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衆院選
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「情動」などというものは都度構成されるにすぎず、あらかじめなんらかの実体として本質的に存在しているのではない……。そういう主張を引っ提げて登場した一冊が、リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019)。これがなかなか痛快だ。著者は神経学者とのことだが、学際的なアプローチを取っていて、情動が最初から存在しているという「本質主義」の通念を打破すべく、「構成主義」を一般に通用させようとの意図のもと、実に多彩な具体例やたとえ話を適度に交え、さらにはその先の壮大な推論に向けて、読む側を力強く引っ張っていく。 「分類しているとき(中略)人は外界に類似点を見つけるのではなく、作り出す。脳は概念が必要になると、過去の経験によって得られる数々のインスタンスを、現在の目的にもっとも適応するよう取捨選択したり混合したりして、その
これも年越し本から。思うところあって、中田光雄『哲学とナショナリズム―ハイデガー結審』(水声社、2014)を読んでみた。ハイデガーのナチスへの加担について再考した一冊。古き良き哲学書を彷彿とさせる晦渋な文章だが、基本的にはハイデガー哲学の基本図式、ドイツにおけるナチス運動の展開、そして両者の関係性などを取り上げ、ハイデガーが厳密に何に加担し、何に加担していないかを明らかにしようとしている。全体の重要なポイントというか、中心的な枠組みをなしているのが、西欧語においていわゆるbe動詞が含み持つ、「〜である」というコプラの用法と、「〜がある」という存在規定の用法だ。前者が織りなすのは事象が相互に照応する、秩序ある世界であり、後者はそれに対するある特定事象の屹立を示すものとなる。これは一種の上部構造と下部構造でもあって、前者によって後者は取り込まれ、全体の下支えとして閉覆・亡失されてしまう。ハイデ
アウグスティヌスがらみで気になっていた一冊を見てみた。アラン・ド・リベラ編『形而上学の後に−−アウグスティヌス?』(Après La Métaphysique: Augustin? (Publications De L’institut D’études Médiévales De L’institut Catholique De Paris), éd. Alain de Libera, Vrin, 2013)という論集。アウグスティヌスが通常の形而上学的な枠組みに収まりきらない、その収まりきらなさを取り上げようという趣旨の論考が居並ぶ小著。リベラは巻頭でアウグスティヌスにおける主体の不在の問題を取り上げ、続くジャン=リュック・ナンシーは、信仰と思考との対立軸の乗り越えの可能性をアウグスティヌスに見るなどなど……。けれども個人的な目下の関心からすると、一番の注目はやはりオリヴィエ・ブールノ
直接関係する領域ではないのだけれど、比較研究という観点から、イスラム方面の中世研究というのもやはり多少とも気になる。というわけで、私市正年『マグリブ中世社会とイスラーム聖者崇拝』(山川出版社、2009)を読み始める。北アフリカのいわゆるマグレブ地方に史料の範囲を絞り、主にスーフィズムが伝わる11世紀以降のイスラム聖者についてかなり包括的にまとめた労作。期待通り、比較という観点で興味深い記述がいろいろと見られる。たとえば次の点。「スーフィスムが土俗化する過程で、聖者崇拝が盛んになり、イスラームが民衆化した」(p.48)というのが一般的な説明とされているけれど、著者はこれは間違いではないとしつつも、その地域での初期の聖者崇拝は、イスラム教という比較的新しい宗教をもって入ってきたアラブに対し、現地のベルベル人が表面的にイスラム受容を取り繕いつつ、自分たちの伝統的信仰を守ろうとした、という側面もあ
ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(工藤晋訳、左右社)をほぼざっと読み。テーマ自体は久々に心躍るものだ。人類が紡いできたなにがしかの「線」に着目した横断的な文化人類学ということなのだけれど、これって30年ほど前ならフランス語の「エクリチュール」(もともとは「文字」とか「書きっぷり」のことだけれど、敷衍されて線刻・刻印行為などをも指したりしてきた)の概念で包摂されてきたテーマ系そのもの。けれどもそこはアングロサクソン流、というべきか、線刻行為としての動的な概念だったエクリチュールは、ここではより静的というか、現象面を重視した「ライン」という概念に包摂されている。でも、たしかにそういう現象面の重視によって、エクリチュール概念それだけでは取りこぼしがちだった(あるいはうまく展開できていなかった?)領域を拾い上げていることも事実だ。「ライン」概念は、エクリチュールの専売特許みたいなものだっ
最近出たばかりの小林剛『アリストテレス知性論の系譜――ギリシア・ローマ、イスラーム世界から西欧へ』(梓出版社、2014)にざっと目を通したところ。小著ながら、これはとても面白く読める。アヴェロエスの知性単一論がどのような様々な議論を経て提出されたのかという問題に、テキストの抜粋とそれらへの著者自身のコメンタリーを通じて接近していこうという好著。自省も込めて言えば、アヴェロエスの知性論を考える場合、ともすればほかの主要な注釈家の理論とどう違うかといった議論に始終してしまい、なにゆえに、あるいはいかにして、アヴェロエスがその議論を提出するに至ったのか、という視点が欠けてしまいがちなのだけれど(苦笑)、同書はそのあたりをきっちり押さえようと試みる。思想史の上っ面をなぞるのではなく、その議論の核心部分に追体験的に肉迫しようとしている、という感じかしら。そこがなによりも素晴らしい。導きの糸となるのは
今日もある意味夏休み向けな話題を(笑)。中世を少しでも囓ると、神学者たちがちゃんと地球は丸いというような話をしていることがわかる。ところが「(暗黒の)中世では世界は平らだと思われていた」という記述をときおり目にすることがある。ああ、またこのクリシェか、と思ってスルーしがちになってしまうのだけれど、考えてみると、そういう話がいつからどうしてこんなにまで流布するようになったのかも気になるところ。というわけで、PDFで出ているスティーブン・ジェイ・グールド(科学史家、古生物学者)のエッセイ「平面地球論の遅い誕生」(Stephen Jay Gould, The Late Birth of a Flat Earth, in Dinosaur in a haystack, Johnathan Cape Ltd., 1996)(PDFはこちら)を見てみた。ちなみにもとの本は邦訳もある(『干し草のなかの恐
ピーター・ビラー「中世科学の中の黒人:その意味とは何か」(Peter Biller, The Black in Medieval Science: What Significance?, Proceedings of the Fifth Annual Gilder Lehman Center International Conference at Yale University, 2003)(PDFはこちら)という論考を眺める。これは西欧中世人の黒人観を多面的に描き出そうという研究のいわば中間報告。中世の文献や絵画などにおいて、黒人への言及・黒人の表象などは数としてもそんなに多くはないようで、研究は大変なようだが、それでも同論文からはすでにしてこの研究分野の面白さが随所に感じられ、個人的にはちょっと評価が高い(笑)。西欧において黒人が劣勢と見られるようになるのはいつごろからなのかがまずもっ
そのタイトルに惹かれて(笑)、中山康雄『現代唯名論の構築 – 歴史の哲学への応用』(春秋社、2009)を読み始める。とりあえず最初の3分の1にあたる3章まで。バリバリの難しい論考なのかと身がまえていると、想定読者に「君」と語りかけるスタイルで、入門書的な雰囲気を漂わせてくる。とはいえ、実際に「一般外延メレオロジー」の話に入っていく段になると、形式論理学っぽさが増してくるので、ちょっと読むスピードが落ちてくる……(苦笑)。同書の基本スタンスは、外的世界には個物しかなく、その個物をインスタンス(事例)として上位のクラス(類)を作るのは認識の働き、つまりは形式論理学的操作でしかないというのが出発点(だから唯名論ということになるわけだけれど)。で、部分と全体を形式論理的に考えるメレオロジー(部分論)が、その操作を説き明かすための基本体系として用いられる。個物は何かの部分をなし、それらが何らかの全体
長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは本源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせい
個体化理論の今昔 ◇はじめに 神があまねく支配するとされた中世において、大きな問題の一つに「いかにして個々の人またはモノはかかる個々の人またはモノとなるのか」という問いがあったのは周知の事実だ。言い方を変えると、これは要するに、個体同士の間に見られる差異とは何かという問題でもある。「これ」は「あれ」と異なるからこそ「これ」なのだが、ではそもそも、「これ」は「あれ」とどう違うのか、またその違いはどこからくるのか。神が壮大な統一体として考えられている中にあって、個々の差異はどこから、なにゆえにもたらされるのか。12世紀以後、現実世界の細やかな観察(それはアリストテレスに負うところが大きいのだが)を取り込んだ段階で、そうした現実が突きつける個体の問題は一挙に前面に出ることになったのだ。 けれどもそれで終わりではない。一方でそうした個体の問題は、近・現代においても存続している。比較的最近のシステム
映画『落下の解剖学』(Anatomie d’une chute (2023))を配信で観ました。2023年のカンヌでパルムドールに輝いた作品ですね。屋根裏部屋から落下した夫の死を巡って、殺人容疑に問われた妻と、視覚に障害のある幼い息子が、裁判を通じて追い込まれていく姿を描くというもの。 https://www.imdb.com/title/tt17009710/ でも終盤、その息子が見せる「合理的な信」を貫く姿勢がなんとも良い感じでした。母親が殺人をしたのかどうかをめぐり、息子はそれはありえないと考えます。検察側は「それはあなたの推測でしかありませんね」(どこかで聞いたことのある論法ですね(笑))と追い込みます。 これに対して息子は、「どちらも確証がないなら、合理的に納得できるほうを選ぶ。それは裁判がやっていることそのものだ」みたいなことを滔々と語ります。この凜とした姿が圧巻です。人は自分
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