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blog.livedoor.jp/sequence777
7月23 パチスロへの技術革新に果たした佐野の功績 前回の続き。パチスロ以前のオリンピアマシンがアナログの「ギア式」だったことについては触れた。あやふやだったので、知合いの業界人に再度そのことを確認してみた。このギア式がやはり、いわゆる業界で「リレー式」「リレー制御」と言われていたものである(この確認のため電話したのだが)。このリレー式の頃も天井設定があったのだが、うまく使いこなせていなかったことは前回も書いた。ホールの現場では客の技術が上がってくる。ギアを半回転ずらして7の当たり図柄を外したりしていたのだが、これを客が熟練した技術で7で止めるようになった。いわゆる「目押し」の原点である。 ここで、メーカーでは「メカ式のままでは客の技術との間で限界がある」ということになり、どうしてもその対策を施す必要性に迫られた。でなければ、ホールの売上と利益にも影響して、ひいては機械も売れなくなる危機感
11月9 CR機登場と封入式パチンコの原点 せっかく再開したのだから続けて更新。 レジャーカード(LEC)のパッキーカードがモニター導入された1990年(平成2年)、導入したのはカード推進派の現日遊協の前身の都内の大手ホール。ところがこの年に、すでにカード促進のための次の一手(むしろこれが最初の構想)は打ち出されていた。ある意味では確変機能を有したCR機の原型構想であり、いま喧伝されてきた「封入循環式」。すなわちカード一体型「統一枠遊技機」である。このとき、先ずはCR機を出すことで先送りされたが、この一体型が長いCR時代を経て封印されてきたのが、いまカジノ合法化の流れの中で改めてパチンコメーカーの一部で現実化に向けて動き出しているのである。ある意味、カジノ合法化の中でパチンコが共存できて、すみ分け出来る唯一の形態になるのかもしれない。 「統一枠遊技機」すなわちカード一体型の封入式パチンコを
12月25 セガ、CSKなど雑駁に整理 気がついたら、もう5ヶ月近くも書き込んでいなかったのですね。コメントで「年内には書き込む」と約束してしまったので、四苦八苦で、未整理ですが書かせていただくことにします。実をいうと、過去と現在を行ったり来たりというのはかなり疲れるものなのです。この業界にも「業界誌」というのがあって、社員十数人の会社から1人でコツコツやってるところも含め20社くらいあります。最近よく思うことは、規模拡大で会社をいくら大きくしても、こんなに厳しい時代になればなるほど、個人の家内興業のほうが安定してつよいのかなぁ、ということです。最初から失うものがない開き直りで対処できますもん。派遣だったら切りやすいけど、正社員のリストラはなかなか出来ないですよ。 日電協加盟メーカーについては設立以降の順次で初期の頃のことを書いたが、昭和57年に新たに加入したのが、オスカー物産(古田の関連
4月29 戦後混乱期のルーツ この業界にはタブーが多かった。過去は「換金」について書くこともタブーだったし、在日朝鮮、韓国や中国の方たちの履歴に触れることもタブーだった。そのタブーの部分をいまだに濃く抱えているのがパチスロとゲーム業界でもある。ルーツをたどっていくと、とんでもないタブーの領域に足を踏み込んでしまう。ところがそのタブーの裏面を照射しないかぎり、パチスロ業界とゲーム業界との関係も、その相関図も実に曖昧模糊としたあやふやな歴史として雲散霧消してしまうだけなのだ。 誰しも過去の創業時点の傷や人間関係、その時代ゆえの暴走には触れてほしくはないはずだ。ある意味では、昭和30年代後半から40年代前半にかけては、日本の国自体が高度成長の波の中で必ずしも健全なビジネスの成長を遂げていたわけではない。まだまだ戦後の混乱の残滓を色濃く引きずりながら、不法な展開も同時に実践されていたし、それがなけ
11月6 SNKの川崎英吉について 前回書こうと思って書けなかったことを。 初期パチスロ。田舎パチンコ店長がコメントされたとおり、コインは大阪では1枚10円でした。天神橋のホールの例で当時、台売上6万円。確率は主基板にランプ基板を差し込んで営業中に変えていた。1/4、1/8、1/16〜1/250まで。集中コントロールに線をつないで、事務所に引っぱって確率を変えていたりした。これが集中制御の始まり。ある意味で遠隔操作の始まり。客もボタンを押し込んでマッチ棒を差し込んでプレイしていた。当時の関係者に言わせると「パチンコのカイモノ(固定遊技)と同じだ」になる。京都府警が見にきて大阪府警に「こんなんでいいのか」と指摘され手入れがされたこともある。角野たちの当初の「ジェミニ」はリレー方式。古田や濱野たちが「スーパーライン」機というものを作り、これを補助基板にした。昭和52年以降だ。朝銀の融資を受けて
パチンコ業界酔いどれて、流れながれて浮き草稼業。だれよりもこのパチンコ業界が大好きだと自負しております。ゆえに辛口の批判もしてしまう。酔いどれ仕事人のよもやま話と、むかし話に耳をかたむけてください。 アルゼ(旧ユニバーサル販売)について。昭和40年(1967年)に岡田和生がジュークボックスのリース販売業を手がける。しかしその前に、岡田を語る上ではサミーの里見治を抜きにしてはならない。里見は東京板橋区双葉町で父親がやっていた「里見豆腐店」がそのルーツ。大学時代に当時のゲームマシン(喫茶店やスナック、ゲームセンターに置かれた輸入機)にのめり込んだ。里見を知る当時の人間に聞くと「豆腐屋のお坊ちゃん。学生だが一種“遊び人”。とくにゲームマシンに凝っていた」と話す。ただ頭脳は明晰だったようだ。学生時代からか卒業後かは不確かだが、豆腐店の倉庫で自分でゲーム機を製造して、ビンゴゲーム機を秋葉原や池袋の店
11月10 顔の記憶 抗がん剤治療で3回目の入院。PETや胃カメラ検査ではもう、がんは消えているようだと医者は言うのだが、念のためのお決まりコースか。 ただし、がんが消えているなら、固く狭くなった食道部分はもう元の大きさには戻らないと言われた。ク゚ダのようなものを入れて通りやすくできるが「がんが消えているのにそんなものを入れれば何らかのアクシデントも予測されるので入れたくはない」と医者は言う。なら、食事の仕方で慣れていくしかないだろうなぁ。 10月後半に久しぶりに東京上野のチロリン村を歩いた。小春日和のなか、とあるビルから出てきた人物とばったり顔を見合わせる。(特徴のあるいい顔してるなぁ、ちょっと悪人面だが目が常人ではないな)と思ったとたん、相手が「おう、おサルちゃんやないの。久しぶりやな」と握手を求めてきた。 あ、そうか。長いこと会っていなかったけどGさんじゃないか。とようやく気がついた
10月30 パチスロまでの苦難時代とコナミ 過去に書いた「相関図」から+αで。 前回も書いたように、新法(風営適正化法)施行までは都道府県レベルでの許可申請で、新遊技機であるスロットへの対応と許可基準はバラバラだった。申請を受付けない県公安委員会もあった。日電協20年史によれば、「ボーナスゲームも含めて600枚出せる地域もあれば800枚出せるところもあった。メダル料金も1枚20円、10円、7円と基準の統一性に欠けていたのが実態」。旧法(取締法)時代はもちろん「回胴式遊技機」ではなく法的には「その他の遊技機」で、その当初のタテ型オリンピアマシン設置台数は7000〜8000台。これが今のパチスロタイプになりパチンコとの併設が進む昭和60年には108000台強にまで伸びる。 しかしこのスロット揺籃期においては、その許可基準の不統一、パチンコとは異なるメカ構造でホールの知識もなかったこと、もともと
9月10 知らないほうがよかった 友人のhiroponさんに忠告されて、ずっと悩んでいた。このままパチスロ業界相関図をここに書き続けていいんだろうか。まだ悩んでいる。ようやく、このブログで風営28号さんのように相関図を読むのを楽しみにしてくれる業界人も増えているようだし、あぁぁ、また円形脱毛症が広がりそうだ。僕の会社運営の有料会員サイトに移管するにしても、そちらはパチスロメーカー関係者も読んでいるし、変なこと書けないプレッシャーがある。以前はお構いなく書いていたのだが、意外に業界人がよく読んでいるらしく、とくにメーカー関係には会員外にもプリントアウトされて出回る。 しばらく、どうすべきか熟慮させていただく時間をとらせていただきたい。こちらのほうが書き込みやすいんだけど・・・・。 話題も前回と前々回からヤバイしねぇ。調べました。東京パブコはその前には「大阪パブコ」で倒産している。再生するとき
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