サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
衆院選
realkyoto.jp
翻訳:石田英敬 新型コロナウイルスによる感染症COVID-19は、世界に大きな危機をもたらしている。現在の危機はいつかは去り、私たちの生活は旧に復するのかもしれない。だが、旧に復するだけでいいのだろうか? 内外の知識人による論考を掲載する。第1回は、哲学者のベルナール・スティグレール。 記憶の科学研究の支援と知識普及のための公益団体B2V記憶観測台[註1]は、ベルナール・スティグレールに対して、哲学者として市民として、特に記憶の観点からCOVID-19危機をどう考えるか尋ねた。以下はその考察である。 疫病危機を記憶する 大疫病の記憶のうちで私たちの表象にとどまっているものはじつはそれほど多くはありません。人間はいつも完全に安全でいたいと言いつつも、大惨事をすぐに忘れてしまうという残念な傾向を持つものです。5000万人も死んだ1918年のスペインかぜを人びとは憶えてはいます。しかし、1969
翻訳:飛幡祐規 新型コロナウイルスによる感染症COVID-19は、世界に大きな危機をもたらしている。現在の危機はいつかは去り、私たちの生活は旧に復するのかもしれない。だが、旧に復するだけでいいのだろうか? 内外の知識人による論考を掲載する。第2回は、哲学者で社会学者のブルーノ・ラトゥール。 よく言われるように医療スタッフが「前線で戦い」、何百万人もが職を失い、近親の死を悲しむ多数の家族が死者を葬ることもできないときに、危機の後に思いを馳せるのは、どこか不謹慎なことかもしれない。だが、今こそ闘わなくてはならない。危機が去った後の経済再開が、これまで私たちが空しくも闘いに努めてきた、旧態依然たる同じ気候体制を蘇らせないために。 事実、健康危機は危機ではなく——それは常に一時的なものだ——、恒久的で不可逆的な生態環境(エコロジー)の変動の中に埋め込まれている。健康危機から「脱する」ことができたと
対談:平倉 圭 × 池田剛介 池田 今回は平倉さんの著書『かたちは思考する』の出版を記念しての会となります。この本については『美術手帖』(2020年2月号)に短い書評を書いたこともあり、じっくり読んでいました。そのあと平倉さんが京都に来られていた際に少し会って、ぜひ著書についてお話しできればということになり浄土複合でのトークが開催されることになりました。今日はよろしくお願いします。 平倉 今日はありがとうございます。『かたちは思考する』という本が2019年の9月に出ました。執筆期間はすごく長くて、2005年から14年かけて様々な機会に書いてきたものをまとめたものです。まとめるにあたって全体に手を入れたのですが、あらためて自分がやってきたことは何だったのか考えながら作りました。池田さんと初めて出会ったのはいつごろだったかな。 池田 ずいぶん前。岡﨑乾二郎さんが東京でやっていた四谷アート・ステ
グローバル化の行き着く先で、温暖化に代表される地球環境問題もいよいよ発火点に来ている、エボラ出血熱やトリ・インフルエンザ H5N1 などによるパンデミックの可能性も考慮しておかねばならない…。 頭ではわかっていたつもりだったし、折りにふれて話もしてきましたが、実際に新型コロナウイルス SARS-CoV-2 による COVID-19 パンデミックが起こってみると、あらためて身体的に危機を痛感するこの頃です。 2019年12月から後に Covid-19 と呼ばれることになる肺炎の流行が伝えられていた武漢が2020年1月23日に封鎖されたと報じられたとき、パンデミックは不可避だと覚悟しました。遅まきながら(というか、最初、医師たちの警告を封殺しておきながら)中国政府がそこまで危機感をもったほどのエピデミック。しかし、いかに共産党独裁国家とはいえ人口一千万人規模の都市を完全に封鎖することなどできる
『杉本博司 瑠璃の浄土』展が、2020年5月26日(予定)から10月4日まで、京都市京セラ美術館で開催される。これを機に、2005年、森美術館における『杉本博司 時間の終わり』展の開催に合わせて書かれた一文を、著者並びに初出雑誌(『文學界』2005年11月号)の版元、株式会社文藝春秋の許諾を得て転載・公開する。(編集部) Hiroshi Sugimoto, OPTICKS 008, 2018, Type C-print © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi 浅田 彰 ■ 歴史の終わり——「ジオラマ」「肖像写真」 写真とは出来事の、つまりは歴史の断層のドキュメントである。「それがあった(Ça-a-été)」ということの光化学的なインデックスである写真は、歴史の断層の痕跡——撮影者も対象も意識しない部分、ロラン・バルトが「プンクトゥ
橋本裕介氏の特別寄稿に併せて、THEATRE E9 KYOTOの支配人、蔭山陽太氏のインタビューをお届けする。氏は、今年2月14日に京都市に対して公開質問状を提出した有志のメンバーであり、ロームシアター京都開館準備期間中の2013年8月から開館後の2018年3月まで同館の支配人/エグゼクティブディレクターを務めていた。 橋本氏の記事のリードに記したように、ロームシアター京都の新館長に就任するとされた三浦基氏は、ハラスメント・解雇問題について団体交渉の最中にある。そういった問題を抱える人物を、問題解決前に公共性の高い文化施設の館長に任命すること自体異例と言えるが、2月19日に行われた「ロームシアター京都 2020年度 自主事業ラインアップ」説明会では、館長の推薦・任命を行う京都市音楽芸術文化振興財団の担当者が、プレスからの質問に対して「任命権を持つ同財団理事長(長尾真氏)に、三浦氏の解雇問題
今年1月16日に発表された、ロームシアター京都の新館長人事が波乱を呼んでいる。2016年のリニューアルオープンから館長を務めてきた平竹耕三氏(京都市文化市民局参事)に代わり、今年4月に新館長に就任するとされた三浦基氏は、京都を拠点に活動する劇団「地点」を主宰する演出家だ。だが昨年9月以来、同氏と地点は、劇団内で起きたとされる元劇団員へのハラスメント・解雇問題について、主に映像・演劇制作に関わる労働者の組合である「映演労連フリーユニオン」および元劇団員との間で、団体交渉の最中にある。 舞台芸術界からはさまざまな声が上がっているが、当事者の主張はこれまでほとんど聞こえてこなかった。以下は、ロームシアター京都のプログラムディレクターによる特別寄稿。内情を記すにとどまらない、そして同劇場にとどまらない問題提起に、ぜひ耳を傾けていただきたい。 なお、この記事とともに蔭山陽太氏のインタビューも掲載する
福永信 1週間を切った。 岡﨑乾二郎の大規模個展が終わる。1979年の初期作品から、2019年の最新作まで、40年に及ぶ活動が網羅された画期的な展覧会である。もう二度とない。大部な図録が刊行前から話題だが、展示構成の素晴らしさは本の中ではわからない。本は残るが、「展示」は残らない。 展示室に入ってすぐの様子。右手に「あかさかみつけ」シリーズ。 左手のセラミック作品は「サクモクのくさきに クワヒとうつくしみ、かうむらしむ」(2000)。 その隣からはドローイングが続く。可動展示室の絵画作品も見える。 (画像提供:豊田市美術館) 岡﨑の絵のタイトルは長い。我々観客はそのことに驚く。絵にも驚いているはずだが、何行にもわたる文章があり、それがタイトルだと言われたら、奇妙なそちらに目が向くのが、我々の弱いところである。長短はあるものの250字くらいは珍しくない。今、この文章がすでにそれくらいの字数な
2019年9月6日、京都のアートスペース「浄土複合」で、批評家の浅田彰・京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長によるレクチャーが開催された。芸術祭内の企画展「表現の不自由展・その後」の展示中止と文化庁による補助金不交付決定で揺れる「あいちトリエンナーレ2019」問題がテーマだったが、会場に、トリエンナーレの津田大介芸術監督が予告なく登場。会期半ば、まだ「表現の不自由展・その後」の再開への道筋が見えない時点で、期せずして対談となった当夜の模様を再現する。 構成:編集部 写真:池田剛介 編集協力:真部優子 水上瑞咲 浅田 今回、この浄土複合スクールという小さなスペースで「あいちトリエンナーレ2019」の問題について話すことになったのですが、トリエンナーレの芸術監督として問題の渦中にいる津田大介さんがそれを聞きつけて来てくれました――急に決まったので事前に告知はしませんでしたが。アート・ワー
あいちトリエンナーレ2019が波乱の内に閉幕する前日に、主会場のひとつである豊田市で参加アーティストと批評家による対談が行われた。対談のテーマは、近現代史に材を取った新作インスタレーション。神風特攻隊、京都学派の哲学者たち、小津安二郎、横山隆一……さまざまな要素が盛り込まれた作品はどのようにつくられたのか。作品が持つ現代的意味とは何か。スリリングな対談を、ほぼ完全な形で採録した。 構成:編集部 通訳:田村かのこ 翻訳:新井知行 写真:谷川ヒロシ(展示写真とも) 協力:あいちトリエンナーレ2019 浅田 最初に、あいちトリエンナーレ全体について話しておきたいと思います。昨日は台風19号が吹き荒れましたが、あいちトリエンナーレは「表現の不自由展・その後」をめぐって、「メディア台風」に襲われた。つまり、ネット右翼が巻き起こしマス・メディアにまで広がったストームですね。それはたいへん不幸なことでし
小崎 哲哉(おざき・てつや) 1955年、東京生まれ。 ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。 写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。 京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。 あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。 最新のエントリー 20.08.03 会田誠の『げいさい』 20.04.18 無人劇と無観客無配信ライブ(承前) 20.03.31 無人劇と無観客無配信ライブ 20.03.07 ロームシアター京都の騒ぎについて 20.02.02 ダムタイプとサミュエル・ベケット アーカイブ ▼2020年8月 「会田誠の『げいさい』」 ▼2020年4月 「無人劇と無観客無配信ライブ(承前)」 ▼2020年3月 「無人劇
福永信 河村たかし名古屋市長があいちトリエンナーレのメイン会場である愛知芸術文化センターの外でプラカードを手に座り込みをした。これに関して、私は極めて残念に思う者である。なぜなら彼は座る場所を間違えているからであり、腰を下ろすのはその場所ではなく、むろん県庁前でもなく、同じあいちトリエンナーレ出品作小田原のどか《↓(1923−1951)》の上に彼は座るべきだったのである。作者は望んでないかもしれないが、河村は、実在する野外彫像の「台座」のみを再現したその作品に登って座り込みをすべきだったのである。この台座の「本物」は戦時下の東京、帝国陸軍の拠点付近に建設されたもので、当時は寺内元帥騎馬像のブロンズ像がその上で勇ましい姿で見下ろしていた。それが戦時中に金属供出であっさり消え、戦後数年を経た1951年、新たにまったく逆のコンセプトであるはずの、平和の群像と題された女性裸体像にすげ替えられた。作
小崎哲哉 KEX ことKYOTO EXPERIMENT 2019が開幕した10月5日夜。ロームシアター京都で世界初演されたチェルフィッチュ×金氏徹平の『消しゴム山』が終わった後に、同劇場のローム・スクエアにつくられた野外特設ステージでオープニングパーティーが開かれた。門川大作京都市長に続いて、KEXの橋本裕介プログラムディレクターのスピーチが始まったとき、僕は後ろのほうで友人とワインを飲んでいた。どうせ儀礼的な挨拶だろうと思って談笑していたのだが、穏やかならざる言葉が硬い口調で語られていることに気が付いてステージに近寄った。以下、橋本ディレクターの承諾を得て、スピーチの草稿を転載する。 お集まりの皆さん、KYOTO EXPERIMENT 2019オープニングパーティーにお越しいただき、ありがとうございます。 天候にも恵まれ、KYOTO EXPERIMENT 2019が本日開幕しました。今日
あいちトリエンナーレ2019の展示風景 ホー・ツーニェン《旅館アポリア》2019 Photo: Takeshi Hirabayashi 小崎哲哉 あいちトリエンナーレ2019をめぐる言説は、いまのところ「表現の不自由展・その後」の中止騒動に集中している。当然と言えば当然だし、ほかならぬ僕自身もいくつかの媒体にコメントや文章を寄せた。だが、本来であれば個々のコンテンツや全体についてのレビューがもっとなければおかしい。豊田市での展示をまだ観ていない福永信さんが寄稿で触れていないこともあり、今回、(高嶺格の「規格外」の作品を除いて)最も素晴らしいと思った作品についてのレビューを書いた。ホー・ツーニェンの「旅館アポリア」である。 特攻隊の物語 ホー・ツーニェンの「旅館アポリア」(2019年。豊田市内・喜楽亭)は、大正期に建てられ、その後、現在の場所に復元移築された元・料理旅館を舞台とする力作である
福永信 あいちトリエンナーレ2019(津田大介芸術監督)は参加アーティストの男女比をほとんど均等にするというユニークなアイデアを提案し、実現した。単純なアイデアと批判もあっただろうが、一度見てみたいと私は楽しみにしていた。なぜならそんな状態を一度も日本の巨大な展覧会は実現したことがないのであり、誰もやってないアイデアの実現というのはそれだけでとても好きだからだ。 しかし展示に対する抗議の声により、その均衡がわずか3日間で崩れ始めたのは周知のとおりだ。多数寄せられたという抗議の男女比はわからないし、会期から1週間余りで770件もの脅迫メールが届くという異常事態だが(単なる抗議、クレームではなく「脅迫」というのに驚かされる。普通、世間ではアーティストという存在の方がイカれていると思われることが多いはずだが、これでは全く逆転して世間の方が完全にイカれているではないか、しかも最悪のイカれかたで)、
2019年1月29日、小説家で批評家の橋本治氏が亡くなった。その仕事のひとつに、日本美術史を独自の視点で読み解いた『ひらがな日本美術史』(全7巻)がある。シリーズが完結した2007年に、批評家の浅田彰氏との間で交わされた対談を、追悼の意を込めて転載・公開する。 私の中に「奇」はない 浅田 お久しぶりです。二十五年くらい前に、『広告批評』が紀伊國屋ホールで開いたシンポジウムで、オブザーヴァーと称して隣どうしに座らされて以来ですよね。 橋本 あれは何だったんですかね。僕はオブザーヴァーになってくださいって言われた記憶もないんですよ。客席にいてくださいって言われて、何か最後に言ってくださいって言われて、すごく過激なことを言ったという記憶だけはあるんですけどね。 浅田 ぼくはそのとき、橋本さんのデビュー作「桃尻娘」が雑誌に掲載されたときからのファンだと言ったんですけど、あれ以来、橋本さんは、元祖ひ
浅田 彰(あさだ・あきら) 1957年、神戸市生まれ。 京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。 同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。 著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。 最新のエントリー 19.05.01 昭和の終わり、平成の終わり 19.03.29 原美術館のドリス・ファン・ノーテン 19.03.07 マックイーンとマルジェラ――ファッション・ビジネスの大波の中で 18.12.07 映画のラスト・エンペラー――ベルナルド・ベルトルッチ追悼 18.11.03 トランプから/トランプへ(5)マクロンとトラン
福永 信(ふくなが・しん) 1972年生まれ。 著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)、『小説の家』(2016/編著)。 最新のエントリー 19.06.10 クマのプーさん展の図録がいい 19.02.10 村瀬恭子の新作展(タカ・イシイギャラリー東京) 18.11.12 関西の80年代展 18.09.06 夏のおすすめ、ゴードン・マッタ=クラーク展 18.08.24 夏のおすすめ、木田金次郎展 アーカイブ ▼2019年6月 「クマのプーさん展の図録がいい」 ▼2019年2月 「村瀬恭子の新作展(タカ・イシイギャラ
福嶋亮大 どいつもこいつもナメとんのか――、少々下品だが、これがここ数ヶ月の文壇の醜態を目の当たりにした、私の偽らざる感想である。言うまでもなく、早稲田大学教授の文芸批評家・渡部直己のセクハラ事件を端緒にした一連の騒動、および芥川賞候補作になった群像新人賞受賞作である北条裕子「美しい顔」をめぐる盗用疑惑を指してのことである。それぞれについて私見を述べる。 私はほかならぬこのRealkyotoで渡部直己とは対談したことがあり、今回の騒動の直前には彼に代打を頼まれて、福永信とのトークショー@芦屋市立美術博物館に急遽出演したくらいで、以前からかなり親しい間柄である。彼の女性遍歴についても知らないわけではないけれども(近年はそちらの方面は「卒業」したのだろうと思い込んでいた私の認識は甘かったのだが)、そこはプライヴェートな領域に関わるので触れるべきではないだろう。一般論として、男女の問題は外野には
池田 今回は哲学者の國分功一郎さんにご登場いただきました。近著『中動態の世界』を起点に、主著の『暇と退屈の倫理学』について、さらに最近は想像力の問題について考えられているとのことなので、こうした関心についても、文化や芸術との関連を見据えながらお聞きできればと思います。 人間の弱さに対する関心 池田 まずは2017年に出版されて話題になった『中動態の世界』ですが、今回読み直してみて、やはりこの本が医学書院から出されていて、依存症の問題がひとつの出発点になっているというところに意表をつかれる思いがします。というのもこの本では、古典ギリシア語の文法についての歴史的・哲学的な検討がたいへん緻密に展開されているからです。まずはこの中動態と臨床的関心との接点について伺いたいと思います。 國分 中動態への関心というのは昔からあって、本当に自分はポストモダニストだなと思うのですが、近代的主体に対する様々な
飯沢耕太郎 荒木経惟さんのモデルだったKaoRiさんがブログに投稿した「その知識、本当に正しいですか?」という文章が大きな話題になっている。 https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65 とても真っ当な内容で、荒木さんの「ミューズ」だったはずの彼女が、契約書や金銭的な対価もほとんどなく「モノのように扱い続け」られてきたこと、自分のイメージが、荒木さん及び編集者を含む複数の関係者によって勝手に作り変えられ、そのことによって疲弊し、精神的、身体的に大きなダメージを受けたにもかかわらず、何のフォローもなかったことなどが、むしろ淡々と綴られている。単純に荒木さんを非難し、告発するというのではなく、事実を事実として認め合うことを求めた文章は、「お互いにお互いを尊重しあって発展する世の中になりますように」と結ばれる。 荒木さんとKaoRiさんの当事者同士
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『REALKYOTO – CULTURAL SEARCH ENGINE』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く