大正から昭和にかけて鹿児島県の旧加世田市などを走っていた私鉄の「南薩※鉄道」が廃線になって40年がたったのにあわせて、12日から南さつま市で、運行当時を振り返る企画展が開かれています。 「南薩※鉄道」は、鹿児島県の旧伊集院町から旧加世田市を結んで大正3年に開通しました。 その後、枕崎市までのおよそ50キロの区間などに拡大しました。 沿線の人たちの通勤や通学などに利用され、「南薩※線」として親しまれてきましたが、利用者数が低迷し、昭和59年に廃線になりました。 廃線から40年がたったのにあわせて、12日から南さつま市の市民会館で、「南※薩線」を振り返る企画展が始まりました。 会場には、当時の写真およそ900点のほか、当時使われていたレールなども展示されています。 このうち、列車の写真は、赤い塗装が特徴の車両が当時の加世田駅の周辺を走っている様子が写されています。 南九州市からきた60代の女性
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どうも! 朝ドラ見るるです。 今週は、ついに愛の裁判所こと、「家庭裁判所」設立の巻! トラコ(寅とも子こ)は、仲が悪い「少年審判所」と「家事審判所」の間を取りもって合併させるべく大奔走。さらに、“クセつよ”上司・多岐川さんの登場やヒャンちゃん(香淑)との意外な場所での再会などなど……。今週も盛りだくさんの内容でした! それにしても気になるのは、ドラマの中で少年審判所と家事裁判所の面々がめっちゃ対立していたこと。う〜ん、そもそも、2つはどんな機関だったの? どこまでが史実? ……というわけで、NHK解説委員で、家裁の歴史をまとめたノンフィクション『家庭裁判所物語』の著者でもある清永聡さんに、詳しく話を聞きました。 「少年審判所」と「家事審判所」、そもそも一体どんなもの? 見るる トラコの奮闘の甲斐かいあって、家庭裁判所が発足しましたね! ドラマでは、その準備がとーっても大変そうでしたが、「少
明治大学法学部教授、大学史資料センター所長/図書館長 村上 一博 東京家庭裁判所 玄関(東京都千代田区) 第11週は、花岡の死去に始まり、家庭裁判所の旗揚げで終わりました。 花岡の悲劇的な死については、轟と同じ佐賀の出身で裁判官になったという設定でしたから、早い時期から、もしやと悪い予感がしていた方もおられたかもしれません。ヤミ買いを拒否して餓死した判事として広く知られているのが、佐賀出身の山口良忠判事です(青森地裁の保科徳太郎判事も同じ理由で餓死しています)。山口は、昭和22年10月に33歳で亡くなっていますから、花岡が死去したのとほぼ同じ時期です。佐賀高等学校から京都帝国大学を卒業したのち(花岡は帝大進学をあきらめて明律大学に入学しました)、高等試験司法科に合格して裁判官となり、横浜・甲府・東京地裁を経て、昭和21年10月から東京区裁判所で経済事犯(食糧管理法違反)担当の判事となりまし
北海道帯広市で農産物を運ぶ農業鉄道として1924(大正13)年に開業した「十勝鉄道」の終着駅で、57年に廃止された八千代駅の「転車台」などの遺構が12日、初めて一般公開された。土中に埋まった遺構を探し当て、掘り起こしたのは住民たちだ。携わった末下貞雄さん(88)は「唯一の『足』だった鉄道のことを伝えたくて。見つかった時は、そりゃあ感動した」と、満足そうに笑顔を見せた。 遺構が見つかったのは昨年6月初め。私有地で、一帯は樹木や雑草などに覆われていたため、公開できるように環境整備するまで時間を要した。公開日には住民や札幌、東京の鉄道ファンら約150人が次々に訪れた。 住民が掘り起こした遺構は、鉄道車両の向きを変える際に使われた円形のコンクリート製の転車台(外径約4メートル)と、蒸気機関車の下部の点検や石炭灰の処理時に使用した「ピット」(幅約1メートル、長さ約5メートル、深さ約60センチ)。どち
およそ100年前に作られた国産アニメーションのフィルムが見つかりました。当時、歯ブラシなどを販売する日用品メーカーが虫歯予防などの啓発のために制作したもので、専門家は「この時代は現存するフィルムが少なく、当時の国産アニメを知る貴重な手がかりだ」と話しています。 見つかったのは、1923年ごろに国内で制作された「口腔衛生」というタイトルの映画のフィルムで、古いフィルムやレコードなどを収集している東京のNPO法人が個人から寄贈された中に含まれていたということです。 映像はおよそ8分半で、子どもの歯の健康を保つ方法などがアニメーションと実写で紹介され、このうちアニメの部分では、子どもがナイフとフォークを使って食事をする様子や歯磨きをする様子などが、かわいらしい絵柄で描かれています。
「虎に翼」の第2週は、明律大学女子部に寅子が入学するところから始まりましたね(入学式のシーンで使われた校旗が、現在博物館で展示されている校旗です)。ドラマでは、貧弱な学長が入学式で挨拶していましたが、実際の明治大学の学長は横田秀雄という元大審院長(「大正の大岡越前」と呼ばれた学識豊かな名裁判官で、並の裁判官ではありません)であり、女子部開設の理由と歴史的意義を述べた名演説を行っています。明律大学校舎も登場しましたね。つくばみらい市にあるNHKの施設「ワープステーション江戸」のセットで撮影が行われました。大学史資料センターが提供した当時の校舎の写真をもとに、CGで、建物を3階建てに嵩上げしたうえで天井に丸いドーム(明大の象徴)を付けてもらいました。いくら目を凝らして見ても、セットとCGの境目は分からないと思いますよ。 ドラマでは、女子部の第1期生は80名が入学し1年後に7名にまで減少、寅子は
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柔道の創始者でIOC=国際オリンピック委員会の委員も務めた嘉納治五郎が、幻となった1940年の東京オリンピックの招致の経緯を詳細に記した書簡が新たに発見されました。 1934年5月付けで当時の東京市長に宛てて書かれたもので、招致の経緯などが詳しく記されています。 1940年の開催地は、ローマが有力視されていたもののイタリアの首相だったムッソリーニが招致を辞退し、東京への招致にもつながったとされています。 書簡には、嘉納氏がフランスのIOC委員からムッソリーニを説得する案を示されたことや、ムッソリーニと親交のあったアメリカのIOC委員が仲介役を名乗り出たという経緯が記されています。 日本は1933年に国際連盟を脱退するなど国際的に孤立を深めていましたが、嘉納氏と各国のIOC委員との間には信頼関係があったことをうかがい知ることができます。 さらに書簡では、欧米中心で開催されていたオリンピックを
ブギウギ「茨田りつ子」のモデルって誰?(前編) 「ブギウギ」応援ページ編集部 2023年11月10日 (金) 現在放送中のNHK連続テレビ小説「ブギウギ」。 この中で、主人公・福来スズ子の生涯のライバルとして登場するのが菊地凛子さん演じる「茨田りつ子」です。モデルとなったのは、青森市出身の歌手で“ブルースの女王”とも呼ばれた「淡谷のり子」さんです。 その生涯は、どのようなものだったのでしょうか。 2007年放送のクローズアップあおもり「津軽 じょっぱりの歌姫」の放送記録などから、青森から東京で歌手デビューするまでの前編と「別れのブルース」がヒットして以降の後編に分けてお伝えします。 幼少期の淡谷さん 明治40年(1907年)8月。 青森市で1・2を争う老舗呉服屋の長女として生まれた淡谷のり子さん。 祖母のちょう愛を受けながら育ちました。 しかし、淡谷さんが3歳の時に、「青森大火」によって、
奄美市名瀬の市立奄美博物館で10日、奄美群島日本復帰70周年記念企画展「朝はあけたり1953~『語り継ぐ』次世代へ~」が始まった。同日午前10時からオープニングセレモニーがあり、約10人が出席。戦時中や米軍統治下時代の奄美の歴史をひもとく展示が公開された。期間は来年1月7日まで。 展示は①太平洋戦争前から戦後直後の奄美②アメリカ世(米軍統治下)の奄美③奄美群島日本復帰運動④復帰後の奄美─の4章で構成。同館が所蔵する復帰運動ののぼりや演説に使われた円卓などの実物を見られるほか、日本への返還を求める署名活動で集まった署名録も閲覧できる。 オープニングセレモニーでは、安田壮平市長が「(企画展が)先人への感謝と復帰運動を後世に語り継ぐきっかけになることを期待する」とあいさつ。テープカット後、出席者らは同館3階に移動し企画展を見学した。 新潟県出身で奄美で暮らして約40年という鈴木貞雄さん(76)は
朝の連続テレビ小説「ブギウギ」は、いよいよ桃色争議が佳境に入っていくようですが、そういえば2年前に紹介した『日本人の働き方100年 定点観測者としての通信社』に、この桃色争議の写真があったのではないかと思い出しました。 テレビでは「梅丸少女歌劇団」となっていますが、もちろんこれは現実に存在した松竹少女歌劇団のことです。この少女たちが、1933年(昭和8年)に起こしたのが、有名な桃色争議です。 『日本人の働き方100年 定点観測者としての通信社』に載っているこの写真は、東京の水ノ江滝子を中心とする争議団で、大阪の三笠静子(テレビでは福来スズ子)らが参加したものではありませんが、でも当時の争議の雰囲気が良く伝わってきます。 多くの人は勘違いをしていますが、戦時体制下に近いこの時代でも、今日に比べると遙かに多くの労働争議が起こっていたのです。 この1933年には、全国で1897件の争議が起こり、
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