サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
lonestarsaloon.hatenadiary.org
よし来た。ついに来た。てゆうか、これが6話にして来てしまった。えーと、CLANNADと智アフとリトバスと沙耶シナリオのネタバレあります。 「そんなまがいもんの記憶で消すなぁーー!!」 「俺たちの生きてきた人生は本物だ! 何ひとつ嘘のない人生なんだよ! みんな懸命に生きてきたんだよ! そうして刻まれてきた記憶なんだ! 必死に生きてきた記憶なんだ、それがどんなものであろうが、俺たちの生きてきた人生なんだよ! それを結果だけ上塗りしようだなんて。お前の人生だって、本物だったはずだろぅ!」 うん、なんか書くまでもないけど、「どんなことだってそれはそれで本物のはずだ」という指向。強盗になんか奪われまくるようなそれはそれは不幸な人生であったとしても、しかしそこでお前が苦しんだり悲しんだりしながら生きてきたことは本物で、たとえ行き着く先に幸せがないとしても、悲劇としてバッドエンドしかないとしても、その人
岩沢さん 岩沢さんの、生前の回想に出てくる「ひと」の描かれ方が興味深かったです。顔が映されない、特に目は決して映されないというのもありますが、その「動き」もまたおかしい。上に引用した画像のところなんか特にですね。岩沢さんがお皿を落として割ったというのに、誰も声をかけず、動かず、ただ見ているだけ。岩沢さんが立ちくらんでも、そう。そして岩沢さんが倒れても、同じく。駆け寄るどころか、何らの反応も示さない。これがはじめから「見てない」というなら分かりますけど、見ていて、この反応(の無さ)。人間とは思えない。これじゃまるでNPC。 学校の先生も、オーディションの審査員も、バイト先の同僚も、病院の先生や看護士も、両親も。顔がない。眼がない。そして動きがない。動かない。バイト先の同僚が何の反応も示さないように、両親は押し引きする動きをパターンのように繰り返すだけで、喩えるならば、まるでNPCのように、決
「Angel Beats!」といえば、ここまでキャラクターが死にまくってる・死ぬような傷を負いまくるのですけど(※実際に息絶えるわけではないですけど)、その描写の仕方がちょっと面白い。 第1話 天使に刺される音無くん 100HITと叩かれ斬られまくる音無くん ワナにかかり吹っ飛ぶ音無くん ワナにかかり吹っ飛ぶ野田 第2話 鉄槌に潰される野田 鉄球に潰された高松(直截的な映像は無し) 天井に押しつぶされるTK レーザーっぽいのに斬られる松下五段(直截的な映像は無し) 落とし穴に墜ちる大山くん&日向 溺れる藤巻 滝底に落ちる椎名さん こう並べると、共通項が見えてきますね。どれもグロくはない。どれも直接的なところは映していない。天使に刺された音無くんの、刺されて血がドバーッというのを描写しない。「刺されるとこ」までしか映さない。ワナにかかり吹っ飛ぶ音無くん&野田が、地面に激突して悲惨なことになる
テーマが「人生」で、「麻枝准が送る最高の人生賛歌」(http://www.angelbeats.jp/story/)とまで煽られたら僕も久しぶりに感想書いてしまいますよ! ということで半年振りくらいっすね、こんにちは。さて『Angel Beats!』ですが、あの『CLANNAD』に続きまたも「人生」です*1。しかも今回は「賛歌」まで付いてしまうのですから、期待に打ち震わざるを得ないでしょう……てゆうか煽りすぎだろって感がありますがw しかし、第一話でこんなこと言うのも早すぎですが、どのようにそれ(人生)を描くのか、というのは少し気になるところ。『CLANNAD』が人生と呼ばれたのは、前提として、学校生活から卒業、就職に結婚そして出産、それらに伴う困難や壁とそれを乗り越える強さとか弱さとか人の絆とかとかがまずあったから――つまりまんま「人生」ですね、普通の人の人生を大なり小なり踏襲している―
昨日挙げたのがあまりにも言葉足らずだった気がするので、もうなんかアレをあれしてそうする。 以下ネタバレ。最終シナリオまでやってからね。 自己のありかたを巡る物語としての是非 この物語は、一言でいうと、「自己のありかた」を巡るお話。 「川神百代3年、武器は拳1つ。好きな言葉は誠」 「川神一子2年、武器は薙刀。勇気の勇の字が好き」 「2年クリスだ。武器はレイピア。義を重んじる」 「椎名京2年弓道を少々。好きな言葉は仁…女は愛」 「1年黛由紀江です。刀を使います。礼を尊びます」 彼女たちの性格・性質・姿勢的なものは、まず最初からはっきりしています。姉さんの誠、自分への実直さ、すなわち真剣さ。一子の勇、勇猛果敢、引かず諦めず走り続ける姿勢。クリスの義、ルールや規則、自らが正しいと信じることの絶対遵守、自らの信じるものを貫き通す。京の仁・愛、大和への、そして仲間への愛の深さ、そしてその姿勢を持ちえて
『けいおん!』の第11話なんですけどね、これ、最初見たときは気付かなかったんですけど、2回目見たときに気付いてビックリしました。 律と澪がすれ違うようになって、律が部活に来なくなったところ(まだ風邪ひいてることが判明する前)。 ここは非常に停滞しています。澪は「(律なしで)練習しよう」と言い、梓は(そして恐らく唯・ムギの心情も)「律先輩、呼びに行かなくていいんですか…」と言う。みんなの意見や考えは一つに纏まったり定まったりせず、軽音部のみんなが今の律に対しどういう態度を取るか、律は軽音部にとって何なのかは、なにも決まらず、この内部においても非常に停滞しています。 そこでさわちゃんが述べる一言。 さわ子「もしくは代わりを探すとかね。まあ、万一のことを考えとくってことだけど」 これに対しムギは、珍しく大声を張り上げて「律っちゃんの代わりはいません!」と叫びます。まあねえ、そりゃ簡単に代わりとか
もう明日には最終回のさらに次の「番外編」がはじまっちゃいますが、とりあえず最終回(第12話)をメインに、ここまでの感想を。 「いまいるこの講堂が、私たちの武道館です!」 これねえ、すごい好きです。 「私たちにとっての=私にとっての」なわけですね。それは他の人にとっても・みんなにとってもそうだとは限らないし、また「いまいる」であって、常にこの講堂が武道館であるわけでもない。「いま」「私にとって」、ここが武道館である。 自分が最初に『けいおん!』で、これは凄いというか、なんか「あれ?(いい意味で)」と思ったのは第2話、ギターを買いに行く時に、いきなり楽器屋に向かわないでみんなでその辺をぶらぶらするところなんですけど、ここがですね、凄い細かかったんですよ。 それぞれのキャラがそれぞれの自分自身に沿って行動しているなぁ、と。たとえば、UFOキャッチャーやってる時、唯と律が前に出てプレイしながら盛り
最近は憂の可愛さに脳味噌がやられてしまいそうです。 やべーよ! 特にこのお姉ちゃんとラブラブな様子! なにこれ! 死ぬんですけど! しかしこういうのを「こういう風に描くだけ」というのが、『けいおん!』なのかな、などともわたしは思ってきてます。 つまり。この仲良し描写を見て、わたしたちは色々と好き勝手に思えるわけですよ。単純に「仲良しな姉妹」と思ってもいいし、姉妹というより「友達」的な仲良しさをそこに見ることもできるし、「百合」みたいな妄想を抱くこともできるし、百合というより仮想的男女間の「恋愛感情」的なものを見い出すこともできるし、親子的な「愛情」だったり庇護欲だったりを感じ取ることもできる。つまり、何にでも……というと大きく書きすぎかもしれませんが、しかし、色んなものに「見える・見ることができる」のですが、重要なのは、作中においては「何でもない」ということなんです。 作中では、とりあえず
http://d.hatena.ne.jp/hachimasa/20090526/1243338171(「ほんとおまえら、美少女に問題を仮託するの好きなのな」) 八柾さんのところに。あとで書くとか言っちゃったし。前提としての詳しいところは、そちらをご覧になってください。ある意味、記事タイトルがかなり大部分を語っているような気もする(といったら失礼かも、ごめんなさい)。 大雑把には「この動画における澪に、自分を見る」みたいなことでしょうか。八柾さんは「問題を仮託」と仰ってますが、しかしそれでは少し大仰ではないかと。もしかしたらちょっと違うのではないかなあと。 これは基本的には、ある種のファミリー・ロマンス的な慰めの構図を持っていて、つまり「ぼっちの俺、惨め」というのが、 「澪がぼっち、惨め」 → 「ぼっちだけど、(ぽつーんとしてるその姿とか)可愛い、なんか憎めない、同情できる」 → 「『ぼっ
「パンツにご飯が盛られてる!?」 というのが、これを見た率直な感想でした。おそらく。あ、『けいおん!』第6話のおはなしね。 「おそらく」というのは、それと同時に、半分くらい、なんかわけわかんねーという気持ちもあったからです。 なんかわけかんねー。 だってさ、パンツだぜパンツ? 普通パンツにご飯なんて盛らないよ、つうか盛れないよ! パンツにご飯を盛るなんて、どんな変態のやることなんだ、そりゃソフトオンデマンドあたりなら既にやってそうな気もするけど、普通の人は盛らないし、その発想すらない。てゆうか、そもそも盛れないじゃん。こぼれちゃうじゃん。パンツにご飯盛っても立たないじゃん、ぐちょってなるだけじゃん。え、てゆうか、もっとそもそも、これパンツじゃなくてお茶碗じゃないかって? たしかにそうです、お茶碗です。紳士的な発想をなさる。でもなんかさー、これ半分パンツじゃん。お茶碗であると同時にパンツじゃ
アニメ『けいおん!』の部室における「窓」ですが、いままではこういった(↓)感じに描かれることが多かったです。 窓の外には何も描かれてなくて、それは完全に光源、光として描かれている。もちろん、カメラアングルや日当たりやそもそも部室の階が高いからといった要因でこうなっているのかもしれませんし、単純に作画コストのようなお話なのかもしれませんが(そもそもCLANNADなどでもこういう窓はたくさんありましたが)、しかしこのように、景色が映らずに光を取り込むものとしての「窓」として描かれることが非常に多かったですので、やはり何らかの意図がある、いや意図は分からなくとも(なくても)意味は生じるでしょうから、ここは一つ深読みしてみようじゃないですか。自分深読み厨ですから。 さて、その「窓の外に光だけ」ですが、非常に多かったというか、多かったどころか、第4話までで部室の窓が映った168カット全てが、そういう
背景について、思ったことを書きます。 『けいおん!』と『らき☆すた』がこの記事でメインなのは、別に他のアニメでもここでいうことが当て嵌まる部分もあれば当て嵌まらない部分もあるかもしれませんが、両者が京都アニメーション制作で4コマ漫画原作であるという共通点を持っていることと、何より僕がそのふたつが好きで知りたいからだということからだけです。もしかしたら一般的に拡大できる部分もある話かもしれませんし、固有の話かもしれませんし、固有として見てもずれている部分がある話かもしれません。そしてメモと題したとおり結論は先送られて、この先の視聴の参考の一つとして埋没する。 さて、背景やモブについて。 (その世界における)リアルな人間の形として描くのではなく、輪郭線をなぞるように描かれるこのモブというのは、抽象的とか記号的であるんだけど、同時に、恣意的なものも感じます。つまり、カメラ(なり作品なり)という主
これまでのあらすじ:半年以上前に書いて下書き状態で寝かしてたけど数ヶ月前にアップしてみたら某氏にどうでもいいと切り捨てられたのですぐ消しちゃったけど(笑)、なんか最近のお話聞いてたら3割くらい被るんじゃねえと思ったのでちょっと手を加えてアップしてみた。 「『Kanon問題』とは何か」。やーもう議論の核とか知りませんしそも何処を拝見すればよろしいのか存じなくて非常にこうなんといいますかー、正当な認識からは遠く離れていると自分でも理解しているのですが、そこはひとつファジーなお心持ちで、つまり閲覧者の方におきましては利用できる所は利用してやろうといった具合に、寛容なお心でご覧になっていただきたいのですが、さて、Kanon問題。「そもそも」や「正式に」などは存じ上げないので誤解を含んでいるかもしれませんが、方々で偶に目にする議論やお話を拝見させていただく限りにおきましては、大雑把に申し上げてしまい
えっと、昨日第一印象を書いたのですが、再視聴して、そこから構築しなおしました。なので一部被っている部分もありますが、昨日のよりは格段に出来は良いでしょう(自分で言うか)。 キャラクターの表情や動きなどが非リアルなところ(上画像のような、デフォルメ化)が結構ありました。そもそも一番最初に見せられる唯の動き(携帯電話お手玉、転ぶ前のすべりを走るという動き)からして、非リアルな、デフォルメされたものだったので、キャラクターのリアリティの尺度に関する柔軟性は、強めに響いていたのではないでしょうか。しかしそれに対して背景は完全にリアルでしたね。崩されることはありませんでした。 たとえば同じく4コマ漫画原作で京アニ制作の『らき☆すた』なんかは、背景が画像のような非リアルな空間になることが多々ありましたが、今回の『けいおん!』において、そういったものは殆どありませんでした。キャラクターの空想を描く際(唯
メモ。そのうち何かしらで纏めたい。 エロゲにおいて「日常描写」と呼ばれるようなものがある。いやそれ自体は漫画にもアニメにもラノベにもございましょう。「日常描写」。もちろんここでは括弧つきであり、何が日常描写で何が非日常描写かという境界はつねに曖昧さを孕んでおり、きぱりと分別しうるものではないでしょう。 さて、しかしながら、おおよそ、その「日常描写」なるものが存在するというように、わたしたちは認識しております。その境界線は、いやここまでが日常描写だ、やれそこからが日常なのだ、せっかくだから俺はこっちの日常描写を選ぶぜ、と人によって異なるでしょうが、しかし多少の歩み寄りを見せれば、ある程度の統一性は見い出せましょう。 たとえば。個別ルートに入ったあとを、あまり「日常描写」とは呼ばない。 まずは大分類。「共通ルート」「個別ルート」があるゲームの場合、その大枠においては前半部が「日常」、後半部が「
京都アニメーション版のCLANNADにおいては、『背中』が非常に印象深かったです。最後が『背中』だったこと、これが本当、色々あって、どうしようもなく素晴らしいことに思えました。『背中』の印象深さ、これは原作においてもそうですね。パッケージ裏、あるいは公式サイトであった、あの、坂道を朋也と渚ふたりが並んで歩いていく絵。 アニメですと、これ。「俺たちは登り始める。この長い、長い、坂道を」。第一話以外にも、回想という形で幾度か登場していました。 『背中』の絵が示唆するもの。 実は、第一期「CLANNAD」の最後の絵(番外編「夏休みの出来事」最後の絵)も、第二期「CLANNAD AFTER STORY」の最後の絵(番外編「一年前の出来事」)も、『背中』の絵でした。 最後が、目に見える最後が、わたしたちがCLANNADに触れるラストが、『背中』であるということ。これが何を示唆するか。 作品に照らして
映画を見終わったあとの第一声が「感動した」とかいうボキャブラリーの貧困な人間は、左女牛明海さんからすればもはや会話を避けるに足る存在であり、畠山チャチャさんなら恐らく死ねばいいのに的な毒舌を入れてくるであろう存在であり、つまりさ、「感動した」とか「素晴らしい」とか、それって自身の感情に対する自身の言語の敗北であり、自身の言語の疲弊の表れでもあるわけじゃないですか。もうちょっと脳みそが優れていれば、それ自体を優れた言葉で言えるはずだ。それをいえないどころか、ましてや、とある作家さんを捕まえて「天才!」と叫ぶなど、もう疲弊の極み、敗北の極みですよ。敗北の極みですよ。大事なことなので二回言いましたですよ。敗北ですよ、敗北!すべてにおいて。ええ、別に戦ってもいませんが、しかし、戦ってもいないのにわたしは敗北してしまったのです。プレイボールの前に既にコールドゲームだったのです。それほどの敗北、つまり
エロゲで、セリフの「文字」と「声」が別々のものである、そういうのってたまに見かけますよね。テキストじゃ○○と書いてあるのに、音声じゃ××と云っている。そんな感じの。「俺たちに翼はない」で、そんな感じのを結構見かけたので、その辺のお話をしてみます。 ※「俺たちに翼はない」のネタバレ含むのでご注意ください。 case:1 日和子「………………」 げっ、なんか口とがらせてブツブツ文句言ってる……聞こえないふりしとこ。実際聞こえなかったけど。 2章後半戦、鷲介と英理子さんが、日和子の小説の感想などを喋ってた後の、日和子さんのリアクションです。 ここで鷲介くんは「聞こえなかった」と云ってるし、テキストにも「………………」と表示され、文字だけでは何を言ってるのか「聞こえなかった=読めなかった」状態なのですが、わたしたちプレイヤーには聞こえていました。 「もっと早く言ってくれればよかったのに」 ただ、聞
俺たちに翼はない -Limited Edition- (2009/01/30) Windows 商品詳細を見る 一言で申し上げましょう。 最高傑作だから全員プレイして。 ええもうわたしの中では心のベストテン第一位か第二位かと、超絶至極の勢いで輝いております。もうマジ素晴らしいですから。完璧ですから。全タスクぶっちしてプレイしておりました。いいから。騙されたと思ってやってみて。最初の数時間はちょっとつまらないかもしれません。でもそれだけ我慢して、やってみてごらんなさいよ。全体的に(「テーマ」という言葉を使いたくなるほど明け透けに)直球ストレートすぎるかもしれません。でもたまには、作品と真正面からぶつかる気概で、やってみておくれなさいよ。青臭さも気恥ずかしさも忘却してこの子とがっぷり四つ組んじゃってみてくださいよ。損はない。確実に得しかない。 もうちょっと細かいこと言いますと、このテキストの洒
「CLANNAD」のネタバレです。AFTER STORYのネタバレすぎます。 原作知らないけどアニメ楽しみにしてるなんて人は絶対見てはダメです! CLANNADを「町」を中心において翻訳すると、「町」が愛する人を救って、だからこそ町を愛しそこに住む人を愛し(秋生)、町の中の幸せな風景を集めたら(光の玉)、その奥の秘宝たる奇跡に届いた(アフター2周目)、そう並べられるでしょう。これを啓蒙的に読むと、地域・血縁・仲間内、そのような小さな共同体・親密圏を愛しつつなおかつそれを(「町」という単位のように)限定的に拡大的にしていく、”その大事さを説いている”、そんな感じに読めなくもないでしょう。ですけど……こう読めるんですけど、でもそれは、決定的なところが、現実とは違いますよね。そしてその違いこそが、大きな意味を持っていると思うのです。 現実には光の玉なんかないし、やり直しなんかない。他者に優しくし
マンガをアニメ化した際に「生まれてしまう/失われてしまう」ものってなんでしょう? これは小説(ライトノベル)をアニメ化でも当てはまりますね。 正解は『時間』でした。 や、時間の他にもたくさんありますけど。てゆうか記事タイトルに正解書いてるけど……。 マンガをアニメ化(実写映画・実写ドラマでも同じですが)すると、『時間』が生まれてしまいます。あるいは、マンガにあった『時間』が失われてしまいます。 もしかしたらこれを解消する手法がある(これから開発される/もしくは僕が知らないだけで既にある)かもしれませんが、現状では、それを局地的にごまかすことはできても、全体的にどうこうすることはできないでしょう/今のアニメの形態は、そうではないでしょう。 『時間』といっても、大雑把に(というか記事を書きやすくする為の便宜上のものであって、全く再考が必要ですが)分類すると二つあります。ひとつは、作品の形態に縛
一応前回(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090120/1232386361)の続きです。考察というか、ひとつの思考実験な感じかもしれません(グダグダなので)。引用画像に関しては前回と同じ意味合い(というか、わたしは常にそういう意味で引いてるんですけど)です。 アニメのキャラクター(僅かでも多少でも何らかの動きを伴う場合)の身体、あるいはその動き、あるいはそのもの、それの「主体」はどこにあるか――先日の文章(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090120/1232386361)では、キャラクターに所与しながら、かつアニメーター(作り手)に所与しながら、結局所与できない部分も生じて、究極的には「無い」と結論付けました。もちろんこれは「究極的」と記したように、つねにそうなのではなく、(いずれにせよ回収しき
※いくつか画像を引用していますが、あくまでも本項においては「動きを伴うソレ」に大きな意味がありまして、この画像は、参考・資料ではなく、「わたしが言及しているのはアニメにおけるこの画像のあたりの動き・シーンですよ」という、指標としての意味しかありません。アニメ自体の方を参照・あるいは反芻していだけるとありがたいです。 先日、思いつくがままに記した「京都アニメーションのエロ」について(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090117/1232126331)ですが、よくよく思案した所、それはどういうことなのか、はたして何なのかが、わかりました。 先日の文章をご覧になっておられない方向けに一言申し標しておきますと、わたしがここでいう「京都アニメーションのエロ」とは、例えばパンツが見せるとかおっぱいがポロリとか体育倉庫に閉じ込められて二人きりとかそういったも
智アフとMOON.(両方途中で放置しっぱなし)を終えてから本格的に考えるとして(ちなみに俺は智アフをプレイし終わったら自殺しちゃうんじゃないかなーって不安が約三年前の発売日に買ってきてパソコンにぶち込んで二十分くらいプレイしたあたりからずっと付き纏っていて(だって「人生の宝物を探しに行こう」とか言うんだぜ?異常だよ!)、それが恐ろしくて今までちょっとプレイしては止めて最初からやり直してまたちょっとプレイしては辞めて最初からやり直すを三年ほど繰り返してたんだけど、朱鷺戸沙耶シナリオが終わった今となっては案外普通にプレイして自殺しないで済みそうな気がするような気がしないよう……とりあえずその程度にはマシになったので今度やる)。 そろそろ。超時空麻枝信者を自称する私としましては、リトバスEXの朱鷺戸沙耶シナリオについて色々と考えなくてはいかんなーとか思う。アレは、シナリオライター引退に相応しい…
■「オタク」から「キモいヘンタイ」へ。 http://d.hatena.ne.jp/kaien/20081223/p1 ■「What is OTAKU? ーオタクとは何か 第18回 男の中の女、女の中の男」 http://d.hatena.ne.jp/oizumi-m/20081223 これは非常に面白くて興味深くて、それに関して色々と何か考えが浮かぶことは浮かぶんだけどどうにもまとまらないので、いささかメモ的で乱雑ですが。 オタクの「女装」あるいは「女の子になりたい」、それは見た目での、あるいは精神面での女装も含めて、大別すると二つの方向に分かれているかなぁと思います。ひとつは「女装して女性になる」、もうひとつは「女装して女性性を得る」(もちろんこの二つは共存可能)。本当に性転換手術する者と、経済的・社会的理由が解消されても決してそれはしない者という二つの極が存在する。 ただしここでいう
とくに何か纏まってるわけでもないけど何となくメモのように書く。 「俺だー!結婚してくれー!」というのは、ニコニコ動画のアイマスMADが発端で……いやまあ使う側・読む側の文脈にそれが載せられているかを考えると、これについてはあまり起源は関係ない(書いてる側も読んでる側も「知らない」場合が多いだろう)と思うんだけど、それはともかくとして、最近「俺だー!結婚してくれー!」を(勿論ニコマス以外の場所で)それなりに見かけるようになってきました。 「○○は俺の嫁」の流れといえば流れだけど、むしろこれは逆流でもあると思うのです。「○○は俺の嫁」って、別に戸籍の上で嫁なわけでもなきゃ相手に嫁だということを承認してもらってるわけでもないし、そもそもとして相手にプロポーズすらしていない。対し「結婚してくれー!」というプロポーズの言葉が、結果的にはそれを埋め合わせるかのようになっています。 「俺だー!結婚してく
京アニCLANNADの服装――特に朋也くんの服装については、これはもう第一期の頃から、私たち視聴者の常識を遥かに越えた幾何学的で形而上学的なデザインを幾度も披露し、その度に私たち視聴者はそれを様々手段で読解し・解釈するという、それはもう海岸の砂粒がいくつあるのかを数えるような、あるいは遺跡発掘していたら水晶ドクロを発見してしまった考古学者かのような、徒労にも無駄にも虚しさにも似たその工程を、飽きるほど踏んできたのです。 今回、このアフターストーリー第10話において、その系譜――朋也くんの服装――の後継が大きな主張を伴って表れました。私たち視聴者の目をなんら憚ることなく、シリアスな場面なのに、画面の中心にでかでかと、それも長い時間に渡って、己を主張するかのように――そう、視聴者が決して無視できないように、大胆にも表れた「牛乳Tシャツ」。 そしてそれは、その主張が大胆であるからこそ――視聴者が
http://anond.hatelabo.jp/20071214114537 CLANNADやってたんだけどさ、すごい腹が立つんだ 特定ヒロインのルートを追ってるとそのヒロイン以外のストーリーを投げるよね 他のヒロインルートのとき、ことみどうしてるの?いたたまれないだろ 智代もすべて投げてまで主人公追うのにルート外だと横恋慕で終わりか?今さら過ぎる反応ですけど、今日はじめて知った記事なのでご勘弁を。 「あるキャラクターのルートに入ると、その子ではないキャラクターのルートはどうなるの?」 みたいな疑問・問題はたまにあります。有名なところだと、『Kanon』の「奇跡」、「誰か助かったら他のキャラが助からないじゃん」という疑問・問題。 でもね、思うんですよ。そもそも他のキャラのルートなんかないんじゃない? と。 ルートに対し自覚的なアプローチを取っているゲーム――例えば全体の構造に各ルートがあ
http://q.hatena.ne.jp/1228459714 こちらの質問に答える意味で。 最近のコンシューマ美少女ゲーム・ギャルゲー(ここ4年)で5万本以上売れたタイトルと、2004年以前のPS2タイトルの一覧です。 5万本以上売れたタイトル 2004年12月〜2008年12月6日現在までで、販売本数5万本以上のタイトルのみ。「ファミ通」のデータを参照。 ただし2008年度分は初週販売本数からの参考値となります。 また、廉価版などは基本的に別計算での換算となります。 一部もれがあるかもしれません。 「涼宮ハルヒ」など漫画・アニメ・小説原作作品は「非美少女ゲーム」「非ギャルゲー」かもしれませんが、一応参考として。 発売日 機種 タイトル メーカー 初週売り上げ 累計売り上げ・補足 2008年8月28日 PSP フェイト/タイガーころしあむ アッパー カプコン 32,067 推定約5万本
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『好き好きほにゃらら超愛してる』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く