思いは言葉に。 はてなブログは、あなたの思いや考えを残したり、 さまざまな人が綴った多様な価値観に触れたりできる場所です。
killhiguchiのお友達を作ろうより (略) 今、私は、「治る」ことを、日常生活が送れて働けるようになるというように定義している。決して病根が私の目の前に曝され、それと対決し、完治させる、というようにはしていない。 http://d.hatena.ne.jp/dadako/20080814 つねづね「治る」とはどういうことかと考えているのだけれども。精神医療的に「治る」は社会に適応できて抑うつ等の症状を発していない状態をいうのかな。「医療」という面から見れば目標地点をどっかに置かなければいけないのはわかるけれども、「治る」にもいろいろある(たとえば「寛解」と「完治」と「治癒」は違う)ということを指摘しておかないと誤解が生じる気がする。 dadakoさんは、発達障害も含めた精神医療全般について書いておられるが、私のような鬱病の患者に限っても、「治る」レベルにはいろいろある。 例え、今、
「ファビョン」について、改めて書いてみたい。 「改めて」と書いたのは、1年くらい前にファビョンについては一度書きかけたことがあるからで、そのときはどうにもうまく続けることができず、中途で止めてしまったのである。 そもそもそのときは書き方がまずかった。 日本のネット界では、「ファビョン」ということばは、韓国人が「議論で反論に窮した場合などに冷静さを失って感情的になる」ようなときに使われる。しかし、それは悪意ある歪曲であり、実際の精神疾患としてのファビョンはそうじゃないのだ、精神科医として本当のファビョンの意味を教えて上げよう、という啓蒙的なスタンスで何気なく書きはじめたのだが、よくよく調べてみれば、ことはそう簡単ではなかった。 「ファビョン」は韓国特有の「ハン」(恨)の感情に関わる疾病概念であり、韓国文化と密接につながっていたのである。つまりファビョンを語るにはまず韓国文化を知る必要があると
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く