サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
パリ五輪
blog.livedoor.jp/yota874harahara
2020年02月25日 トキワ荘は本当におんぼろアパートだったのか? トキワ荘マンガミュージアム開館の3/22も近づいて参りました。 そんな中、たまたまTwitter上で「トキワ荘はボロアパートではなかった」 という話題をみかけました。 ので、以前トキワ荘通りのスタッフ時代、 公式サイト上で連載されてた「トキワ荘學」で私が書いたコラムを、 サイトリニューアル後は読めなくなったままなので 少々加筆修正をしてこちらブログに再録してみますね。 「トキワ荘は本当にボロアパートだったのか?」 マンガの神様・手塚治虫をはじめとして、 多くのマンガ家が青春時代を共にすごしたアパート『トキワ荘』 そのトキワ荘に対して『おんぼろアパート』という 印象を抱いている人は多いと思います。 現に手塚の取材をしにトキワ荘に訪れた週刊朝日の記者は 『ガタピシしたアパート』と記事に書いてますし、 (『週刊朝日』昭和29年
2016年05月27日 父親としての坂本三郎先生 最後に、 ご家庭で父親としての坂本先生はどんな方だったのでしょうか? 坂本先生はとにかく寡黙な方で、 そうした事からか、ご長男は「怖い」という印象を 父・坂本先生に抱いていて、 よく話す様になったのは高校に入ってからだったそうです。 ただお姉さん(ご長女)からみると父・坂本先生は 母(奥様)や弟(ご長男)に甘いというふうに見えていたそうです。 一人称は「僕」で、物腰が穏やかだったので 職場の人は怒った所が想像出来ないと言っていたとの事。 坂本先生は案外と茶目っ気もある方だったそうで、 怖い絵を描いて机の引き出しに入れておいたり、 寝ている隙にその絵をふたりの子供の 枕の隣においたりするイタズラをしたり 玄関の向かいにリアルなゴキブリの絵を描いては お客さんをおどろかせたりする事もあったとか。 「まんが道」に描かれた寡黙で真面目な坂本先生の
2014年06月27日 鳥獣戯画は漫画のルーツではない? 平安時代後期〜鎌倉時代初期に成立した「鳥獣人物戯画」(以下「鳥獣戯画」) これを漫画のルーツだというのが定説として 未だまかり通ったままである状況だと、私はつねづね感じる事が多いです。 私が学生時代に美術の教科書とかでも「鳥獣戯画は漫画の元祖ともいわれています」 と紹介されていたような、おぼろげな記憶があります。 日本の漫画は戦後の貸本ブームの時期をのぞき、 新聞や雑誌等、定期刊行物に掲載された作品が、 一般に流通・浸透する事で発展して来ました。 つまり日本の漫画文化は 「大衆が気軽に楽しむ事ができる文化」 というワケなのです。 その定義にのっとってみると 京都の高山寺に伝わる「鳥獣戯画」は 身分の高い一部の知識層のみしか見る事が出来ず、 当時の庶民はその存在すら知らない芸術品といったモノなので、 それが現代日本漫画のすべてのルーツ
2016年05月23日 ご長男の綴る父・坂本三郎伝 5/22奇しくも坂本三郎先生がご存命ならば81歳のお誕生日に、 私は坂本先生のご長男であるKさんとお会いし、 (ご本人がブログ上では匿名を希望されてるので以下は「ご長男」と書かせていただきます) 色々と貴重なお話を伺わせていただきました。 まずお会いする前にご長男からはメールにて ご尊父・坂本三郎先生の略歴をまとめて送っていただいておりました。 坂本先生と面識の一切無い私の聞き書きよりは、 まずはご長男自ら書かれた文を紹介したほうが、 より「坂本三郎像」が伝わると思い、 ブログでの発表は差し控えてほしいという箇所は除き、 ご長男承諾の上でこちらにその略歴…「坂本三郎伝」を転載させていただきます。 以下『』内の文章がご長男の文章(編集は私、原田高夕己)になります。 (※)での注釈は私の文章による「補足」です。 文中の「自分」はご長男。「父」
2016年05月22日 アニメーター坂本三郎先生の「まんが道」 「まんが道」を読まれてる方や、80年代サンライズアニメのファンの方は 「坂本三郎」という漫画家・アニメーターの名前をご存知だと思います。 特に「まんが道」や続編「愛…知りそめし頃に…」で登場する坂本先生は 寡黙で落ち着いている理知的な白面の青年として描かれており、 「プライベートなことは一切ベールに包まれて、 いつもミステリアスなイメージだった」 とも藤子A先生は書いております。 編集者と衝突し、漫画家の筆を折った事は 「まんが道」作中でも印象的に描かれてますが、 その後、坂本先生はアニメーターに転身。 80年代には一連の富野由悠季監督作品 「伝説巨神イデオン」「戦闘メカザブングル」「聖戦士ダンバイン」と 3作品つづけて最終話の作画監督を担当されるなど活躍されており、 アニメファンにはよく知られた存在でした。 漫画黎明期の児童
2011年01月03日 昭和30年・藤子不二雄の正月 皆様正月気分でノンビリすごしてますか? 今回は、藤子不二雄の二人がすごした、 1955年(昭和30年)のお正月のエピソードを書いてみたいと思います。 1954年(昭和29年)は藤子不二雄の二人にとって激動の一年でした。 六月に上京して、二人で両国の二畳間に住み、それから半年もたたない十月末に、 手塚治虫の引き払った後のトキワ荘の十四号室に入居をします。 そして、新漫画党を結成し、作品も「漫画少年」や「漫画王」を中心に発表し、 新人漫画家としては順調なスタートをきった・・・ハズでした。 だが、新人のうちにいきなり多数の仕事を抱えた事に疲れてしまった二人は、 正月を郷里の高岡で過ごそうと考えたワケです。 一応原稿も持参して、実家で執筆するつもりではいたのですが、 その考えは甘かった・・・ 編集者の足音から解放された平穏な正月は、思った以上に
2012年09月25日 第八回紫雲荘WS『ゆでたまご』嶋田隆司先生(前編) 赤塚不二夫先生が過去仕事場として使用していた アパート紫雲荘の『赤塚先生の部屋』で開催する 紫雲荘ワークショップもこれが八回目となりました。 今回の講師は・・・ なんと!なんと!私の様な30代の男にとってレジェンドな方、 そう、あの国民的作品『キン肉マン』を産み出した 『ゆでたまご』原作担当の、嶋田隆司先生です!! http://tokiwaso-street.jp/archives/1559 と、いうワケでして、 去る9月23日の雨の日にこのワークショップに参加してきました。 一応私は主催するトキワ荘通り協働プロジェクトスタッフとなりましたが、 別にお手伝いもせず(スイマセン・・・)一般聴衆としての参加です。 ご一緒したのは、前回の、こうの史代先生の回の時と同じく、 漫画家の不二本洋平先生。 このワークショップの
2012年09月25日 第八回紫雲荘WS『ゆでたまご』嶋田隆司先生(後編) 『ゆでたまご』嶋田隆司先生を講師に迎えて トキワ荘通り商店街にある紫雲荘で 9月23日に開催されたワークショップの記事の後編です。 嶋田先生のお話とスライド映像鑑賞の次は 聴講者との質疑応答タイムに移りました。 (画像は二次会会場『松葉』にてポーズをとる気さくな嶋田先生) ☆主な質疑応答 発言内容は録音はしていませんので、 私のその場でとったメモを元に編集しています。 Q 先生の作品のセリフが好きなのですが、何か参考にしていますか? A その時々のアドリブだけど、時代がかったセリフが好きなので 時代劇の影響が強いと思う。あと、東映のヤクザ映画とかね。 7・5調のセリフが読者にも心地よい。 思えば、キン肉マンのアニメも東映だったので、それがしっくりきたのかも。 他にも浪曲とか浪花節、時代小説も参考になる。 当時の編集
2012年06月17日 第7回紫雲荘ワークショップ@こうの史代先生(前編) 赤塚先生がトキワ荘時代、仕事場として借りていた 現存するアパート紫雲荘の、その「赤塚先生の部屋」で 開催される「紫雲荘ワークショップ」も今回で七回目となります。 今回の講師は映画化もされた「夕凪の街 桜の国」 (第九回手塚治虫文化賞新生賞・第八回文化庁メディア芸術祭大賞受賞) や、ドラマ化された「この世界の片隅に」 他「ぴっぴら帳」「さんさん録」「長い道」等々の作品を発表している 現在最も注目される「女流漫画家」(少女漫画家に非ず)の こうの史代先生。 こうの先生は現在「ウェブ平凡」上で、 ボールペン一本のみで古事記を描き綴るという意欲作 「ぼおるぺん古事記」を連載中です。 http://webheibon.jp/kojiki/ ぼおるぺん 古事記 一 クチコミを見る こうの先生はご自身の描く女性キャラと 全く同じ
2012年06月17日 第7回紫雲荘ワークショップ@こうの史代先生(後編) こうの史代先生を講師に迎え 6月16日に開催された 第7回紫雲荘ワークショップレポの後編です。 ご自身の作品解説や寸評(学んだ事)のあと、 漫画を描き続けるために必要な四か条を 提示するこうの先生。 その四か条とは ・体力 ・読解力 ・演技力 ・信念 まず「体力」 漫画を描くにはやはり体力が必要とは 色んな作家の方が言われる事ですね。 「読解力」とは資料を読み解く力。 誰かの物語を読んだ時、そのままいただくのではなく、 いかに自分のモノに出来るか?という力。 「演技力」 自分に演技力がなければキャラにも演技力はナシ! 普通「演出」という所を「演技」と 作者とキャラクターを同じ目線にして語るこうの先生。 なるほどだからこそこうの先生のキャラクターは 皆生き生きと動いているのだと納得しました。 最後に「信念」 これが重
2009年06月29日 伝説の編集者・壁村耐三 だいたい一年前ですかね? 漫画家と編集者との素敵な関係がネット上で大騒ぎになったのはw それはおいといて、漫画家だけではなく、編集者だって漫画史に残る 「名編集者」は当然存在します。 古くは「少年倶楽部」「漫画少年」編集長・加藤謙一氏や、 「少女クラブ」編集長・丸山昭氏に、「少年マガジン」編集長・内田勝氏。 「ガロ」編集長・長井勝一氏et・・・ そういった名編集者の方々は自伝あるいは評伝があったり、 比較的その業績をふりかえる事ができます。 しかし、漫画が最も熱かったといわれる70年代の漫画業界を牽引したと言ってもいい、 伝説的なある名編集者は自伝も残さずこの世を去り、未だ評伝も出ていません。 その名編集者・・・いや、"名物"編集者とは 少年チャンピオン編集長・壁村耐三。 今回はその氏の功績について書いてみたいと思います。 続きは追記で。 壁
2008年05月24日 「ガロ」休刊騒動 さて、1997年(平成9年)8月号を最後に突然休刊した「ガロ」 いったい発行元の青林堂に何があったのか? キッカケは前回話したとおり「デジタルガロ」の強行発売。 青林堂社長・山中潤が社運をかけ、編集部員の反対を押し切り発売・・・ 結果は見事失敗。完全に青林堂は傾きます。 以前から編集部員は山中社長のワンマンぶりを快く思っていませんでした。 そして元々山中社長は漫画や出版とは異業種のコンピューター業界の人物。 ガロをそのフィールド上で強行発売したデジタルガロの失敗・・・ 編集部員たちの不信感や不満はもう爆発寸前の状態です。 もっともデジタルガロの失敗は山中社長にとっても当然ショックで、 この頃持病が悪化して体重も20キロほど激減する体調不良の状態に陥ります。 そして、97年の六月末、ついに山中社長は社長職を退く事を決意。 手塚能理子・ガロ副編集長に社
2009年07月26日 命を絶った漫画家 芥川龍之介・太宰治・三島由紀夫・川端康成et・・・ 文豪は「自殺」するというイメージがあります。 当然、文豪でなくったって、誰だって自殺する可能性はありますが。 漫画家もまた然りで、色々と大変な職業ですから、 自ら命を絶ってしまった方が何人かいます。 今回はそんな「自殺した漫画家」について調べてみました。 とりあえず簡単な表にすると、 1984年 ちば あきお (享年41) 1985年 磯部 三枝子 (享年31) 1992年 山田 花子 (享年24) 1994年 大和田 夏希 (享年41?) 1996年 波南 カンコ (享年28?) 1998年 ねこぢる (享年31) 2006年 犬丸 りん (享年48) と、偶然でしょうが、女性が多いです。 (ちば氏と大和田氏が男性) この中でも有名なのは、ちばあきおだと思います。 兄はちばてつや、弟は七
2010年01月26日 漫画に使うペンあれこれ 漫画もデジタル作画が増えてきました。 それでもまだアナログで描いている人は(部分的にデジタル使用しているってな人も含めて) まだまだ多いと思います。 と、いうか私が勝手に思い込んでるだけかもしれませんね。 私は機械音痴の為、未だ完全アナログで、 なんか時代に取り残された感が年々強くなって来ていますし・・・ それはともかく、 アナログの漫画描きにとって必要なのはインクと紙と、 そしてペンです。 ジッスイズア・ペンです。 何だ馬鹿野郎(古い) さて、今回は漫画家が使用する様々なペン先やペンについて書いてみたいと思います。 ☆Gペン まず最初はコレ。 漫画描く際のスタンダードであり、最もポピュラーといっていいペン先ですね。 もともとは英字を書く為のペン先でしたが、 本来の用途で使われる事はほぼなく、今や漫画専用ペン先となってしまってます。 秋葉原が
2008年05月10日 10万人の・・・ 最近このブログで"萌え"のコトをかいてきました。 現在でもこーいうコトは、一般的にはキモイとかいわれたりするでしょう。 だけど、以前に比べたらそれでもだいぶイメージがマシになってます。 何しろ現在は漫画やアニメは日本が世界に誇る文化だとか、 アキバ系が市民権を得た様な形になりましたからね。 けど、平成の初め位はオタクなんて最悪の存在。 (その頃はまだ"萌え"の概念も無ければ秋葉原も純粋な電気街でした) 完全に犯罪者予備軍・・・いや、犯罪者扱いされてました。 原因はあの悪名高き、連続幼女誘拐殺人犯・宮崎勤です。 彼が"オタク"の代表として、マスコミにセンセーショナルに報道され、 そのせいでオタク全員が白い目で見られるハメになりました。 その頃の話です。 TBSのワイドショーにて、リポーターの東海林のり子は、 漫画同人誌の祭典コミックマーケット(コミケ
2009年10月09日 少年誌の最長老 今の漫画はもともと「児童漫画」から発展しました。 老若男女それぞれを対象にした漫画が色々とある現在でも、 週刊"少年"雑誌が漫画界の中心にドンと鎮座している事からも、 それを物語ってるのではないかなーと思います。 さて、その少年誌に載っている漫画を大人が読んだり、少女が読んだりしても、 「少年誌」である以上は当然掲載作品は少年をターゲットにしてます。 最近は過去ほどでないものの、少年誌でデビューする作家も 10代〜20代前半のまさに読者の「少年」に近い年齢の人が多いです。 やはり、同世代のほうがより読者との距離も近くなるからでしょう。 じゃ、トシとったら少年漫画は描けないのか? まあ、その点についての詳しい言及は避けますが・・・ 多分・・・そんなコトはないと思います。 まあ、人それぞれ色んな意見はあると思いますが。 嫌なマクラで恐縮ですが、 今回は4
2009年08月22日 長寿の漫画家 最近は自殺をした漫画家、夭折した漫画家と、 暗い題材を選んで書いてきましたが、 今回はその真逆で、 90歳以上生きた長寿の漫画家を紹介したいと思います。 享年95歳 秋 玲二 (1910〜2006) 享年92歳 横山 隆一 (1909〜2001) 享年92歳 大城 のぼる (1905〜1998) 享年92歳 杉浦 茂 (1908〜2000) 享年92歳 杉浦 幸雄 (1911〜2004) 享年90歳 田河 水泡 (1899〜1989) 享年90歳 横山 泰三 (1917〜2007) 享年90歳 上田 トシコ (1917〜2008) 現在90歳 やなせ たかし (1919〜) なお、年齢は誕生日を元にした満年齢です。 調べてみたら、思ったより多かったので、 それぞれの方の功績の簡単な紹介は追記にて書かせてもらいます。 まず、最長老の秋玲二は小学校
2009年04月10日 異色の漫画雑誌 以前年表をかいて、改めて感じましたが、 漫画雑誌というのは数多くあります。 とうぜんメジャーな雑誌もあればマイナーな雑誌もありますし、 その中にはかなり異色の漫画雑誌もありました。 異色の漫画雑誌としてまず思い浮かぶのは、 赤塚不二夫責任編集雑誌「まんがNO1」や 数多くの新人漫画家が巣立った「ガロ」や「COM」 「ガロ」よりもマイナーといわれる「夜行」et・・・ 色々ありますが、 今回は内容よりも漫画雑誌でありながら、"書店では手に入らない"といった 販売・入手経路が異色の3誌について触れてみたいと思います。 まず記憶に新しい所で一誌目は、2007年のほぼ一年間毎週刊行された 「コミックガンボ」 これは業界初のフリーペーパー漫画誌で、 主に首都圏の駅前等で無料配布されていました。 その他、書店によってはラックに設置されていて、 自由に手に取る事がで
2009年03月26日 漫画雑誌の創刊&休刊年(50〜70年代) サンデーとマガジンは創刊50周年ですが、 そこまで続く漫画雑誌は稀で、 今まで数多くの漫画雑誌が産まれては消えて行きました。 最近でも著名な雑誌の休刊が相次ぐその一方で、 新しい意欲的な雑誌もまだまだ創刊しています。 で、主な漫画雑誌の創刊年及び休刊年をちょっと私独自で調べてみました。 調べてみたら膨大な数になったので、 とりあえず前編として今回は1950年代〜1970年代の創休刊年を記します。 ☆54年創刊 「なかよし」(講談社) 「漫画読本」(文藝春秋) ☆55年創刊 「りぼん」(集英社) 「ぼくら」(講談社) ☆56年創刊 「週刊漫画TIMES」(芳文社) ☆59年創刊 「週刊少年サンデー」(小学館) 「週刊少年マガジン」(講談社) 「漫画サンデー」(実業之日本社) 「少年ブック」(集英社) ☆60年創刊 「別冊少年サ
2009年03月28日 漫画雑誌の創刊&休刊年(80年代〜現在) 前回の続きとして今回は1980年代から現在にかけて、 主な漫画雑誌の創刊年と休刊年を記します。 ☆80年創刊 「ヤングマガジン」(講談社) 「ビッグコミックスピリッツ」(小学館) 「コミックトム」(潮出版社) ※前身の「希望の友」は65年創刊。 ☆81年創刊 「コミックボンボン」(講談社) 「まんがタイム」(芳文社) ☆82年創刊 「モーニング」(講談社) 「ウィングス」(新書館) 休刊 「週刊少年キング」(少年画報社) ※月2回刊の「少年KING」に改題。 ☆83年休刊 「冒険王」(秋田書店) ☆84年創刊 「まんがライフ」(竹書房) ☆85年創刊 「ビジネスジャンプ」(集英社) 「Asuka」(角川書店) 「月刊少年キャプテン」(徳間書店) ☆86年創刊 「アフタヌーン」(講談社) 「コミックNORA」(学習研究社) 「
2009年03月04日 トーンはじめて物語 漫画の事にある程度詳しい方なら「スクリーントーン」はご存知ですよね? 各種効果やアミ模様等の印刷された薄いシール状のモノで、 白黒の漫画で中間色を表現したり、衣服や小物や背景のガラに使用される、 現在の漫画にとって必要不可欠な画材のコトです。 アナログ作画だと、画材店で何枚か購入し、 カッターでもって切り貼りする作業が必要ですが、 漫画界もデジタル作画が増えた事で、 トーンも様々なパターンがソフト化されたり、 漫画作画ソフトに最初から付属していたりと、 ますます容易に使用出来る様になりました。 私がまだ漫画家を志す前、ジャンプ放送局にハガキ投稿をしていた中学生の頃、 画材店でみつけたトーンを買い、それを自分の描いたイラストに貼ったとき、 まるで漫画家になった様な気分に浸ったモノです。 今からして思えば、トーンを買ってから漫画にドップリはまってしま
2009年02月09日 「いしいひさいち」と4コマ革命 漫画の神様といえば、言わずと知れた手塚治虫先生の事ですね。 ストーリー・ギャグ 少女モノ・4コマ・風刺漫画et・・・ 作品の質だけでなく、とにかくオールジャンル描いています。 けどいくら神様といえどその全てのジャンルでトップに立った訳ではありません。 生涯理解出来なかったといわれるスポーツ漫画の世界では、 スポ根モノの帝王・梶原一騎が君臨していました。 児童漫画界は藤子・F・不二雄がトップに立ち、 劇場アニメの世界でも宮崎駿が天下を取りました。 さて、じゃ4コマの世界はどうなのか? 誰が「4コマ界の手塚治虫」にふさわしいのか? 私は、いしいひさいち氏こそが、ソレにふさわしいと思っています。 とにかく、いしい氏は評論家の評価がやたら高いです。 私も氏の作品は好きですが、ちょっと評価高すぎなのでは? と、思ったり、思わなかったり・・・ い
2009年01月25日 単行本が出ない いやいや不景気ですね。 いや、まぁそんな事、私に言われないでもわかってますよね。 漫画界も不景気ですよ。 出版不況ってヤツです。 単行本出した事無い私にはまだ無縁の話ですが、 今、単行本が売れなくなってるんですよね。 売れるのはメジャーの、もともと売れてる長期連載作品が中心。 漫画家は単行本収入が大きな財源なのに、 単行本が売れなくなってるってのは大打撃なんですよね。 で、どういう対策を出版社がとってるかというと・・・ まずページ減。 以前は180〜200ページの枚数じゃないと単行本にならなかったのに、 最近では160ページでも一冊の単行本にまとめられる。 丸々一話分は欠落してるってコトですね。 で、値段は今までと同じ・・・ 同じ・・・だったらいいんですけど、 マガジンコミックスは値上げする(した?)そうですね。 いやはや爪に火をともす様な対策ですね
山中潤氏の語る「ガロ」 2017年03月18日 また訃報が… 昨年から漫画家・漫画関係者の訃報が続いていて 悲しく思っておりましたが、 また一人、漫画関係者である『編集者』の方が亡くなられてしまいました。 白取千夏雄さん。 元「ガロ」副編集長として「4コマガロ」や 古屋兎丸先生や福満しげゆき先生を担当され、 故・やまだ紫先生の夫でもあった方です。 2005年に白血病が発症し、近年はメルケル細胞癌の闘病の末 昨日3/17に残念ながら亡くなられてしまったとフェイスブックで知りました。 白取さんのブログには その凄まじいまでの闘病の様子が記録されております。 http://shiratorichikao.blog.fc2.com 最期の更新は14日。 そして古屋兎丸先生のレスの承認をした所で 力つきてしまった…と推測されます。 私は白取さんとはご面識もなく、お会いした事もありませんが、 数年前、
2008年10月11日 山中潤氏の語る「ガロ」序文 かつて「ガロ」という漫画雑誌がありました。 (現在でも正式には休刊してませんが、ほぼ休刊状態です) 漫画家だけでなく、芸術家やミュージシャンらにも影響を与え、 普通の雑誌には載らない様な作品も平気で掲載され、 日本のサブカルチャーや漫画史を語る上で避けて通る事のできない伝説の雑誌です。 そういった雑誌が、大手出版社ではなく青林堂という、 長井勝一という小柄な人物の個人会社的な小さな出版社から、 商業的に苦しくても、30年以上の長きにわたり刊行されていました。 私は「たま」ファンでして、 その「たま」のパーカッション・石川浩司(ランニングの人)が無類のつげ義春ファンだったので、 私もつげ義春に衝撃をうけファンになり、それをきっかけに「ガロ」を知り、 それからずっと「ガロ」というのは憧れの雑誌でした。 私はそういった思いと、このブログのテーマ
2008年03月16日 大泉サロン 漫画家たちが集ったアパートは何もトキワ荘だけではありません。 同時期の「劇画工房」も似た境遇でしたし、 他にも無名で終わった漫画家たちが、トキワ荘の様な生活を送っていた事もきっとあったのではないかと思われます。 そして、時代は70年代の話になりますが、 その「トキワ荘」にも負けないくらいのスゴイ面子の漫画家が住んでいたり、 タムロしていたアパートが他にもあったのです。 それが通称「大泉サロン」 別名「少女漫画家たちのトキワ荘」 住人は「ポーの一族」の萩尾望都と「風と樹の詩」の竹宮惠子。 少女漫画に革命をもたらした「花の24年組」の中心メンバーです。 そして彼女らの同人誌仲間・アシ・友人として、 山岸涼子・山田ミネコ・佐藤史生・ささやななえ・・・ 等、そうそうたるメンバーが集っていました。 そのわりに語られるコトが極端に少ない大泉サロンについて語ってみたい
2008年06月11日 納得いかない言葉狩り 一連の雷句氏の騒動で、サンデー連載作家が以前にブログ等でこぼした編集者に対するグチというか、批判がネット上で再度クローズアップされてきています。 その中で私が気になったのは「絶対可憐チルドレン」の椎名高志氏の話です。 椎名氏はけっこう編集者に対するグチをこぼします。 さて、その椎名氏の話ですが、 作中で「外人」という言葉を使いたかったのだが、NGで、 「外国人」ならOKと言われたが、言葉の響きが気に入らず、 ならば「外人さん」ではどうだ?と、折衷案を編集者に提案しますが、 それでもやっぱりNGだったと・・・ それだけならまだ「仕方ないね」ですむ話なんですが、 問題はここから。 その後「名探偵コナン」にてフツーにその 「外人さん」 というセリフが使われていた・・・・ だいたいそんな話です。 何年もサンデーで描き続け、小学館漫画賞まで受賞した (渦
2008年06月10日 サンデー騒動 いや、ビックリしました。 昨日この414件もこのブログにチェックが入っていました。 はじめての3ケタのチェック数です。 雷句誠氏がサンデーを訴えた事。 並びに編集部への実名批判。 その事に対し興味をもたれている方がそれだけたくさんいるのですね。 私もデビューはサンデーです。 そして増刊で一年間連載していました。 連載中、担当編集者とのやりとりで色々理不尽な事を言われたり、バカ扱いされて、かなり頭きた事もありますが、自分がまだ20半ばの若造のド新人だから仕方ないと我慢していました。 雷句氏のように、原稿をぞんざいに扱われたとか、罵倒されたという事もなかったので、 我慢できたのだと思います。 ただ、「天下の小学館にあんな漫画載せるのはおかしい」と、 現在は講談社に移籍したある漫画家の悪口を言った事は今でも強く記憶に残っています。 漫画家と編集者とのオフレコ
2008年06月07日 原稿紛失 少年サンデーで連載され、アニメ化もされた大ヒット作「金色のガッシュ」 その作者の雷句誠氏が、そのサンデーの発行元の小学館を提訴したそうです。 理由は原稿の紛失。 カラー原画が行方不明とのコト。 雷句氏といえば、最近小学館との決別を宣言して話題になりましたが、 なぜ決別するのかの理由が今になってわかりましたね。 しかし、こういう原稿紛失ってのはわりとよくあるコトなんですよ。 漫画家の中でもけっこう気にしない人もいるとは思います。 けど、そういうのに甘えて原稿管理を出版社が怠るのはいただけません。 出版社が原稿を大事にしないってのは昔からの漫画界の悪習の一つでして、 過去にもこういったトラブルで訴訟沙汰ってのは何回もありました。 唐沢なをき氏や小池田マヤ氏とか・・・ 確か他にも裁判の顛末を本にした漫画家の方もいたはずです。 こういうコトもあってか、だいぶ最近で
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『blog.livedoor.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く