱ってくれる人がいなくなってオッサンはバグるけど、これからは大学生(とくに若い女子)もかなり偉そうなオッサン同様「
ヤヤネヒロコ⚡️南ニ30b on Twitter: "上昇婚論の本質、「女が選ぶ側なのは薄々察してるけど基準がはっきりしないからイライラする」なのではという気がしてきた。" *1 数年前に岡田斗司夫氏が言っていたのですが、氏の知り合いの女性編集者、口々に「普通の男でいいんだけど」と言うんだけど、実のところ「それなりの定職についていて、身ぎれいで、友達に紹介出来て…」という、総合すると「割とイイめの男」ということをかなり突っ込まないと認めないという話が。 オールCみたいな野球選手、本当にいたら年俸2億は固い(断言)。「イライラする」みたいな表現はかなりわかって、「お前ら正直に条件を言え、フェミニズムの教説は禁止な」みたいなイラッとする感覚はこの手の議論では割と何回も思ったことがあり。 なにがしたいのか言語化できてないとそら失敗するわな、というね。フワッとした「よきコト」志向を満たすにはあなた
50代アラカン新人類世代のリベサヨ転向左旋回問題。TLに浮上してくる頻度が今年になって、にわかに高くなってきたような印象がひしひしと。 いやしかしまあ50代後半ぐらいの「新人類世代」におサヨクぶる奴が異常に増えて来たけど、こいつら若い頃に絶対左翼じゃないし政治に関心もなかったろうよな。 もういなくなった某アカウントが「死期が近い老人が急に墓相がどうの言い出す。あれはあちらの世界に渡りを付けてんだろう」って言ってたけど似たようなもんかね。しかし歳喰ってから左旋回・築地踊り習い始めるってどんだけカルマ溜めこんでんだろ。 しかしまあ、概ね以下のこの25年前の古証文で、基本的な構造というか、背景自体はあらあら出ちまっとるように思うが。当時の「(新)保守」的装いが、昨今そのまま「リベラル」ぶりっこに入れ替わっただけ、という面は、情けないことこの上ないけど正直、否めなかろう、と。 「おたく」と新保守主
町田市の某高校で教師が生徒を殴る動画がweb上に投稿され、例によって炎上していた件。 twitter.com あっという間に当事者や撮影者が特定され、これまた晒されていたので格好の炎上事案、あれこれTwitterその他SNSでも取り沙汰されていたけれども、そんな中、どうもひっかかったのは以下のtweet。どうやら現役の教師らしい御仁のtweetなのだが。 教師に暴言吐く生徒は高校に通う意味がなく退学にすべき!と息巻いてる方々が有名人の尻馬に乗って増大してますが、高校は警察じゃないんです。入学を許可した以上、未熟な彼らの言動を根気よく矯正して社会に送り出すのが我々の全体の奉仕者としての使命なんです。私も稀に「うるせえ」「殺すぞ」と言われたことはありますし、そういう中には退学して行った生徒もいました。しかし逆に「見捨てなかった」から信用できると言われもしています。暴言への懲戒は粛々と行い、指導
*1 リベサヨ界隈の風土病と化しているダブスタ上等はあれ、中の人がた的にゃ自分たちの「正義」のために当然の対応なんだろう。だからあの人がたの言い張る「ポリコレ」なんてのも、要は自分たちにしたら当然の対応を正当化するための呪文なんだろう。病巣はその「正義」とそれを盲目的に信奉する構造なんだろうが、そういう「正しさ」「正解」をすんなり受け入れてひたすらそのために献身するココロの習慣は、いわゆる宗教やカルトとも基本的に同じだろう。 ただ、いまどき本邦リベサヨ界隈のそれは「学校」的言語空間&情報環境前提になっている気はする。以前から「学校民主主義」「学級会の正義」的もの言いでそれらを指摘してきたけれども、それこそあの『脱正義論』の地点から20年あまりたった本邦リベサヨ系「市民」運動のその間のありようの変貌変遷についてもまた、きちんとことばにして自省できる下ごしらえが必要なわけなのだが。*2 「貧・
*1 「学問」もまた、その時代の情報環境の内側でしか成り立たない、そういう面が否応なくあるらしいことを、ここにきて強く感じています、これまで以上に切実に、かつのっぴきならない同時代的問いとして。*2 とは言え、ひとまず文科系、いわゆる人文社会系と言い換えてもいいでしょうが、そういう分野のこと。さらに言うまでもなく、日本語を母語とする環境において成り立ってきていたそのような分野、ということも、また含んでいます。つまり、日本語を介して行なわれるそのような文科系の「学問」のなりたちについて、ということになります。 ざっくりとした見取り図だけでも先廻りして提示しておくならば、それら人文系の「学問」は、巷間思われていたような、あるいは当の「学問」世間の当事者として自他共に任じてきた人がたの了見の間尺で自明にそういうことになってきていたような、そんなある種の普遍、それこそ時と場合によっては「科学」とま
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