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「当事者」という概念のまわりを考えるうえで大事な点に触れた、雁琳氏の論稿。 note.com いくつか引用してみる(強調は引用者)。 具体的にどのような中傷と差別的発言であったかについては聊(いささ)かも検討されていない 所謂(いわゆる)〈弱者男性論〉などは、起草者の思想によればその「コミュニケーション様式」からして「差別的な言動」に数えられることになる。初めからその回路を塞がれているのである。言論に携わる者は必ず、女性は被差別階級、男性は差別階級という起草者の根底的な社会観を共有せねばならないというのである。 「公正」な議論や論争の場を形成するのは、何が中傷であって何が「公正で冷静」な議論なのかに対する「女性研究者」の判定(のみ)によるのであり、それに対する批判は(女性研究者により「中傷」であると分類されてしまえば)全て「公正」ではない、ということになる。 要するに、 〈風刺文化の否定〉
10代のころに読んで「いちばん考えたいのはこれだ」と思いながら、どこからどう手を付けてよいのか、何を専門にすればよいのかすら分からず、そのまま30年以上たってしまった文章がこれ。 ミハイル・バフチン『小説の時空間』pp.345-346 より 結びとして、もうひとつの重要な問題にふれておかねばならない。それは、クロノトポス分析の限界という問題である。学問、芸術、文学は、それ自体は時間や空間によって規定されない意味の要因ともかかわりをもつ。たとえば、あらゆる数学の概念がそうである。われわれは、それらの概念をつかって空間的現象や時間的現象を測るが、しかし、それらの概念自体は、時間や空間によって規定されたものを含まない。それらは、われわれの抽象的思考の対象である。それは、多くの具体的な現象を形式化し厳密に学問的に解明するうえで不可欠な、抽象概念からできている。しかし、意味は、抽象的思考のうちにのみ
www.nhk.or.jp 家族会の関係者から伺ったところによると、この番組での各人の発言には事前に用意された内容があったようで、「当事者にシナリオ通りのことを言ってもらった」ということのようですね。もちろん事前に話し合いはあったでしょうし番組の都合上そういう形にするのはいいとして、それならそれで但し書きなり何なりをつけるべきではないでしょうか。いかにもご本人が自分で語ったように演出しながら、しかしそうではなかった、ということなら――斎藤環氏のいう《ご本人の欲望》は、どこへ行ったんでしょうか。 この番組が端無くも体現してしまったように、社会参加においては、必ず誰かの欲望に巻き込まれ、それに服従しなければそもそも参加すらさせてもらえない――そういう要因についてこそ論じるべきでしょう。*1 ひきこもっている状況は、それ自体が社会のいち部分であって、「社会の外」ではありません。ならば、そのすでに
批評が、自分たちへの信用失墜を話題にできていない。*1 批評とそれをめぐる理論は、どうやら左派イデオロギーの下位にある。 「当事者」という語が乱発されるが、誰も自分の話をしない、できない。自己分析を核心テーマとするはずの精神分析でさえ。*2 「マイノリティを口実にした規範言説」という最悪の知的態度。相手には反省を要求するが、自分は絶対に反省しない。*3 「理論」と「当事者」のポジションをくるくると入れ替える卑怯な言い逃れ。*4 「自分の話をしない」ことが政治的処世術だとしたら。 自分の話をさせられる側が被差別民ということになる。 ただしそこでも、現状では属性語りや「告白」に終始し、政治状況を分析しなおす語りは忌避される。私は「当事者」というポジションに監禁されたまま語らねばならないのであり、そのこと自体を解体-構築的に分析してはいけない。理論を扱う特権階級のナルシシズムを最優先にするよう語
雑誌『ビッグイシュー』誌上にて斎藤環氏との間で交わされた往復書簡の、私の側の原稿を全文公開しています。 (1)【ひきこもりは自由の障害者?】 (3) 【自殺的な自由】 (5)【欲望することは義務か?】 (7)【「娑婆から出てはならない」という掟】 (9)【必然性の門】 (11)【「メタ信仰学」について】 (13)【「社会参加」という信仰生活】 (15)【洗脳拒否を共有すること】 (17)【少し議論を整理します】 (19)【逃げられない動機づけ】 (21)【合理性から抜けられない】 (23)【「苦しむために生きる」という非合理】 (25) 【度外れた極端な弱さ】 (27)【「ひきうけ」の破綻としてのひきこもり】 (29)【「異常」なのか、「困惑」なのか】 (31)【関係の処理のしかたと、倫理】 (33)【《日常》という抑圧と、「診断」】 (35)【参加資格の流儀】 (37)【「誰がその問題を
私は2006年(平成18年)から2008年にかけて、斎藤環氏との公開往復書簡を行ないました。『ビッグイシュー』という雑誌誌上でのことです。かなり好評も頂いたのですが、斎藤氏が私の問題意識に激怒し、一方的に降りられるという形で幕を閉じ――これをきっかけに、私は斎藤氏とその周辺から政治的に排除される形になります。 平成が終わり令和を迎えるにあたり、当時の原稿をここに公開します。 すでに10年以上がたち、掲載雑誌が売り切れるなどして編集部への経済的迷惑が小さいであろうことと、斎藤環氏側がこの往復書簡そのものを葬りたいと考えているようなので、私の方でサルベージしなければ「入手不能」で闇に消えてしまうでしょう。私としては自分の人生全体に関わるような大事な問題提起を行なった場であり、そのような顛末は受け入れられません。 また斎藤環氏が私の発言の何に怒ったのか、その怒りに正当性はあったのか――それを検証
この上野千鶴子の発言は、実質的に歴史修正主義に居直ってる。 archive.is 日本で「当事者」として発言するとは、歴史修正主義に加担することだった。 当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860)) 作者: 中西正司,上野千鶴子出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2003/10/22メディア: 新書購入: 3人 クリック: 83回この商品を含むブログ (81件) を見る 当事者論の界隈で、上野千鶴子のような前提が共有されているなら 「自分に不都合なことも受け止めて、そのうえで内在的に考えてみよう」という私のスタンスは、居場所を持たないことになる。 自分の問題を考えようとする努力が見下されるだけなら 私は、企業・医師・活動団体・学者 etc. に、利用されただけだったわけか。彼らは基本的に、自分の問題を考えようとはしない。ただ「自分の問題を考えざるを得なくなった人」をネタにして、業績と正義
物理理論に登場する時間「t」は、空間の次元3つと同じような扱いになっており、「t」と「-t」の区別がつかない。しかしこれは、実際の時間が一方向でしかあり得ない現実を無視している。 この理論的に位置づけられた時間について、ほかでもないゲーデル本人が扱った論文があり、その帰結が驚くべきものであること。にもかかわらず、物理学者や哲学者からほとんど無視されていること。ホーキングにはこのゲーデルに反論する形の「時間順序保護仮説」という主張があるが、これも含めてスルーされているらしい。 数学を含む「理論言語」と時間の関係は、私たちのありように深い影響を及ぼしている――この件について、なかなか取っ掛かりが掴めずにいるのですが、本書は必要な読書でした。 時間のない宇宙―ゲーデルとアインシュタイン 最後の思索 作者: パレユアグロー,Palle Yourgrau,林一出版社/メーカー: 白揚社発売日: 20
追い詰められているのは、われわれの方ではない。奴らの方が追い詰められているのである。ゆえに、問題はいまや奴らに勝てるかどうかではない。すでに勝利は確定している。真の問題は、この勝利からどれだけ多くのものを引き出せるのか、ということにほかならない。(白井聡、2015年9月) ↓ 判断力がない人間に参政権を与えるのは不適切、という論理はもっともである。だが、普通選挙制度は導入された。ではかつての批判にどう答えてきたのか。最も筋の通った反論は、「判断力が未熟な場合があるとしても、人は判断力を高めるべく努力するはずだ」というものだ。今日の惨状をみたとき、この反論は成り立つのか。(白井聡、2017年5月)*1 左派系の有名人から、このたぐいのアレな発言が続いている。 左派はもう、「勘違いして大見得きってるダメな人たち」にしか見えない。 これは私にとって、他人事ではない。 対人支援の界隈は、基本的に左
king-biscuit 【聞き書きは、なぜ「難しい」ものになってしまったのか : 「聞き書き」という手法の本来的可能性についての一考察】【CiNii】 私はこれまで、 学術言語 ⇔ 身体的に立ち上がってくる分析 上から見下すような「調査」の目線 ⇔ 実際に生きられる関係性の技法実態(≒スキャンダル) この対立を考えるのに、《メタ》《超越論的》など、 哲学系の言葉づかいをメインにしてきたのですが(参照) 民俗学にも、近いモチーフがあり得るんですね。 私は《当事者》という言葉の文脈に居ながら、問題意識がやや孤立していて、既存の言説に手掛かりがなかったのですが、そこにヒントを頂いた形です。「フィールドワーク」「参与観察」だけでなく、対人支援や、それに関わる政策の界隈におられるかたにも、この king-biscuit さんの文章は読んでほしい。 主観性や関係性というのは、生身のからだを伴った、し
★【「異世界からきた」論文を巡って: 望月新一による「ABC予想」の証明と、数学界の戦い】(WIRED.jp) 画期的な論文を書き上げているはずなのに、内容を理解できる研究者が(書いた本人以外には)世界に一人もいないために、「論文が正しいのかどうか」さえ分からないまま時間がたってしまっている。そういう状況だそうです。 記事に関連して、望月新一氏の個人HPから、「宇宙際タイヒミューラー理論の検証:進捗状況の報告(2014年12月現在)」(PDF)という望月氏自身による文章を見つけました。そこに、自分の研究が理解されないことについて非常に印象的なことが書かれてあったので、引用してみます。*1 どなたか著名な研究者が理論の成否について決定的な発表を行なう、というような展開を一部の数学者は期待しているようですが、このような展開がいつまで経っても実現しない可能性が非常に高いと考えております。その理由
産経【新潟・三条市で男性の変死体 母も遺体で発見 息子殺害後に自殺か】(2016年5月9日11時19分) 8日夜、新潟県三条市西本成寺の無職、小林千浩(かずひろ)さん(50)が自宅で首から血を流して死亡しているのが見つかり、9日朝には同居していた73歳の母親が自宅から約1・5キロ離れた用水路で死体で発見された。自宅からは事件への関与をほのめかす母親の遺書とみられる手紙が見つかっており、県警は家に閉じこもりがちだった小林さんを母親が殺害した後、自殺を図った無理心中の可能性がある NHK【男性刺殺事件 母親の遺体発見 息子を殺害後に自殺か】(動画あり、2016年5月9日12時21分) 警察の調べによりますと、母親と弟の3人で暮らしていた小林さんは、長い間、自宅に閉じこもりがちだったということで、付近の人は母親から悩みなどの相談を受けていたということです。自宅からは謝罪や事件の関与をほのめかす遺
【成年後見人確保へ新法成立=認知症高齢者増に対応】(時事ドットコム、2016年4月8日) 【成年後見促進法が成立 「自己決定権を侵害の恐れ」】(東京新聞、2016年4月8日) 【成年後見制度促進法が成立 なり手の育成が柱】(朝日新聞、2016年4月9日) 社説【成年後見制度 利用者本位の見直しを】(毎日新聞、2016年4月8日) 社説【成年後見制度法案 意思決定支援策が最優先だ】(琉球新報、2016年4月8日) コンパクトで分かりやすい解説 弁護士・大江京子【成年後見人と医療同意】(超高齢社会と人権を考える シリーズ1) まずこれを熟読。 【医療契約の締結】≠【医的侵襲への同意】 引用部分の強調は引用者。 ■赤沼康弘【利用しやすい成年後見制度を創るための課題】(DINF) 成年後見制度は法律行為に関する制度であるため、契約などを締結したり、弁済等の法律行為をすることはできるが、医療を受ける
2015年は、これまでにも増して、左派のおかしさが剥き出しになったと感じました。当事者論に関連して決定的だったのは、セクハラ冤罪バリケードの件です。 民主参院幹部は「女性が前面に出れば手出しできない。女性による安保反対は絵にもなる」と解説した。(毎日新聞) 関連記事 ★はてブ【「触るな!セクハラだ!」野党女性議員が理事会室前を占拠し審議を妨害、触るとセクハラを主張】(togetter) ▼当時のツイート集です。女性からの怒りの声が多い。 ★はてブ【「触るな!セクハラだ!」の警告に鴻池委員長、入室できない状態つづく 元近鉄の石井議員も“冤罪”被害か】(産経ニュース) ★はてブ【鴻池祥肇氏ら、野党女性議員の「女の壁」で入室できず セクハラ冤罪も】(ライブドアニュース) 全国の注目が集まる場で、しかもTVカメラがたくさんあったからこそ、「セクハラだ」の訴えは、相手にされませんでした。しかしカメラ
5時間17分に3900円はハードルが高かったが、地元神戸で作られていること、そして監督・濱口竜介の発言が興味深く、足を運んだ(@元町映画館)。結果として、重大な示唆をもらうことになった。この件はずっと考えたいし、知人たちと話し合ってみたい。*1 以前には「読み合わせ」という方法論を考えたが――対人の支援が、演技指導や演出論と重ならないだろうか。「自分で自分への演出をする」ということも含め。 《当事者》という名詞形には、《演じる》という動詞形の要因がある。「役割を押し付けられて利用される」「それを当事者側も利用する」「自分の役割を考え直す」といったこと。 昨今の言説においては、表向きの看板と論者の実態がかけ離れている。つまり言説そのものが、「演じる」という形をしている。 冗長に見える場面も、現実そのものの時間の感覚に近い。『ハッピーアワー』という作品に付き合うことで、自分の時間の感覚を取り戻
髭男爵・山田ルイ53世「引きこもりは完全に無駄」 人生の豊かさという意味で完全にロス。みんなと一緒に楽しく勉強して遊んだ方が絶対にいい。人生設計的にも苦境に追い込まれますからね。美化するのは違うと思うんですよ。 引きこもったら、不登校になったら、後々どれだけしんどいことになるかがよくわかります。ツケは自分で払うしかないんですよ。よく歌詞で「歯車になりたくない」ってありますけど、歯車、親の敷いたレール、めっちゃいいですよ。ドロップアウトすると、こっちは純正の部品じゃないから組み込まれるのはなかなか難しい。 《その体験は、完全に無駄だった》―― 病気・貧困・事故・犯罪被害・障害・医療過誤など、 「あるよりは、ないほうがいい体験」について、つねに問われ得るモチーフだと思う。 安直な美化は、弱さゆえのイデオロギーであり、必要な問題意識をかえって抑圧してしまう*1。その逃避的な態度は、じつは体験を受
@QueenWaks なぜわたしが大事に思ってる女の子たちがこんな社会の最底辺彷徨ってるようなクズに毎日毎日罵詈雑言投げつけられて苦しまなきゃいけないのか。こんなに言われると人でも殺したのかと思うけどデモやっただけだからね アホかよ。*1 @QueenWaks: わたしの「社会の最底辺のクズ」の定義はレイシストやセクシスト等の他者に対する想像力を持たず知性に対し敬意を払わない人間のことです。 2015-10-16 11:52:27 via Twitter for iPhone @a_kitada: 近代の「社会」の概念に照らして完全に正しい用法かと。「社会の最底辺」は、貧困者でも高価値を与えられる地位や職にないひとのことを意味しない。主体たりうる資源がありながら、主体となることなく他者との連帯を拒絶する者、それが「底辺」。 URL 2015-10-17 01:14:13 via Twitt
上尾真道氏【《書評》:ジャック・ランシエール著、梶田裕、堀容子訳『無知な教師』】 書評本文より(以下、枠線内はすべて上尾氏の文章からの引用)*1: 当代の知識人たちが寄稿するこの雑誌が、知性の代表みたいな風にして、(ポピュリズムの政治も含め)現代の民衆がいかにアホであるかについてごたくを並べていたらやだな、と思ったのだ。 左翼・リベラルの文脈で口にされる「反知性主義」という罵倒語は、 むしろ「それを口にする人の話は聞かなくてよい」の指標みたいになってますが、 この上尾真道(うえお・まさみち)氏*2の書評は、たんに他罰的な見下しとは違う、 むしろそういう「見下し」に疑問を呈する話になっています。 熟読しました。「反知性主義」について書かれた文章としては、 これまでに読んだもののうちで最も魅力的でした。 こんにちの「反知性主義」論の居心地悪さは、こうした「ほんものの知性」の擁護を、エリート主義
【「20世紀末・日本の美術」から「新しき場所」へ】(togetter)より: .@EnricoLetter 「接続と切断のサイクル」という大山様の発言には、千葉雅也さんの著作との響き合いも想起しました(僕は読めてないので単に想像でしかないんですが)。いずれにせよ、ヒントとなるツイート、ありがとうござました。 2015-05-06 22:59:45 via Twitter Web Client 千葉雅也氏の切断論については、以前に拙エントリで疑問を出しました。 【身動きが取れません―― 千葉雅也のドゥルーズ論 】 美的スローガンとしての「切断」や「逃走」*1が欺瞞的なのは、 それを言うことができるための条件を論じない、ということです。 切断や逃走を言うご本人たちは、どうやって生活してるのでしょうか。 ある《接続≒蓄積》があるからこそ、《切断≒逃走》を言えているわけです。*2 あるいは、《接続
サイト: http://jart-end20.jugem.jp/ 20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から 作者: 中村ケンゴ,眞島竜男,永瀬恭一,楠見清,木村絵理子,小金沢智出版社/メーカー: アートダイバー発売日: 2015/04/15メディア: 単行本この商品を含むブログ (8件) を見る 私は不登校や引きこもりを中心に考えてきたわけですが、 《社会参加をどうするか》というのは、 自分の制作をどうするか、その作業過程をどう受け入れてもらうか ということと、切り離せません。そうであるからこそ、美術作品そのものに大した興味のない私にも、この本が元気をくれたのでしょう。この本は、自分の作業をやり始めたくなる効果を持ちます。 痛烈に感じたのは、「これと同じような議論を、自分の関わっている領域で試みたい」ということ。本書は美術に特化されていますが、《自分だったらこう語る》というのを、自
【『20世紀末・日本の美術』についての大山エンリコイサム氏の感想ツイート】(togetter) .@EnricoLetter 大山様、「20世紀末・日本の美術」へのコメントありがとうございます。拙発言の偏りも含め、前向きに読んでいただけたようで、大変にうれしいです。更に僕の発言(主に後半の第二部の方ですね)の整理を的確に行って頂き、感謝します。 2015-05-06 22:51:47 via Twitter Web Client .@EnricoLetter 特に切断的批評が直ちに紛争状態から勝ち負けのシンプルなストーリーに転化してしまうのは、恐らく美術特有のことではなく、国内の言説のある「伝統」でもあるかもしれません。例えばかつての70年代文芸・美術批評にも、そういう光景があったように思います。 2015-05-06 22:52:55 via Twitter Web Client .@E
潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書) 作者: 鈴木智彦出版社/メーカー: 文藝春秋発売日: 2011/02/17メディア: 新書購入: 3人 クリック: 105回この商品を含むブログ (22件) を見る 本のタイトルや帯はやや扇情的ですが、 中身はむしろ淡々として、突き放した筆致です。 歌舞伎町、飛田新地、釜ヶ崎その他、生々しい実態が描かれていますが――私がとりわけ興味を寄せたのは、著者ご自身の葛藤・失敗についての記述です。つまりこの本は、単に対象についてのルポというより、「ヤクザについて書くこと」そのものについての貴重な現場報告に「も」なっています。 過剰にヤクザに肩入れしたり、逆に罵倒が前提になったりするのではなく、あるいはデータ一辺倒の「客観性」に終わるのでもない。15年にもわたって濃密な(しかし距離感のある)関係を生きながら、論じる自分を内省的に、また社会的に位置づけ直す――その
【『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』著者インタビュー(1):永瀬恭一】(アートダイバー) リンク先は美術の話ですが、モチーフとして共有できる点を感じたので、 引用しながらメモします(強調は引用者)。 「触れられていない事象や側面」 それとは別に、本当に語られていないことや触れられてこなかったことはたくさんあるはずです。これまで特権的な語り手が、〔…〕 実はこの大雑把な構図の下には、触れられていない事象や側面がある。その、我々に届かなかった歴史(デッドストック)をどう考えるのか。 「デッドストック」という言葉からは、東浩紀氏の『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』を思い出す。これは、情報断片としてのエクリチュールが届かずにいる、という話だったが――「触れられていない事象や側面」という永瀬氏の言い方では、《当時その場にあった、状況に対する引き受けかた、制作スタイル》に
【[提言] 若者は政策的支援を受ける権利もあるが、自ら環境を変えていく権利と義務がある。若者参画に向けたチャンスとエンパワメントが必要だ】(ビッグイシュー ONLINE) 私が斎藤環氏に反論したのは、まさにこれの実演です。 しかしその結果生じたのは、仕事の場からの排除でした(参照)。*1 もちろん抗議は続けますが――紛争そのものは、意見表明にはつきものです。 《自ら環境を変えていく権利と義務》――これは政治活動への誘いであって、「何を言ってもチヤホヤされる」というような、子ども扱いの局面ではありません。 不登校や閉じこもりの「当事者」を特別扱いするのに、いざ大事な議論が始まると、権威者である医師や学者への反論は許さない。そういうことが繰り返され、けっきょく、介入が許される話題は極端に限られています*2。――このままでは、欺瞞的なダブルスタンダードにすぎません。 逆にいうと、発言を試みる限り
順応的になれない、所属を持てないのは、あぶない*1 しかし、そういう境位でのみ為せることがある 私が死ぬことで喜ぶ人への怒り 私のために待ってくれた人への申し訳なさ 希死念慮は、誰にとっても珍しくない →むしろヒトを、希死念慮との関係で位置づける 死にたくないのに死んだ/殺された人たち *1:特定の学問言説に順応し、「問題」を所与通りに引き受けることができれば、《仕事をする》の土壌ができる。ところが、問題意識そのものを変えざるを得ない必然性に取り憑かれてしまうと、いわば自分は問題の実存であり、「自分を殺せば問題はなくなる」。問題意識のありようを変える必然を説得的に形にできなければ、思いつきでどうでもいいことを喋り散らしてるだけになる。→生きた火である問題意識、その改編を必然的な作品として提示できるか。
百田尚樹『殉愛』の真実 作者: 角岡伸彦,西岡研介,家鋪渡,宝島「殉愛騒動」取材班出版社/メーカー: 宝島社発売日: 2015/02/23メディア: 単行本この商品を含むブログ (17件) を見る この案件では、2ch の当該スレッドを長々とリアルタイムで読み続ける、という初めての経験をした*1。本書は本当にありがたい出版で、まずは関係者に感謝。*2 読みながらずっと考えていたのは、 悪意の人が現れたときに、泣き寝入りをせずに、 しかし自分が犯罪者にもならずにいるには、どうすればよいか。 孤立した人が突発的に対処しようとすれば、犯罪に手を染めるしかなくなる。 必要なのはその逆で、《集合的・持続的な》対処。 これを実現するための環境整備や技法が要る。 本書を読むかぎり、「相手の良心を期待しながら、好意的に対処する」ような努力は、すべて後妻側に利用され、踏みにじられている。*3 やしきたかじん
【トークセッション「ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち」をめぐるツイートいろいろ】- togetter 芸術活動と生活については、 物象化に支配された世界で、素材をどうするか →人事権、人脈、マーケット的影響力を持つ人に抵抗しにくい。 「逆らったら生活できない」 私たちの世界において、圧倒的な主体は《価値≒資本》であって、 素材レベルをどうこうしたがる問題意識は、決定権を価値に握られている。 以下、佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』より引用。 資本のもとへの労働の形態的包摂と素材的編成(p.362) 形態による素材的世界の編成は素材的世界からの様々な抵抗を呼び起こさずにはいない(P.395) 私が芸術を必要とするのは、言語そのものまで物象化に支配された状況から、その条件を問い直し、自分でやり直すチャンスや技法を取り戻せるかという話であ
「気持ちを分かってほしい」とかいうのは、感情的同一化を要求する暴力です。 これに共感を示すのが誠意ということになってる間は、むしろ権威主義は温存されます。 たとえば引きこもり問題では、「私の気持ちを分かってほしい」と言う人が、自分以外の「気持ち」を考えることは、ほとんどありません*1。それに迎合する臨床家や学者は、ひきこもり問題をめぐる「当事者性」の話をするとなると、「自分も引きこもりたくなる」という話しかできません。 これでは、ひきこもる場と就労の場、あるいはその両方を縛りつける「権威化された学問言説」という、自分たちの状況そのもののフォーマットの問題、それに伴う各人の当事者性については*2、まったく論じられないのです。 そもそも、「気持ちを考えてほしい」というなら、生活費を自分で稼ぎだす必要に疲労困憊する人たちの「気持ち」を優先すべき、という話にしかならないはずです*3。どうして、当事
思想史の研究と、いわゆる「実学」研究の関係について、 研究者間の論争状態を目にしたので、それを部分的に引用しつつ、*1 既存の政策論や臨床言説に欠けているポイントを記してみます。 書籍『労働と思想』 市野川容孝、渋谷望・編 発行:堀之内出版 『労働と思想』か。まったく読みたいと思わないな。前川さんのカステルくらいかな。 2015-01-29 01:12:01 via Twitter for iPhone 社会思想の研究って、なんでほとんど貢献できないのに、外国のものやるんだろう。そっちで有用なものを出すのは相当ハードルが高いと思うんだけど。 2015-01-29 01:19:52 via Twitter for iPhone 自分の理解できないものを意味ないって考える反知性主義ってのが、こうやって広まってるのは深刻だよなぁ。 2015-01-29 05:08:26 via Twitter
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