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「湯川鶴章のIT潮流」が表。これは裏ブログです
▼紙とネットの共存共栄 新聞の場合、経営者が今後力を入れそうなもう一つの手は、紙とネットの共存、共栄だろう。紙の読者を新聞社のサイトへ誘導したり、サイトの読者に紙の新聞の購読を勧めるような企画が増えてくるものと思う。紙面で伝えきれなかった情報をサイト上で展開したり、サイト上の議論のまとめを紙面に掲載する、といったような企画だ。 紙の部数減に歯止めをかけたいというサプライサイドの都合を原動力にした動きだが、読者の利便性を高めることができれば、ある程度の成果は期待できる。ただ紙の新聞をまったく取る気のない若い層への効果は限定的かもしれない。 ▼ローカルメディアはブランド力を維持できるか さて既存メディア企業がネット事業で成功するには、情報ハブを目指すのか、コンテンツ提供者を目指すのか、まず自分の役割を明確に認識することが重要だろう。情報ハブを目指すのなら、どの分野の情報ハブを目指すのかを考えな
けろやんブログを通じて、自分の本の予約販売が始まったことを知る。 6月24日発売だそうです。本のタイトルは「ブログがジャーナリズムを変える」です。ブログ「は」ジャーナリズムを変える、だと思っていた。NTT出版の社長の鶴の一声で決まったそうです。まあ僕の提案だった「メディアの融合と参加型ジャーナリズム」というインパクトのないタイトルよりはましか。 ただ自分としては、ブログがジャーナリズムを変える完璧なツールだとは思っていない。個人の情報発信、消費者発信メディア(CGM)がジャーナリズムを変えることは間違いない。CGMの歴史の中では、ブログはあくまでも過渡期的なツールだと思う。というのは、まだまだネット上の言論空間は未成熟だし、ブログを通じた議論は健全なものばかりではないからだ。 それでもブログというツールには非常にお世話になったという思いが強い。ブログを通じて多くのことを得た。 僕は幼いころ
まだ中間かよ、と怒られそうだが、この本をブログにする計画はまだ進行中です。現在GW中ながら再校のゲラをチェック中。6月くらいには本として完成する見込みです。 タイトルは「メディアの融合と参加型ジャーナリズム」とわたしから提案したのですが、編集者はあまり感心しなかったもよう。その後、「ブログの読者からは『ネットにやられてたまるか』というタイトルを提案してもらったんだけど」と話したら「それでいきましょう。編集会議でそのタイトルを強く推します」と言っていた。いいのか、そんな刺激的なタイトルで。 実はこのタイトルを提案したのは、スポンタさんなんです。 ほかにいいタイトルがないか考えているんだけど、まったく思いつかない・・・。困った。 出版されれば、このブログも閉めようかなあ。1つのくぎりとしてね。でもまたすぐに別のところでブログを始めるかもしれないけど。
「湯川鶴章のIT潮流」で泉あいさんのセントリーを削除した件について、ご説明いたします。 standpoint1989さんからの次のような問いに答える形でご説明したいと思います。 1.誰が削除したのか 当初、技術的な理由で削除されてしまったとのお話だったと伺っておりますが、テキストがなく現在確認できません。これは人為的に削除されたのでしょうか。であれば、技術的な理由で削除されたというのは何らかの誤解でしょうか。 当初、湯川さんは削除された状況を把握されていないということも伺っておりますが、これもテキストがないために確認できておりません。湯川さん以外の方が削除されたとすれば、IT潮流の管理権・編集権は第三者と共有されておられるのでしょうか。事前であれ事後であれ、検閲を受けることを湯川さんは承諾されておられるのでしょうか。その第三者がいるとすればそれは時事通信社でしょうか。 2.誰が指摘したのか
経営者は焦り始める。社内の周りの人間に相談するのだが、日頃の話し相手である中間管理職は有効な答えを持っていない。まさか30代の若手からアイデアをもらうわけにはいかない。そこでほかの社の経営者や、業界団体、関連企業トップなどと意見交換する。 同じような考えを持っている人たちとの意見交換だから、自分の漠然とした思いに自信を持つ。やはり以前から考えていることは正しいのだと、それを実行に移す。 ▼1つは有料化 経営者層が以前から考えていることとは何だろう。新聞業界の場合だと、1つはニュースの有料化である。 「ネット上でニュースを無料で出したことが間違い。愚策だ」と怒るベテラン記者を何人か知っている。新聞協会の会合でも、ニュースを有料にすべきだ、という意見がよく出るという。純粋に広告で運営されているテレビ局と違って、新聞社は購読料、通信社は配信料という形でニュース記事を販売している。今まで代金を得て
◎既存メディアの今後のビジネスモデルとは さてそれでは、これから新聞やテレビといったマスメディア企業はどのようなビジネスモデルを追求していくのか、追求していくべきなのかを考えてみたい。 ビジネスモデルのことを話していると、一部の既存メディア関係者から「市場の論理を優先したり、金儲けのことばかり考えていては、ジャーナリズムの質が低下しないか」という質問というか反論を必ず受ける。そういう人は、恐らく今後も既存メディア企業の経営基盤が安泰だと思っているのだろう。安泰であるならば、市場の論理を優先する必要はない。 しかしインターネットの津波は、金融業界、通信業界を飲み込んだあと、次はマスメディア業界に向かっている、というのがわたしの認識である。津波に飲み込まれたあとの経済基盤の構築を準備しなければ、ジャーナリズムの質が低下するどころか、ジャーナリズムを実践できなくなるのではなかろうか。既存メディア
さて次に「紙の新聞事業は今後も安泰かどうか」を考えたい。 情報伝達媒体としての紙の役割が減少していくとしても、それは比較的ゆっくるとした減少のようだし、ここ何年かで紙の新聞がなくなるということはないだろう。何十年後もどこかでだれかが紙の新聞を印刷し配達していることだろうと思う。 だからそういう意味では「紙の新聞はなくならない」。「それでも新聞はなくならない」とことあるごとに強調したがる一部新聞関係者の主張は、そういう意味では正しい。 しかしわたし自身は、そういう意味での「紙の新聞はなくなるか、なくならないか」の議論は、やっても無意味だと思っているし、実は関心もない。 「新聞がなくなる日」を書いた元毎日新聞編集長の歌川冷三さんは、彼の言う「新聞がなくなる日」は、大新聞社の現在のビジネスモデルが崩壊する日、大新聞社の経営に赤信号がともる日のことだと言う。 そして、発行部数や広告収入の減少傾向を
それでは商業ジャーナリズムにとって確立すべき新しいビジネスモデルとはどのようなものになるのだろうか。その前に争点となることの多い幾つかの問題についてわたしの考えを述べたいと思う。 まず「紙の新聞がなくなるのかどうか」という問いについて考えてみたい。この問いは「紙という物質の利用価値は、電子機器によって代替しうるべきものか」という問いと「紙の新聞事業は今後も安泰なのだろうか」という問いの2つの意味で議論されることが多い。どちらの意味で議論するかを定めないと、堂々巡りの議論になってしまう。 まず「紙という物質の利用価値は電子機器によって代替しうるべきものか。紙はなくなるのか」という問いについて考えてみたい。 「ネットは新聞を殺すのか」などというタイトルの本を書いたものだから、これまでに何十人、何百人という人からこの問いを投げかけられ、議論を繰り返してきたように思う。「紙はなくなる」派と「なくな
対話は、21世紀ジャーナリズムの第一歩だと思う。それが第一歩なら、最終ゴールはどこになるのかというと、わたしは読者と記者の境界線をなくすことだと考えている。一般市民が取材、執筆、編集、報道のプロセスに入ってくれるようなジャーナリズムが理想であり、その理想に向かって少しずつ進んでいっているのだと思う。そのようなジャーナリズムを実現できれば、市民ジャーナリズムが既存メディアと敵対することなく健全な補完関係を築けるのではなかろうか。 ▼新潟日報の斬新な取り組み 新潟が2005年末に大雪で大停電となった際に、新潟日報は同紙のニュースサイト上に読者からの情報提供のページを設けた。パソコンや携帯電話メールを通じて送られてくる読者からの停電に関する情報をそのまま掲載したのだ。実はこれは新聞業界にとって非常に画期的なことだと思っている。 この読者からの情報提供のページには、「10:42 新潟市亀田 信号停
▼それでは対話しなければならない。 とは言っても、ブログを始めてから2年余りの間に、コメントを勝手に削除したことは一度もない。またマスコミは読者、視聴者と対話すべきだという考えも変わっていない。2ちゃんねるが、ジャーナリスティックな活動することもあるという思いも同じだ。匿名でわたしを攻撃してくる人たちを卑怯だと思っても、匿名性はネット文化に不可欠であると考えている。 わたし自身、過去に書いた新聞記事のほとんどが無記名だった。無記名のまま、時には企業や個人を攻撃した。攻撃された企業や個人のほとんどは反論してこなかった。それはそうだろう。わたしはペンという武器を持っていた。彼らは素手だ。よほど力のある企業や個人でない限り、彼らは泣き寝入りするしかなかった。 もちろんわたしはできる限り公明公正であろうと努めた。しかしすべての記事において、神のごとく公明公正でありえただろうか。 まただれかを批判で
ネガティブなコメントはその後も時折寄せられた。アクセス数が増えるに従って、いろいろなタイプの読者が増えた。中には、繰り返しからんでくる読者もいた。どこをどう読めばそのような受け止め方ができるのだろうと思うほど、ピント外れな批判を繰り返してくる人もいた。誹謗中傷になるかならないかのギリギりの表現でわたしを批判し続ける人もいた。 触れてほしくない自分の弱さを的確に突いてくる批判もある。直視することがつらくても、そうした的を得た批判は、できるだけ謙虚に受け止めたいと思っている。しかし多くの批判は誤解をベースにしたものだった。誤解を解いてもらいたいと思い、ネガティブなコメントに対してわたしの真意を説明するコメントを繰り返した。しかしわたしのそのコメントさえ誤解されることがほとんどだった。 恐らくそうした人たちは、コメント欄を荒らすこと自体が目的なのだろう。建設的な議論をしたいわけではない。議論を通
小池編集長だけではなかった。その後も「炎上」する記者ブログが相次いだ。炎上した記者ブログの1つを運営していた某社の記者A君とは、炎上する以前から個人的にメールでのやり取りをしていた。炎上の最中もわたしのところにメールで経緯を報告してきてくれたのだが、ネット上で糾弾される恐わさが、メールを通じてわたしにまで伝わってきたものだった。A君の要請を尊重し、A君がだれであるのかを特定できない形で簡単な経緯を説明したい。 わたしのブログのように当たり障りのないことを書き連ねるブログと違って、A君のブログは時事問題に関してはっきりと自分の意見を主張していた。それはそれですばらしいことだと思う。ただコメント爛に当然反対意見も寄せらる。これに対する対処法が間違っていたとA君は言う。 誹謗中傷が殺到したときに気が動転してしまい、冷静さを失ってしまったとA君は言う。冷静であれば、誹謗中傷を無視するのか、削除する
▼日本の参加型の近未来形 日本の参加型ジャーナリズムの近未来像は、市民記者サイトといった1つのサイトの中でだけ盛り上がるという形は取らないだろうという予測は既に述べた。端緒はどこであってもいい。JANJANであっても、ツカサネットであっても、ブログであっても、テレビのニュースであってもいい。どこかでだれかが発信した情報がネット上の口コミで広がり始める。その広がり具合をブログ検索エンジンなどのネット上の話題を見つけ出す仕組みが察知する。独特の計算方式を使ってネット上で話題になっているウェブページをランク付けする「話題の.jp」や、人気ブログ検索サービス「テクノラティ」の検索キーワードランキングなどは、ネット上で何が話題になっているのかを調べる道具として既に存在している。今後こうした仕組みはさらに技術改良が加えられ、使い勝手や性能が向上する方向にあることは間違いないだろう。 こうした仕組みを使
▼市民記者型ジャーナリズム 一方で韓国のオーマイニュースのような市民記者型の参加型ジャーナルズムは日本で大きな影響力を持つようになるのだろうか。 市民記者型ジャーナリズムのサイトも定義が難しいところだ。ジャーナリズムを職業としない人たちが情報を持ち寄るサイト、と定義してしまえば、2ちゃんねるや価格比較サイトも市民記者型ジャーナリズムだということになる。わたし自身は、2ちゃんねるや価格比較サイトも新しいジャーナリズムの1つの形であると思っているのだが、あまりに議論が拡散してしまうので、ここでは便宜上、2ちゃんねるや価格比較サイトは含めないことにした。あくまでも市民記者型のジャーナリズムサイトの定義は、運営者や参加者たちがジャーナリズムを実践しているという意識を持っているサイトに限定することにしようと思う。 そのように限定すれば日本にはJANJAN、ライブドアのパブリック・ジャーナリズム(PJ
▼日本の参加型ジャーナリズムの現状 ▼まだまだ少ない政治系ブログ、専門家ブログ 日本にもインターネットを使って一般市民の声が伝搬されて1つの大きなうねりを起こすという事例が過去にも数え切れないくらい存在する。前著「ネットは新聞を殺すのか」で紹介した2ちゃんねるの「奇跡の詩人事件」はその1例に過ぎない。それらを「参加型ジャーナリズム」と呼ぶべきか「消費者のクレーム活動」と呼ぶべきかは微妙なところだ。しかし現時点では参加型ジャーナリズムの定義をできるだけ緩やかにしておくというのがこの本の基本方針。よって2ちゃんねるの「祭り」と呼ばれる議論の盛り上がりの幾つかを「参加型ジャーナリズム」の定義の範疇に入れたいと思う。 つまりダン・ラザー氏を降板に追い込んだような米国のブログを中心としたジャーナリスティックな活動は、日本では何年も前から2ちゃんねるが実践していたといえる。 ただ米国と比べると、日本で
2005年はマスメディア業界に激震が走った年だった。ライブドア、楽天といったIT企業がフジサンケイグループ、TBSをそれぞれ買収しようとしたからだ。長い間、1つのビジネスモデルを継続するだけでよかった業界に、急速な変革を求めたのがネット企業だった。 中でもライブドアの堀江貴文社長のマスメディアや報道といったものに対する独特の考え方は、既存メディア関係者の反発を招くことが多かった。「(堀江社長は)メディアの公共性を全く理解していない」ー。多くの既存メディア関係者は、堀江社長の意見を切り捨てた。感情的に反発する人も多くいた。 わたしも既存メディアの一員だから、こうした感情はよく分かる。よく分かるのだが、あえて百歩、いや千歩譲って感情論を排し、堀江社長の言わんとするところを探りたいと思う。できるだけ相手の立場に立って異なる意見を理解しようと試みることこそが、知見を深めるのに最も効率的な手法だと思
▼ロングテール的考察 既存メディアと新興メディアの関係を考える上で、ロングテールの理論を応用するのもいいかもしれない。 このロングテールというのは、直訳すれば「長い尻尾」ということ。ヒット商品の売り上げの推移をグラフにすると、左右対称の釣鐘の形をしたカーブになるのが普通。最初はゆっくりと売れ始め、ある時点から加速度的に売れ始める。そして頂点に達したあとは、今度は次第に売れなくなる。売り上げが伸びている局面の加速度的な伸び方と、売り上げが落ちる局面の加速度的な落ち方を比較すると、逆方向ながら加速度はほぼ同じ。それがインターネット普及以前の商品の売り上げのごく一般的な推移の形だった。 ところがインターネット普及後は、この形に変化が起こった。売れ初めから頂点に達するまでのカーブは同じようなものなのだが、頂点に達してから売れなくなるまでが非常に長く緩やかなカーブになったのだ。つまり次第に売れ行きは
▼既存メディア対新興メディア マスメディア並の影響力を持つようになったブロガーや市民記者サイトなどの新興メディアと、テレビや新聞、ラジオなどに代表される既存メディア。あえてこのような分け方をした場合、今後どちらが優勢になるのだろう。 両者の力関係の推移を占う上で、IT関係の人やITに詳しい人には、オープンソースに例えるのが分かりやすいかもしれない。事実、参加型ジャーナリズムをオープンソース・ジャーナリズムと呼ぶ人もいる。 オープンソースとは、ソフトウエア開発の1つの手法だ。通常のソフトウェア開発は、1つの企業に勤めるプログラマーたちが行う。代表例はマイクロソフト製の基本ソフト「ウィンドウズ」だ。 ところがオープンソースソフトウエアは、世界中の技術者が、ネットを通じてコードを公表し、よってたかって改良する。しかもまったくのボランティア精神でだ。代表例は、「リナックス」と呼ばれる基本ソフトだ。
◎参加できない参加型 ほかにも参加型ジャーナリズムが抱える課題、問題は幾つもある。 ある学生と議論していたときにその学生から「参加型といってもパソコンやインターネットを使えない人は参加できないじゃないですか」という指摘を受けた。 確かに高齢者や低所得者の層からは多くの参加を期待できないかもしれない。いわゆるデジタルデバイドの問題だ。 「参加できるのは情報強者だけで、中でもアクセスを集めることができるのは頭のいいエリート。エリート気取りのマスコミが、エリート気取りのブロガーに取って代わられるだけのことでしょう」と彼は辛辣な表現で続けた。 確かに米国では政治問題に強い一部ブロガーが、政治問題が専門のコラムニスト以上に人気を得ているようだ。違いは、記者としての職業についているかどうかがだけ。知的な能力の持ち主が言論空間を支配する構図は変わらない、というのがこの学生の主張だ。 デジタルデバイドの問
さて情報の洪水の中から必要な情報を探し出してくる技術や仕組みは今後も進化し続けることは間違いないだろうが、そうなることは民主主義にとってよくないのではないか、という指摘がある。 こう指摘したのは、シカゴ大学教授で憲法学者のキャス・サンスティーンさんだ。サンスティーンによると、情報の洪水の中から必要な情報を探し出してくる技術が発達することで、人々は自分の関心事に関連する情報だけを取得し、社会と問題意識を共有しなくなる可能性があるという。そして人々はネット上で同じ意見の者同士で集まり、議論することで、議論は過激になる一方だ、というのだ。 現在の主流のメディア環境では、マスメディア企業が「一般的に知っておかなければならないニュース、情報」や「多くの人が必要としているニュース、情報」を「幕ノ内弁当」的に並べて提供してくれる。このニュースの「幕ノ内弁当」を食している限り、社会人として見ず知らずの人と
▼機械による情報抽出、集合知に情報抽出 情報を選び出す方法の最有力候補は、検索技術だろう。検索技術は進歩し続けている。最初は、検索キーワードを文中に持つページを探してくるという比較的単純なものだった。しかしネット上に情報があふれ出すと、この方法はうまく機能しなくなってきた。コンピューターが1つひとつのウェブページを検索してくるのに時間がかかり過ぎるようになったのと、キーワードを含むページの数が多くなりすぎるようになったのだ。キーワードを含むページの数が何十万、何百万にもなれば、実際にすべてのページを見てまわることは不可能。キーワードを含むページを無数に探し出してくるということは、必要な情報を探し出してこれないのと、同じことなのである。 そこで、ただキーワードを含むページをリストアップするだけではなく、どれが重要な情報であるかという価値判断を下して重要な情報から順に表示するようにしたのがグー
▼参加型ジャーナリズムの課題、問題点 わたしは参加型ジャーナリズムに大きな期待を寄せているのだが、実は課題、問題点も多く抱えている。 その1つは、あらゆる情報がネット上に氾濫する中で、伝えるべき情報が伝わらない状況になっているということだ。情報の洪水の中で、重要な情報を集めてくるためには、どうすればいいのだろう。 いままではマスメディアがその役割を担ってきた。社会の構成員として知っておくべき情報や、議論すべきテーマなどをマスメディアが選択し、広く社会に伝えてきた。インターネット全盛時代には、その役割をだれが担うようになるのだろうか。 わたしは、インターネット上にマスメディア的な役割を果たす物は残ると思う。マスメディア的なものに加えて、ニッチメディア的な物、パーソナルメディア的な物がすべてネット上に存在するようになるのだと思う。 マスメディア的な物との例としては、報道機関のニュースサイトがま
◎参加型ジャーナリズムへの期待 わたしが参加型ジャーナリズムに期待する理由は2つある。1つはメディア産業が大きく変化しようとする中で、民主主義に不可欠なジャーナリズムの一部を参加型ジャーナリズムが担ってくれるようになるのではないかと思うからだ。 そしてもう1つは、現在のジャーナリズムが抱える病理の一部を改善する糸口に、参加型ジャーナリズムがなるのではないかと思うからだ。現在のジャーナリズムはどのような病理を抱えているのだろう。わたしが体験した例を幾つか挙げてみよう。 ▼「するべからず十箇条」 わたしは結局、何年間、大学にいったのだろう。大学教育は米国で受けたのだが、途中何度か転校し、アルバイトしながら夜間の授業だけ受けていた時期もあった。1週間に1時間半しか授業を取らなかった時期もあった。単位は十分にそろっているので早く審査を受けて卒業するように、という大学からの督促状を何度か受け取った記
▼オーマイニュース 参加型ジャーナリズムのもう1つの代表例とみられているのが、韓国のオーマイニュースだ。オーマイニュースは、2000年2月に雑誌記者だったオー・ヨンホ氏が創設したニュースサイト。「市民みんなが記者」がモットーで、登録さえすればだれでも記事を寄稿できる。登録を済ませた市民記者の数は3万数千人。一日に150本から200本の記事が寄せられるという。まさに参加型ジャーナリズムだ。 市民記者は自分の記事が使用されればこずかい程度の原稿料が入るようになっている。しかしトップニュースになっても原稿料は2万ウォン(約2000円)前後という。とても原稿料だけで生活できるレベルのものではない。市民記者のほとんどは、収入よりもジャーナリズムに参加することに意義を感じているようだ。 ただいい記事には読者からの「投げ銭」が集まるようにもなっている。ある哲学教授が憲法裁判所の批判記事を書いたら7000
▼CNN幹部を辞職に追い込んだブログ 米国の著名ジャーナリストダン・ラダー氏の降板発表から5カ月後、米国のブロガーたちは次にニュース専門CATV局CNNのニュース部門の責任者イーソン・ジョーダン氏に照準を定めた。 ジョーダン氏は、1991年の湾岸戦争の際に関係当局と交渉し現場からの生映像を送り続けることに成功した人物。報道機関としてのCNNの基礎を築いた人物ともいえる。そのジョーダン氏が、ブロガーからの攻撃を受けて辞任に追い込まれたのだった。 事の発端は、2005年1月末にダボスで開かれた世界経済フォーラムでのパネル討論会でのジョーダン氏の発言だった。この討論会はオフレコで行われた。つまり会場にいたジャーナリストたちは発言内容を報じることができないということだ。オフレコを条件にすれば、討論者の忌憚のない意見を聞ける。主催者はそう考えたわけだ。 しかし会場にいた者のなかで、情報発信ルートを持
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