京都府精華町下狛の円墳、鞍岡山3号墳(4世紀末〜5世紀初め)で、船の絵が線刻された埴輪(はにわ)片が見つかり、町教委が19日、発表した。死者の魂を来世に送る「送霊船」を描いたとみられ、こうした線刻画のある埴輪は、奈良県天理市の東殿塚古墳(4世紀初め)に次いで国内2例目。現地説明会は22日午前10時半から行われる。 円墳(直径約40メートル、高さ約6・5メートル)の頂上北側で出土した円筒埴輪片6個(縦最大11センチ、横同13センチ)に、船(縦8センチ、横17センチ)の両側の舳先(へさき)と船底、船上に立てられた矛のさやに似たV字形の線などが彫られていた。さやは被葬者を象徴する品か、魔よけだったとみられる。 奈良県広陵町の巣山古墳(4世紀末〜5世紀初め)では、遺体を納めた棺(ひつぎ)を古墳まで運んだとみられる船形木製品の一部が見つかっており、東殿塚古墳や今回の線刻画は、古墳で行われた葬送儀礼を
墳丘の周濠(しゅうごう)跡とみられる遺構が3月に確認された国史跡・造山古墳(5世紀前半、岡山市北区新庄下)について、同古墳を調査している岡山大の新納(にいろ)泉教授は22日、その後の調査で、周濠とその輪郭である周堤の存在がより確実になったと発表した。周濠の約25メートル外側に弧を描く形であぜがあることから、新納教授は「被葬者がより大きな権力を持っていたことを示す二重の周濠が存在した可能性がある」と推測している。 造山古墳は、大首長墓だったことを裏付ける周濠の有無が分かっていなかったが、2009年度の調査で黒土が堆積(たいせき)した遺構が見つかった。弥生時代末から中世初頭にかけての土器が数種類出土したことから、それより後の時代に造られた合戦のための防御壁跡などではないことが判明。周濠であることがより確実になったとみている。 周濠の外側に見られるあぜについて、新納教授は「周堤の端にしては幅が広
乙訓地域で最大級の前方後円墳・恵解山(いげのやま)古墳(5世紀前半、全長約128メートル)(京都府長岡京市勝竜寺)で、祭事を営んだ舞台のような部分「造り出し」を示す石の列が見つかり、市埋蔵文化財センターが25日、発表した。 造り出しは、後円部と前方部が接合するくびれ部から張り出すように敷設されることが多い。今回、東側のくびれから約17・5メートルにわたり、大小の石が列をなしていたことが確認された。 一方、これまでの調査で、同古墳ではくびれの西側でも造り出しを思わせる石の遺物が出土。今回の調査で、西側より東側の方が相当大きく展開していた可能性が強まった。 造り出しが非対称な形をしている例としては兵庫県朝来市の池田古墳などがあるという。 同センターは「東西の造り出しの違いは異なった祭事が行われていたことを示唆しているのではないか」と推測している。 現地説明会は28日午前10時から。当日の問い合
京都府向日市の長岡宮跡(784〜794年)で天皇が居住した内裏跡から、6世紀末〜8世紀末に作られたとみられる甲冑(かっちゅう)の部品「小札(こざね)」約30点が見つかり、同市埋蔵文化財センターが18日、発表した。皇族の墓とされる藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の副葬品や、正倉院宝物と同型のものもあり、皇族にかかわる甲冑の一部とみられる。同センターは、歴代の甲冑が約200年にわたって伝えられ、内裏で保管されていた可能性があるとしている。 小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。内裏の中にある脇殿の基壇の穴からまとまって見つかった。平安京に遷都する直前に意図的に埋められたらしい。 十数点分の甲冑の部品で、最小1センチ四方、最大で長さ9センチ、幅2センチ。厚さはいずれも2ミリ以内。大きさなどから〈1〉6世紀末〜7世紀後半〈2〉8世紀前半〈3
飛鳥時代の渡来系氏族・東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる奈良県明日香村の檜隈寺跡で、7世紀後半〜8世紀頃の金属生産工房の炉跡とみられる遺構や鉄くずなどが、村教委の調査で出土した。寺の造営時期と一致し、村教委は「クギや寺の調度品などを作っていた可能性がある」としている。 国営公園の整備事業に伴い、寺の講堂跡から北へ約140メートル離れた約350平方メートルを2008年に発掘調査した。炉とみられる跡は、縦0・9メートル、横1・1メートルで、厚さ1〜2センチの粘土を張り付けた炉壁や大量の炭が残っていた。鉄くずや鉄片、炉の送風管の破片なども近くで見つかった。村内の川原寺跡や橘寺の周囲でも工房跡が出土しているが、檜隈寺跡では初めて。 遺構の写真パネルや鉄くずなどの遺物は、22日から2月28日まで同村の奈良文化財研究所飛鳥資料館で開かれる冬期企画展「飛鳥の考古学2009」で展示。高松塚古墳の墓道東壁
今年の干支(えと)「寅(とら)」にちなんだ特別陳列「寅・トラ・虎の巻―十二支の考古学 寅」が、奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所付属博物館で開かれている。黒塚古墳(天理市)から出土した虎をあしらった三角縁龍虎鏡(さんかくぶちりゅうこきょう)や、キトラ古墳(明日香村)の壁画の写真パネルなど約70点を展示している。17日まで。 虎は、古墳時代の鏡の文様や、飛鳥時代以降の絵画などに数多く描かれる。展示では、鏡や壁画、ベルトの留め金具などに、鋭い牙や胴体のしま模様など虎の特徴が表現された様子を見ることができる。 9日午後1時半から、同研究所1階講堂で講演会が開かれ、山本忠尚・天理大教授が「虎と寅」と題して話す。 12日は休館。入館料は大人400円、高校・大学生300円、小・中学生200円。問い合わせは同館(0744・24・1185)。
広島県安芸高田市教委は19日、同市甲田町上甲立で、広島大考古学研究室の踏査により、4世紀後半に築造されたと見られる前方後円墳が確認されたと発表した。県内では3番目の大きさで、辰の口古墳(神石高原町)と並び最古級といい、市教委は「甲立古墳(仮称)」として、市史跡に指定する方針。28日午前10時と午後1時半からの2回、現地説明会が開かれる。 市教委によると、確認された古墳は全長75メートルで、後円部の直径は約15メートル、高さ13メートル。県内では東広島市の三ッ城古墳(全長92メートル)、辰の口古墳(同77メートル)に次ぐ規模で、江の川流域では最大級。墳丘の斜面には川原石が全面に敷き詰められているとみられ、所々で石が露出している。 埴輪(はにわ)を置くテラス状の段築(だんちく)が2段に築かれ、周辺からは円筒埴輪や舟形埴輪の破片が約20点見つかった。未盗掘でほぼ原型のまま残っており、後円部中央に
巻物の展示システム。紙を巻き取るように木の棒を回すことで、ディスプレー上の画像が横に動く(奈良市の奈良大博物館で) 奈良大(奈良市)は、巻物や本のデジタルデータを、ディスプレーなどを活用して、棒を回したり、ページをめくったりする操作で鑑賞できる展示装置を開発した。実物を手にしたような疑似体験ができるのが特徴で、奈良大博物館で12月18日まで開かれている企画展示で公開している。 巻物の展示装置は、木の棒を回す操作に合わせてデジタルデータの画像が移動する仕組み。本は、スケッチブックをめくるたびに、右上に印刷されたQRコードをカメラが読み取り、対応ページの画像をプロジェクターで投影する。 企画展示では、ダム建設で移転する前の津風呂地区(吉野町)の山林や土地の売り渡し証文(1869年、長さ約1メートル)、地区の歴史などを紹介した地誌(1882年、12ページ)のデジタルデータで疑似体験ができる。 将
大阪・今城塚古墳 幻の陵墓参考地、昭和初期に指定検討 「真の継体天皇陵」 進む公園化、歴史身近に 〈真の継体天皇陵〉と呼ばれる大阪府高槻市の「今城塚古墳」(6世紀前半)。宮内庁は、茨木市の「太田茶臼山古墳」(5世紀中頃)を継体陵とするが、大正から昭和初期、今城塚を継体陵とみて陵墓参考地の指定も検討していたことが、研究者の調査で明らかになった。同庁の陵墓指定古墳は現在、原則立ち入りも許されていない。しかし、今城塚は市が2011年春の完成を目指して史跡公園整備を進めており、事実上、公園として一般開放される唯一の大王墓(天皇陵)となる。真の継体陵とされるに至る、経緯をひもといてみた。 (関口和哉) 日本の古墳は、名前が記された墓誌などが納められていないため、被葬者をほとんど特定できない。それは、陵墓も例外ではない。では、今城塚はいつ頃、誰が「継体陵」と説いたのだろうか……。高木博志・京都大准教授
奈良県広陵町の大型前方後円墳、巣山古墳(4世紀末―5世紀初め、全長約220メートル)外堤の北側で、魔よけとされる文様を施した船形埴輪(はにわ)の破片などが出土し、県立橿原考古学研究所が19日発表した。同古墳で以前見つかった、棺(ひつぎ)を運ぶ木製の「霊柩船(れいきゅうせん)」の一部には同様の文様があることから、大王級とされる古墳の被葬者の従者を葬った場所の可能性があるという。 埴輪片は約50個で、前方部北側の外堤のそばから出土した。船の側面(長さ約35センチ、幅約10センチ)や正面の波切り板を表現。復元すると長さ1メートル30~1メートル40、高さ50センチになり、船形埴輪では最大級という。 側面の表側には、直線と弧線を組み合わせた「直弧文(ちょっこもん)」が線刻され、巣山古墳の周濠(しゅうごう)内から出土した霊柩船の一部に刻まれた文様と同種のものだった。船は死者の魂を運ぶとされ、霊柩船も
東京農工大から寄贈された織機(手前)など廃棄処分が決まった産業資料(12日、大阪府吹田市の万博記念公園で)=金沢修撮影 万博記念公園(大阪府吹田市)に建設構想があった「国立産業技術史博物館」用に、大阪府などで作る協議会が収集した発電所のタービンなど、江戸時代以降の産業資料2万数千点が、一度も公開されないまま、廃棄処分されることがわかった。構想はバブル経済崩壊後に頓挫し、公園内の旧万博パビリオン・鉄鋼館に保管されていたが、16日にも処理業者による搬出作業が始まる。専門家らは「日本のものづくりの歴史を語る貴重な資料。保存すべきだ」と批判している。 府、大阪市、大阪商工会議所、日本産業技術史学会で作る同博物館誘致促進協議会が6日、廃棄処分を決定した。協議会は1986年に設立されたが97年以降は、休眠状態になっており今月末で解散する。 資料は、関西電力や東京農工大など約30の企業や大学、個人から寄
浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、下京区)が実施した全国の宗派寺院約1万か寺を対象にした自殺問題のアンケートで、自殺の予防や遺族支援へのかかわりを質問したところ、僧侶の約8割が「特にかかわっていない」と回答していたことがわかった。一方で、自殺への問題意識は高い結果が出ており、僧侶が対応に悩んでいる実態が浮かび上がった。 調査は昨年5月、各寺院に調査票を郵送し、2682か寺(26%)から回答を得た。アンケートは無記名で、自殺についての認識や、自殺者の葬儀で配慮したこと、苦慮した体験、今後の提案などを聞いた。 「自殺は命を粗末にしている」との質問には、「思う」が51・9%、「やや思う」が16・6%。「自殺は仏教の教えに反している」では「思う」が59・7%、「やや思う」は14・1%で、自殺を否定的にとらえる僧侶が大半を占めた。 一方、自殺の予防や遺族支援へのかかわりについて、「特にかかわっていな
伊藤若冲の作品と鑑定された屏風(20日午前11時5分、滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMで)=伊東広路撮影 江戸時代中期の画家で、細密描写による花鳥画で知られる伊藤若冲(じゃくちゅう)(1716~1800)の「象鯨図屏風(ぞうくじらずびょうぶ)」が、北陸地方の旧家で見つかった。画風や落款から、若冲が最晩年に描いたと推定され、専門家は「高齢になってからの大作は少なく、若冲を研究するうえで重要な発見だ」と話している。 屏風は、六曲一双(各縦1・59メートル、横3・54メートル)で、右隻に波際に、うずくまって鼻を高く上げる白象、左隻には潮を噴き上げる鯨が水墨で描かれている。 今年8月、北陸地方の旧家を訪れた美術関係者が発見し、滋賀県甲賀市の美術館「MIHO MUSEUM」で鑑定。屏風には、「米斗翁八十二歳画」の落款があるほか、「若冲居士」の朱印が押されていた。 若冲は晩年、「米斗翁(べいとおう
奈良県高取町の薩摩遺跡で、奈良時代末~平安時代初め(8世紀末~9世紀初め)のため池跡から、渡来系氏族の檜前一族が池を造ったことを示す木簡が出土し、県立橿原考古学研究所が9日、発表した。古代のため池について、その施工者が分かる例は極めて珍しい。 ため池跡は東西約40メートル、南北約90メートル。北側が堤になっていたとみられ、角材の内部をくりぬいた木樋(もくひ)の一部(長さ1・15メートル、幅50センチ、厚さ25センチ)が見つかった。上面には取水穴を開けた蓋(ふた)があったと考えられ、丸太を抜き差しして水量を調節したとみられる。 また、樋の周囲から、木簡(長さ21・5センチ、幅4・1センチ、厚さ9ミリ)や、平安時代の銅銭が出土。木簡には「波多里長(はたりちょう)檜前主寸(すぐり)本なす」と墨書されており、波多という里の長である檜前一族が工事を始めたことを示している。 檜前氏は、渡来系氏族・東漢
奈良時代(8世紀)の新薬師寺の金堂とみられる大型建物跡が出土した奈良教育大(奈良市高畑町)構内で、新たに建物の基壇(土台)を飾る石などが見つかり、基壇跡が従来考えられていたよりも14メートル長い、東西約68メートルと推定できると、同大学が13日、発表した。東大寺大仏殿(江戸時代)の東西幅よりも大きい。 また、建物前で見つかっていた板状の石列は、長さ約52メートルにのぼる長大な階段跡で類例のない構造だった、としている。 前回、基壇の東端とされていた場所から、さらに東に、基壇の飾りとみられる凝灰岩が計約3メートル分出土。西側でも柱を立てる礎石を支えるために石を敷き詰めた跡が2か所見つかり、建物の東西規模が広がった。 板石の列は、築造された順序などから階段の一部と判断した。 22日午前10時から正午まで現地を公開する。
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