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大谷翔平
toshinoukyouko.hatenablog.com
『闇の自己啓発』という本が出ます。僕を含めた四人による共著です。 闇の自己啓発 作者:江永 泉,木澤 佐登志,ひでシス,役所 暁発売日: 2021/01/21メディア: 単行本(ソフトカバー) 江永泉氏(江永泉 (@nema_to_morph_a) | Twitter)が主催する「闇の自己啓発会」(Dark Self-Enlightenment parties)という読書会の記録を収めたnote記事が元になっています。書籍化にあたり、加筆修正&(脚注の役割を遥かに逸脱した)脚注の追加が成されています。 note.com 読書会はnote記事の段階ですでに尋常を逸脱していた。それは記事の編集プロセスについても言える。この読書会ではテープレコーダーが用いられることは一度としてなかった。声は記録されず、各々が発したフレーズや言葉の断片を、ひでシス氏が自身のThinkPadに逐一打ち込んでいくのだ
書き上げてしまった自分の文章or本については基本的に一切の興味を無くしてしまう性なので、今回も事務報告的な告知となってしまうことを予めご了承ください。 まずは星海社から新書が出ました。 www.amazon.co.jp honto.jp 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』。内容についてはタイトルの通り、と言ってしまえばそれまでですが、平たく言えば『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の五章と六章をさらに掘り下げて発展させたもの、ということになるかと思います。もともと『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の五章を書き上げて、それの一部をブログに上げたところ星海社の編集者に声をかけられたという経緯があり、そういう意味では『ニック・ランドと新反動主義』は『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の幸福な副産物と言えなくもありません。 なお、第一章の「ピーター・ティール」は去年の
ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち 作者: 木澤佐登志出版社/メーカー: イースト・プレス発売日: 2019/01/17メディア: 単行本(ソフトカバー)この商品を含むブログを見る イースト・プレスから『ダークウェブ・アンダーグラウンド』という本が出ます。内容についてはアマゾンの商品紹介などを見てください。 念のため、タイトルは某新人バーチャルYouTuberの方とは関係ありません(おそらく)。タイトルもデザインも僕は完全にノータッチで、基本的に本文しか携わってません。ですが、それが結果的にとても良い効果を生んだというか、良い意味で自分の発想からはなかなか出てこないような本に仕上がった気がします。 この本は僕が29歳のときに書き始めて、書き終えたときには30歳になっていた、つまり20代から30代にかけて書いた本で、良くも悪くもこの頃の過渡的な時期にしか
■新ユーラシア主義、ロシア宇宙主義、シリコンバレー 現代ロシア思想の一潮流を形成する極右思想、新ユーラシア主義を代表する哲学者にアレクサンドル・ドゥーギンがいる。ユーラシア主義によれば、ユーラシア大陸の他民族を包み込む受容性=帝国性こそがロシアの本質であるとされ、現にドゥーギンは旧ソ連領(ユーラシア)をロシアの勢力圏とする領土拡大志向の外交戦略を説いている。一方でドゥーギンは右翼であるにも関わらず(?)ポストモダニストを自称しており、1993年には元アングラ詩人であらゆる権威に反抗する作家エドゥアルド・リモーノフと国家ボリシェヴィキ党(NBP)を設立、そのパンクな反権力性によって当時の若者のサブカルチャーにおいて一定の支持を集めていた。 そんなドゥーギンだが、彼は意外にもアメリカにおけるオルタナ右翼とも近い位置にいる。「オルタナ右翼」という語の命名者としても知られる白人至上主義者リチャード
イギリスの哲学者ニック・ランド(Nick Land)は、2012年、ネット上に「暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)」*1というテキストを発表し、新反動主義(Neoreaction:NRx )の主要人物の一人になった。詳しくは後述するが、この新反動主義のエッセンスがオルタナ右翼の中にも流れ込んでいるとされている。そのもっとも直截な例は、オルタナ右翼系メディア『ブライトバート』(Breitbart)の元会長であり、またドナルド・トランプの元側近でもあるスティーブ・バノンで、彼は「暗黒啓蒙」のファンであったことを公言している*2。 ■ニック・ランドの思想 ニック・ランドは、もともと大陸哲学とフランス現代思想の研究からスタートしており、初期にはジョルジュ・バタイユに関する著書もあるが、90年代中頃になると、のちに「加速主義(accelerationism)」と呼ばれることにな
こうしたあいまいで、冗長かつ不完全な記述は、フランツ・クーン博士が『支那の慈悲深き知識の宝典』に見られると指摘している記述を思い起こさせる。はるか昔のその著述の中で動物は以下のように分類されている。(a) 皇帝に帰属するもの、(b) バルサム香で防腐処理したもの、(c) 訓練されたもの、(d) 乳離れしていない仔豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) はぐれ犬、(h) 上記の分類に含まれているもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 数えきれないもの、(k) ラクダの毛で作ったきわめて細い筆で描かれたもの、(l) など(エトセトラ)、(m) つぼを壊したばかりのもの、(n) 遠くからだとハエのように見えるもの。 ――ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ジョン・ウィルキンズの分析言語』 それでは、さようなら。わが友である読者諸君、家に帰って、檻に入り、しっかり扉を閉めて、おやすみなさい。
今年(2018年)は『serial experiments lain』20周年ということで、ファンの有志によるイベント が開かれたり、脚本家の小中千昭氏がブログを開設したりと、各所で『serial experiments lain』を回顧する催しが行われているようです。 そこで、この記事では、そういった盛り上がりとは一見したところ無関係の場所で営まれている『lain』コミュニティを紹介することで、『lain』の受容層の広がりと深さの一端をお伝えしたいと思います。 ■lainchan 海外のインターネットには、いわゆるchan系と呼ばれる、日本の「ふたば☆ちゃんねる」に端を発する匿名画像掲示板が数多く存在しています。その中でも、『serial experiments lain』をモチーフとするchan系画像掲示板が、この「lainchan」です。 「lainchan」は、2014年4月に設立
キズナアイに代表される企業系Vtuberに対して、個人で技術開発と活動を行うVtuberを、さしあたりインディペンデント系Vtuberとここでは呼ぶ。インディペンデント系Vtuberには例えば、ねこます、みゅみゅ*1、のらきゃっと等が含まれるだろう。 彼らに共通する特徴として、①独学で得た技術的知識を活かす ②比較的低予算 ③活動拠点をYoutubeに限らない ④個人的な欲望が出発点*2、などが挙げられる。中でも、みゅみゅとのらきゃっとは、本来はニコ生を活動拠点にしていたという点で、その他の有名どころのVtuberとは出自を異にする。この出自の相違は重要である。というのも、ニコ生におけるライブ性は、みゅみゅ、そしてのらきゃっとのスタイルと密接に関わっているからである。本稿では、のらきゃっとにおけるスタイルの考察をとおして、インディペンデント系Vtuberのアクチュアリティを探っていく。 ま
note.mu note.mu ところで、これは記事の内容とは直接関係はないのだが、グーグルでダークウェブについて検索してみたら、どこかのニュースサイトの記事に行き当たり、そこではダークウェブについての、「危険!」だとか「絶対に近づいてはいけない!」といった仰々しい警鐘コピーが連なっていて、思わず苦笑してしまうのだった。 執筆者はどこかのサイバーセキュリティ会社の社長で、自身でダークウェブについての著書も書いてるようだった。私はその著書を読んでいないが、その記事では、ダークウェブがいかに危険な空間であるかを声高に煽り立てており、例えばダークウェブでは「ハッキングツール」や「銃器」が普通に売買されており、アクセスしただけでマルウェアに攻撃されることもあるので、決してアクセスしてはならないそうだ。私はその方面には不案内だが、しかしTorを使用していてマルウェアに攻撃されたことは一度もない。 し
世間では吾妻ひでおを所謂「オタクカルチャー」、または「萌え」の始祖とする向きがあるようだが、どうだろう。吾妻ひでおが「萌え」に与えた影響は認めるにやぶさかでないにしても、吾妻ひでおを萌えの「始祖」とまでするにはよほど慎重にならないといけないような気がする。 吾妻ひでおがコミックマーケット11にて同人誌「シベール」を販売したのは1979年。手塚治虫的な漫画キャラクターによるエロ表現は、この「シベール」を以って嚆矢とする、というのは教科書的な知識の確認である。なるほど確かに吾妻ひでおが「シベール」によって果たした意義は大きいし、「シベール」や吾妻作品には後年の萌えカルチャーの要素が既に含まれていることも確認できるだろう。しかし、そのような現在の萌えカルチャーの位置に立って、80年代の吾妻ひでおの仕事を遡及的に眺める姿勢には、単なる「萌えの始祖」というレッテルに還元できないような吾妻本来の固有性
大正・昭和期の文人の文章を読んでいるとベロナールやらジアール等の普段聞き慣れない薬物名をちょこちょこ見かけるので気のままに引用などしてみながら当時の文壇ドラッグ・カルチャーに一抹の光を当ててみたいと思い至った次第である。 床に横になると、舌の上にヂアールの白い塊を二つ載せた。私はもうカルモチンでは眠れなかった。二月程前、この薬を飲み過ぎて、翌朝縁側から足を踏み外して落ちたことがあった。友達の兄の医者の処へ行って目の覚める薬を呉れと云うと薄荷の様な水薬を呉れた。医者は「そんなものはもう止め給え。心臓を悪くする。眠らせたり、覚ましたり、君はまるで自分の頭を玩弄にしているんだね」と云った。 然し仕方がない――俺の頭よ。許して呉れ――私は薬で苦くなった口で呟いた。 ――何んだか雨垂れの様な音がした。…… (「一ツの脳髄」小林秀雄) 初っ端から小林秀雄である。この私小説とも云うべき作品は大正十三年、
エロ漫画を読むという孤独な営み、容易な物語化を拒む一回性の出来事としてその都度立ち上がってくるような種類の営みの裏側には、エロ漫画を描くという、ある意味ではよりいっそう孤独な営みが存在している。それは性的なオブセッション等の精神医学的に解釈可能な地平の彼方にあり、その営みの「異形さ」が、ふとした際に我々読者の前に裸形を晒して迫ってくる。エロ漫画における作品は、そのような読者の「出来事」と作者の「出来事」の一回的な出合い頭にしか存在し得ず、またそのような出合い頭に於いて読者と作者との間で交換された「何か」を、能う限りそのまま掬い取ってみせるような批評以外に、真にエロ漫画批評と呼べるようなものは存在し得ない。 昨今のコミックLOが、批評的な緊張度と男根的な緊張度を共に萎えさせるような、著しく強度性を欠いた作品で占められるに至った原因を那辺に求めるべきか、という問いが在る。ひとつ云えることは、昨
世界はリズムで満ちている。 例えば、自然には四季の周期があり天体には公転周期や自転周期がある。人体にはサーカディアン・リズムという体内周期がある。 複数のリズムが同時に存在すればポリリズムが生まれる。例えば、サーカディアン・リズムが23時間の概日リズム睡眠障害患者と25時間の概日リズム睡眠障害患者が同じ屋根の下で生活するとする。このとき、当然二人の生活リズムは日を追うごとに乖離していくが、575時間ごとに束の間シンクロ=同期する(23と25の最小公倍数)。 このように、世界は「ズレ」と「同期」を内に孕んだ複数のタイムスケールが同時進行する場である。例えば、土星の自転周期は約10時間40分であり、木星の自転周期は約9時間50分であり、火星の自転周期は約24時間37分であり(ということはサーカディアン・リズムが25時間の概日リズム睡眠障害患者は火星に移住した方が暮らしやすいということになる)…
「リアリズム作画」と言っても一言でそう簡単に割り切れるわけではない訳で。この作画はリアルだ、もしくはリアルっぽい、と言ったときに、その「リアル」もしくは「リアルっぽい」とは具体的にどういうことなのか、ということをキチンと掘り下げて問われることはこれまでほとんど無かったと言ってもいいと思うんですよね。とはいっても僕自身も上述の問題についての答えを持ち合わせているわけではないし、この記事で「リアリズム」の定義付けをしようなんて意志も毛頭ないけど、ただ最近リアリズム作画について考えることが多かったのでこの機会に僕が考えたことを少しまとめてみようと思ったわけです。 ジャパニメーションには二つのリアリズム作画があると思います。一つはレンズ的リアリズムです。これは客体、つまり対象物をカメラのレンズを通して見られたものとして描き出す手法で、うつのみやさとるが1989年の「御先祖様万々歳!」でやり始めた手
革命家は知っている。逃走は革命的で、引きこもりや気まぐれさえも、テーブルクロスを引っ張って、システムの一端を逃げ出させるのなら革命的である。ジョン・ブラウンのやり方で、みずから黒人にならざるをえないことがあるとしても、壁を通り抜けること。(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「アンチ・オイディプス」) 機械の系譜学―少女機械 吾妻ひでおの作品において、機械、アンドロイド、クローン、あるいはサイボーグなどはひとつの重要なモチーフである。「趣味の生活」において、主人公の父親は自分の娘のアンドロイド(=盆栽?)を育てる。「海から来た機械」において、機械は少女の似姿に変形する(生成変化は吾妻ひでおの重要なモチーフのひとつでもある)。少女とその肢体に絡みついた機械。少女に細長い金属棒を咥えさせているロボット。少女と魚型のロケット。etc…。疑うべくもないことだ。吾妻ひでおの作品において、少女とマシ
Nujabesの「Spiritual State」はマクドナルドと靖国神社の間に位置しているアルバムである。1曲目から放たれる恍惚を誘うトライバルなパーカッションとウェルメイドな美メロピアノという組み合わせはNujabesサウンドの一つの到達点を指し示していると共に一つの重大な罠が潜んでいることをも図らずも示唆している。Nujabesはこのアルバムで旧弊なジャジー・ヒップホップという定式を脱し「無国籍的なエスニックさ」という新たな形式を手に入れた。なんとなくエスニックなんだけど、何処の国のエスニシティなのかさっぱりわからない、という。とは云っても、何もこの形式はNujabesのオリジナルというわけではなく遡れば久石譲に代表される所謂ジブリっぽい音にも見られるがここでは深く立ち入らない。重要なのは、Nujabesがその「無国籍的なエスニックさ」を一つの手法とドグマにまで昇華した点に求められる
精神分析(ここでは主にフロイトとラカン)は反証可能性が無いから疑似科学でありオカルトである、というよくありそうな批判を仮想的に立ててこれについてちょっと考えてみよう。まず、そもそも精神分析は科学ではない。なぜなら精神分析は超越論的な次元で問いを立てるから、これらは経験科学ではなくカント以降の大陸系哲学の系譜に加えるべきだ。どういうことか。まず整理しておくと「超越論的」という用語は「経験的」の反対語であり、「超越論的転回」というタームでよく知られるようにカント以降の大陸系哲学の最重要キーワードだ。 今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲
西田幾多郎を読んでいると時々意表をつくような文章に出会えることがある。例えば次のような文章。(太字引用者) 『哲学研究』第百二十七号に掲載さられた左右田博士の論文を読み、私は近頃初めて理解あり権威ある批評を得たかに思う。今間を得て、私の考える所を述べ、更に博士の高教を乞いたいと思うのであるが、詳細に私の考を述べるのは今後の論文に譲りたい。「場所」の終において、私は多少従来と異なった考に到達し得たかと思う。無論、それは他から見て何らの価値もない私の幻覚に過ぎないかも知らぬが、私は今後姑くその立場によって、私の思想を精錬し発展して見たい。 (「左右田博士に答う」西田幾多郎) 上の文章は、左右田喜一郎の「西田哲学の方法に就て」という批判論文に対する西田からの応答論文であるが、自分の思索は単なる主観的な幻覚に過ぎないかもしれない、といういささか当惑してしまうような発言は、しかし単なる形式的な謙遜で
フーコーの晩年における「自殺」に関する発言を適当に抜粋してみる。 フーコー:しばらく前から頭を離れないことの一つは、自殺するのがどんなにむずかしいものか、自分にもわかってきたということなのです。手近な自殺の方法に何があるか、ちょっと数え上げてみましょう。いずれ劣らずぞっとしないものばかりですが。ガス、これは隣人に危険を及ぼす。首吊り、これは翌朝死体を発見する家政婦の身になってみればやはり不快なものです。窓から身を投げる、これは歩道を汚します。しかも自殺は社会の側からはもっともネガティブな見方をされてもいるわけです。自殺するのはよくないことだと言われるだけでなく、もし誰かが自殺するなら、それはよほどひどいことになっていたからだと思われてしまう。 W・シュレーター:不思議な話をなさいますね。というのもぼくはちょうどアルベルト・バルサックという友人、これは僕の映画や演劇で衣裳係を務めている女性な
今週のマギ13話の野中正幸パートは実に素晴らしく、僕はほとんど反射的に「これはもしかしてファンクではないか?」と思ってしまったほどだ。過度の中抜きによるスカスカ感は初期ファンクのスカスカ感(音の隙間)と通底しており、つんのめるようなタメツメのタイミング操作はエレクトリック・マイルスの「オン・ザ・コーナー」と共振している。奇しくもテレビアニメ「鉄腕アトム」が放送された1960年代はファンクの黎明期でもある。James Brownが「papa's got a Brand new bag」を発表したのは1965年だが、手塚治虫は既にその2年前に音数の少ないスカスカな黒人音楽のエッセンスを、3コマ打ちとリミテッドという手法によってアニメに取り入れていたのは注目に値する。手塚治虫が開拓した3コマ打ちはその後、うつのみや理や磯光雄によって新しいリアリズム技法として洗練化され、松本憲生や山下清悟など今に
www.hanmoto.com あるいは私の想像力の乏しさによるのかもしれないが、私には依然として本こそあらゆるメディアの中でもっとも完璧なメディアのように思われる。[…]それは後の何世代かの人間に受け継がれる機会を高める複製芸術であり、執筆され印刷されて以降の過去の時間の痕跡が一緒に書き込まれた、開かれたタイムカプセルである。そのタイムカプセルの中では、あるテクストのどの版も、それぞれ廃墟と似通っていなくもないユートピア的空間であることが明らかになる。そのユートピアにおいて死者たちは雄弁に語り、過去は甦り、文字は真実となり、時間は止揚される。 […]すべての本と同じように、本書もまた、何ものかを生き延びさせたい、過ぎ去ったものを甦らせ、忘れられたものを呼び覚まし、言葉を失くしたものに語らせ、なおざりにされたものを追悼したいという願いによって原動力を得ている。 (ユーディット・シャランスキ
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