サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
technique.hateblo.jp
話題になっていたツイートより: @mcnang / ガードナーによる疑似科学者の特徴は、ざっくりまとめると、... ある学問領域で実績があり、科学論については穏当な見解をもつ論者が、政治経済や差別問題では唖然とするような議論をしていることからして*1、実は「科学か科学でないか」というのは、知的態度にかんする部分的論点にすぎないことが分かります。 「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫) 作者: アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン,田崎晴明,大野克嗣,堀茂樹出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2012/02/17メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 27回この商品を含むブログ (30件) を見る ↑この本の邦訳者の1人である田崎晴明氏が、イリヤ・プリゴジン『確実性の終焉―時間と量子論、二つのパラドクスの解決』の書評をされているのですが――プリゴジンを露骨に
集団の生きるパターンや条件を分析し、これをタイミングごとに組み替えようとする方法論*1には、 雇用やサービスをめぐる民事的契約からの逸脱 という要因があります(最初の取り決めからも逸脱し得るので)。そうすると、そういう意味での制度分析をスタッフに要求することは、それ自体が訴訟リスクとの葛藤になる。 →「そのほうが患者さんのためになるし、自分も楽になれる」と焚き付けられ、しかしいざとなったら「このスタッフが勝手にやったこと」とされるなら*2、職員としては既定路線への官僚的遵守でいたほうが安全です。 そもそも精神科系の医療・福祉では、訴訟リスクを職員個人に負わせる傾向のあることが囁かれます(参照)。職員は薄給で雇われたうえに、自動的に訴訟リスクに巻き込まれ、個人で責任を負わされる。▼医療・福祉への従事そのものが訴訟リスクなわけですが、制度分析においては、そこに不法行為の危険が加わる。 分析の大
思想とは、紛争導入のスタイル。愛する≒紛争する。執着のないところに説得はない。▼このテーゼ自体が自己言及的。私はこのように導入している。 紛争は思い通りにならない。紛争こそ中動態であり、事件と受働に満ちている。*1 昨今の言論は、情報処理のパターンを模倣する。アルゴリズムと、順応主義的な自己顕示欲があるだけ。それぞれの理論や思想家がアルゴリズムの提示。*2 過剰な《病気化》と、過剰な《心因化》 病気ということにすれば専門家は業績になり、患者は免責される*3。専門家側は、アルゴリズムからの逸脱で過失責任を問われるが、「アルゴリズムしか考えていない」ことによる過失が忘却されている。 心因ということにすれば専門家は免責され、患者内部の問題になる。しかし「心因」にも、専門家の言動やシステムの前提が関係している。 分析そのものが紛争性を黙殺し、抑圧行為そのものになっている。 *1:「泣き寝入り」と「
以下、ネタバレ注意。 人類は、ということは言葉は、ナマの時間をめぐっては、 素朴な形でしか資源化できていない*1。この映画は、 時間をめぐって、今とは違う努力を開発できるか という人類史的な問いを思い出させてくれる。 本作では、重力制御のカギをつかむには、ブラックホール中心部のデータを持ち帰る必要があるとされていて、しかしそれは原理的にできないので、*2 人類には重力制御はできない 相対論的効果で時間が延びたり縮んだりはしても、時間を逆戻りすることはできない という設定だった。 理論とナマの時間 この映画には、 時間を語る理論には自己言及があるので無意味 というニュアンスのセリフがあるのだが、*3 たとえば「E=mc2」という有名な式にしても、項の関係を静的に記しただけで、式そのものは無時間的だ。ところが私たちは時間的存在なので、理論を扱う作業がどうしても時間的になる。私たちの生は、理論そ
左派は、名詞形の当事者概念を強固に信仰しており、 それがゆえに、名詞形の分類(民族など)を要因として含んだ党派性を分析することを許さない。この「許さない」が欺瞞になる。 左派の議論じたいが、人の分類を前提にした、差別の実行行為になっている。 そもそも左派は、自分たちの党派性(至近距離の実態)を分析する能力を持たず*1、「当事者」のレッテルで誰を擁護するかを決めているので、すみからすみまで、欺瞞的なアリバイ作りになる。 名詞形の民族概念が、党派性の形成に現に力を振るっているなら、 それを要因として見据えた上での分析が要る。 ところが左派は、それを許さない。 そして、「民族を差別してはならない」という左派が、「日本はダメ」と言い続ける*2。彼らは、こんなレベルの自己矛盾すら理解できない。 「日本を批判する限り、100%正しい」「日本人への憎悪こそ、Politically Correct」――こ
私のツイートより: 左翼・リベラルを含め、差別的な人たちの言説は、それ自体が依存症のフレームを成している。(これは自己検証のモチーフで、くり返し思い出す必要があります) 2014-11-02 10:54:17 via Twitter Web Client 「客観性」を口実にすることは、それ自体が依存症のフレーム。 2014-11-02 10:55:21 via Twitter Web Client to @ueyamakzk ここを問わないと、学問や正義を口実にする人たちの加担責任が見えてこない。「〇〇患者は犯罪を犯す可能性が高い」という「客観性を装う言説」が、人を逸脱に追い込み、犯罪の起きやすい環境を作る。客観性を口実にする人間が、環境悪化のひどい加担者であること。 2014-11-02 11:02:25 via Twitter Web Client to @ueyamakzk 「わかり
WPA 疫学・公衆衛生セクション ミーティング -「日本の参加者の方へ」*1 この度、わが国でははじめてとなる WPA 疫学・公衆衛生セクションミーティングを2014年10月16〜18日に奈良で開催することになりました。 読みやすいように少し改変して引用: WHO(世界保健機関)が、2013年の第66回総会(参照PDF)において、「メンタルヘルス・アクションプラン2013-2020」(PDF)を採択したこと、その中心となる考え方は「No health without mental health(精神保健なくして健康なし)」であることを踏まえて、日本における公衆衛生としての精神保健の発展にも焦点を当てます。 関連して、Wikipedia -「障害調整生命年」*2 disability-adjusted life year (DALY、ダリー) とは、病的状態、障害、早死により失われた年数を意
《自由な時間をなくせ!》(押川剛)*1 こころの病気のひとが精神科病院に入院すると、 程度の差はあれど、良くなるのはなぜか。 治療や投薬の効果はもちろんだが、 他者が介入する、という側面があることは、 非常に大きいのではないだろうか。 人権侵害だ何だと言うひともあるが、 俺は、自由な時間をなくすことは、大事なことだと思う。 簡単に同意はできないものの、重要な論点です。 ところが、学問や思想との関係でこれを論じられる人が、ほとんどいません。 自由論の専門家は、《自由にさせるだけではかえって行き詰まる》という、精神科臨床や引きこもり問題の焦点ともなり得る問いに、うまく答えられない。*2 「自由な時間をなくせ」だけでは、各種全体主義、カルト集団、ブラック企業等に都合がよすぎて、あまりに危険です。 ここでは自由が、理念や規範ではなくて、《技法》の問いとして現れています。 単なるスローガンや精神主義
浅田彰《黒瀬陽平へ――「『当事者性』の美学」の余白に》(REALKYOTO)より: 僕の基本的な考えは、当事者性の論理は社会学的・社会政策的には重要でも、文化的にはむしろ障害になる、というものです。〔…〕 女性−レズビアンの女性−アフリカ系のレズビアンの女性−不法移民のアフリカ系のレズビアンの女性…のことは当事者にしかわからない。この論理を徹底すると、挙句の果てには、「私のことは当事者である私にしかわからない」ということになってしまう。これはコミュニケーションの否定です。そもそも本当は私のことは私にはわからない。私にとって私とは謎であり、他者とのコミュニケーションの中でそのつど部分的に明らかになっていくものだったはずです。 マイノリティの当事者性に配慮することが政治的に正しいというポリティカル・コレクトネス(P.C.)の論理がアートの世界でも強調された時期がありますが、そういう意味で僕は一
「第183回国会 参議院 予算委員会 平成25年5月7日」(参照)より: 有村治子: 現在、ニート、引きこもりで困難な状況にある方々がこのまま年を取って生活保護を受給することになった場合、幾らぐらいの社会保障費が必要になってくるのか。民間のシンクタンクでは、就職氷河期に就職したくてもできなかった、そして結果として引きこもりになった、あるいはニートになったという方々七十七・四万人が将来そのまま社会保障の生活保護を受けるというふうになった場合、掛かる社会のコストというのは約十七兆円から十九・三兆円というふうに見積もっています。これは、現在の生活保護費の総額のおよそ五倍にも上る金額です。これはとても日本の国家財政を保てる状況ではありません。 家族会の関係者から情報をいただいて、動画も拝見したのですが(Youtube)、 有村治子氏(自民党)の発言がていねいなのが印象的です。 省庁や政党の区切りを
澤田稔氏《ソーシャル・マジョリティ研究会セミナー2014》(minor’s blog) 「当事者研究」に感じている疑念と興味をめぐって、あるいは今後の対話的なやり取りの可能性に向けて、いくつかのヒントを頂きました。以下、引用しながらメモしてみます(強調は全て引用者)。 特定の人々が、様々な感覚や認識のしかたに一定の特徴的な性質を備えているにしても、その人が抱える社会性やコミュニケーション上の諸問題の全てを、発達障がいという個人的特性にのみ起因するものと考えるのではなく、社会の側にある諸要因をも視野に入れて、その問題の解決法を考えて行く必要があるのではないかと。その点で、ソーシャル・マジョリティ(社会の多数派)の社会関係の作り方やコミュニケーションのしかたを知ることが重要な意味を持つ。 ソーシャル・マジョリティが、知らないうちにこんなルールで会話やコミュニケーションをしているという、「普通」
《橋本聖子セクハラ問題における男性差別の根深さ》(浦部孝法『法廷日記』) 本件がセクハラであるのであれば、橋本聖子氏と高橋選手のキスシーンというのは、まさに高橋選手が性的に蹂躙されているシーンである。〔…〕 被害者が若き女性スケート選手であれば、犯行現場の写真はまず報道されないはずである。〔…〕 被害現場の写真が、堂々と報道されてしまうのは、結局は男性にとってあの程度はセクハラでもなんでもないと考えられてしまっている男性差別の根深さゆえである。 大事な論点を出されているので、これを話題として出されたことそのものは(関心を持つ一個人として)大歓迎です。いろんな立場のかたが、あれこれと意見を出し合って議論を続ける必要のある事案です。他人事にできる人は居ない。▼以下は、その上での反論です。 「写真を公開・報道すべきではなかった」というのは、そもそも本件が「セクハラ・パワハラ」としてしっかり認知さ
田房永子 《どぶろっくと痴漢の関係》(Love Piece Club) 「俺は痴漢やナンパをしたことがない、やろうと思ったことすらないのに、どうして女性たちは、無条件的に被害者意識を向けてくるのか」――そういう疑問の一部に答えてくれる文章。 ハラスメント研修や自助グループのほか、中学以降の教科書などで、集団で読んで話し合う価値のある文章だと思う。 この社会には、「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を生きる男が、うようよ居る… 加害者たちが、 「積極的になった覚えがない」 → 「なのに加害者にされた」 →「俺はむしろ被害者だ」 という思考回路を生きていることを想像させる。 この問題を、他人事にできる男はいないはず。*1――とはいえこれは、男性側の理不尽な感覚を呼び覚ましもする。「これでは、生きているだけで加害者だ」 「なにをどうやっても、自分が加害者になってしまう」 これは、ひど
《精神科病床が住居に? 長期入院は減らせるか》(NHKクローズアップ現代) 精神科の関連施設をめぐる議論は、多くが規範的です(患者さんを受け入れる「べきだ」)。先日も小児科医による反対運動が問題になりましたが(参照)――この医師を「規範的に」糾弾するだけでは、具体的にどう調整していくかが見えにくい。 左派系の議論は、規範的な誤りに見えるものを凄まじい憎悪表現でぶちのめそうとするので(左派のヘイトスピーチ)、持続的な関係調整を前提にした議論になりにくいのですね。いわば、ソーシャル・ワーカー的な配慮が見られない。 「迷惑」というのは、双方向的です。 患者さんがかける迷惑もあれば、古い地域住民が患者さんにかける迷惑もある。どっちかが過剰に我慢するというのも変な話です。――ところが、これを左派的に論じてしまうと、「住民はひたすら我慢せねばならない」みたいな、一方的な議論になりませんか。*1 規範的
福井県の仁愛大学に、招待講義にお邪魔してきました。*1 私自身にとって充実した時間でした。 講義資料のタイトルには、「ひきこもり」ではなく「孤立」を入れました。こうすることで、たとえば次のようなテーマも、やや距離をとって、しかも他人事ではなく論じることが出来ます。 《孤立》について、お互いをどう支えていくか。支援者と支援される側を役割的に切り分ければよいのではない。支援者も孤立する。 孤立にはいろんな要因がある。病気、集団の性質、など。 「孤立すべきではない」などと、規範的に言ってもダメ。あくまで技法として、具体的な話が要る。*2 世帯の単身化や非婚など、孤立は社会全体の傾向になっている。→支援者の努力は、人のつながり*3が失われてゆく環境に放置されがち。 「集団的で、持続的」なありかたを目指す。逆に言うと、「孤立して瞬間的」*4がマズい。 《孤立》と呼んで、それを多角的に検討することで、
精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から 作者: フェリックスガタリ,フランソワトスケル,菅原道哉,ジャンウリ,高江洲義英,ダニエルルロ,市川信也,F´elix Guattari,Danielle Roulot,Fran〓@7AB7@cois Tosquelles,Jean Oury,杉村昌昭,村沢真保呂,三脇康生出版社/メーカー: 松籟社発売日: 2000/04メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 208回この商品を含むブログ (49件) を見る 以下の引用は、三脇康生「精神医療の再政治化のために」より。*1 トスケイエスはドーメゾンの求めに応じ、1961年のパリ13区の巡回診療所で開かれた集会で、サンタルバンで実践している集団内の記号学(séméiologie)について重要な発表をしている。 この中でトスケイエスは、治療グループで起きる出来事を、 (1)患者自身
《「僕は完璧なのに」、「女はみな殺してやる」……米連続殺傷事件、「非モテ」男の語り残したこととは》(NAVER まとめ) この事件をめぐる議論が、あまりにズレている。 女性嫌悪と人種差別を規範的に説教し、 「良心的な知識人」のポーズを誇示して終わっている。*1 私はこの容疑者の言動を容認も肯定もしない。しかしみずからの規範的優位を示したところで、状況改善には役立たない。 容疑者の女性嫌悪と人種差別は、自己救済の回路として持ち出されている。他者からの性愛的承認に絶望し、そもそも他者を必要としない承認の回路をでっちあげること。――こういう回路を始めてしまえば、もはや説教には意味がない。それどころか説教は、断念と殺意の温床になる。*2 ドヤ顔の規範談義は、弱者を見下す文化を強める。それで環境を変えようとするのは、「自分だけは正義の味方」というナルシシズムを、問題への取り組みと勘違いすることにすぎ
特別シンポジウム 《精神分析対談: 立木康介著『露出せよ、と現代文明は言う』をめぐって》 立木康介 × 十川幸司 聴講してきました。 メタファー*1や倒錯*2をめぐるお二人の考えについて、あるいは対立点について、もっと詳細に聞いてみたかったです。 ラカン派の鑑別診断について、「仮説のはずなのに、まるで存在論的な事実のように論じるのは過剰であり、ドグマ化だ」「これでは自我心理学と同じであり、古典的というか、保守的だ」(大意)と十川幸司氏がおっしゃったことに、勇気づけられました。 「単独性はむしろ出発点」という十川氏の指摘は、臨床家ならではですが――しかしここに留まっては、プロセスとして実現される単独性の問題がないがしろにならないでしょうか。 最後に質問させていただいたのですが、以下はそれに関連して、 今後に向けての覚え書きです。 メモ 暴露に対して《メタファー≒置き換え》をやるべきだ、という
ルワンダ虐殺拡大のきっかけとなった、HipHopラジオ RTドキュメンタリー演劇 Hate Radio URL 2014-05-09 01:35:03 via Twitter for iPad リンク先の『Hate Radio』(SPAC)より: DJは「ツチ族」との友好を否定し、「フツ族」の団結を歌った、シモン・ビキンディの『こんなフツ族は嫌だ』を流し、女性パーソナリティのヴァレリーが「ツチ女性」へのレイプを示唆した後は、ニルヴァーナの『Rape me』を流す。ベルギー人ジョルジュの伝える国際ニュースにはウィットと悪意のある“民族ジョーク”が混じり、カンタノは11歳のリスナーとの電話のやり取りで隣人を狩ることを鼓舞する。 ※現在のルワンダ政府は、「ツチ族」「フツ族」という民族の区分は植民地支配の産物であるとしている。 軽妙なジョークにおける概念操作も、私たちの感情に影響している。 武内進
小山エミ氏へのお返事が長くなったので、ブログ記事にまとめます。 経緯:《虐殺や占領支配と、建国の歴史》 今ここで完結するような「答え」は私には作れませんが、 議論を整理し、勉強をし直すのに重要な刺激を頂きました。 @ueyamakzk 建国をやり直すという発想は、非現実的であるだけでなく、現体制の主権者の立場でものを言っていると思います。わたしは自分をそこに置いていません。 2014-04-24 22:06:24 via Twitter for iPhone to @ueyamakzk これは違います。私が考えていたのは、 「アメリカ大陸の先住民を中心に考える」ということなので。 ただしこのご指摘によって、自分が「自然法的な発想」と、「国家との関係で考える」こととの区分を、うまく出来ていなかったことに気付きました。 そう考えると、↓このご指摘も奇妙に思えます。 @ueyamakzk まあ、
『全国ひきこもりデー(4月1日)』の呼びかけから考えたこと ●(1)積極的に「ひきこもろう」という呼びかけは、実際のひきこもり状態にあるような《切断》とは、異質のふるまいになる。ストライキは、社会的な意思表示であり、最初から活動的だ。 ストライキに生じている意識や関係の動きと、「やむにやまれず引きこもるしかない」に生じているそれとで、何が違うか。――これは、重要な検証テーマ。*1 ●(2)日頃働いている人たちが引きこもるという日に、「いつも閉じこもっている人たち」に任せられることがあるなら素晴らしい。 それまでの経歴から、差別的に「ひきこもり」とレッテルを貼られていても、すでに求職活動を続けていて、むしろ参加や就労のチャンスがないことに苦しんでいるケースだって多いはず。(私もその一人) ●(3)ひきこもろうが、ストライキをしようが、結局は同じ社会に暮らしている。そこで、どういう参加を私たち
ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)』より: だから純粋に公民的な信仰告白というものが必要なのである。その箇条を定めるのは主権者の役割である。それは厳密に宗教的な教義としてではなく、社会性の感情としてである。この感情なしでは、善き市民でも、忠実な国民でもありえないのである。主権者はそれを信じることを誰にも強制できないが、これを信じない者を国家から追放することはできる。主権者はこの人物を、不信心な人物として追放できるのではない。非社会的な人物として、法と正義を真摯に愛することができない人物として、そして必要とされるときに義務のためにみずからの生命を捧げることのできない人物として、追放できるのである。もしも誰かがこの教義を公式に是認したあとで、あたかもそれを信じていないかのようにふるまったとしたら、その人物は死をもって罰せられるべきである。この人物は最大の罪を犯したのであ
千坂恭二氏のツイートに、「神武革命論」とあった(参照)。 そこで問われているのが、社会における《形式的禁止》であるように思われ、さかのぼって昨年9月からの氏のツイート(おそらく2500個あまり)を通読した。以下に引用するのは、その一部。 @Chisaka_Kyoji: 左翼は、反天皇的でなければならないというのは幻想であり、スターリニズムの影響の残滓だ。神武帝として出現した原初の天皇は革命家であり、後続する制度としての皇室は、その制度性から革命の他者だったと捉えるべきだ。原初の天皇の革命性に対して、その時々の現天皇は非革命的たらざるをえない。 2013-10-25 13:31:12 via web @Chisaka_Kyoji: @Chisaka_Kyoji よって、常に現天皇への忠誠を本分とする右翼は、その維新革命においては、二・二六のように、非革命的な現天皇により否定されることとなる。
↓こちらの呟きをヒントにしながら。 鍵RT 「society ──をどの様に訳すか問題──は翻訳によってもたらされたものであるとともに、自分たちが他人たちとどのような関係を取り結ぶ(べき)か・そしてそれをどのような言葉で表現すべきか、という課題をもたらすものでもあったわけで、ここでもループ効果が起きている。」 2014-02-12 11:45:41 via web @naoekmr (続き)「ここには、 ・「我々がいま在るように在ることは、どのような偶然によるものなのか」 ・人間に関わる概念の自己適用によるループ効果 ・人々のグループの誕生 というハッキング的な「歴史的存在論」のすべてのパーツが揃っているんだな。」 2014-02-12 11:46:24 via web to @naoekmr @contractio そもそも研究の発端として、「社会」という言葉からは現在、一般的には具体的
「美術・批評業界への不信」という拙エントリについて、 画家の永瀬恭一氏からレスポンスを頂きました(参照)。 ご多忙のところ、ありがとうございます。*1 斎藤環が選ばれたのは、「通常の読者の外に届ける」「経済的・政治的波及効果が期待されて」だろうというのは、むしろ前提でした。――私が行なったのは、まさにそうした口実のもとに人選が(ひいては議論が)ないがしろにされることへの抗議です。 岡崎乾二郎の技法論(とりわけ経験の条件というモチーフ)を必要とするのは、基本的には立場の弱い側です。システムの自動的作動ではどうにもならないので、そのつどの条件分析を尊重しないと、生き延びられない。経験の条件を考えることは、抵抗のスタイルでもあるでしょう。 私が斎藤環への反論を必要とするのは、まさに「経験の条件」を考えなければならないゆえですが――『ルネサンス 経験の条件』普及版の解説に、斎藤環が登用されてしまっ
この日本の美術界という《悪い場所》を、閉じた円環を開放するロジックは、マーケットの論理しかない 岡崎乾二郎氏との対談で、こう語っていたのが斎藤環氏でした(参照)。 その斎藤氏が、『四谷アート・ステュディウム』閉校問題で、 しれっと寄稿しています(参照)。*1 斎藤環氏は、岡崎氏との対談で全くトンチンカンなやり取りをしていたのですが――よりにもよって、岡崎氏の主著と目される『ルネサンス 経験の条件』普及版で、解説者を務めるとのこと(参照)。 この人選は、外部から見てもあまりに異様です。 そもそも、ひきこもりをめぐる経験の条件(としか言いようのないこと)を論じた私を、雑誌連載から排除した張本人が斎藤環氏です(参照)。 岡崎×斎藤対談を取り上げた私のエントリは、何人かの美術関係者から「面白かった」と言っていただいたのですが――パブリックな形では、言及してはいけないような扱いになっているようです。
先日のエントリのことでお話をご一緒していたら、 精神科医・美術批評家の三脇康生氏より 試合より、練習のほうが重要 というアイデアを頂いて、そこからずっと考えています。 練習というのは、非常にふしぎな概念です。 たんなる精神でも、たんなる身体でもない。 概念はふつう、一挙に丸ごと手に入るものですが、練習というのは、時間的なことを設計しなおさなければならない。概念そのものに、素材と時間要因が同時に含まれています。*1 イタリア精神保健のイベントで感じたことでいうと、 いくら素晴らしい議論を誰かがしても、それを受け止める準備ができていなければ、なんだか綺麗ごとの理念で終わってしまいます。だとすると、重要な議論をそれとして持続できるようになるためには、それに応じた、集団的な《練習》が必要にもなるでしょう。 ――長い時間をかけて、いろんな方とご一緒したいような、議論のふくらみを感じています。三脇氏が
日本語ネイティブのかたは、「稽古」と「練習」という言葉は、いつの間にかそれとなく、使い分けていますよね。しかし違いを説明しろと言われると、よく分からない。そこで以下の論文を読んでみました。 http://www.hokuriku-u.ac.jp/jimu/kiyo/kiyo26/hou1.pdf 知りたかったことが、いくつも書かれてありました(PDF注意)。 強調や段落分けをしながら、抜き書きしてみます。 《稽古》 稽古の原義とその出典に関し、辞典は一致している。つまり、その原義は、「古(いにしえ)(古道)を稽(かんが)える」であり、『書経-尭典』*1がその出典であった。 この原義は、その後、南朝宗時代に入り、「学問。又、学習する。練習する。」、「学術を研習する。」、「書を読んで学問すること。また、学んだところを復習すること。」の義をも生む。その転義の出典は、後漢の歴史を記した『後漢書』(
行ってきました。大阪です: ★『むかしMattoの町があった』自主上映会 特別企画(参照) イタリア精神保健改革をもっと深く知りたい! 理念的な目標については、映画を観てペッペ・デッラックア氏の講演を聴きに来た時点で、あるていど共有されていると思うのですね。「患者さんを人間扱いする」とか、「精神科病院なしでやっていけるはずだ」とか。 それをイベントで反復するだけでは、左翼のイデオロギーを仲間内で確認しておしまい、みたいなことになりかねない。その意味で、「前提のスローガンはもういいから、具体的な細部の話をもっと最初からしてほしかった」という感じはありました。 介入の思想と実務 ペッペ氏はいくつも論点を出されましたが、*1 決定的だったのは、地域住民とのかかわりや、強制治療に関しておっしゃった、次の点です(大意): 交渉と関係性のゲームをやる 強制的な治療や注射が、必要なこともある。けれども、
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Freezing Point』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く