サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
買ってよかったもの
blog.livedoor.jp/guen555
活版印刷の故郷を訪ねる旅の最後の場所は四川北路の小学校だった。 戦前まで日本人居留民が最高で10万人も居たという虹口は四川北路を中心にして発展した。 明治36年、幼児の数が増えたことから日本尋常高等小学校を建設することになった。設計は平野勇造、場所は四川北路の繁華街横浜橋付近で、現在の上海市実験中学のあるところ。 繁華街の一郭の細い路地を入ると教会の建物が残っている。もとは広東人の信者のためのキリスト教会だったが現在は上海の四川北路小学校が体育施設として利用している。廃墟のようになった旧教会の中を見学し北の窓越しに実験中学の前庭を望む。そのあたりがかつての美華書館印刷場だっただろうと踏む。 勇造が小学校の設計に入った数年前、隣の敷地に印刷工場が建てられた。これがアメリカ長老会の教会専用美華書館印刷場で、この教会に所属していた技師ウィリアム・ギャンブルが金属活字を日本にもたらしたことで我が国
上海で最初に発行された日本語新聞は『上海新報』である。長崎出身の松野卯三郎が1890年(明治23)6月5日に週刊紙として創刊した。 それに至る道筋に、日本への金属活字伝来と近代印刷技術の普及の経緯があった。 代々、長崎通詞の家柄に生まれ幕末期に活躍した本木昌造は、長崎製鉄所の責任者となった1860年(明治2)、長崎に私塾を開いた。その年、本木は、上海美華書館の印刷技師だったアメリカ人宣教師ギャンブルを招聘し金属活字の製造法と活版印刷技術を修得した。翌年、本木は私塾に活版製造所を設け、金属活字の鋳造に成功した。さらに次の年、大阪に長崎新塾出張大阪活版所を設立。 1873年(明治6)、本木の弟子の平野富二は東京築地に活版製造所をつくる。ギャンブルから学んだ金属活字の製造法をもとに東京で活字の量産化と利用の普及を行うためであった。折から政府の布達文、新聞の印刷などの需要が急増したことから事業利益
セミナーの第一日は11月26日午後から始った。会場は上海豊田紡織廠記念館である。 だいぶ前から縁のあったここ旧豊田紡織廠は、外観が修復され昨年内部の展示ディスプレイが完了し記念館らしい姿になってきていた。 去年7月に訪れたとき、いずれこの場所をお借りして何かできるといいですねと、館長の池田さんに言ったことがこんな早くに実現するとは思ってもいなかった。 記念館にはすでに東華大学の張厚泉日本語学部長、銭暁波副教授それと陳祖恩教授が到着していた。 日本側は小宮山博史さんと奥様、韓国側から筑波技術大学劉賢国教授、中国側として専門的なテーマでの発表のために西安市の西北大学から孫明遠講師が来られた。 先ず、池田館長から歓迎の言葉と豊田紡織廠記念館の説明があり、続いて東華大学の張学部長の挨拶のあと最初の発表は陳教授。上海にいた日本人の研究で知られる陳先生の話は、印刷分野の専門研究者には背景となる上海の人
老図書館へ向かう。 上海交通大学で残されている建築物のうち最古の建物が1919年(大正8)建造の老図書館である。東亜同文書院が焼かれる前にできていた建物だが、上海大学内の他の建物とは全く異なるもので建築的な出自を確かめたくなる。 最初にこの図書館に来たのは2007年だった。そのとき、豊田紡織廠の赤煉瓦の事務棟がまだ旧棟のたたずまいのまま残されていたときだった。竹中工務店の修復チームの人が案内してくれたのを思い出す。 そのとき、一行はライトバンに乗ってで福本さんのご案内で訪ねた。 今回の見学は、青柳さんのためにということで校史博物館内部をざっと見る程度で退室。階段を上がった二階の壁に書かれている江沢民の字が印象的だ。 図書館を出ると、晴れあがった絶好の日和。キャンパスを散策しながら1917年に東亜同文書院大学の校舎が建てられた場所へと向かう。といっても、その後の抗日戦で戦火に遭い破壊されてし
「活版印刷と活字の源流を探る」をテーマに11月26.27日、タイポグラファーによる研究発表会が上海で行われた。 この企画は、この7月上海でタイポグラフィ研究家小宮山博史さんの「美華書館の変遷」についての論文を、現地の陳祖恩教授にお見せしたことがきっかけだった。 日本へ戻ってすぐ小宮山さんへ電話を入れ、そこから急ピッチで話が進んだ。 上海側からは「すぐにでも研究会を開きましょう、主催はこちらの東華大学でもよろしいので」という快諾が陳先生からあった。 炎天の中、横浜の小宮山さんの事務所を訪ねた。初対面だった小宮山さんに「美華書館印刷場の地址を確かめてきました」「陳先生も、できるだけ早く開催しましょう、ということです」と伝えると、「お任せします。早速準備します」と、すぐさま興奮を抑えるように明快な返事が返ってきた。 裏方は、いつものように上海在住の福本さんとぼくの二人。こういう場面には馴れている
日本の活版印刷の源流が上海にあったことはあまり知られていない。 活字版印刷のわが国における歴史は、幕末時代にさかのぼる。長崎の通詞だった本木昌造が、上海にいたアメリカ人宣教師で印刷技術者ギャンブルを招聘し、電胎法による金属活字の製法を修得したことに始まる。それが金属活字「明朝体」の発祥・普及につながっている。 当時、上海にアメリカ長老派教会の付属印刷部門としての美華書館があった。その印刷場ではキリスト教の布教を目的とする、聖書の中国語版を制作していた。その時、中国文字を金属活字にして印刷をする活版印刷が行われていた。本木は、それを習得するためにギャンブルを長崎に招き4カ月の講習会を開いた。それが日本における金属活字と活版印刷伝来の最初とされている。 後に、明治期を通してその技術は明朝体活字の普及と量産化をもたらす。明治の文明開化の流れに乗って、新聞を初め、様々な印刷情報媒体が活版印刷から生
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『blog.livedoor.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く